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那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

グリコ森永犯を応援した頃(思い出の記の一部)

2013年02月11日 | 思い出の記
ヒッピー文化を調べようとしているうちに竹中労の項目とぶつかったので、簡単に備忘録としてメモしておく。

私が大学生の時、大学の一教室で「グリコ森永犯を支援する会」(のような名前)のイベントがあり、興味を持って出かけたことがある。
 壇上には竹中労、野村秋介、それから名前は忘れたが沖縄出身の白髪の老人がいてトークが始まった。

野村秋介は右翼(反米という意味では新右翼)の理論家として名高くテレビの討論番組にもしばしば出ていたが、理論家というよりは心情派、熱血行動主義の人で、志をシャイに語るタイプだった。決して弁論闊達の人ではなかった。
 ちなみに後年朝日新聞社でピストル自決の報道があったその日に、売り切れてはいけない、と慌てて新宿紀伊国屋書店(長寿番組「笑点」のスポンサーだった)に遺作「群青」を買いに行ったところ、意外にも書店に置いてなかった。大事件の直後だから当然山積みにされているだろうと店員に尋ねたが、置いていない、の一言だった。ここまで弾圧されるものなんだな、と感じた。

トークは竹中労の「この中に公安が3人いる」から始まり、いかにも危険な臭いがした。そもそも野村秋介は浪漫派の極右、竹中労は 平岡正明、太田竜と窮民革命論を唱え“新左翼三バカトリオ”と呼ばれていたし、白髪の老人は皇居にトラックで突入した仲間を「自分のトラックがもったいない。盗んだトラックで突入すべきだ」と批判していたほどだから極左。反体制、という共通項以外は敵対する過激派の集まりで、よくこのようなイベントが開けるものだと不思議な気がした。しかしまたそれがこのイベントを魅力的なものにしていた。この頃(70年代の終わりから80年代前半)は野坂昭如も「右も左も蹴っ飛ばせ」という題名のエッセーを週刊誌に連載しており、主義主張は違っても個性の強い人々が「両極端は相通ず」で握手できる古き良き時代だったのだろう。

トークの途中、川内康範から電報が入った。「竹中労は私の舎弟である。グリコ森永犯よ、捉まるな、逃げて逃げて逃げまくれ」というもので、会場に拍手が起こった。竹中労が一瞬ムッとしたように記憶している。少なくとも無表情だった。川内康範は日蓮宗のお寺の生まれ。子供の頃楽しみに見ていたテレビドラマ「月光仮面」の原作者で、これは月光菩薩に由来する。グリコ森永犯に「1億2千万を出すから犯罪を止めよ」とメッセージを送り、唯一犯人たちから「いいオッサンやな」と評価された人物で、後日そんなお金は持っておらず借金するつもりだった、と述べている。晩年「おふくろさん」を巡って森真一と絶縁したことで一躍脚光を浴びたように作詞家として大ヒット曲を数多く作っている。また間違ったらいけないので後でよく調べるが、グリコ森永犯の事件以来警察がデジタル無線を使い始めたと記憶している。

後日談がある。イベントの前に教室の外においてあったノートに住所氏名を書いたところ、竹中労から「資金繰りが苦しいので、3千円を振り込んでくれたら次に出版する本を進呈する」との通知が来た。読んで迷っているうちに忘れていたところ暫くして、確か赤文字のマジックで「貴殿を破門する」との手紙。別に弟子入りしたわけじゃないのにな、と面白かった。こういう封書類を残しておいたらいい資料になったと思うが、引越しも多く、また蔵書がかなりあったのでゴミと一緒に捨ててしまった。

そういえばこの時代、暗黒舞踏の「亜細亜劇場」のイベントで「オカマの健さん」こと東郷健と一緒に酒を飲んだ思い出もあるが、これはまた改めて記す。

「思い出の記」でも書いていこうか?

