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那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

とあるキャバクラを出禁になった話

2016年01月14日 | 思い出の記

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 

また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。特にアイム南の元職員の峯尾さん、殿塚さん(この二人は囲む会に賛同されていました)畑さんはもしこのブログを読んでいたらメールを下さい。また上記3名をご存じのかたもメールをお願いします。現在囲む会のメンバーは6人にまで増えています。15人にまで増えると夢庵の座敷を借り切れますから、ぜひあと9人増やしましょう。夢庵によると決まった料金は無いそうです。

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萩原君と言えば三崎町では伝説を作った男である。26歳の時に最初のキャバクラを作り、スナック、ギャルズバーと三軒の店のオーナーになった。

私は萩原君と親しかったので「俺は萩原銀行に2千万は預金したよな?」と聞くと「先生、それは計算違いですよ。最低3千万は預金して頂きました」と答えた。また私は変化球は嫌いなので「萩原君の店のホステスさん3人には本当にお世話になったよ。アッチのほうで」というと「先生、直球は止めて下さい。せめて変化球でお願いします。一応、風紀に触れることですから」と答えた。

萩原君は私を慕ってくれて、彼のお母さんが上京すると必ず飲み会を開くのだが、彼の店に勤めているスタッフと一緒に私を飲み会に誘ってくれた。彼のお母さんの話では、上京して彼の部屋で寝るときも母親と手を繋いでいたという。また、新しい企画を考えたときも、「これこれこういう企画を考えたんだけど、お母さんはどう思う?」と尋ねたらしい。

また私は南町にあるライブハウス・シネマクラブの常連だったが、彼も真似をして常連になり、ライトマンが入る一番いい場所からライブ演奏を聞いていた。

ところで最初に彼が作ったキャバクラには雇われ店長のSという人間がいた。彼はキャバ嬢に嫌われていて、私は何度も彼の悪口を利かされた。彼は表面上はニコニコしているが、内心は非常に冷たい男だったので、私は「笑い仮面」というあだ名をつけていた。一時独立して別のキャバクラを作った時に私も顔見知りの縁で訪ねて行ったが、ホステスの質も店の雰囲気も最悪だったので、これは倒産するだろう、と予想していたら、案の定倒産して、また萩原君が作ったキャバクラの雇われ店長になって帰ってきた。

普通のキャバクラはでもそうだが、ハロウィンなどという日本の文化にない特別な日を選んで、ビンゴカードを一枚千円するのに何枚も買わせた上、入場料も普段より高く設定する。そこで私はその雇われ店長のSによく説教したものだ。

私はそこのキャバ嬢の一人と付き合っていたので、生まれて初めてアフターをしようと彼女に言ったところ彼女もOKしたために、店の下で待っていたが、いつまでたっても店から出てこないので私は彼女の携帯に電話を掛けた。すると突然団体客が入ったために彼女は店から出れないと言う。そこで副店長のこれもSという男に電話を替わってもらい、下に降りるように言った。

私は副店長にそこで優しく説教をした(私が優しく説教をする、という時は一番怖い時です)。「これは労働基準法じゃないの?」と言ったあとで(酒を飲んでいたので記憶は定かではないが)、「この店をぶっ潰すぞ!」ぐらいのことは平気で言ったと思う。

それ以来、私はその店を出禁になった。

数年後、雇われ店長と道でバッタリ会った時に「おい、S、いい加減に出禁を解けよ」と言ったらSは走って逃げてしまった。

また近所のスナックの店長にその話をしたところわざわざ携帯を掛けてくれ、私の出禁から解くように説得したが「当時のことを覚えているホステスがいるから」という理由で彼の説得も通じなかった。当時と言っても5年も前のことだから、ホステスが覚えている訳がない。彼と副店長だけが覚えていたのだろう。

話は戻って伝説を作った萩原君はスナックだけはまだ経営しているらしい。一時期、羽振りが良かったものだから、過剰投資をして様々な苦労をしたと聞く。私は一度彼のスナックに遊びに行こうと思いながら長年遊びに行っていない。あの店は客が入れば朝まで営業しているので、今度、経済的にまた同時に体力的に余裕があるときに遊びに行きたいと思っている。

今はおとなしく飲んでいるが、そういう怖い時代もあった。これも私にとっては懐かしい思い出である。

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萩原君からコメントが入ったので紹介します。

 

訂正文の御配慮有り難う御座いました。因みにではありますが、共同経営という形で、23才から独立しております。当時は最年少かと自負しております。お話の約8割は合っていると思います。Sくんは、私に謀反を企てた上に、ヤミ金などから、そうとうつまんでいたらしく、今や山中で土の中でこの世には、居ないと大変良く耳に致します。追伸プレゼントの折り畳み式警棒は、今でもバックに常備しております


ゲットバックを同時翻訳して歌い、バカ女子大生を店から追い出した話

2016年01月13日 | 思い出の記

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私が現役の大学非常勤講師で毎晩のように三崎町(八王子市)で飲みまわっていた頃の話である。

今は消えてしまったがレッスンプロとしては非常に有名な村田プロがオーナーの居酒屋「金太郎 村」の常連だった頃(多分どこかで経営していると思うのでその場所を知っている人は上記のメルアドまでご連絡下さい)、その店の店員さんと相性がよく、ほとんど毎日飲みに行っていた。その店員さんはアルコールの販売の営業もしていたので、酒の銘柄や味については非常に詳しかった。

また接待も上手だったので、夜の10時になるとカクテルを飲ませるやや高いバーに勤めていた。そのバーに行って、普通の人では歌えないビートルズやプレスリーの歌を3~4曲歌った後の話である。客席には私と二人の女子大生しかいないのに、私の歌に拍手もせず、今は独立しているが、バナナちゃんという八王子の芸能人の一人であるオカマの席にべったりくっついたままお喋りを続けていた。そこで私は店員さんに「あの女たちは何なの?」と聞いたところ、成城大学の学生で、BMWに乗って遊びに来ては、帰りは代行を雇うとのことだった。

そこで、ちょうど店長がいなかったので、「これから面白いパフォーマンスをしてあの女子大生を追い出すことにするよ」と言ってリクエストしたのがGET BACKである。そのセリフは以下の通り。もちろん原曲は英語である。原曲を聞きたい方はここをクリックして下さい。https://www.youtube.com/watch?v=4AT5JKXMZbI

 ジョジョはさびしがり屋だけど
  ついに出かけたんだ
  アリゾナの家を後にして
  カリフォルニアへと
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  元のところに戻っておいでよ
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  元のところに戻っておいでよ
  ゲットバック(帰れ)ジョー ゴーホーム(家に帰れよ)
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  戻っておいでよ
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  戻っておいでよ
  ゲットバック(さっさと帰れ) ジョー

  ロレッタは女の子らしいけど
  実は男の子なんだ
  まわりの女の子たちはみないうんだ
  よくやるわねって
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  元のところに戻っていきなよ
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(さっさと帰れ姉ちゃん)
  元のところに戻っていきなよ
  ゲットバック(帰れ) ロレッタ ゴーホーム(さっさと家へ帰れ)
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  元通り男に戻れよ
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(帰れ姉ちゃん)
  元通り男に戻れよ
  ゲットバック ロレッタ
  ママが待っているよ(お母さんが心配してるぞ)
  ハイヒールをはいて
  セーターを羽織って
  さあさあ ロレッタ
  ゲットバック(帰れ) ゲットバック(さっさと帰れ姉ちゃん)
  元のところに戻っていきなよ

と、歌い終わったとたん、そのバカ女子大生はカウンターで会計を済ませ、本当に帰ってしまった。

この逸話をその店員さんは「金太郎 村」でも何度も繰り返して「那田先生、あの時は本当に帰って行って痛快でしたね」と言った。私は少し悪いことをしたような気分になったので、その後あの女子大生は来ているかと尋ねてみたら、しばらくは来なかったが、後でまた来るようになったらしい。それを聞いて私は一安心したものだ。

二度目に行った時は店長がいて男しかいなかったので「加藤隼戦闘隊」を歌ったら右翼と間違えられた。私は右翼ではないが、右翼の知り合いは今でもいます(ヤバイので名前は明かしません)。

これからその「加藤隼戦闘隊」の歌と動画のurlを貼るのでぜひクリックして下さい。ほとんど聞こえない無線に頼りながらあのアクロバット的な編隊飛行は異常なほどですね。空中戦艦という大型爆撃機がもし開発されていたら日本はアメリカに勝ったでしょう。「父親たちの星条旗」を観てもあと1週間硫黄島が持ちこたえていたら日本は勝っていたようです。それに比べて今は・・・ため息がこぼれます。https://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w


飯塚宏裁判官の難癖を論破した思い出

2016年01月03日 | 思い出の記

 

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また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。特にアイム南の元職員の峯尾さん、殿塚さん(この二人は囲む会に賛同されていました)畑さんはもしこのブログを読んでいたらメールを下さい。また上記3名をご存じのかたもメールをお願いします。

今日は違う話をするつもりでしたが、昔作っていたHPをアメリカ製の魚拓で復元した文章の中に非常に面白い文章を見つけたのでここで公表することにします。この裁判は結果的に創価学会の工作員を最高裁まで追い詰めたものの、事実審理もないまま3行判決で敗訴しました。しかし飯塚宏裁判官は、八王子駅北口での街宣で、この一カ月の間に創価学会から1千万から2千万の金を受け取り魂を売ったに違いない、悔しいなら私を名誉棄損で訴えろ、という挑発に乗らなかったために地方の家庭裁判所へ左遷されました。

