那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

中学生時代、町内会館を借り切ってドンチャン騒ぎをした思い出

2015年12月07日 | 思い出の記

ブログを読む前に集団ストーカーに興味のある方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 

私が創価中学を自主退学したのは中学3年の夏休みが終わった後でした。そのころ野村中学は男子生徒は全員丸刈りにする、という規則がありましたが、校長が気を利かせてくれ、もう少しで高校生になるのだから私だけは長髪のままでいい、と言ってくれました。しかし私は頭にハゲでもできているのかと思われるのが嫌だったので自ら進んで丸刈りになったものです。

私が野村中学に転入するとき、私のことを知らない昔の友人たちは「東京もんがくるらしいけんでやしちゃる」(東京に住んでいた人間が来るらしいから足腰立たないように叩きのめしてやる)と言って待ち構えていたそうです。ところが私だと分かりデヤス機会を失ってしまい、しかも友人たちのほとんどは不良になっていました。また後年、一浪して東大に入ったIという友人は、それまでトップの座を守り続けていたのに、私が戻ってくるとトップの座を奪われるのではないか、と心配したと聞きます。

しかし、その心配は無用でした。私の親友のほとんどは不良だったために私もまた彼らと一緒になって遊ぶようになったからです。

例えば、今は大型トラックの運転手になっているDという男はことあるごと我が家に安物のジントニックを持ってきて飲み明かしていました。二日酔いになったDが父親のネクタイを頭に巻いているのを母が見て、まるで時代劇のバカ殿様のようだと笑いあったこともあります。Dとは夜中に煙草を吸いながら散歩したことがあります。途中でパトカーに見つかるとヤバイので、私より小柄なDを女装させ、まるでカップルが歩いているかのように装ったこともよく覚えています。また私の遠縁に当たるOという教員の息子に家に毎週のように出かけ、しかもベランダから彼の勉強部屋までよじ登り、ビールを二人で一ダースほどは飲んでいました。彼はある女の子と交換日記を交わしていたのですが途中でネタ切れになり私が代筆したこともよく覚えています。彼の母親は書道家としても有名でした。

あるとき「木落(こおとし)」という辺鄙な地区の町内会館を仲間が借り切り、不良仲間が酒とつまみを持ち込みで集まることになりました。Dの兄は不良高校生として名前が知られていました。彼は一升瓶をぶら下げてその飲み会に差し入れに来ました。仲間が大喜びしたことはいうまでもありません。

ウラバンという言葉は使っていませんでしたが、私は実質的なウラバンの立場にありました。例えば誰かが「あいつをでやしちゃる」というと、その事情を聴いて、「それならでやしてこいや」と認めたり、逆にでやされると知った知り合いが相談しに来ると、「それなら今回だけは許すから相手にキチンと詫びを入れていくように」と指示する役目が私でした。

ウラバンを張るのはただ喧嘩が強いだけでなく、成績が良く酒が強くないと務まりません。その飲み会のときは全員が酒を浴びるほど飲んで中には表に出て吐いている者もいましたが、私が酒が強かったのでその男の背中をさすったり、毛布を掛けて寝かしつけたりなどの世話を焼いていました。また私はフォークギターを持参して即興で仲間のために歌を歌ったことも思い出します。

誰が町内会館を借り切ったのは覚えていませんが、やがて大人たちの噂になったものの、全員がトボケで答えなかったので野村中学からのお咎めはありませんでした。

思い出したことがあります。仲間たちが持ち寄ったドリンクを全て一つの器に入れて回し飲みしたことです。ビール、日本酒、ウィスキー、ジン、コカコーラー、ファンタ、何もかも全てを混ぜると実に美味く、私は今でもあの味が忘れられません。ウィスキーといってもレッドならまだ高級品で、ホワイトという安物があったのですが、今は知っている人はほとんどいないと思います。またタバコも「労働者タバコ」と言われたハイライトが主流で、私は「カンピー」と呼ばれる両切りの缶に入ったタバコが好みでした。これは俗に「肺がんタバコ」と言われ、タバコを吸って障子に吹き付けると白い障子が真っ黒になったものです。高校生になってセブンスターが発売されたときは感動したものです。

前に予告した野球部の先輩(私は野球部にいたことはありません。ただ2つほど年上という意味で使っています)の話や、後にヤクザになった帝京第五高校のMの話など、近いうちにこの「思い出の記」に書いて、私がどれほどデタラメな人間だったか、私の子供たちのために残すつもりです。これで今回の「思い出の記」を終えることにします。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。