2013年02月04日 | 思い出の記

このところプライベートが多忙なので昨日はコメントに答えるだけで終わった。

この3日で訪問者が二人あり、ともに新鮮な空気を吹き込んでくれた。

その内の一人は信仰の関係者。この人は霊感が強く人生の曲がり角やトラブルの真っ最中に突然洗われる

今回も介護倒れの最中、色々な決断をしなければならないときに実に的確にアドバイスして頂いた。「必ずいい方向へ向かう。文筆活動で新しい道が開ける」との言葉だった。

これは以前から言われていた。私は器用貧乏の典型的な性格で、一点集中ではなく、多点同時進行のタイプだから、若く健康なときはそれが可能だったが、家庭のトラブルや、大病など、歯車が一つ欠けると、連鎖的に共倒れになる傾向がある。

私の父は明治生まれの教育家だけあって人を見る目が凄かった。「お前は弁護士が一番合っている」、また「九仭の功を一簣に虧くタイプだから注意せよ」など、資質を見抜いていた。

父の言いつけに従っていれば良かったが、芸術という一番お金にならない分野を選んだ。早大一文と滑り止めの教育学部に両方合格したとき、母親は教育学部を勧めたが父親は「本人がやりたいようにやらせたらいい」と言って、入学後は文学全集を送る、と言ってくれたが「大抵のものは読み終えているからいい」と断った。

文章能力があるというのは子供の頃から言われ、今でも知り合いの多くがそう言ってくれる。「半分の力で書け」とよく言われるけれど、私は2割の力で書いている。微笑禅の会を作ったころからは、美文に拘らず、意味だけ伝わればいい、という究極の手抜きで書いているが、他人がそう言うのなら、信じていいのかもしれない。

しかしこの大不況、出版業界も大抵が自費出版でどうにか切り抜けている状態だから、文筆で身を立てるのは非常に難しい。来訪者は冗談交じりに「直木賞をとりますよ」と言われた。けれど私は以前書いたように、こういうものは談合で決まっていると思うし、私のような危険人物(噂ではそうらしいw)がマスメディアで活躍できるとは思っていない。

が、一人で正しい答えを出そうとするよりは、こういう第三者の言葉に耳を傾け素直に言うとおりにしてみようかな、とも考えている。

以前予告したように、特別な話題がないときは物心が付いたころからの思い出を少しずつ書いていくのもいいかなと考えている。
 勝小吉が「俺がどんなバカだったか子孫の戒めになるように」と書いた『夢酔独言』を読んだときからこの構想があった。

そういうわけで、閑話休題的に長編小説をポツリポツリ書いて行くので、乞うご期待。


優秀すぎる青年たちの思い出

2013年01月19日 | 思い出の記

真冬のリハビリと書類整理、母と猫の心配などで過労が重なっているため、今日は簡単に。

私は偶々全国高校統一模試の1位と2位だった青年を指導したことがある。

2位は元々は東京工芸大の教え子で、私の授業をもう一回受けたい、と言ってきたので「単位にならないんじゃないの?」と言ったら「それでいいです。モグリで講義を聴きたい」というので、彼のために例年の授業スタイルを変えた。
 
頭のいい人間の中には、中学高校の頃には教員を見下して不良になっている場合があり、受けたら誰でも通るような大学にも意外に隠れた逸材がいる。彼もそういうタイプで、1を教えれば10を知るという天才肌だった。
 授業が終わると私は喫煙所でタバコを一服して帰るのを常としていたが、4~5人の教え子がいろんな質問をして帰してくれないので、1時間から1時間半はタバコを吸いながら雑談した。彼はハンサムボーイで立ち姿が脱力しているので、「武道やってただろ」と言ったら案の定だった。「俺は飛んでるハエをモノサシで叩き落せるよ」と言ったら彼は「私は左手で捕まえることが出来ます」と言っていた。分からない人間は虚言などというだろうが、私の息子は中学のときに、飛んでいるハエを輪ゴムで打ち落として威張っていた。ある領域を超えるとこれぐらいは当たり前のことである。

彼とは、うちに来たり、一緒に飲んだりして、教員と教え子の間を越えた深い付き合いをした。一時期は微笑禅の会にも入っていたが(教え子特権で会費無料)、卒業後の彼がどうなったかは分からない。一度非常に優れた五行歌を投稿してきた匿名の人物がいるので、多分彼の作品ではないかと思う。北国で酒を飲みながら地獄の炎の中で詫びている、というような内容だった。彼は北国の生まれなので、そんな気がしている。