創価学会に魂を売った
東京地裁八王子支部裁判官・飯塚宏らを糾弾する

同時進行裁判実況報告


織田氏の犯罪

   以下、織田氏の犯罪事実を証拠に基づき証明する。

{織田氏が平成20年1月12日に東京地裁八王子支部に提出した「答弁書」(甲第3号証)には、12か所の名誉毀損と2か所の偽証がある} 

以下それを示す織田氏の記述を「 」内に青字で示す。

名誉毀損1「那田氏の経歴を読むと20歳になっても勤労精神を全く持たず親の送金で乱れた学生生活を送り」

 20歳は大学生の時代であり勤労すべき時ではない。地方出身者が親から送金を受けるのはごく一般的なことである。乱れた学生生活の事実証明とその記述の公益性がない。よってこの文章は名誉毀損である。

名誉毀損2「他人の力を借りて普通人の2倍の年月をかけて大学を卒業しています」

 私は大学卒業に関係して一切他人の力を借りておらず、また2倍の年月をかけて卒業してもいない。私のホームページ(http://www.geocities.jp/nada123jp/)の「私の略歴」に明記しているとおり「対人恐怖症に伴うパニック障害」のために語学の授業に出ることができなくなり2年間留年したのが真実である。織田氏の記述は虚偽に基づく名誉毀損である。

名誉毀損3「修士論文は友人の助けを受けて作成しています」

これも虚偽に基づく名誉毀損である。「私の略歴」および『超絶全面批評』のエッセー「牧野さんの家のほうへ」に明記している通り、修士論文提出日に先輩の奥村賢氏が論文の「印刷」を手伝ってくれただけである。

名誉毀損4「学生時代から女遊びが激しく現在もキャバクラに遊び」

 私は若い頃女性に好かれたので一般人よりは多くの恋愛体験があるが、それを「女遊びが激しく」と表現することは名誉毀損である。また、織田氏はキャバクラを性風俗と勘違いしているようだが、少なくとも東京のキャバクラの大半は「時間制のクラブ」として一流企業も接待に使う健全な社交場である。私が贔屓にしている店など、酔客がホステスの手を握っただけでも男子店員が注意し、言うことを聞かないと出入り禁止にする。織田氏は無知なのか、あるいは関西に多いと聞く「お触りキャバクラ」を想像しているのだろう。

 なお私がキャバクラに通い出したきっかけはホームページに掲載しているエッセー「さらばキャバクラ」に書いているとおり、私の鬱病治療の主治医が「一人で飲むよりはキャバクラなどでお喋りをして飲んだ方がストレス発散になりますよ」とアドバイスをしてくれたからである。

名誉毀損5「些細なことで妻を殴り顔にあざを作るなど正常な大学講師とは思えない生活をしています」

 これは私自身が自分のホームページの掲示板に妻を殴った事実を投稿したことを捉えて絡んでいるのだが、夫婦喧嘩をしない夫婦など世の中に存在せず、まして自分で公表しているのだから「いかにその喧嘩が深刻でないか」の証しである。夫婦喧嘩をしたから「正常な大学講師とは思えない」というのは名誉毀損であり、大学講師を神様だとでも思っているのか、相当に異常な決め付けである。

名誉毀損6「原告満留は過去に、尚史氏は最近、精神的不安定な状態にありました。私は原告二人が現在、正常な精神状態かと疑問をもちます」

 これなど名誉毀損の典型的な文章である。母は30代に更年期障害と料亭経営の忙しさのためにノイローゼ状態になり、それを機にある宗教に入信したが、それ以後は全く健康そのものである。私は鬱病(抑鬱性神経症)治療を15年以上続けているが、鬱病は別名「英雄病」とも言われ、知的レベルの高い完全主義性格の人間が強く自己呵責するために罹る病理である。また統計では3人に1人が鬱病予備軍と言われ、「心の風邪」とも呼ばれる。

名誉毀損で提訴された被告が、原告を精神異常者扱いするなど、織田氏の人格の下劣さを雄弁に示す一文である。

名誉毀損7「訴状には那田氏の社会的地位として多くの資料が添付されていますがこの内容を精査してください。私は現在の日本の映画制作技術水準に照らしてこの資料から価値を見つけることが出来ません」

 特に看過できないのがこの一文である。

織田氏は私の論文批評をただの一本も読んでいないのに、価値がないと断定している。偽証の上に名誉毀損を立証する文章である。

 私の論文批評は、日本映像学会会員しか購読できない「映像学」、および「映像学国際版(ICONICS)」、10数年前に廃刊になった「月刊イメージフォーラム」誌、またこの10年以上休刊している実験映像誌「Fs」に掲載したものが全体の99%を占めており、織田氏には絶対に入手できないものばかりである。

 さらにまた、私は前衛映像、実験映像のスペシャリストであり、アカデミックな教育を受けた映画研究者ですら理解不可能な特殊な領域を専門としており、元々街の写真屋さんである織田氏には、たとえ私の論文等を読んでも評価する能力はない。

 さらに織田氏は自分が写真やビデオ制作に携わっている関係から「現在の日本の映像制作水準に照らしてこの資料から価値をみつけることが出来ません」と述べているが、私の論文批評等を少しでも読んだものなら、このような的外れなことは書かない。なぜなら大学における映像教育は「研究者」と「制作者」が明確に分離されており、私は研究者だから「制作」には一切タッチしていないのである。従って私の論文批評等は全て理論と歴史の研究に限られている。

 織田氏は私の研究を全く読んでいないにも関わらず、価値がない、と決めつけている。良識ある人間にはとても書けない異常な文章である。

名誉毀損8・9「また那田氏は現在、早稲田大学で講義をしていません。東京工芸大学でも今年度の講義はなくなっています。その実態を彼の掲示板から推察できると私は考えます」

 文脈から現在私が早稲田大学で教えていない理由は、私に落ち度があったからだ、と受け取れる名誉毀損の文章である。

 これも織田氏の無知ゆえの記述であり、「非常勤講師は低賃金労働者なので基本的に3年以上連続して雇用してはならない」という規則を早稲田大学は守っているだけのことである。このことは私に講師依頼があった段階で伝えられており、私は早稲田大学第一文学部で3年、同第二文学部で3年、同理工学部で4年教え、最初の契約の通りに現在同大学での教職を離れているにすぎない。

 また「東京工芸大学でも今年の授業は無くなっています」との記述も偽証に基づく名誉毀損である。東京工芸大学芸術学部は経費節約のために本年度から大幅に教師の数を減らしたが、私の場合は昨年末の段階でいち早く口頭で講義依頼を受け、今年に入って正式文書で改めて講義依頼が届き私は承諾の書類を送っている(必要ならば証拠を提出する)。

 「名誉毀損7」といい、この記述と言い、織田氏は平然と嘘をつき、その嘘を根拠として私の名誉を毀損することを繰り返している。私はこれほど悪質な人間に出会ったことがない。

名誉毀損10「那田氏はなんども自分の講義が学生に好評であり名物講義だと自分の掲示板に掲示してきましたがこの掲示は那田氏の授業が学生に不評でありよい授業が出来ていないことを如実に証明しています」

 これは東京工芸大学で私の授業の学年末レポート提出者の中の一人を、私が掲示板で批判した文章を捉えて絡んでいるものである。昨年私は悪性の風邪で2度休講し、車で通勤中事故渋滞のため30分ほど遅刻した。それに対してある学生が「こっちは金を払っているのだから休むな。渋滞などいいわけにもならない」と書いたので、私は「病人に這って出ろというのか。事故渋滞で車が動かないのにどうやって大学に行けばいいのだ。相手の事情を理解せず自分の都合ばかり主張する人間は、表現者以前に人間として失格だ」との旨を書いた。これは当たり前の理屈を言ったまでで、教育者として当然の発言である。

 織田氏は私の授業が不評だと書いているが、明らかにこれは虚偽に基づく名誉毀損である。私の授業は東京工芸大厚木校舎では人気NO1であり、先輩から後輩へ「那田先生の授業だけは受けろ」と言い伝えられてきた名物授業である。(必要なら証拠を提出する)

名誉毀損11「また東京工芸大学では那田氏の講義を受講した留学生が受講後のレポートを一人も提出していないとも掲示しています。賢明な留学生が一人もレポートを提出しないのはどうしてでしょうか。彼らはこの講義を授業と認めていないのではないでしょうか」

 これもまた虚偽に基づく名誉毀損である。

私は「留学生の優れたレボートを見たことがない」と投稿したが、留学生が一人もレポートを提出しないとは書いていないし、またそのような事実もない。

 「賢明な留学生」というのは織田氏の無知に基づく思い込みにすぎない。留学生の99%は中国人か韓国人だが、アジアでは日本以外の国は「前衛映像」「アヴァンギャルド映像」を受容した歴史がないため(前衛芸術は文化爛熟期に生まれる)、留学生にとって私の授業は高度すぎて理解できない、というのが実態である。

 そういう事情も知らず、私の講義を「授業と認めていない」と記すのは、悪意以外の何物でもなく、明らかな名誉毀損である。

名誉毀損12「こらから日本の映像文化に大きく寄与するであろう学生が退廃した生活を送る那田氏の映画制作技能の伴わない講義を受けることを私は強く危惧するものであります」

 これも悪意に基づく名誉毀損であり、私の生活が退廃している事実の証明と、それを答弁書に書き記すことの公益性を証明していただきたい。

 また織田氏は自分が写真・ビデオの制作を手掛けているために「映画制作の技能を伴わない講義」と批判しているが、前述の通りこれは大学の授業システムを理解していない織田氏の無知と、異常なまでに自己中心的人格に由来する妄言である。

 

 本来「女郎屋投稿」の公益性と事実の真実性を証明すべき答弁書において、それらを無視し、このようにひたすら私の名誉を棄損し、平気で嘘をつく織田氏の「特異な人格」を裁判官殿はご確認頂きたい。

 さらに異常なことに、これほどに研究者・教育者としての私の名誉を棄損しながら、答弁書の終わりに「私は過去に那田氏の授業および研究を一度も批判したことが無いことを重ねて申しそえます」と書いているのである。この文章は常人の理解を超えている。

