テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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お江戸日本橋界隈 散策

2010年01月30日 | 散歩
 卯月の会の散策、松戸駅に9時30分集合。 
今月は「お江戸日本橋散歩」。風もなくおだやかな一日だ。

<コースは>
 東京駅八重洲口-④ヤン・ヨーステン記念碑-3高島屋東京店-4名水白木屋の井戸-5日本国道路元標-6日本橋魚河岸記念碑-①日本橋西河岸地蔵寺-7一石橋迷子しらせ石碑-8日本銀行本店本館-9十軒店跡-11三越日本橋本店-②奈良まほろば館-③日本橋名店街-12長崎屋跡-13宝田恵比寿神社とべったら市-14於竹大日如来井戸跡-15伝馬町牢屋敷跡-16石町時の鐘-17吉田松陰終焉の地-18馬喰町・横山町・堀留町問屋街-小伝馬町駅 


ヤン・ヨーステン記念碑
 JR東京駅の八重洲口からまっすぐ東へ延びる八重洲通りの日本橋通りと交叉する中央に建つ。
 1989年、日蘭修好380周年を記念して建てられた。ヤン・ヨーステンは外交顧問として家康に仕えたオランダ人で八重洲の語源となった人物。


八重洲通りと、日本橋通りが交叉する地点の角に、この金属製のキリンは立っている。
何故かこの場所にアンバランスな感じがする。
四つ角の別の一つがブリジストン美術館があるブリジストンビル。
このキリンは旧社名を津村順天堂といった現ツムラ社が、目抜きの日本橋4丁目角に建設した本社ビルの入り口に、さっそうとたてられた鍛金彫刻家の安藤泉さんの作である。(1989年)


高島屋東京店
 明治30年、この地に出店。もともとは、京都で天保2年(1831)創業の呉服屋であった。建物は昭和8年に建設され、この付近では有数の古さを誇っている。なお、高島屋の向かいには、洋書で知られる丸善がある。


本館エントラスホールの大理石の柱、蛇腹式扉のエレベーター、吹き抜けを囲むバルコニーなど、随所にレトロなディテールが健在している。
ちょうど雛人形が飾られていた。


1階中央エレベータ前の地下への階段の柱の大理石に、アンモナイトを見つけた。


名水白木屋の井戸 (現在地:コレド日本橋)
  昭和42年までは、白木屋という屋号であった。白木屋は、寛文2年(1662)創業。越後屋と並ぶ呉服の大店。正徳2年(1712)、二代目木村彦太郎が井戸を掘ったところ、土中より観音様が現れ、清水が湧き出したと伝えられ、以後「白木名水」とうたわれた。


中央通から見た日本橋
首都高速道路の下にかくれるようにたたずんでいるのがわかる。


横から眺めた日本橋の全景


橋にかかる街燈が高速道の間を割り込んでそびえている。
日本橋の存在感を示しているかのようだ。


日本橋由来記の碑
 この碑には文化財指定の理由や歴史(江戸時代の架橋から明治に造られたアーチ型の現在に橋に至る由来)などが記されている。


日本国道路元標
 慶長8年(1603)、家康によって架けられた日本橋は、日本の中心、江戸繁栄の象徴となった。そして諸街道の起点と定められ、現在も、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれている。今日のルネッサンス式石橋は、明治44年(1911)に架設された。


日本橋魚河岸記念碑
 佃島の漁師らが、幕府に日々上納する残りの鮮魚を、舟板の上に並べて売り出したのが日本橋魚海岸のはじまり。関東大震災まで、江戸及び東京の台所として活況を呈した。
中央の像は竜宮の乙姫様だそうだ。


日本橋の下を流れる神田川、川の水はかなりきれいになってきたようだ。


日本橋西河岸地蔵寺
 泉鏡花の小説「日本橋」の舞台にもなった縁結びの地蔵尊。行基によって彫られたという。
地蔵尊は見れなかったが、小説「日本橋」に登場する芸者お千世の絵馬がかけられていた。