もう一人、1位の青年は、八王子にある精神病院から尋ねてきた。(八王子は寺院と精神病院と介護施設がやたらに多い)

東大浪人中に偶々「微笑禅の会」の規約と「見性体験記」を読んで救いを求めてきたもので、重い鬱病だったのか、何回か自殺未遂を繰り返していると言っていた。
 それで基本的な坐禅の組み方と丹田呼吸のコツを教えて、病院のベッドの上でも必ずこれを繰り返すこと、浪人など何度してもいいから焦らず、困ったらまた来るように、と諭したら少し笑顔になって帰っていった。その後音沙汰はない。生きていればいいが、と気になる。

彼らはもう30前後だろう。今の日本の社会に大きな病理があり、能力が突出し正義感が強いと逆に挫折するシステムが出来ているため、こういう優秀な人材が中々実力を発揮することができない。
 人生は山あり谷ありだから、どうにか巧くサバイバルして上昇機運に乗り、優れた指導者になってほしいと思う。

こういう青年たちとの出会いを思い出すと、私も巳年にちなんで粘り強く現状を脱皮して環境を整えたいと思う。教師体験者にとって教え子が出世するぐらい嬉しい事は無い。彼らとの楽しい再会を夢に、まずは健康回復に努力したい。

以上、出来すぎた話のようですが、全て事実です。(多分昔どこかに書いた筈)





父の思い出:明治男の生き様

2012年12月10日 | 思い出の記

以下のエッセーは「微笑禅の会」の「見性体験記」にも載っていますが、昔のHPを掘り起こして見つけ出し、さらに手を加えてみました。
 全く個人的なことですが、明治に生まれた父のエピソードはその時代のエトスを知る上で皆さんに伝える価値があると思い選んだ次第です。
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明治元年、紀州和歌山から有馬福三郎(もとは八三郎との説あり)という武士が愛媛県と高知県の県境に妻子を連れて逃げてきた。戊辰戦争において戦略上の諍いから命を狙われ、四国の寺寺を転々と飛び石伝いに渡り、現在の愛媛県東宇和郡野村町惣川小松、という地に居を構えた。寺寺を伝わってやってきたということは、そこは寺社奉行の管轄だから役人が手が出せないことを意味する。明治維新の激動の時代にはそういう危急の事態があちこちでおこったのだろう。
 福三郎は本当は現・海南市の名門・森家の長男だったが、伝え聞くところによれば不行跡があり、親族の有馬家に養子に出されたという。古いことなので確かではない。

紀州時代のエピソードとして、道を歩いていたら飲み屋の二階から同僚が「おいハチ、一緒に飲もう」と声を掛けたところ「武士に向かって犬ころのようにハチと呼び捨てにするとは何事か」と激怒して果し合いを申し出て、仲裁役のお陰で決闘にならなかったとも聞く。彼が特別短気だったのか、それが武士の普通の作法だったのかは分からない。

彼は妻と娘を連れ和歌山から愛媛に渡った。娘の名前をお梅という。

福三郎は学問も才覚もあったために地元の有力者に気に入られ、今で言う司法書士や行政書士のような仕事に就いた。この縁で福三郎に改名したらしい。
 平民に苗字がついたのが明治3年だから、当時有馬という姓を名乗るだけで珍しい存在だった。地元の郷土史を読むと、当時姓を持っていたのは庄屋と神官ら5名のみで、有馬福三郎の記述は漏れている。郷土史が杜撰だったのか、脱藩扱いあるいは帰農帰商の推奨に従ったのか、機会があれば調べなおしてみたい。

また、それが紀州武士(旗本)の癖というものだろう、夜になると自宅を博打場にして地元の人間相手にさいころ賭博をしていたらしい。役人に見つからないように、福三郎の妻は庭の生垣に糸を張り巡らせて、その端を片手でつまんで、糸がピンと張られると、役人が来た、と告げるのである。すると、福三郎はさいころと壷を家の前の川に放り投げ、突然演説をし始める。まるで地元民を前に学問の講義している振りをしてごまかした、という逸話が残っている。
 不思議な話ではない。江戸時代の公家たちも賭場を開いてそれを副業としていたものだ。それに加えて、旧幕臣にとって明治の役人は敵である。新参の役人が、何を生意気に、という反発もあったのだろう。勘の鋭い人だったので、博打がばれたことは一度もなく、昼間は名士として村で尊敬されていた。

