那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

東郷健さん追悼

2013年02月12日 | 思い出の記
母校早稲田の鳩ノ巣に暗黒舞踏系の「亜細亜劇場」という演劇部があった。
 と書いて、念のために「早稲田 鳩ノ巣」で検索してみたら駅名、施設名、数学の原理しか出てこない。私の記憶では早大本部のとある建物の最上階にアングラ系の部活が密集し、それこそ鳩の巣が出来るほどのカオス的な空間があった。そこが「鳩ノ巣」と呼ばれていた筈である。この辺りは後日調べてみる。(詳しい方はコメント投稿をお願いします)

ステージは赤色電球が一個点いているだけのほぼ暗闇の中、一人のダンサーが約30分の間ほとんど動かない、という舞踏の後、特別ゲストとして藤色の和服を来た東郷健さんが登場した。
 ここで健さんのプロフィールを調べようとしたら、昨年亡くなられていた。以下いつものようにwikiから抜粋引用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%81%A5
東郷 健(とうごう けん、1932年6月10日 - 2012年4月1日)は、日本の社会運動家・政治活動家。雑民の会・雑民党代表。本名は、東郷 健(とうごう たけし)。
兵庫県加古川市生まれ。「伝説のおかま」と紹介されることがある。同性愛者ではあるものの、自らの結婚歴や子供の存在を否定していない(下に詳述)。
祖父の名倉次は衆議院議員(立憲改進党)、父の東郷伍郎は兵庫県議会議員であったが、健は地元と絶縁状態だったため、いわゆる世襲候補扱いはされていない。

1955年、関西学院大学商学部卒業。第一銀行行員、ガソリンスタンド経営を経て、ブロイラー養鶏場経営。養鶏場の経営失敗により、多額の負債を負う。返済のため、1963年姫路市でゲイバー「るどん」(三島由紀夫の小説『禁色』のゲイバーの名に因む)を経営。一時は経営するゲイバーが軌道に乗ったが、翌年従業員や行政との度重なるトラブルにて廃業。 なお、関西にいた頃、幼少の頃から父親に鍛えられた柔道の技を使った武勇伝は数知れず、ケンカを売ってきた男を一本背負いで道頓堀川に投げ落としたことがある。

東京にて、1968年ゲイバー「とうごうけん」経営。ゲイ雑誌「The Gay」「ザ・ケン」編集長、ゲイビデオ制作、エイズ啓蒙活動、ゲイのための診療所開設、ゲイ・ゲームズ支援、ゲイバー(「サタデイ」「BAR東郷健」)経営などを手掛ける。特に選挙候補として度重なる供託金の没収や選挙費用のために幾度もの経済的破綻を経験。結果、実家が持っていた日本海側に面する大規模な土地を失う。
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等々とあり、いかに破天荒な人物だったか分かる。祖父が国会議員だったのは始めて知った。
 
ゲストトークの際に本人が語ったところでは「私が関西学院に受かったのは、面接官の教授にウィンクしたから」とのことだった。もちろん真偽は不明である。
 一番印象に残っているのは「オカマの深刻な悩みは50代になって容色が衰えたとき。ここが運命の境目だから自殺しようか真剣に悩んでいる」と言った瞬間で、私は、そんなものかと真面目に聞き入っていた。

その最中、一緒にステージを見ていた友人のGが、私に「おい、ヤバイぞ、さっきから健さんがお前をチラチラ見ている」と耳元で囁いた。私は近視だったのに格好をつけてメガネを使っておらず、目を細くして遠くのものを見ていたので、たまにガンを飛ばしてると勘違いされ絡まれることもあった。それでGのほうがハンサムだったから「お前を見てるんだよ」と答えた。

トークショーが終わると、観衆は畳の上に幾つもの車座を作り、健さんや劇団員たちは一升ビンを持ってお酌して回り始めた。そういうザックバランさが早稲田流だった。そして友人と私が座っているところに健さんがやってきて、友人の言うとおりに口説かれ手の甲にキスされるなどして非常に戸惑ったことがある。
 後日彼が雑民党として選挙パフォーマンスをしている姿を見て、これほど骨のあるオカマだったら頬ずりぐらいされても良かった、と、手の甲にキスされたときの、あのムニュっとした何とも形容しがたい感覚を思い出した。

友人のGは法政大学を中退し、雑誌社に入って働いていたが、私と同様相当の酒豪だったのが祟り、文字通り破滅型の生活を送っていた。最後に逢ったのは、一緒によく通っていた中野のスナックの若いホステスさんと彼が同棲していた頃である。
 ある深夜、一緒に飲んでいたGが「今日はうちへ来て泊まれ」というので行ったところ、そのホステスさんがお摘みを作ってくれた。そこで結構料理好きな私も一品作って飲んでいると彼が突然「いい加減に帰れ」と言うので帰った。それ以来連絡していないが今どうしているだろう。こういう具合に荒れてはいたが、小説の新人賞を一つぐらい獲ってもおかしくない文学青年で書道にも長けていた。

健さんの話題にもどろう。

http://www.youtube.com/watch?v=TQO96Ti6Lac
この政権放送は晩年近くのもので、聞いていると目頭が熱くなる。放送禁止なのか大事な部分が消えているけれど大体の推察はつく。
 私の記憶に残っているのは、開口一番「オカマのどこが悪いんや」から始まり「私の娘の処女を奪ったのはNHK教育テレビの部長です」と告発するもの。政権公約も「若者よ勃て、勃って君たちのスカッドミサイルを30世紀に向かって放射精よ」といったコミカルさと過激さを交えた独特の文章で、私は一時期彼の公約の乗った新聞を保存していた。上に貼ったもの以外にもyoutubeはニコ生動画で政見放送を幾つか見ることが出来る。

天皇陛下から創価学会まで片っ端から批判して行くために、ピーコのような後輩たちは遠巻きにして距離をとっていたようだ。当然芸能界で生きていくためには踏み絵を踏まされているのだから、余り関わりたくない存在だったに違いない。
 多分、彼のような思想をアナキズムというのだろうし、またヒッピーやフラワーチルドレンの申し子という意味でも、死後高名になり評価される典型的な人物のように思う。私と考え方は違う点もあるが、このような凄まじい生き方をして80歳の天寿を全うした健さんに、心から哀悼の意を表します。


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