ねぬなはの 苦しき我を 去らむとて 千重に積みぬる かたなきためし
*「ねぬなはの(根蓴菜の)」は「長き」とか「繰る」「苦し」を呼ぶ枕詞です。ここでは「苦しき」を呼ぶことばとして採用しました。「千重」は「ちへ」、「かたなき」は、効き目がない、どうしようもないという意味です。
苦しい自分から去ろうと、千度も重ね積んできた、どうしようもないためしであることよ。
人間は、自分を去ることなどできません。自分が自分である限り、自分から逃げることはできません。やったこともやらなかったことも、自分の一部として永遠に自分についてくる。それから逃げることはできないのが、自分が自分として生まれてきた宿命です。
しかし、馬鹿というのはこの自分から逃げたくて、あらゆるあがきをするのです。他人の方がよく見えて、他人を馬鹿にしていやなことをしてしまい、そんな自分がまたいやになって、他人と自分をとり変えようとしてしまう。そんなことをすればまた自分がいやなことをしたことになってまた自分が嫌になる。
何度も言っていることですが、これが自分が嫌な人の負のスパイラルです。馬鹿な人間は永遠にこの繰り返しを生きているのです。
自分に目覚めるということは、ほかのだれにもないものをもっているこの本当の自分自身の真実をつかみ、負のスパイラルから脱却することです。解脱とも言います。人間は霊魂が十分に大きくなり、知識も増え、もうそれができるようになるまで進んでいるのです。
蝶の変容に隠喩すれば、蛹の段階に入ったと言ってよい。霊魂が次の段階に進化する準備段階に入ったのです。
ここまでなってきておいて、未だに芋虫のころのような馬鹿をやっているのは痛ましい。もうほとんど空を飛ぶことさえできるようになっているのに、未だに動物的な段階の欲にこだわっているのは愚かしい。人間はもう違うことができるようになっているのに、未だに見栄えや嘘が通用するまぼろしの世界に酔っているのはおかしい。
かのじょの残したカードに、芋虫の憂い、とかいうのがありましたね。もう羽化して蝶々になっているのに、未だに芋虫の真似をしている虫の絵でした。全然わかっていないのです。何もかもがもう変っているのに、人間は未だに、嘘でできたサッカー選手や、偽物の美人女優をもてはやしているのだ。
ああいうものは、いまだに魂が負のスパイラルに迷っている馬鹿なのです。いつまでもみていると馬鹿になりますよ。
千重の馬鹿などやめて、ただひとつの本当の自分の世界へ、飛んでいくことです。