 同じ答弁書の冒頭部分でも、「女郎屋投稿」を詫びるどころか我が家が女郎屋であった旨を証拠も示さず重ねて主張した後に、「掲示目的(那田尚史注:女郎屋投稿をした目的)は専ら原告二人を中傷する目的ではありません」と記している。

 通常の人間には理解できない論理の破たんであり、織田氏は「嘘をつくことに対する良心の呵責」が完璧に欠如している。

(中略) 

名誉毀損13「大学講師の名誉はそれなりの行動が条件で保障されるものです。告訴直前に不利になる掲示を削除してもいたるところに破綻した生活が見えてきます。ふしだらな掲示をやめないと那田氏の将来は無いと私は心配しました」

 これも虚偽の上に虚偽を重ねた名誉毀損である。「破綻した生活」「ふしだらな掲示」というのは、前後の文脈から私がキャバクラで飲んだりコンパニオンを口説いたりしたことを示すと思われるが、私立大学非常勤講師は「私人」であり、私人である大学講師が違法行為でない限り何をしても自由のはずである。織田氏の指摘する理由で講師が大学を首になれば、当然不当解雇として大学側が敗訴だろう。織田氏は常識そのものが欠如している。

 「ふしだらな掲示をやめないと那田氏の将来は無いと心配しました」と、まるで織田氏は私に対して親心で注意をしたかのように書いているが、親心で「女郎屋の息子には大学講師の資格はない」と罵る人間がいるだろうか。これも完全に論理が破綻した言い訳、虚偽にすぎない。

名誉毀損14「那田氏を知る人が那田氏をどのように認識しているか彼の大学(那田尚史注:大学院の間違い)の学友の掲示を参考に添付いたします。(添付証拠乙4)」

 特にこの記述は悪質で、到底許すことが出来ない。

織田氏が添付しているのは私が早稲田大学大学院芸術学部演劇映画専修に所属していた時代の年下の友人・熊手敏之氏(テレビラジオ制作会社社長)が、ユーモラスに私を「ギャンブラー、女たらし、行動右翼」等々と私の管理する掲示板に投稿したものである。しかし、熊手氏は同時に「那田さんの立派なところは決して自分の能力を誇らないことです」「大学院時代の那田さんのようなディレクターがいてくれれば鬼に金棒なのですが」等々の投稿をしており、織田氏以外の常連投稿者および読者は、当該投稿は熊手氏が冗談と愛嬌で書いていることを充分に理解している(常連投稿者・居田伊佐雄氏の証言甲第13号証の3頁を参照のこと)。織田氏はその前後の文脈を無視して、私をからかった部分のみを取り出し私の名誉を棄損するために裁判所に提出したわけである。

 尚、この事実を知った熊手氏は激怒し、平成20年4月22日裁判官あてに陳述書(甲第5証)を提出し、私に「証言が必要なら福岡から八王子までいつでも出かけます(熊手氏は福岡市在住)」と私に電話をくれた。

 織田氏の意図がどれだけ卑劣なものか、熊手氏の陳述書の一部を引用する。

「熊手の掲示板投稿文が悪意をもって引用され、当該裁判被告によって犯罪行為に悪用された事実を知り、非常な悲しさと憤りを感じました。他人の文章の一部のみを曲解し、那田氏を誹謗中傷したばかりでなく、那田氏の母上を脅迫している事実を知りました。(略)ここに那田氏の名誉と、那田・熊手の友情により、真実の究明を強く願い陳述書を作成いたしました」

 

{母を脅迫した事実証明}

今年の3月15日(第3回目の審理の10日前)、織田氏は88歳の高齢で一人暮らしをしている私の母のもとに何の前触れもなく突然乗り込み、脅迫したうえに提訴を取り下げようとした。

 この犯罪に対する精緻な解説は織田氏が私を提訴した訴状(甲第6号証)に対する私の答弁書(平成20年(ワ)第455号)(甲第7号証)で行っているのでそちらを参照して頂きたい。ここではその要点部分のみを引用する。なお、( )内の数字は、織田氏が証拠として松山地裁に提出したその会話の秘密録音(甲第8号証)の冒頭からの経過時刻である。例えば(00:11:40)は、録音開始後11分40秒後の発言という意味である。

�@織田氏の母への脅迫発言

(00:8:00) 「温泉でノーマルコンパニオンを口説いた」と私自身が自分の掲示板に書いた部分のコピーを織田氏が読み上げ、「こんなことは大学教師がするべきではない」という不思議な理屈を述べた後、

(00:11:40)「週刊誌が書きますよ」と発言。

(00:13:40)「週刊誌が書いたら思春期の娘もいるのに家庭が崩壊するでしょ」と発言。
(00:22:35)「私が(息子さんを)陥れるつもりなら、週刊誌に売りますよ。(そんなことになったら)奥さんと子供二人が困るでしょう」と発言。

(00:25:22)「大学や掲示板で創価学会を批判するのをやめろ」と発言。(織田氏は同趣旨の発言を繰り返しているが、これは思想信条表現の自由という憲法の精神に反する異常な見解である)

(00:27:16)「そんなことをしていると学会から妨害が入ります」と発言。(創価学会・公明党が政治権力を握っている現在、この発言も脅迫である)

(00:50:08)「大学で池田大作を批判してはいけない」と重ねて発言。

(00:51:55)「それを大学が知れば首になる」と発言。

  (中略)


以下には訴状に書いた八木一仁の犯罪行為の部分をコピーします。


{八木氏が母に発言した重大な名誉毀損の事実証明}

 そもそも織田氏が「女郎屋投稿」をして私たち親子に訴えられ慰謝料を支払うよう命じられた「平成19年(ワ)第2898号」の発端は、八木氏が私にも母にも断りなく、わざわざ静岡から愛媛の私の母のもとを訪れてインタビュービデオ(甲第16号証)を撮影したのがきっかけである(その際、八木氏は松山在住の織田氏に先ず会い、その後母のもとを訪れている。なんらかの共謀があったと考えるのが自然である)。

 八木氏がいつ母にインタビューしたかは記録媒体に日時が明記されていないため不正確だが8月下旬から9月上旬の間であることは間違いない。そのインタビューの中で母が「芸は売っても体は売らない高級料亭だった」と証言しているにもかかわらず、そのDVDを見た織田氏は「女郎屋」と投稿したために裁判になったわけだが、八木氏も自らインタビューして我が家が高級料亭であったことを確認しながら「女郎屋と言ってどこが悪いのか。それなりの根拠がある」と私にメールしているのである。

 しかもこの時八木氏は撮影後、母に向かって「あなたは満州で慰安婦をしていただろう」との暴言を吐いている。これは悪質な名誉毀損であり、到底許すことが出来ない。以下その証拠を示す。

1、母が「平成19年(ワ)第2898号」の最終審理前に提出した「陳述書」(平成20年4月22日作成)(甲第17号証)には以下のように書かれている。

(以下引用開始)

 平成19年の夏ごろ、突然、八木さんと言う男性が「私は那田君と知り合いですが、お母さんとの会話を見せたら喜びますよ」と言って、家を訪ねてきました。

 私は、「息子と知り合い」という言葉を信用して、八木さんを家に上がらせ、ビデオの前に座りました。

 最初は、満州の戦後の状況などを聞きますので、私は、記憶を辿りながら、見たとおり感じたとおりのことを素直に答えていました。この人は歴史関係者かな、ぐらいに思っておりました。

 ところが、話が進んでしばらくした後、八木さんは、急に血相まで変わって、私に対して「満州で慰安婦をしていただろう?」と質問をしてきました。私が「看護婦見習いをしていた」と答えると、嘘をつくな、という顔をして、「堅い仕事をしていたのなら、何故水商売を始めたのか?」と詰問してきました。

 私は八木さんは、なぜ因縁をつけてくるのだろうと不快な気持で、帰るのをじっとまっていました。 

(以上引用終わり)(なお、母が直筆で当時の事実をメモした文書を(甲第18号証)として提出する) 


 以上の通り、子供にでもわかる丁寧な文章で犯罪の事実を書いているのにもかかわらず、この訴状を読んだ飯塚宏裁判官は次のような質問状を寄こした。
 以下に示すのはその質問状をスキャンしてOCR認識させたものである。


平成20年(ワ)第2201号損害賠償請求事件

原告那田尚史ほか1名

被告織田高敏ほか1名

連絡書

平成20年9月18日

那田尚史殿

 

東京地方裁判所八王子支部民事第1部2A係

裁判所書記官森田育生

電話042(642)5195(内線254)

FAXO42(644)1499

 

(中略)

 

(以下は,担当裁判官からです。)

7被告らの不法行為の内容の特定

(1)原告那田尚史さんの被告両名に対する請求

ア 原告が主張する被告織田の名誉殿損行為は,前訴で被告織田が裁判所に提出した答弁書(甲3)及び答弁書(追加1)(甲4)における,本件訴状請求原因記載の名誉毅損行為1ないし14に限るということでよろしいですか。

イ 上記アと関連し,本件訴状中,「名誉殿損」と「偽証」とを区別する法的意味は何でしょうか。

ウ 「名誉駿損8・9」(訴状9頁19行目)は,どのような理由で分けているのか(名誉殿損行為が二つあるということでしょうか。)

エ 各名誉殿損行為において,被告織田が摘示した,原告那田尚史さんの社会的評価を低下させる「事実」とは何ですか。

オ 上記名誉殿損行為の関係で被告八木を共同不法行為の相手方とする根拠は何ですか。

 

(2)
原告那田満留さんは,被告八木が「慰安婦をしていたでしょう。」と軍属のプライドを引き裂く暴言を吐き名誉を殴損した旨,主張するが,被告八木の同発言が原告那田満留に対してのみされたとすると,被告八木の行為が名誉殿損に当たるとするのはいかなる理由ですか

  トウキョウチサイハチオウジ'シフ"ミンジ1


 読者の皆さん、どう思われますか?
(1)のエとオ、そして(2)はチンピラの言いがかりです。
 それで私は以下のような回答文を書きました。


飯塚宏裁判官の質問に対する回答(質問部分は青字で示す)

 

(1)アの質問:「原告が主張する被告織田の名誉棄損行為は、前訴で被告織田が裁判所に提出した答弁書(甲3)及び答弁書(甲4)における、本件訴状請求原因記載の名誉毀損行為1ないし14に限るということでよろしいですか。

 

回答:質問の後半部分の意味が分かりませんが、訴状に明記しているとおり、答弁書における名誉毀損が14か所、および23頁に{判決後すら全く反省心がなく現在でも名誉毀損と挑発を繰り返していること}の項に明記しているとおり、青字で示したメール内容も当然名誉毀損です。判決直後のメールに「あなたの家が女郎屋だったことは掲示板投稿者が誰でも知っており、あなたは陰で笑われている」と書いているのですから、何のために裁判をしたのか意味がありません。慰謝料を払うようとの判決の出た名誉毀損投稿を再度繰り返しています。(また判決後5カ月も経つのに未だに慰謝料を払っておらず、支払い計画書も提出しておりません。実に悪質です)

 

イの質問:上記アと関連し、本件訴状中、「名誉毀損」と「偽証」を区別する法的意味は何でしょうか?

