London徒然草

「ばく」のロンドン日記

バレンタインというのに

2006-02-14 | Weblog

小学校に上がる前後の数年間、私は拒食症でした。

未熟児で生まれ、小さい頃から体が弱く、毎週の病院がよい。神経も細くて、ストレスによって引き起こされる”自家中毒”と言われる原因もなく吐く症状も、週末になるとおこり、親は心配で、私にしっかりとした食事を食べさせようと努力しました。

その結果、食べる事が心の負担となり、苦痛で苦痛でたまらなくなって。

今でも覚えています。ごはんの時間が恐怖だった事。
”ひょっこりひょうたん島”の絵のついた小さな小さなお茶碗に盛られた、一膳のごはん。
『これさえ食べれば、ここから、解放される』と、胸がつぶれる思いでお箸に乗せた記憶。
体も人一倍小さく、骨が透けて見えるほどでした。

小学校1年の時はとてもよかった視力も、栄養失調のため突然0.1まで下がり、親はますます心配して。

でも、治ったんです。
きっかけは、夏休みの初日から、最終日まで預けられた、静岡の「おばあちゃんち」

母と祖母は性格が、正反対。
鷹揚でおおらかで、ずぼらとも言える祖母。掃除もいい加減、食事のしたくも適当。細かい事は全然かまわず。

勉強も、ピアノもしなくて良くて、スピッツ犬のルルと遊び、裏の小川でかえる遊びに、沢ガニとりにドジョウすくい、ニワトリのえさを作ったり、たまごを拾ったり、アオダイショウの脱皮を一日中見ていたり、近所のヤギをつっついたり、地元のプールに勝手に行ったり。

お店をしていたおばあちゃんは、ほぼ放任。野ザル生活を楽しみました。

ごはんも、食べたくないと言うと、『じゃー、いいか。』卵かけごはんを毎食毎食食べても、「まあ、いいか」
おかげさまで一夏、ほぼ毎日、庭のニワトリが産んだ、たまご掛けごはんを食べ続けました。

夏休みの最終日に迎えに来た両親が、驚くほど真っ黒になった私は、それからごはんが少しずつ食べれる様になりました。
今では、拒食症になってみたいほどなのにね。

私に、何ひとつ見返りを求めずに、あふれる愛をくれた、祖母が13日に亡くなりました。
93歳の大往生。寝込んだのは1日のみ。最後まで意識もはっきり。
自宅のベッドで眠りながら亡くなったので、これ以上は望みますまい。

ひとつだけ、今、私が一番早い飛行機に飛び乗っても、告別式にも、お葬式にも間に合いません。
お骨になる前に、お別れが言いたかった。
手を握ってありがとうって言いたかった。
それだけが、心残りです。

私が昨年末送ったクリスマスカードが、祖母の枕の下から出て来たそうです。
つらいです。

ごめんなさい。今日はこんな記事で。