ちなみに福三郎は非常に博打が強く、ある意味伝説的な人物となった。彼の墓石は博打好きの人々によって削り取られ縁が丸くなっているのを私は実際に見ているし、今もその欠片を仏壇に供えてある。

娘お梅は長じて、山本覚治という男と結婚した。不思議なことに、有馬と山本とが結婚して「那田」という姓を名乗ることになった。その理由について私はかなり調べたが未だに謎である。

お梅は4人の子を産んだ。その3番目が私の父親、那田和三郎である。父は兄弟の中で飛びぬけて頭が良かったらしい。当時、「人買い」という者が存在しており、その人買いがやってきて、この子は神童だ、ぜひ売って欲しいとせがんだという。

夫は何でも妻に従う鷹揚な人柄で金には無頓着の人だったらしいが、お梅は一頭の牛を飼い、それを徐々に増やして財を成し、4人の子供全てに家と山を与えてた。他の兄弟は主に農民になったが、父親は教員になることを目指して、高知の旧制中学に進んだ。当時、校長になるには師範学校出身者でなければいけなかったが、もう一つの稀な方法として、検定試験制度というのがあった。学費がなかったのか父は後者を選び、八度連続して合格した。最後まで合格して残ったのは愛媛県で3人だけだったという。

父は30そこそこで小学校校長となった。
 初めて校長として赴任するとき、学校への行き道を通りすがりの老人に尋ねた。学校にたどり着くと、その老人がいて「さっきの坊よ、何しにきた」と声をかけた。老人は学校の用務員であった。それほど若くして校長になった。

父は毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に登校するので、村人は父が家の前を通る時間に合わせて時計の針を合わせたらしい。これと同じ話はカントの伝記にでてくるが、私は当時を知る人から直接聞いたので嘘ではない。

また、こんな逸話も残っている。父が登校したとき、背広の襟元から値段の付いたタグが飛び出ていた。そこで女教師がそのことを告げて切り取ろうとすると、「わざと出しているんだから、切らずにいてくれ」と言った。
 実は、その背広は非常な安物で、ひらの教師たちは大概父より10倍も高い背広を着ていた。そこで父が安物をこれ見よがしに着て見せるものだから、校長より高い背広は着れない、ということで校内の華美な風潮が治まった、という。
 
また、あるとき大きな地震があった。父以外の家中の者は驚いて家の外に飛び出し、地震が収まったのを見て戻ってくると、父は笑いながら「外に出たら揺れない場所があったか?」と尋ねたという。父は胆力の座ったユーモリストであった。

父は大病に何度もかかった。一度は胃潰瘍で、洗面器一杯の血を吐いた。しかし医者にいかず、というよりも非常な山岳地帯であったため、近くに医者がなかったのだが、絶食療法を選んで自力で潰瘍を治した。
 また肺水腫にも罹った。これは自然呼吸が出来なくなる難病だが、これも何日も眠らず自力呼吸することで医者にかからず治した。
 父は、のちに私に「多少の病気は腹式呼吸をすれば治る」と教えた。

このころ、一人の乞食坊主が家を訪ねてきた。家人が嫌がるにもかかわらず、父は家に上げ、風呂に入れて食事をもてなし、一晩泊まらせている。これは父の最初の妻の日記に書かれている事実である。父は、このお坊さんは立派な人だから丁寧に扱うように、と妻に告げた。私の推測ではその乞食坊主は、四国を旅していた山頭火ではないか、と思うのだが、確証はない。

父は小学校校長を務めた後、農協長、村会議長、収入役、助役など、町の要職はほとんど勤めた。村議立候補は自ら望んだことでなく、村民の要請に答えたものだった。父は一円も使わず、全て村民が手弁当でトップ当選した。現在は対抗馬がなくても飲み食いのために、町議レベルで2000万はかかるらしい。父の理想的な選挙の様子は神代の昔の物語のようで、なるほど明治の人はそういう気風であったから、世界中から日本人は尊敬されていたのだろう。