 

回答:当たり前のことですが、名誉毀損は私たち親子への名誉毀損であり、偽証は明記しているとおり裁判官に対して虚偽の事実を述べた行為です。被告織田の悪質性を証明し、織田氏の発言が信用できないことの補強資料です。

 

ウの質問:「「名誉毀損8・9」(訴状9頁 19行目)は、どのような理由で分けているのか(名誉棄損行為が二つあるということでしょうか)

 

回答:訴状の9〜10頁に明記してあります。よくお読みください。当然名誉毀損行為が二つあります。

 

エの質問:各名誉毀損行為において、被告織田が摘示しした。原告那田尚史さんへの社会的評価を低下させる「事実」とは何ですか。

 

回答:各名誉毀損行為の事実を示した部分ごとに、子供にでもわかるように易しく書いてあります。読みなおしてください。

 

オの質問:上記名誉毀損行為の関係で被告八木を共同不法行為の相手方とする根拠は何ですか。

 

回答:訴状28頁「(2)八木氏の犯罪行為」以下の文章に、子供にでもわかるように明記しています。飯塚裁判官はまともにこの訴状を読んだのですか?貴殿のリテラシー(文章読解能力)を疑います。

 

(2)原告那田満留さんは、被告八木が「慰安婦をしていたでしょう。」と軍属のプライドを引き裂く暴言を吐き名誉を棄損した旨、主張するが、被告八木の同発言が原告那田満留に対してのみされたとすると、被告八木の行為が名誉棄損に当たるとするのはいかなる理由ですか。

 

回答:飯塚裁判官の質問は、普通に読めばトートロジー(同語反復)で、意味値がゼロです。例えば「あなたはカラスが黒い旨証明していますが、なぜカラスは黒いのですか?」と聞くのと同じぐらい馬鹿げた質問です。

飯塚裁判官がなぜこのような意味のない質問をするのか考えてみましたが、もしかすると「名誉毀損における公然性の定義」を念頭に置いているのではないかと推察します。

私は当初、織田・八木両被告のために、「答弁書、メール、対面での名誉毀損など、密室の場での名誉毀損行為でもそれが犯罪として成立する理由」を当該訴状に書こうと思いましたが、ただでさえ長い訴状がさらに長くなるのと、裁判官には「釈迦に説法」で、言うまでもないことなので敢えて省略したという経緯があります。

飯塚裁判官の質問の行間を推察すると、あたかも「一対一の面談の場における名誉毀損発言は、第三者が聞いておらず、よって公然性がないので、名誉毀損の罪に当たらない」との判断があるとしか思えません。または、公然性の定義を本当は知っていながら、「私に絡んでいる」か、いずれかでしょう。

私は芸術研究者であり法律に関しては門外漢ですが、訴状を提出するに当たって法律書の数冊は当然読んでおり、「民事事件における名誉毀損の公然性の定義」ぐらいのことは当然知っております。司法試験に合格した裁判官がこの程度のことを知らないということは考えられないので、飯塚裁判官は私に絡んでいると思えますが、念のために次ページに法的根拠を引用しておきましょう。

結論から言えば、第三者がいない一対一の場面においてAがBを名誉棄損したとしても、名誉毀損の罪は成立するのであり、これを「伝播可能性の理論」といいます。少なくとも司法試験に受かっているなら、これぐらいのことは誰でも知っているはずです。

以下、資料を二つ示します(下線部をお読みなさい

 

 以上の通りです。

 以上、飯塚裁判官、理解できましたか?

 

 なお、私はまさか飯塚裁判官のような愚かな質問をぶつけてくる裁判官に当たるとは想像しなかったので、あえて証拠として提出しませんでしたが、八木被告が私の母に対して「慰安婦だっただろう」と侮辱したことは、私の管理するHPの掲示板ですでに公表済みです。

  従って私は飯塚君に次の二点を要求します。

 1、立証した通り、貴殿にはこの訴訟を裁く資格はない。よってこの訴訟の担当裁判官から離れよ。

 2、同時に、このような悪意に満ちた質問状を私に送ったことの真意を説明せよ。

  微笑禅の会代表として、飯塚君にアドバイスしましょう。

これからは「自分ほど愚かな人間はいない。自分はゾウリムシ以下のくだらない人間だ」と自己を否定し、歩くときには土踏まずの下に「飯塚宏」という名前を置いて、それを踏み付けて歩く癖をつけなさい。私が見性(悟り)を得たのも、同じ修行を数年続けたからです。ひょっとすると君も悟るかも知れませんよ。

 飯塚君、本当に怖い人間とはどういう人間か分かりますか?

私はヤクザも右翼も少しも怖くありません。本当に怖いのは「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ、ただ菩薩として世のため人のために行動する」人間です。まさしく君と正反対の人間です。

 私もまた自分の命はとっくに天地に預けているので、いつ死んでもいい、創価学会でも何でもいいから誰か私を殺しに来い、と常に思っています。正義のために殺されたとすれば、これぞ男子の本懐であり、死んで霊山浄土に行けば、釈迦と日蓮が私を上座に座らせて祝福の酒をついでくれることでしょう。

 幕末にはそういう志を持った志士が輩出し、彼らのおかげで日本は欧米の植民地になることなく維新に成功することが出来ました。京都の護国神社に行くと、土佐、長州、戸津川村の郷士らを中心とした1356柱の志士達の魂が眠っています。彼らの死体の上に現在の日本が存在しているのです。

 志士とは自分の命を捨てて国家のために行動する人間のことであり、今でもそういう人間がいる、という事実を飯塚君は心に強く留めておきなさい。

 これだけ話せば、君でも少しは私が言わんとすることがわかるでしょう。

本当は我が家に君を呼び付け、土下座させようと思いましたが、武士の情けで文書での謝罪で済ませてあげます。 繰り返しますが、私が君に要求するのは

 1、立証した通り、貴殿にはこの訴訟を裁く資格はない。よってこの訴訟の担当裁判官から離れよ。

2、同時に、このような悪意に満ちた質問状を私に送ったことの真意を説明せよ。


の二点です。

なお、君の質問状は公的文書なのですから、その質問状と私の回答は私の管理するHPに掲載し公表します。君に後ろめたい点がなければなんら困ることはない筈ですね。

もし君に誠実な態度が見えない時は、私は命を捨てて行動します。

もちろん暴力などは振るいません。君を裁判官弾劾裁判にかけます。

私は口先だけの人間ではありません。以下に私の活動例を一つ示します。よく読んで、最良の行動をお取り下さい。

 私の呼びかけに賛同して「訴追請求状」を出した人間は軽く100人を超えているでしょう。維新政党新風・副代表の瀬戸弘幸氏のブログ「日本よ何処へ」への一日のアクセス数は約一万人、私のHPへのアクセスが一日に二百から三百人です。これらのサイトにアクセスしてくるのは日本の将来を憂う「日本精神」を抱く人々ばかりです。

 飯塚君が一刻も早く真人間となり、名裁判官と言われるような人物になることを祈ってこれにて筆を置きます。

 

                     平成20年9月21日 那田尚史




 
そして以下にはno.88 創価学会に魂を売った裁判官を罷免すると同時に、故朝木明代さん謀殺事件を解明するためのとっておきの秘策を公開する(2008.9.13)を貼り付けておきました。

皆さん、どう思われますか?この裁判官は何の目的であのような質問状を私に送ったのでしょう。

ご感想は当HPの掲示板、あるいは私へのメールでお聞かせください。

一応東京地裁八王子支部への連絡先を下に記しておきます。飯塚裁判官に言いたいことがある人は参考にして下さい。


fax:042−644−1499

〒192−8516 東京都八王子市明神町4-21-1 東京地裁八王子支部 


2008年10月24日午後2時、東京地裁八王子支部において上記訴訟の第一回目の口頭弁論が開かれた。
 
民事裁判の慣習ととして、第一回目は顔合わせ程度である。もちろん織田も八木も出廷ていない。
 それで裁判に関しては1分足らずで終わった。

但し、25分間私は飯塚宏裁判官を睨みつけて説教した。

結論から言えば飯塚氏が「特定の組織に肩を持つようなことはありません」、「伝播可能性の法理を否定するものではありません」と釈明したので、「なら、なぜあのようなチンピラの言いがかりのような質問状を送ったのか」と詰問すると、飯塚は「申し訳ありませんでした」と頭を下げたので、それ以上は追及しないでおいた。

途中、「お前は何歳か」と聞くと飯塚は「なぜその質問に答えねばならないのですか」と言い返してきたので、「裁判官が年を答えなくてもいいという法的根拠を示せ」というと「ありません」というから、「だったら年を言え、俺は52歳だ」というと「昭和34年生まれです」と答える場面もあった。