常盤橋
一石橋の親柱(写真左手にみえる柱)
一石橋迷子しらせ石碑(柱の裏手にある)
 安政4年に建てられた庶民の告知板「たつぬる方」「しらす方」のそれぞれに、年頃、面体、格好、履物、衣類などを書いた紙を貼るようになっている。


常盤橋から遊覧船の風景


日本銀行本店本館
 昭和29年、大判・小判を管理していた徳川氏金座跡に建てられた。以来、銀行の銀行とし ての役割をはたしている。本館の建物は、明治時代の貴重な本格的洋風建築として、重要文化財に指定されている。


 日本銀行金融研究所貨幣博物館
日本の貨幣の歴史とそれにまつわるさまざまなエピソードをわかりやすく展示している。(入場無料)


<昼食:日本橋のそばや>
紅葉川( 日本橋室町1-2-4 三越SDビル1階 )
生ビールに天ざる、座席が広くゆったりした気分で食事ができた。


三越日本橋本店
 延宝元年(1673)三井高利が江戸日本橋に越後屋を開業。「現銀掛値なし」という、当時としては画期的な正札販売でたちまち大呉服店となった。大正3年、東口玄関にライオン像をおき、これをシンボルとした。


三越は金メッキの装飾が随所にみられる


中央ホールの天女像


天女像わきの階段大理石、古代アンモナイトとベルムナイトの化石


中央ホールから地下1階への階段大理石にある大きなアンモナイトの化石
中央ホールには、重厚感のある大理石がふんだんに使われていて、歴史を感じさせられる。


奈良まほろば館(三越の真ん前にある)
 奈良県の観光案内センタに立ち寄り資料入手。今年奈良では平城遷都1300年祭が予定されており、賑わっていた。


日本橋名店街
 江戸時代から続く老舗が多く点在する。
 

十軒店跡
 五代将軍綱吉が、京都の雛人形師10人を招き、ここにお長屋10軒を与えた。3月、5月には節句人形が軒なみ飾られ、「十軒が十軒ながら公卿の宿」とうたわれた。現在の室町3丁目付近。


長崎屋跡
 寛永18年(1641)の鎖国後、オランダ商館長は、長崎出島から年一度、将軍拝謁のため上京した。その折り、長崎屋を定宿としていた。また、滞在中には、幕府の医官、蘭学者などが訪問し、新知識を吸収する場でもあった。


宝田恵比寿神社とべったら市
 この神社は、毎年10月19日、20日のべったら市で有名。辻の両側せましと浅漬大根の露店が並び、大変な人出となる。今に残る江戸年中行事の一つで、このべったら市が終わると、東京に冬がくるといわれている。


於竹大日如来井戸跡
 大伝馬の名主、馬込家の下女お竹は、日頃より慈悲心が深く、ある日、行者から大日如来の化身であると告げられた。多くの人がお竹を拝むために訪れ、お竹が愛用した井戸には、参拝者が市をなしたという。


十恩公園
伝馬町牢屋敷跡(写真右手)
 牢屋敷は天正年間(1573~1591)、常盤橋門外におかれたのが最初。延宝5年(1677)にこの地に移された。江戸時代、全国最大の牢屋であったが、明治8年(1875)に廃止。安政大獄では吉田松陰などが投獄された。
吉田松陰終焉の地(写真左手)
 兵学、洋学に通じた幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)伝馬町牢屋敷で処刑された。松陰直筆の辞世の歌が刻まれている。


石町時の鐘
 江戸市民に親しまれた時報鐘のひとつ。現在の日本橋室町4丁目付近にあった。近くにオランダ人の定宿、長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたいはやされた。高さ1.7m、口径93cmの和鐘である。


馬喰町・横山町・堀留町問屋街
 繊維や衣料、身廻品の問屋街として海外にまで知られている。江戸時代、馬喰町旅瑠籠街に投宿する旅人のために小間物問屋などが開店し、これが今日まで引き継がれている。素人お断りの店が多いが、だれでも買える店もある。

 ゴールの小伝馬町駅に14時20分に到着。北千住経由で松戸へ。
いつもの居酒屋で2次会、脚より口のほうが疲れるほど議論に熱がはいる、まだまだ元気なシルバー世代である。

