那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

高田渡が歌った「ブラザー軒」

2012年10月19日 | 芸術・表現
以下http://plaza.rakuten.co.jp/mz5na/diary/201201160000/ より


 「菅原克己全詩集」を読み終えた。菅原克己は名は早くから知っていたのだが、読もうと思わせてくれたのは、アーサー・ビナードだった。小熊秀雄もおなじである。

 (略)

 アーサー・ビナードは全詩集に挟み込まれたしおりのなかでこういっている。

 「外連味のない日常を、実況中継するかのように詠み、でもその奥で息づく森羅万象にまで読者をグッと、優しく引き込む」「エリオットがもし、菅原克己の作品を読んだならば、それも羨望の的になったのではないかと思う。」

 同じしおりに高田渡のインタビュウがあって、コンサートでよく菅原克己の「ブラザー軒」をうたっていると語っている。彼が菅原の詩に曲をつけたものだという。

 ブラザー軒 

 東一番丁、
 ブラザー軒。
 硝子簾がキラキラ波うち、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死んだおやじが入ってくる。
 死んだ妹をつれて
 氷水をたべに、
 ぼくのわきへ。
 色あせたメリンスの着物。
 おできいっぱいつけた妹。
 ミルクセーキの音に、
 びっくりしながら
 細い脛だして
 椅子にずり上がる。
 外は濃藍色のたなばたの夜。
 肥ったおやじは
 小さい妹をながめ、
 満足げに氷を噛み、
 ひげを拭く。
 妹は匙ですくう
 白い氷のかけら。
 ふたりには声がない。
 ふたりにはぼくが見えない。
 おやじはひげを拭く。
 妹は氷をこぼす。
 簾はキラキラ、
 風鈴の音、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死者ふたり、
 つれだって帰る、
 ぼくの前を。
 小さい妹が先に立ち、
 おやじはゆったりと。
 東一番丁、
 ブラザー軒。
 たなばたの夜。
 キラキラ波うつ
 硝子簾の向うの闇に。
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実は私が東京工芸大で教えていたとき、ある映画研究会が撮影監督・長田勇市(撮影監督という社会的地位を作り上げた人)と私をゲストに呼び、トークと学生の作った映画の審査員を務めたことがある。
 そのとき長田氏と名刺を交換し、氏が「タカダワタル的」という作品を作ることになり、DVDをもらった直後に高田渡は死去した。電話で「亡くなる前に撮っておいて本当によかったですね」と話した記憶がある。また2人ぐらい映画スタッフ希望の教え子を長田氏に紹介し、嫌がらずに引き受けてもらったこともある。

高田渡は「生活の柄」が一番有名だと思うが(「自衛隊に入ろう」かもしれない)、菅原克己(元共産党の詩人)の「ブラザー軒」は、歌詞が余りにも素晴らしく、凝った曲を添えないのが大正解だったと思う。
 
この歌詞は、ガラス暖簾、カキ氷、風鈴、という夏の風物詩が繰り返し出て、同じ系統の擬音(シャリシャリ、キラキラ、チリーンなど)が作品世界を貫くとともに、死んだ親父と妹が現れるのだから夏の幽霊を幻視しているわけだ。要するに七夕の夜に現れた家族の幽霊と冷たい音とが交差しあって非常に静かな、悲しみの世界を作り上げている。
 最初にこの曲を聴いたとき、原爆で死んだ家族がテーマになっているのか、と思った。焼き殺された父と妹が冷たいカキ氷を食べに来たのだろうと。この詩が優れているのはそういう連想を働かせる喚起力の背景に、聴覚と触覚に訴えるものがことごとく冷たく透明、という技巧がしっかり備わっているからである。

どうやらブラザー軒という店は実在しているようだが、そのあたりは余り調べず印象批評、技術批評でとどめておいたほうがこの詩は生きてくると思う。
 なおyoutubeで探るとこれを歌っている高田渡の姿を数バージョン見ることが出来る。