私は25分の間、様々な説教をしたが、それはまあ省略しよう。

飯島の顔を見て、私の他心通が本物だったことを確信した。上に書いているとおり、

と思い、あのようなふざけた質問状を書いたのは間違いない。そういう人相をしていた。

ちなみに法廷には二人の傍聴人がいた。司法研修生だと思うが、多分「こんな怖い思いをするなら裁判官になるのはやめよう」と思っただろう。


第二回目の口頭弁論は11月21日午前11時30分から始まる。面白いお芝居が見られるので、暇な人は傍聴しに来て下さい。


様々な神秘現象の思い出

2015年12月31日 | 思い出の記

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また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください

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これは私が生まれる前の話である。

父親は郷里の人々から「神様のような人」と言われるほどの人格者だった。詳しいことは「見性体験記」の「父の面影」に書いてあるが、簡単に言えば刻苦勉励の果てに若くして校長になり、村会議長、助役、その他農協長、青年団長など主な役職は全て経験した人物だった。一方母親は女丈夫の典型的な人物で私は母がヤクザを殴り倒すのを実際に見たことがある。

そういう母親と反りが合わなかったのだろう。父親は母と離婚しようと思い、八幡浜の有名な占い師のところまで出かけ鑑定をしてもらった。すると(当時父親は63歳だったが)、「もうすぐ男の子が生まれてあなたの生きがいになるから離婚してはいけません。また奥さんは働き者で財産を作るのが上手です。あなたは山の上でタバコでもふかしていたら、他の人が勝手にあなたを幸せにしてくれます」と言われた。私は富士山の頂上でタバコをふかし、その麓で人々が農作業をしている色紙を見た記憶がある。

そこで生まれたのが私である。私を生む前後に流産をしているから、私と違って父は精が強かったようだ。

私が生まれた後も不思議な話を母親から聞いた。私が夜中にヒキツケを起こすので、母が「おやまさん」(多分方言で霊能者のことだろう。おがみ屋などという地方もある)に観てもらったところ、あなたの家の廊下には(私の家は高級料亭を営んでいたため非常に広くて長い廊下があった)狐と猫の両方を祀っているが、猫のほうが位が低いのでお供え物をすると全て狐のほうが食べてしまう。だから狐と猫の両方にお供え物をしなさい、と言われた。そこで両方にお供え物をするようになると私のヒキツケは直ぐに治ったらしい。

大きくなって私が母に、その「おやまさん」は料亭に遊びに来て廊下の様子を見たことがあるのではないか、と尋ねたところ、「おやまさん」というのは貧乏で髭だらけで、とても料亭に遊びにくるような余裕はない、と答えた。

次にこれも母から聞いた話だが、猟の好きな男(要するに鉄砲打ち)がいて狸の一家を見つけ鉄砲で撃とうとしたらしい。すると、親狸が手を合わせて拝んでいるような仕草を見せた。後ろには子狸が何匹もいたが男は全て鉄砲で殺してしまった。

その男には5人の子供がいたが全員が二十歳になる前に死んでしました。私が疑うと、愛媛県西予市にある養老院(ホウショウエンという名前である)に今でもその猟の好きだった男が暮らしているから話を聞いて来いと答えた。

嘘のような本当の話である。

私の長女にも超能力者だとしか思えない逸話があるが、この話は次回に回すことにする。


ショッピングセンターを作る計画を一人でブチ壊した話

2015年12月28日 | 思い出の記

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私が大学院を修了して故郷の西予市野村町の母の元へ妻子を連れて帰っていた時の出来事である。いわゆる都落ちをしていた時代の話だが、都落ちといっても論文も書いていたし「ファーストカット」というハリウッドの編集者へのインタビューの翻訳も引き受けていた。またこのブログで書いた筈だが私の指導教授から頼まれて「世界映画大事典」の資料を集めてかなり大量の原稿も書いていた。当時私は学習塾を経営していたので、余りの忙しさに男性の更年期障害になったほどである。

ちょうどその時に、商店街にある主要な店をショッピングセンターを作りそこに移すという計画が舞い上がった。それが実に馬鹿げた計画でわざわざ自分の家があるのにテナント料を払って引っ越したうえ、売り上げに応じて利益の一部を第三セクターが巻き上げる、というものだった。この計画を進めていたのは所謂「天下り法人」といわれるもので朧げな記憶だが「中小企業復興事業団」のような名前だったと思う。さらに地元の商工会議所と町長がグルになり、あたかも自営業者自らの意志によりこのショッピングセンター計画を推進するかのように差し向けたのである。

私は当時バリバリの研究者だったから商工会議所が勉強会と称して開催する会合に毎回でかけ、全ての資料を手元に置いて熟読した。

その資料を読むとショッピングセンターが出来ると今までよりはるかに利益が出ると書いてあったが、さらに熟読していくと、本当にとんでもないことが分かった。つまり、成功した事例の全ては、もともと商店街の無かった地域、つまり新たに新興住宅が出来たところに作られたショッピングセンターだけが集められていたからである。

そこで私はA4にして30枚ほどの抗議文をワープロで作り上げ、母と二人で町会議員全員に手渡しした。驚いたことに町議20名の中の10名は、いわゆる土建屋と建材屋だったのである。中には「これぐらいのことは知っている。私は自分が儲けるなら野村町など潰れてもいい」と言い放った町議がいた。この男は確か「森」と言う名前の建材屋だったと記憶する。その建材屋は倒産したらしいが当然のことだろう。

また私は商工会議所に電話をして「ショッピングセンターの計画がそんなに美味しいなら、商工会議所の職員を辞めて自分でショッピングセンターに店を構えたらどうですか?」と聞いたところ、この計画を進めている実行部隊のヘッドに当たる人物が「そんな勇気のある職員は一人もいません」と答えたため「だったら人に勧めるのはおかしいと思いませんか」とヤンワリと皮肉を言ったものだ。

さらに、人望のあると噂の共産党の町議の家にこの抗議文を持って話したところ、この計画には「消極的に賛成する」と答えた。これで私は、少なくとも地方では、共産党というのは表面では正論を吐く芝居をするだけで、議会が終わったら町長たちと一緒に飲んでいるような役者に過ぎないことが分かった。

この抗議文は、どういう手続きをしたのかは忘れてしまったが、議会にかけられ、一度目は継続審議となったものの、二度目にはショッピングセンター計画の賛成多数で私の抗議は水泡に帰してしまった。

ところが私の抗議文を読んだ特別職(助役や農協長など)が、商工会議所に「これは那田君の書いている通りじゃないか、本当に黒字になるのかキチンとした計算書を作り直すように」と責め立てられ結局この計画は潰れてしまった。

このことにより何人の自営業者が喜んだか分からない。母の話によれば、私がいない間に面識のない女性が来て「あなたの息子さんは野村一の知恵者です」と言って手を合わせるようにして泣いていた、という。また例の共産党の町議が私の家の前を通ると「息子さんの言われた通りになりましたね」とオベッカを使ったらしい。

それだけではない。その抗議文を読んだ助役が、これほどの文章を書ける人物が地元にいるとは知らなかったと、お忍びで私の書斎まで来られ、「次の町長選挙に出る趣意書を書いてほしい。手付金として3万を払い、完成したときには10万円をさらに払う」と言われたので、私は最初の3万円はもらったものの、趣意書を書き終えた後の10万円は政治活動への寄付としてもらわなかった。

結局その助役の親友が町議選に立候補したため助役は辞退されて不動産業を営まれ、相当の利益を上げたと聞くが、最終的には女性で失敗して倒産したらしい。その元助役は地方自治法に詳しかったために、田畑を買い取って宅地にし建売住宅を作るという方法で莫大な利益を上げたわけだが、最後にはやはり女に足元をすくわれたわけである。

以上、一人でショッピングセンターを作る計画をブチ壊した話である。

なお、このショッピングセンターはバブル時代に全国各地で実施された。典型的な例は別府温泉である。別府温泉は浴衣姿の観光客が商店街を歩いて回っては買い物をするのが風物詩だったが、ショッピングセンターが出来たおかげで、ショッピングセンターは赤字になった上に、商店街はシャッター街になってしまった。このような子供にでも分かる無謀な計画を推し進めていったから日本中の商店街の大半がシャッター街になってしまったのである。私の記憶では小泉=竹中の時代に当たる。この二人を批判する記事は余りにも多いが、割と穏やかな一例のみを挙げて今日のブログを終えることにする。http://philosophy.hix05.com/Economy/ideas/idea116.koizumi.html

 


高校時代、親友とナンパ合戦をして引き分けた話

2015年12月18日 | 思い出の記

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以前の「思い出の記」にも紹介した今は大型トラックの運転手をしているDという親友と、ある時、ナンパ合戦をすることを思いついた。

国語の教科書の最終頁の白い部分に、「卒業式までにナンパ合戦をして、一人でも多い場合は一人に付き1万円を支払うことをお互いに約束します」と書いて、二人で署名した。

そこでこういうルールを作った。どちらかがある女性に声を掛けてデートの約束をしたら、特定の場所(三島神社や学校の帰り道など)に何日の何時にいるから、その様子を見に来るように電話を掛けるのである。実際にデートをしていたら合格となる。

私もDも片っ端から女の子に声を掛けてほとんどが成功した。ところが、その国語の教科書を私が落としてしまったのである。その教科書は結局戻ってきたが、内容は女の子の間に広がり「あの二人は声を掛けてくるが、本当に好きなわけでは無く単なる賭けごとにしている」とバレてしまった。

にも拘らずナンパをするとついて来る相手がいたのだから不思議でならない。もちろん女の方から告白されてデートした場合もナンパとしてカウントすることにした。

結局卒業式のときにはDと私は6対6の引き分けに終わり、確かDの家で大酒を飲んだ記憶がある。

懐かしい青春の思い出である。

 