リカステ シルクレモン

2010年01月28日 | ラン
 一昨年に2株づつ株分けした子株のほうが成長著しく、4株になった今年は花芽が7本伸びて1月中旬から順に開花し始めて、7本全部が見事に開花した。
花芽が出てから鉢を一定の方向に保つようにしたので、開花した花がほぼ同じ方向を向くようにすることができた。

 リカステは中南米のメキシコ、ペルー、ブラジルなどに約35種類の原種が着生、半着生状態で自生している。
三枚のがく片が正三角形状に開き、味わい深い独特の形をしている。
リカステ シルクレモンは耐暑性のある低地性種の原種から改良された園芸種なので、栽培が比較的容易なのである。5℃くらいまで戸外に置いていても大丈夫。冬場だけ家の中の窓辺に取り込んでいる。

 一昨年株分けした親株のほうは2株のまま新芽が出ない状態が続いている。株もしぼんできつつある状態なので株分けが失敗だったのかも知れない。また新たに株分けしたいと思っている。


松戸:関さんの森-幸谷・二ツ木地区の寺社

2010年01月27日 | 散歩
 松戸市幸谷にある「関さんの森」と、幸谷と隣接する二ツ木地区にある寺社「幸谷観音」「光明寺」「蘇羽鷹神社」を訪ねた。

<関さんの森>
松戸市幸谷にある



西側の高台(天神山付近)からの“関さんの森”


関さんの森
 松戸市幸谷の関さん姉妹が、大切にしていた屋敷林を残すことを考え『こどもの森』として親しまれていた森 1.1ヘクタール を, (財)埼玉県生態系保護協会に寄付したのである。残念ながら千葉県や松戸市には、森のまま残す条件で寄付を受けてくれる“特定公益増進法人”がなかったので埼玉県の団体になったようだ。
ところが都市計画道路3・3・7号線計画が関さんの敷地を縦断するため、自然破壊することで反対運動が持ち上がり、ニュースなどで取り上げられるようになった。
2009年2月5日に、松戸市は「強制収用手続を中断」し、関家が提案した迂回案を軸に道路案づくりをすすめ、最終的に合意した時点で「手続をとりやめる」ということで、双方の合意が成立したのである。
土地収用は凍結されルートは迂回されることとなり、大事な長屋門や蔵等は現状のまま遺されることになり、関さんの森と文化財は、最大の危機を克服することができた。


昔、関さんの森はトウカン山と呼ばれていた。この森には稲荷の祠があり稲荷を音で読むとトウカ、それがトウカンとなったと説明文に書かれている。説明文の西側、崖の上に石の祠がある。


遊歩道があるが、森のごく一部に過ぎない。
関さんの森の特徴は生態系を含めて自然をそのまま残すことを目標にしているようだ。
ただ現在はゴミなども見え多少荒れた状態のところもある。
公園のイメージで来てみると、ちょっとがっかりするかも知れない。


山のガケの修復が施されている。


道路問題が片付いたので、今後は自然の整備と公開のしかたを進めていくのだろうと思う。
今後に期待したいものだ。

<幸谷観音>
関さんの森から武蔵野線を越えたところにある


幸谷観音境内 正面が観音堂
慈眼山福昌寺の観音堂「幸谷観音」。中金杉の廣徳寺(こうとくじ)の末寺で曹洞宗
(廣徳寺は小金城主高城氏の菩提寺)
現在は敷地の真ん中を武蔵野線が通っており、本殿・観音堂とも30年前に立て替えられたものだ。本尊は十一面観音。


野馬捕りの献額の案内板
近世、東葛地方一帯は「小金牧」と呼ばれる野馬の放牧場だった。牧では、年1回野馬捕りを実施していた。庶民にも参観が許され当日は蕎麦屋、飴屋、団子屋、甘酒屋等が店をまして賑わったようである。明治15年に描かれたこの額には、その風俗が描写されている。


