チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

210111 ボスニアGRADAČAC 1次と2次の混貼り

2013年07月21日 10時55分28秒 | 郵便為替
210111 ボスニアGRADAČAC 1次と2次の混貼り

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの郵便為替証書、クロアチア語表記、額面印紙は印刷されていない

切手
チェインブレーカー1次
Mi.110, 2 Krona
チェインブレーカー2次
Mi.121, 10 para, 4枚
合計80para (320 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinarを越えて-----20 para
合計 80 para
貼り付けた切手は80paraと一致

黒鉛筆の記載Sarajevo
証書の下の方に黒鉛筆でSarajevoと書かれています。これは恐らく、送金の中継地または宛先のSarajevo(ボスニアの首都)を記載したものと考えられます。

消印
GRADAČAC 11. 1. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのGRADAČAC郵便局 1921年1月11日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました

Wikipediaの記載
グラダチャツ(ボスニア語: Gradačac、セルビア語: Градачац、クロアチア語: Gradačac)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する町およびそれを中心とした基礎自治体である。サヴァ川からは約40km南にあり、トゥズラ県に位置する。近隣の町にはボサンスキ・シャマツやモドリチャがある。

歴史
グラダチャツ・ジュパが最初に言及されたのは1302年のことで、町が最初に文書でグラダチャツとして言及されたのは1465年のことである。1512年にオスマン帝国の一部となりナヒヤ(nahija,自治体)として最初に記録されたのは1533年で、カディルク(kadiluk,郡)としての記録は1634年である。1701年になると集落はパランカ(palanka,都市)としての地位を得て1710年には軍将の拠点の地位を得ている。町はグラダシュチェヴィッチ家により開発が進み、 フセイン・キャプテン・グラダシュチェヴィッチ(Husein Gradaščević)またはズマイ・オド・ボスネ(Zmaj od Bosne)(ボスニアのドラゴン)は1831年にボスニアの指揮官の力を集めて反乱を起こしたことで知られる。町には高さ18mの壁が1765年から1821年にかけフセイン・キャプテン・グラダシュチェヴィッチにより建てられたが、もとの壁はローマのものに遡る。フセイニアモスクは1826年に建てられ、1992-95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の爆撃でも生き残った。グラダチャツはスルプスカ共和国の領域同士をつなぐ北側の狭い回廊に位置し、ブルチコに近い。グラダチャツは紛争終結後、ボスニア・ヘルツェゴビナ連合の領域になっている。

経済
グラダチャツの重要な産業は化学、機械、食品産業である。グラダチャツでは従来から国際的なプラムのフェアが行われる。

人口動態
1971
合計 - 48,384人
ムスリム – 26,905人 (55.60%)
セルビア人 – 12,455人 (25.74%)
クロアチア人 – 8,447人 (17.45%)
ユーゴスラビア人 – 321人 (0.66%)
その他 – 256人 (0.55%)

1991
1991年の国勢調査によるグラダチャツ自治体の人口は56,378人であった。
60.2% ボシュニャク人
19.8% セルビア人
15.1% クロアチア人
4.9% その他

2005
2005年現在では住民の96%はボシュニャク人で占められる。

その他
1882年にグラダチャツでは最初の温泉療養施設であるイリジャ・スパが造られた。水温は29-30℃である。グラダチャツ近郊にはハザナやヴィダラの2つの湖もある。