二股を掛けていた女を男同士で同時に振った話

2015年12月14日 | 思い出の記

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昨日はfacebookで知り合ったNという男性の開催したイベントに出席するために大久保まで往復した。私は糖尿病性のニューロパチー(末梢神経障害)に罹っているために遠くまで歩くことは出来ないが、怪我をしている訳では無いので我慢をすれば大久保まで電車で行くことは出来る(多少のふらつきはあるが)。

そこで電車の中を見て気づいたことがある。老若男女を問わず半数ぐらいがスマホを見ているのだ。これは単なる私の直観だが、このような状態が進むと日本人は総白痴化するのではないかと思う。

そのイベントの講師は海上自衛隊の高官だった人で、機密情報が含まれているので2つだけ大切なことをブログで公表することにする。

①防衛大学に入った同級生が、夜中にたたき起こされサバイバルナイフ1本で1週間ほど生き抜く訓練をされた、と言っていたが、それはどうやら話に尾ひれが付いた嘘のようだ。自衛隊員になる前の学生にそれほど過酷な訓練はさせず、隊員になっても似たような訓練をさせる場合は必ず上官が隊員の様子が見える場所で見張っているとのことだった。

②その高官は一種のスパイ活動もしていたらしい。そこで例えば情報が100あったとしても、情報を公開するのはその人次第、と言われた。だから、自衛隊の高官は様々な話をされたが、本音で言われた部分はごく一部だったのだろうと思う。

__________

高校生の時、私は友人と賭けをしていて(この話は後日詳細を語ることにする)片っ端から自分のタイプに当たる女子をナンパしていた。その中でかなり可愛いIという女性がいた。ナンパと言っても今の高校生と違い、時々デートをする程度だった。私は仲間たちとビートルズのコピーバンドを作っていたので、仲間の家で練習をしている時にIはよく遊びに来ていた。

ある日私の家のすぐそばにある旅館の御曹司で、宇和島東高校の副番長を張っていたHという先輩が私の家に現れ、「今度の日曜、愛宕山にIと一緒に来い」と言って帰っていった。

余談だが、「頑張っていきまっしょい」というかなりヒットした映画がある。あの舞台になったのは松山東高校と宇和島東高校をミックスしたものだ。方言が違うし、ボート部は宇和島東は有名だが松山東がボートに強いという話は聞いたことがない。

当日私はIと共に愛宕山にある公園でその先輩を待っていた。愛宕山は盆地である郷里の町中の部分にトンガリコーンのように一際目立った丘であり、そこには展望台や戦没者の慰霊塔や不気味な不動明王の立つ小さなお寺があった。確か真言宗の寺だったと思う。

現れた先輩は実はIは自分の彼女だと言った。私はそのことを初めて知ったので驚き、また頭に来たため「そんな女と付き合う気はありませんから先輩に渡しますよ」と言うと先輩も「そんな女とは俺も縁を切る」と言った。Iは突然泣き始めた。泣き始めたIを尻目に先輩は私のタバコに火を付けてくれ、「これからよろしく」と言った。

後年、私が早稲田大学の修士課程を修了して郷里で学習塾を経営していた時にその先輩の息子さんが塾生になった。かなり成績を上げ、関西の専門学校としては有名な辻調理師専門学校に入学して(もうその旅館は倒産したので本当の名前を出すが)「一二三(ひふみ)」の跡継ぎになった。

これもまた懐かしい青春の思い出である。


八王子から新宿までの特急をタダで往復した話

2015年12月12日 | 思い出の記

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とっくに時効が過ぎているのでここで告白することにする。

片づけられない症候群の妻と子供たちが突然失踪した後、郷里から駆け付けた母親が1か月半もの間、朝から夕方にかけてリビングのゴミを二階から一階のゴミ置き場まで運び(どれほどリビングがゴミ屋敷になっていたかお分かりと思う)、その結果、腰骨の圧迫骨折により1か月以上右田病院に入院していた時のことである。(高齢者福祉課はこの圧迫骨折の原因を、母の言葉にして、私の介護をし過ぎたため、と捏造しているが、母が私をオンブでもしたと言うのだろうか?本当にバカバカしい)

当時私の住まいには東京工芸大の教え子が同居していたために、時々その教え子の住む新宿にまで出かける必要があった。当時は一階のテナントしか埋まっておらず、常に金欠状態だったため、知恵を絞って新宿までタダで出かける方法を考えた。

そこでいい方法を思いついた。混雑している時間帯に改札口に入ろうとする乗客の真後ろに付け、相手がスイカなどをタッチした直後に私はポケモンカードのようなものでタッチする真似をするのである。

そして特急に乗り空いている席に座って車掌が来るとトイレに入り、便器の蓋の上に座ってタバコを吸う。そして車掌が通り過ぎるとまた空いている席に座る、そして新宿駅に着いたら同じようにして前の乗客が改札口を通る真後ろに付けて同じことをするわけである。もちろん新宿から八王子まで変えるときにも同じことをする。

私の教え子は、とてもそんなことは出来ない、と言って真面目に料金を払っていたが、好きで金欠になったわけではないので仕方ない。緊急の時にはこのような手段も致し方ないだろう。

良い子の皆さんは決してこんなことをしないで下さいね。


帝京第五高校にいたワルの思い出

2015年12月10日 | 思い出の記

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愛媛県大洲市に帝京第五という高校がある。当時は「山口組養成学校」と言われていた。今は一種の暴力教師がワルを体罰で徹底的に矯正したことにより、幾分おとなしくなったようだ。かつて受験しても一人も落ちた者がいないというので有名な高校である。私が郷里愛媛に戻っていた時にただ一人志望校に受からなかった生徒が入学したのがこの高校だ。その詳細はhttp://w01.tp1.jp/~a920031141/nadajuku.html に書いてあるのでご覧頂きたい。

この高校の番長にMという男がいた。Mと出会ったのは私のいた高校で一番短気なHという男の家だった。Mは自分がとれだけ喧嘩に強いかいつも自慢していた。呼び出して後ろ廻し蹴りをくれたら2メートルも相手が飛んで行った、などと大げさなセリフを吐く男だった。その子分に剣道部の主将がいたが、彼の素振りを見ただけで大したことはないと分かっていたので、Mの挑発に対して私は薄笑いを浮かべて乗らなかった。

当時私はクラスで一番美人のNという女と付き合っていた。伝え聞くところによるとNはHの家で集団レイプされたらしい。どこまで本当の話か分からないが、噂半分というから、必ずしもすべてが嘘だったわけでは無いと思う。Mは私がいた野村高校の前に木刀を片手に帰りがけの高校生を片っ端から脅迫するような人物だった。

ある日付き合っていたNが私を学校の屋上に呼び出し、包帯を巻いた片腕を見せて自殺未遂をしたと言った。私は「本気で死ぬ気があるなら、いっそ頸動脈でも切ればよかったのに」と冷たく言い放った。集団レイプの噂を聞いていたからである。

Nはその後准看護婦になり、通信教育で大学に入り、今は看護学校の講師をつとめているが(まだ私のメルトモなのでこのブログを読まれると非常にヤバイことになるが、事実は事実なので書いておく)、看護婦の時に医者と不倫をして案の定捨てられ、またもや自殺未遂をした。それはいかにも看護婦らしく毒物を入れた溶液を自分で自分に点滴した。隣に妹がいなかったらそのままあの世に逝っていた、と以前電話で聞いたことがある。

彼女をレイプしたというMはその後、本当に山口組に入り、殺人罪で逮捕された。私の所属していた野村高校の番長グループは割合健全だったので、Mが将来そのようになることは予想できたために、Mとは付き合わないことにしようと、みんなで決めていた。当時の仲間たちは大抵は営業部門に入りかなりの出世を遂げている。

懐かしい思い出の記録である。


二つ年上の先輩と喧嘩をした思い出(苛められっ子必見)

2015年12月08日 | 思い出の記

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私は小学校の低学年までは苛められっ子でした。学校の帰り道に帽子を取られたり、背中を飛び蹴りで汚されて、よく家に帰って泣いていたものです。母親は気が強いので「その相手を見つけてもう一回喧嘩をし直して来い」と言われましたが、私は成績のいい優等生で毎年学級委員長を務めていたせいもあり、そういう子供は苛めの格好の対象になるのでしょう。

私の性格が変わったのは小学校4年生から近くにある警察道場で剣道を習い始めたからです。母親は「男は勉強より度胸」とよく言っていたので、私を警察道場へ通わせたのでしょう。

小学校6年生の時に、遊び仲間が評判の悪い中学生に泣かされた、と聞き、雪の中を遊び仲間と走って、その中学生を小学校の校庭で見つけました。

最初はみんなで彼を取り囲み、一斉に飛び掛かる予定でしたが、誰一人として彼に喧嘩を売るものがいません。そこで私は「年上のくせに弱いもんを苛めたらいけんじゃろが」と言うと、その中学生が私に向かって「お前一人だけ来い」と言うので、私は仲間が見ている前で喧嘩を始めました。相手が二三度殴ってくるのを頬を逸らして受け流し、相手の顔面に向かって思い切り殴りつけたところ、相手は鼻血を出して涙を流しました。それを見ていた高校生が仲裁に入った後のことです。

友人たちは、それぞれ握手をしながら「お前がそれほど勇気があるとは知らなかった。一緒に飛び掛からなかった俺らが悪かった」と謝りました。

その後、家の近くにある銭湯に行ったところ、その中学生と偶然に出会い、お湯がぬるかったので私に向かって「お前が熱いお湯を出せ」と命令するので、私は「ぬるいと思うならお前がやれ」と言い返しました。

私が高校1年生のときです。原因がなんだったのかは忘れてしまいましたが、野球部に入っていたその先輩に高校の校庭に呼び出されました。私は呼び出される前の夜からいろいろと作戦を練っていました。結局、皮の手袋を水に浸して殴ると効果が何倍にもなるということを知り、当日はその通りにして、彼の前に現れたところ、彼は私の手袋を見て、「今日はもういいから帰れ」と逃げました。