野馬捕りの献額(市指定)
観音堂はカギが閉まっていて入れず、窓越に少し見える程度だったので、写真は市のサイトから借用した。


白馬の像


市指定のモッコク


対峙する地蔵菩薩石像、武蔵野線の向こうが幸谷観音


<光明寺>


光明寺
光明寺は真言宗豊山派の寺院で、江戸時代の創立だが、市指定の阿弥陀如来立像が置かれている。本堂は味気ない現代建築になっていた。

 
阿弥陀如来立像の指標                      阿弥陀如来立像
背面に刻まれた銘によって応永23年(1416)、室町時代の作であることがわかっている。
こちらの立像も見ることができず、写真は市のサイトから借用。


市指定のイチョウ


<蘇羽鷹神社>
光明寺から国道6号線に出て、しばらく南に歩くと蘇羽鷹神社(そばたかじんじゃ)がある


蘇羽鷹神社 国道6号線のわきにある
蘇羽鷹神社は中世の千葉氏の守護神で、正四年(一五七六年)の創立。
祭神は「国常立命」。
そばたか神社は、古代の木と矢(鷲、鷹)の信仰(高木神)に根ざした神を祀る神社のようで、「そばたか」の「そば」は、何かの「そば」の意味と言うより、高くそそり立つもの(大樹)の意味と言われている。


本殿
残念ながら旧社は昭和51年4月30日火災で全焼し現在のは55年に復興したもの。


本殿正面に見える蘇羽鷹の額


庚申堂、本殿、石鳥居


庚申堂 昔ながらのお供え物が置かれている
堂内にある庚申塔(歯痛止めの猿田彦命)はなかなか見ごたえがある。


姫宮様
石鳥居脇にある末社姫宮神社で、1590年、大谷城が落城のとき、ここまで落ちのびて亡くなった高城氏の小松姫の木祠。
美しい姫君を忍ぶすべも今はない。

古賀メロディ聴き比べ6:東京ラプソディ

2010年01月25日 | 歌謡曲
 昭和11年(1936年)は、軍国主義が高揚され、軍歌が流行る中で「ああそれなのに」などのネエ小唄が流行するという妙な時代。そんな中で健康的で軽快な曲「東京ラプソディ」が6月に発売された。歌は藤山一郎が歌っている。

 藤山一郎は、明治44年(1911年)、東京日本橋蠣殻町の生まれ。生家はモスリンの問屋さん。慶応の幼稚舎普通部を経て昭和4年に上野の東京音楽学校、現在の東京芸術大学声楽科に入学。
 歌ってはいけない流行歌を、傾いた家業を助けるためアルバイトでうたっていたのが学校にバレて一カ月の停学処分。それでも音楽学校は首席で卒業した。

しかし家業のかかえた借金莫大で、その返済のためもあり、流行歌手が本業になり、古賀メロディだけでなく、数々のヒット曲をとばした。平成5年に亡くなっている。

 神田・ニコライ堂


<「東京ラプソディ」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 最初にレコードをだした清潔な歌い方。
2.女性歌手 坂本冬美・伍代夏子・藤あやこ・長山洋子・香西かおり 1994。



     東京ラプソディ

  作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男
  唄:藤山一郎 (昭和11年)

 1 花咲き 花散る宵も
   銀座の柳の下で
   待つは君ひとり 君ひとり
   逢えば行く ティールーム
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 2 現(うつつ)に夢見る君の
   神田は想い出の街
   いまもこの胸に この胸に
   ニコライの 鐘も鳴る
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 3 明けても暮れても歌う
   ジャズの浅草行けば
   恋の踊り子の 踊り子の
   ほくろさえ 忘られぬ
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
 4 夜更けにひととき寄せて
   なまめく新宿駅の
   あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
   気にかかる あの指輪
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 5 花咲く都に住んで
   変わらぬ誓いを交わす
   変わる東京の 屋根の下
   咲く花も 赤い薔薇
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京


いわき~アクアマリンふくしま

2010年01月19日 | 旅行
 いわきスパリゾートハワイアンズ、旅行の2日目は「アクアマリンふくしま」を見学し、近くの「いわき・ら・ら・ミュウ」で昼食をとるオプションツアー(マイクロバスで移動)に出掛けた。
「アクアマリンふくしま」は、先日インドネシア沖でシーラカンスの幼魚の撮影に成功したとテレビのニュースで放映されていた水族館である。
 この水族館の特徴としては、シーラカンス等の生命の進化に素晴らしい展示があること、自然環境を丸ごと再現し展示しているものが多いこと、それと展示水槽が綺麗で清潔感を感じさせる展示であること、などが印象に残っている。