第二次大戦のときは「大尉相当官」として村民に軍事訓話をし、敗戦後も父親はしばらく陸軍の軍服を着ることを好んだ。
 明治生まれの人間らしく父は天皇を敬愛していた。「小豆色の車に乗った陛下の姿が見えると、思わず涙がこぼれるのが日本人だ」と言っていた。が、私は面白い父の文章を読んだことがある。父が70代に退職公務員用の文集に書いた文章だ。父が天皇陛下を当地にお迎えしたときの思い出話をしているのだが、夏目漱石のような簡潔な文章で、側近の誰かが一発放屁された、と書いているのである。この辺り、父はやはりユーモリストであって、盲目的なロイヤリストとは一線を画している。

戦後は楽隠居の身分で、同じく再婚の母と結ばれ、私が生まれた。このとき父親は63歳である。私が生まれる前後に二人流産している。私と違って精は強かったようだ。

母は事業家肌で、戦後は料亭と芸者置屋を経営し相当に儲けていたが、私の将来の教育のためにならないと父親が意見して、一時期質屋を営んだのちに、衣料店に落ち着いた。

父は資金を出しただけで経営には一切タッチしなかったが、母が不在のときに留守番ぐらいはした。たまたまそのときに客が来た。客の女性は上着を欲しがった。ところが父親は「その上着はまだまだ着られます。着られなくなってから買えばいいのでは」と言って、その女を追い返してしまった。嘘ではない。母はその客から事実を聞かされて、ものすごい剣幕で父親をなじった。全く商売には向かない人間であった。

私は完全な父親っ子で、子供のころから、なんと、高校2年生まで父の布団に一緒に寝ていた。
 父親は東京で言う「麦焦がし」(地元ではハッタイコ)を自分の口で噛み、私に「ワンと言え」と命じて私が「ワン」と答えると、嬉しそうに口移しで食べさせていた。あるときから私がそれを嫌がるようになると、実に寂しそうな顔をしたのをはっきり覚えている。

父は地元では、神様のような人、と言われるほど温厚な人柄で、典型的な刻苦勉励型の人物だった。その根本には武士の子孫という強い誇りがあった。

私が物心付いたころから「尚史、お前の先祖は、と聞かれたら、紀州和歌山黒江のジョウ森丹治五郎兵衛の子孫でござる、と答えなさい」と耳にタコが出来るほど言われた。「ジョウ」のところは子供の耳には「ジョウ」「城主」など色々に聞こえ、後年父に尋ね直したところ、父も口語りに祖父から聞いていたのではっきりしない様子だった。

今少し調べてみると「国司とは朝廷から各国に派遣される、今で言う知事にあたり、守(かみ)はその長官、介(すけ)は次官にあたります。ちなみに三等官を掾(じょう)、四等官が目(さかん)と言い、朝廷では役所によって字は異なるものの、すべて「かみ・すけ・じょう・さかん」の順になっています」とあるから、多分掾(じょう)のことではないか、と思うが定かではない。

武士団が発生したばかりのころなので地域によって名称が定まっていなかったのでは?いつかジックリ調べてみたいものだと思い、大学を卒業したころ、森家のある和歌山県黒江(現・海南市)まで旅をして地元の人や図書館で調べてみた。ハッキリ分かったことは、森家は南北朝時代の後村上天皇(南朝)に仕えた守護(地頭、守護大名)で、海南市の市史に「森家文書」の項があり、本能寺の変の直後に明智光秀から無敵の鉄砲隊・雑賀衆の援軍を依頼する最期の書簡を持っていた(本物は確か東大図書館に寄贈されている)。江戸時代になり初代徳川南龍公になって代官を務めている。いわゆる「何なら代官」で猟官運動をしたのではなく、なんなら代官ぐらいは引き受けましょう、という姿勢である。明治になってからは子孫の森庄太夫が県会議員になり、退職時には南北朝のころから育っていた莫大な森林を地元に寄付している。森家と有馬家は親戚同士の関係だった。以上、子孫のために書き記した次第である。

小学生のころ、私は寝物語に、俳句や短歌の作り方を父から習った。
 小学4年のとき盲腸で一週間余り学校を休んだとき、学習の遅れたぶんを父親が教えてくれた。その指導法は独特のもので、学校で習っていた方法と全く違っていた。数字で計算するところを図形を使って理解するやりかたで、父に習うと難しい内容がゲームのように楽しくなるのである。久々に学校に行くとちょうどテストだったが私一人だけが満点を取ることが出来た。教師が、「習ってないところなのによく解けたね」と褒めてくれた。私は誇らしく、父が教えてくれたことを告げた。