子供の頃の苛められっ子がそれほどまでに変化したのです。

最近虐めの事件が頻繁に報道されています。苛められっ子にここでアドバイスします。苛めっ子は黙っているとカサになって掛かってくるので、例えば鉛筆を削る小さなナイフをポケットに入れておき、苛められたときは相手の喉元にナイフを突きつけて「今度虐めたら殺すぞ」と大きな声で怒鳴ってみてください。必ずその日から苛めはなくなります。

ことわざにも「窮鼠猫を噛む」という言葉があるように、いざとなったら敵がどれほど強くても気合さえ入っていれば絶対に勝ちます。

私は私立探偵として子供のイジメと集団ストーカーを専門にしています。このブログに書いたことを全国の苛められっ子に捧げます。


中学生時代、町内会館を借り切ってドンチャン騒ぎをした思い出

2015年12月07日 | 思い出の記

ブログを読む前に集団ストーカーに興味のある方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 

私が創価中学を自主退学したのは中学3年の夏休みが終わった後でした。そのころ野村中学は男子生徒は全員丸刈りにする、という規則がありましたが、校長が気を利かせてくれ、もう少しで高校生になるのだから私だけは長髪のままでいい、と言ってくれました。しかし私は頭にハゲでもできているのかと思われるのが嫌だったので自ら進んで丸刈りになったものです。

私が野村中学に転入するとき、私のことを知らない昔の友人たちは「東京もんがくるらしいけんでやしちゃる」(東京に住んでいた人間が来るらしいから足腰立たないように叩きのめしてやる)と言って待ち構えていたそうです。ところが私だと分かりデヤス機会を失ってしまい、しかも友人たちのほとんどは不良になっていました。また後年、一浪して東大に入ったIという友人は、それまでトップの座を守り続けていたのに、私が戻ってくるとトップの座を奪われるのではないか、と心配したと聞きます。

しかし、その心配は無用でした。私の親友のほとんどは不良だったために私もまた彼らと一緒になって遊ぶようになったからです。

例えば、今は大型トラックの運転手になっているDという男はことあるごと我が家に安物のジントニックを持ってきて飲み明かしていました。二日酔いになったDが父親のネクタイを頭に巻いているのを母が見て、まるで時代劇のバカ殿様のようだと笑いあったこともあります。Dとは夜中に煙草を吸いながら散歩したことがあります。途中でパトカーに見つかるとヤバイので、私より小柄なDを女装させ、まるでカップルが歩いているかのように装ったこともよく覚えています。また私の遠縁に当たるOという教員の息子に家に毎週のように出かけ、しかもベランダから彼の勉強部屋までよじ登り、ビールを二人で一ダースほどは飲んでいました。彼はある女の子と交換日記を交わしていたのですが途中でネタ切れになり私が代筆したこともよく覚えています。彼の母親は書道家としても有名でした。

あるとき「木落(こおとし)」という辺鄙な地区の町内会館を仲間が借り切り、不良仲間が酒とつまみを持ち込みで集まることになりました。Dの兄は不良高校生として名前が知られていました。彼は一升瓶をぶら下げてその飲み会に差し入れに来ました。仲間が大喜びしたことはいうまでもありません。

ウラバンという言葉は使っていませんでしたが、私は実質的なウラバンの立場にありました。例えば誰かが「あいつをでやしちゃる」というと、その事情を聴いて、「それならでやしてこいや」と認めたり、逆にでやされると知った知り合いが相談しに来ると、「それなら今回だけは許すから相手にキチンと詫びを入れていくように」と指示する役目が私でした。

ウラバンを張るのはただ喧嘩が強いだけでなく、成績が良く酒が強くないと務まりません。その飲み会のときは全員が酒を浴びるほど飲んで中には表に出て吐いている者もいましたが、私が酒が強かったのでその男の背中をさすったり、毛布を掛けて寝かしつけたりなどの世話を焼いていました。また私はフォークギターを持参して即興で仲間のために歌を歌ったことも思い出します。

誰が町内会館を借り切ったのは覚えていませんが、やがて大人たちの噂になったものの、全員がトボケで答えなかったので野村中学からのお咎めはありませんでした。

思い出したことがあります。仲間たちが持ち寄ったドリンクを全て一つの器に入れて回し飲みしたことです。ビール、日本酒、ウィスキー、ジン、コカコーラー、ファンタ、何もかも全てを混ぜると実に美味く、私は今でもあの味が忘れられません。ウィスキーといってもレッドならまだ高級品で、ホワイトという安物があったのですが、今は知っている人はほとんどいないと思います。またタバコも「労働者タバコ」と言われたハイライトが主流で、私は「カンピー」と呼ばれる両切りの缶に入ったタバコが好みでした。これは俗に「肺がんタバコ」と言われ、タバコを吸って障子に吹き付けると白い障子が真っ黒になったものです。高校生になってセブンスターが発売されたときは感動したものです。

前に予告した野球部の先輩(私は野球部にいたことはありません。ただ2つほど年上という意味で使っています)の話や、後にヤクザになった帝京第五高校のMの話など、近いうちにこの「思い出の記」に書いて、私がどれほどデタラメな人間だったか、私の子供たちのために残すつもりです。これで今回の「思い出の記」を終えることにします。


担任の教師を1週間登校拒否にした話

2015年12月05日 | 思い出の記

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久しぶりに「思い出の記」を書くことにします。

私が入学した愛媛県立野村高校は、今は単なる〇〇校になっているようですが、私が在籍した当時は「山の中の進学校」として新聞に載るほど有名でした。様々な高校の教員が研修に訪れたほどです。

当時は普通科、畜産科、生活科、という3つの科に分かれていて、私は普通科の4組でした。1、2組は就職するクラス、3組は私立大学を受験するクラス、4組は国公立大学を受験するクラスでした。

高校に入学して以来、私はいわゆる「番長グループ」に目をつけられ、例えば革靴を履いているとか(校則では禁止でした)、ガクランのホックを外して第一ボタンを外しているとか、私は近視だったので先輩にガンをつけたとか、等々の理由で、体育館の地下にある更衣室に呼び付けられて説教をされていました。最後のほうには慣れてしまい、「はい、分かりました、例の更衣室ですね」と言って、とうとう10回目の呼び付けの時に、学生証を出すように言われたので素直に出したところ写真を剥がされ、「これからお前は俺たちの仲間だから安心しろ」と言われました。

愛媛県西南部の高校が連帯して「血友会」(怖い名前ですね)という組織を作っており、その一員になったわけです。一月に500円ずつ出し合い、仲間がバイクの事故で入院した時などにお互いに支えあっていました。私の学生証の写真を剥がした先輩は柔道部のキャプテンで副番長でした。番長グループといっても小さな盆地ですから、全員顔と名前を知っており、一度も殴られたことはありません。その副番長も子供の頃から顔を知っていました。そこで番長は誰かと聞いたところ、私の家からすぐ近くにあるKさんという美術部の部長で、小柄な人でした。あんなおとなしそうな美術部の部長がなぜ番長なのかさらに聞いたところ、小学生の頃の逸話として、誰かと喧嘩になったときに、普段は物静かなKさんが別人のようになって椅子を振り上げ相手を叩きのめしたために、副番長になった先輩たちが必死で止めたそうです。すると「うるさい」と叫んで両手で仲間を振り払ったときの力の強さは尋常ではなかったと聞きます。だから、あの人は放っておくと人を殺しかねないので、いわば護衛兵として、柔道部のキャプテンなどガタイのいい先輩たちが副番長になっていた様子です。

そこで、近所に住んでいるKさんの家に挨拶に行くことにしました。今度血友会に入った那田です、というと、Kさんはコンパスを使った抽象画を描いている途中だったために、「これを描き終わるまでの間、タバコでも吸って待っていてくれる?」と優しそうな声で言いました。Kさんが描き終わったとき、その絵を見せながら、「この右上の部分は青がいいか紫色がいいか迷っているんだが、那田君はどう思う?」と聞かれたので私は「紫色がいいんじゃないですか」と答えたところ、「やっぱりそうか、じゃぁ紫色にしよう」と言って、紫色で塗り終えた後、「これからは仲間だから何かあれば私に言えば大丈夫だよ」と言われたことを思い出します。

ところで私はかなり優秀な成績で入学したらしく、高1のときは京都大学文学部を受験するように言われ、高2のときは東北大学文学部に入学するようにと言われました。しかしそのころ私は重い鬱病にかかっていたため、全く家で学習が出来なくなっていました。そこで高3の時に神戸大学部の経済学部を受験するように言われました。

今の人にはわからないでしょうが、当時は一期校、二期校という区別が国公立大学にはあり、私のいた高校の教師たちは、どうしても一期校に生徒を入学させようとしたものです。

そこで私はホームルームのとき(順番で10分ほど自分の意見を述べる機会を与えられていたと思います)、担任の教師の目の前で、壇上から「これから紙を全員に配るから、本音を書いてほしい、もちろん匿名で」と言ってクラス全員に紙を配り、その回答を読み上げたところ、ほぼ全ての同級生が担任への不満をこぼしていました。

つまり、生徒本人の希望よりも、野村高校を有名にするために一期校に入れることを金科玉条のように守って、私の例のように、全く関心のない経済学部に入れようとしていることにクラス中が不満を持っていたわけです。例えば、本当は将来小学校の先生になりたかった親友も一期校に入れるために教員免許の資格の取れない大学を進められていて、そのことを紙に書いていました。

それらを読み上げた後、担任の教師は一週間の間、高校に来なくなりました。生徒の登校拒否ではなく、教師のほうが登校拒否をしてしまったのです。

後年、私が大学生になって担任の教師の家に仲間と遊びに行き、一緒にマージャンを打ったところ、私が張っていた国士無双に担任だった教師が振り込んでしまい、「つくづく那田は私の天敵だなぁ」とこぼされ、「あの時は本当に教員を辞めようと思った」と告白されました。この先生は後に某有名高校の校長になって赴任されました。今はもう退職されていることでしょう。