「アクアマリンふくしま」全景


1階の「海・生命の進化」展示
オウムガイ・シロチョウザメ・ヘラチョウザメ・オオサンショウウオ・スポテッドラットフィッシュなどの生きた化石の展示。
大きな古代魚のオブジェはダンクルオステウス!というまさに巨大な骨魚である。
これはシーラカンスの仲間だそうだ。 


古代魚のアクセルロディクデュス(復元模型)
現代のシーラカンスの祖先?か


「北の海の海獣・水鳥 」展示
タイヘイヨウセイウチ
体長は最大4.2mの巨体で水槽の中を上下に回遊していたのは圧巻だった。


「熱帯アジアの水辺」展示
ここは熱帯雨林の植物や花、そこに住む鳥が見られる。
あとになってランの花もいくつか見られることを知った。当日は気づかなかったのは残念だった。


「熱帯アジアの水辺」
黒潮の遠い源である熱帯アジアの自然環境を丸ごと再現している。
干潮時のマングローブ、テッポウウオやミドリフグ、キバウミニナなどがいる。
水槽の中の熱帯魚はもちろん陸上部分に植えられた熱帯性の草花もあり、湿地にはエビが歩き回っている。大変興味がわいた展示であった。

<
「熱帯アジアの水辺」の水の中を見ると、
熱帯アジアの水辺に住む大きな魚アジアアロワナがゆっくりと泳いでいた。


「サンゴ礁の海」展示
色鮮やかな海水魚が乱舞する世界最大というガラスの大水槽。
集団で塊になって泳いでいるのがキンメモドキ。赤紫色した魚「ハナゴイ」。


「潮目の海」展示
自然光が深く差し込んで、床に写る小さな波の“ゆらぎ”海中にいるかのような気分にさせる。
「マイワシ」の大群を真下から見上げながら、三角形の通路を通る。


「シーラカンスの世界」展示室
シーラカンスは、水の惑星の生物進化の謎を解く鍵をにぎっている動物。
アクアマリンふくしまでは、「海、生命の進化」をテーマとするプロローグをもち、開館当初よりシーラカンスの生態解明に取り組んできた。
2005年にはインドネシアで生きたシーラカンスの姿をROV(水中自走式カメラ)で撮影することに成功。また、アフリカのタンザニアでの調査も行い撮影に成功している。


インドネシアでシーラカンス幼魚の撮影に成功した写真


アフリカ沖で捕獲されたシーラカンスの標本
この標本には3ヶ所解剖されていて、中の状態が観察できるようになっていた。


水族館上階から眺めた小名浜港と「いわき・ら・ら・ミュウ」(中央左)


「いわき・ら・ら・ミュウ」の魚市場

いわき~スパリゾートハワイアンズ(1) 温泉パラダイス

2010年01月18日 | 旅行
 東京駅近くの駐車場から10時出発。私の兄姉夫婦たち総勢8名。2泊3日。
中高年たちだけなので、最初は楽しめるかどうか心配だったが、行って見たらホテルも風呂も小奇麗でサービスも行き届いていて、大変楽しめたのは収穫だった。
また往復無料送迎バス付きで、常磐道を走って現地までわずか3時間弱なのが利点でもある。
施設の中はとても広大で、施設から施設への移動だけでも結構歩くので、一日ここにいるだけでかなりの歩行距離になると思う。


ホテルハワイアンズ正面玄関到着


アロハ&ムームーで館内に出掛ける


ウォーターパーク全景(スパリゾート・サイトより)
ガラス張りの屋根の下、椰子の木や巨大帆船など南国情緒たっぷりのビーチ。
水着は10年ぶり!大プールと流れるプールがあり、楽しめた。
ゴムボートで下るスライダーレーンは見て楽しむだけ。