子供のころ夜中に目が覚めて寂しくなり、横に寝ている父親に声をかけると毎回必ず「どうした?」と答えた。これは推測だが、武士は熟睡しないという習慣があったのではないかと思う。私は勝手に「密眠」と名付けている。今でも不思議でならない。

高校1、2年のころ喫煙が父にばれたとき、「そういえばどうも最近一緒に寝ているとタバコ臭いと思っていた」と言われた記憶がある。そんな不良高校生になってまで父親と寝ていたのである。それほど父が好きだった。

高校時代の私は勉強はそこそこ出来るが問題児童であり、教師をつるし上げてその教師を一週間ほど登校拒否にしたことがあるほどの、教員にとっては実に扱いにくいワルだった。
 当時、私の通っていた高校では、男子生徒は後ろの髪の毛を制服のカラー以上に伸ばしてはいけない、という規則があった。私は教員たちに「生徒は自分の肉体まで教員に預けているのではない。他人の髪の毛を切る権利など教員にはない。お前らは勉強だけ教えておけばいい」と言い放って問題になった。担任が困り果て、自宅に訪れて父親に私の言動を伝えたところ、父は「それは息子の言い分が正しい」と答えた。教員は二の句が継げなかったという。この話は、父が死んでから母から聞いた。そんな父親だったから、私は高校二年まで父の布団で寝たのである。

私は文学者になりたかったが、人間の資質を見抜くスペシャリストである父は、しばしば「お前は弁護士に向いているから、法学部を受けなさい」とアドバイスした。当時は馬耳東風で気にも留めなかったものの、さすがに父は良く見ていたものだと、後々分かった。私は普段理屈を言うのはキライだが、言い出すと鬼のようなところがあり、ギリギリと錐で揉みこむような議論が好きだ。もしそちらのほうへ進んでいたら中々の弁護士になっていたに違いない。

私が早稲田大学一年生の夏、父は83歳で大往生を遂げた。日蓮の遺文に成仏の相として「色白く、身は鳥の羽毛のように軽く、柔らかになる」とあるが、まさに父は成仏の相だった。顔は上品に白く、死後2日立っても手足は柔らかく動き、大柄の人間だったにもかかわらず、四人で遺体の入った棺桶を持ち上げるとふわっと頭の上まで持ち上がった。まるで超常現象のようだった。
 火葬場で骨を拾うときに、喉仏が綺麗に残り、その姿がまるで僧が合掌している姿に見え(だから喉仏というのだが)、参列者全員も思わず合掌した。おんぼやき(火葬場職員)も、こんな綺麗な骨は見たことがありません、と褒めてくれた。もっともオンボヤキというものは誰に対してでも骨を褒めるのが仕事である。それにしても美しい喉仏だった。

どう思い出しても、私は父親が胡坐をかいているのを見たことがない。常に古武士らしいたたずまいで正座していた。80を過ぎて膝を悪くした後も、一人椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしている姿しか記憶にない。母に聞いたところ、母も父が胡坐をかいている姿は見たことがないという。20年の結婚生活の間に一度も胡坐をかかなかったというのは、かなり異常なことである。武士の娘に育てられた明治男の、それが美学というものなのだろうか。この逸話ひとつだけでも父の異様な、しかし自然体の気迫というものが伺われる。

時々母と死んだ父の話をする。私は幽霊でもいいから父と再会したいと思うのだが、夢にさえ出てこない。母の夢にも出ないという。一生を自分の意思のままに生きた父のような人間は、もうこの世に未練はないのであろう。
 もし霊というものがあるとすれば、父は今の私をどう思っているだろう。不甲斐ない息子と思っているだろうか。多少は褒めてくれるだろうか。それがいつも気にかかる。仏教では輪廻転生を説く。私がもう一度生まれ変わるとしたら、私は同じ父母の元に生まれたい。そして今度は高校2年生でやめず、父が亡くなるまで一生父の布団で一緒に眠りたいと思う。