マージャンを打ったあとは、仲間と高校のプールに飛び込み(酒を飲んでいたにも関わらず)遊んだことも思い出されます。

その他、中学3年の時に仲間が町内会館を借り切って、不良仲間で深夜までドンチャン騒ぎをした思い出や、高校になって過去に喧嘩をしたことのある野球部の先輩に呼び出され、黒い革の手袋を水に浸して決闘に行ったことなど、相当にふざけた青春時代の思い出が多々ありますが、それはなるべく早くこのブログに書くことにします。

 


教師を一週間不登校にさせた思い出

2013年02月17日 | 思い出の記
私はこのところ夜の10時ぐらいにチャットに行って軽い晩酌をしながら生き抜きをする。
そうしていると、中学生と知り合いになることも多く世相を知ることも出来るから一石二鳥というわけである。

イジメが今どれほど激しくなっているか、聞いていて驚くことがある。学校に行くと「臭い」と言われる、保健室登校を繰返している、久々に登校すると机の上にお葬式のように花が活けてあり自殺ゴッコや葬式ゴッコを強要される、などなど。「教師に訴えても、苛めっ子が教育委員会の役員の息子だから黙殺される」との返事。彼らは自殺予備軍でもあり、なるほど「自殺は殺人」だと考えさせられる。

昔のHPに「苛められっ子のために」というエッセーを書いたことがあり、かなり過激な解決法を提案したら「そこまでズバリものをいう人がいて助かりました」という旨のコメントが入ってきた。

そこで思い出したことがある。
 私が卒業した愛媛の高校は「山の中の受験校」と評判になり、新聞に紹介されたり、他の学校の教師たちが見学に来たりした面白い高校だった。
 6クラスの中で2クラスが受験クラスになっていて、1クラス(50人ほど)は国立大学専用で、愛媛大学に30人ぐらいは合格し、それ以外の大半は昔で言う「一期校」に合格した。受験地獄と言われた時代で、少子化問題がない時代だったので驚くべき進学率だった。一期校とは簡単に言えば格上の国立大学という意味で、田舎だったから早慶、同志社、立命館などは例外として私立高校はレベルが低いと思われていた。

ところが熱心に受験対策には取り組むのだが、生徒の希望する進路は無視してとにかく国立一期校に入れようとする。例えば本人は愛媛大学の教育学部に入って教員になることを望んでいるのに教師は「この成績なら神戸大学の経済学部に通るからぜひ受けろ」という具合で、要するに高校の名誉を高めるために本人の進路、つまり人生を教員が無理やり決めるわけだ。

それで私はホームルームの時間に全員に匿名で教師に対する意見を書かせ、その内容を担任教師の前で読み上げた。案の定、不満炸裂で「こんな進路指導は○○先生の点数稼ぎだ」「自分たちの人生を勝手に決めるな」という意見が圧倒的に多かった。
 そのアンケートを担任に渡したところ、本当に彼は一週間学校を休んでしまった。

後日大学生になってその担任の家に友人と訪問してマージャンをしたとき「俺はあの時本気で教員を辞めようと思った」と告白された。ついでに国士無双をその担任に振り込ませて「つくづくお前は天敵だなぁ」と嘆かれた。もちろん金銭は賭けていない。

後日同窓会があって出かけたところ、この担任は他の受験校の校長先生になられていた。

現在私の出身高校は「山の中の受験校」どころではなく、どうしようもない状態になっているらしい。いい面も悪い面もあったが現役の高校時代を懐かしく思い出す。

いつもブログに時間を食っているので推敲は後日に回すことにして荒書きで失礼します。


東郷健さん追悼

2013年02月12日 | 思い出の記
母校早稲田の鳩ノ巣に暗黒舞踏系の「亜細亜劇場」という演劇部があった。
 と書いて、念のために「早稲田 鳩ノ巣」で検索してみたら駅名、施設名、数学の原理しか出てこない。私の記憶では早大本部のとある建物の最上階にアングラ系の部活が密集し、それこそ鳩の巣が出来るほどのカオス的な空間があった。そこが「鳩ノ巣」と呼ばれていた筈である。この辺りは後日調べてみる。(詳しい方はコメント投稿をお願いします)

ステージは赤色電球が一個点いているだけのほぼ暗闇の中、一人のダンサーが約30分の間ほとんど動かない、という舞踏の後、特別ゲストとして藤色の和服を来た東郷健さんが登場した。
 ここで健さんのプロフィールを調べようとしたら、昨年亡くなられていた。以下いつものようにwikiから抜粋引用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%81%A5
東郷 健(とうごう けん、1932年6月10日 - 2012年4月1日)は、日本の社会運動家・政治活動家。雑民の会・雑民党代表。本名は、東郷 健(とうごう たけし)。
兵庫県加古川市生まれ。「伝説のおかま」と紹介されることがある。同性愛者ではあるものの、自らの結婚歴や子供の存在を否定していない(下に詳述)。
祖父の名倉次は衆議院議員(立憲改進党)、父の東郷伍郎は兵庫県議会議員であったが、健は地元と絶縁状態だったため、いわゆる世襲候補扱いはされていない。

1955年、関西学院大学商学部卒業。第一銀行行員、ガソリンスタンド経営を経て、ブロイラー養鶏場経営。養鶏場の経営失敗により、多額の負債を負う。返済のため、1963年姫路市でゲイバー「るどん」(三島由紀夫の小説『禁色』のゲイバーの名に因む)を経営。一時は経営するゲイバーが軌道に乗ったが、翌年従業員や行政との度重なるトラブルにて廃業。 なお、関西にいた頃、幼少の頃から父親に鍛えられた柔道の技を使った武勇伝は数知れず、ケンカを売ってきた男を一本背負いで道頓堀川に投げ落としたことがある。

東京にて、1968年ゲイバー「とうごうけん」経営。ゲイ雑誌「The Gay」「ザ・ケン」編集長、ゲイビデオ制作、エイズ啓蒙活動、ゲイのための診療所開設、ゲイ・ゲームズ支援、ゲイバー(「サタデイ」「BAR東郷健」)経営などを手掛ける。特に選挙候補として度重なる供託金の没収や選挙費用のために幾度もの経済的破綻を経験。結果、実家が持っていた日本海側に面する大規模な土地を失う。
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等々とあり、いかに破天荒な人物だったか分かる。祖父が国会議員だったのは始めて知った。
 
ゲストトークの際に本人が語ったところでは「私が関西学院に受かったのは、面接官の教授にウィンクしたから」とのことだった。もちろん真偽は不明である。
 一番印象に残っているのは「オカマの深刻な悩みは50代になって容色が衰えたとき。ここが運命の境目だから自殺しようか真剣に悩んでいる」と言った瞬間で、私は、そんなものかと真面目に聞き入っていた。

その最中、一緒にステージを見ていた友人のGが、私に「おい、ヤバイぞ、さっきから健さんがお前をチラチラ見ている」と耳元で囁いた。私は近視だったのに格好をつけてメガネを使っておらず、目を細くして遠くのものを見ていたので、たまにガンを飛ばしてると勘違いされ絡まれることもあった。それでGのほうがハンサムだったから「お前を見てるんだよ」と答えた。

トークショーが終わると、観衆は畳の上に幾つもの車座を作り、健さんや劇団員たちは一升ビンを持ってお酌して回り始めた。そういうザックバランさが早稲田流だった。そして友人と私が座っているところに健さんがやってきて、友人の言うとおりに口説かれ手の甲にキスされるなどして非常に戸惑ったことがある。
 後日彼が雑民党として選挙パフォーマンスをしている姿を見て、これほど骨のあるオカマだったら頬ずりぐらいされても良かった、と、手の甲にキスされたときの、あのムニュっとした何とも形容しがたい感覚を思い出した。

友人のGは法政大学を中退し、雑誌社に入って働いていたが、私と同様相当の酒豪だったのが祟り、文字通り破滅型の生活を送っていた。最後に逢ったのは、一緒によく通っていた中野のスナックの若いホステスさんと彼が同棲していた頃である。
 ある深夜、一緒に飲んでいたGが「今日はうちへ来て泊まれ」というので行ったところ、そのホステスさんがお摘みを作ってくれた。そこで結構料理好きな私も一品作って飲んでいると彼が突然「いい加減に帰れ」と言うので帰った。それ以来連絡していないが今どうしているだろう。こういう具合に荒れてはいたが、小説の新人賞を一つぐらい獲ってもおかしくない文学青年で書道にも長けていた。

健さんの話題にもどろう。

http://www.youtube.com/watch?v=TQO96Ti6Lac
この政権放送は晩年近くのもので、聞いていると目頭が熱くなる。放送禁止なのか大事な部分が消えているけれど大体の推察はつく。
 私の記憶に残っているのは、開口一番「オカマのどこが悪いんや」から始まり「私の娘の処女を奪ったのはNHK教育テレビの部長です」と告発するもの。政権公約も「若者よ勃て、勃って君たちのスカッドミサイルを30世紀に向かって放射精よ」といったコミカルさと過激さを交えた独特の文章で、私は一時期彼の公約の乗った新聞を保存していた。上に貼ったもの以外にもyoutubeはニコ生動画で政見放送を幾つか見ることが出来る。

天皇陛下から創価学会まで片っ端から批判して行くために、ピーコのような後輩たちは遠巻きにして距離をとっていたようだ。当然芸能界で生きていくためには踏み絵を踏まされているのだから、余り関わりたくない存在だったに違いない。
 多分、彼のような思想をアナキズムというのだろうし、またヒッピーやフラワーチルドレンの申し子という意味でも、死後高名になり評価される典型的な人物のように思う。私と考え方は違う点もあるが、このような凄まじい生き方をして80歳の天寿を全うした健さんに、心から哀悼の意を表します。