今日のウォーターパーク風景
冬場で一番空いている時期のようで、人はまばらのようだ。


スプリングパーク
南ヨーロッパスタイルの温泉オアシス。
全身浴の温泉プールとジャグジー、オンドルなどがある。


スパガーデンパレオ(スパリゾート・サイトより)
屋外にある温泉ガーデン、真冬でも温泉で温まりながら泳ぐことができ、陽光を浴びながら楽しめる。


江戸情緒 与市 入り口の土産店とそば屋(正面)


江戸情緒 与市
ここはギネスワールドレコーズ認定の世界一の大露天風呂だそうだ。ここは裸ではいるところ。
木組みの壁や床など江戸の風呂を模したものだが、なにしろ広大な露天風呂である。
随所にいわき温泉郷から引かれた天然温泉が湧き出しているので、風呂は暖かく丁度良い感じだ。
但し、女性用の大露天風呂のほうは、脱衣所が吹きさらしで温泉も温度が低かったようで人気がなかったようだ。男性用は良かったので、評価が分かれる。


昼食はここ与市のおそば屋で


揚げたてのてんぷらと、ざるそばがおいしかった。
2日間共ここで昼食。当然そばにビールが合うのである。


泊まった和室の部屋

ちなみに、夕食は1泊目が和食膳、2泊目はバイキング。
朝食は両日共にバイキングだった。
和食膳はゆったりとした個室でまあまあだったが、バイキングはいまいちだったようだ。

いわき~スパリゾートハワイアンズ(2) フラガール

2010年01月18日 | 旅行
 ウォーターパーク内のビーチシアターで連日ハワイアンダンスショーが催されている。
フラガールたちが放つオーラが会場を熱気で包む。
常夏の国ハワイにいるかのような気分を十分に味わうことができた。
 ここスパリゾートハワイアンズのフラガールは、現代風の小顔で背がすらりとした笑顔の美人揃い。
ハワイの太目のダンサーとはちょっと違うが、モダンな感じでこれはこれで良い印象だった。


ビーチシアター全景
写真は当日の13:30からの「トロピカルフラショー」。
真冬で客が少ないとはいえ、ショー会場はほぼ満員と盛況のようだ。


「トロピカルフラショー」
ハワイの華やかなフラダンスからタヒチの情熱的なタヒチアンダンスまで、
熱帯樹茂る大ドームの開放的な雰囲気の中、トロピカルムード満点に繰り広げられるポリネシアン民族舞踊の数々。








20:10からの「グランドポリネシアンショー」
フラダンス、タヒチアンダンス、サモアの火の踊り、ニュージーランド・マオリ族のポイダンスなど、リアルなポリネシアの踊りでハワイアンズの夜を華やかに彩る。
ポリネシアの島々の祭りを見ているような、思いっきり元気で楽しいステージ。
好評の映画フラガールのテイストをオープニングとフィナーレで再現している。






フィナーレのシーン

古賀メロディ聴き比べ5:緑の地平線

2010年01月14日 | 歌謡曲
 「緑の地平線」は、1935年(昭和10年)公開の阿部豊監督の日活映画。また、楠木繁夫の歌った同名の主題歌。
主題歌「緑の地平線」は現代にいたるまで愛唱されているが、肝心の映画自身は戦災でフィルムが行方不明になってしまっており、現在ではスチール写真のみでその姿を偲ぶことしかできないということである。
 楠木繁夫は「人生劇場」「女の階段」などのヒット曲があるが、「緑の地平線」の余りの成功が後の彼の人生を狂わせたといえるようだ。とにかく分かっているだけでも、秋田登、黒田進、島津一郎、藤村一郎、浜口淳などなど51もの変名を使った変名大王で、戦後ヒット曲が出ないのを悲観して自殺してしまったのである。

 映画「緑の地平線」(左:原節子)

<「緑の地平線」 自選聴き比べ>
1.楠木繁夫 最初にレコードを出した歌手。
2.森昌子 若い頃の歌声、こういったカバー曲もいいね。
3.石川さゆり カバー曲をうまく歌う歌手である、1998年の映像。
4.石原裕次郎 味のある歌う方である。



     緑の地平線

  作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男
  唄:楠木繁夫 (昭和10年)

  1 なぜか忘れぬ人ゆえに
    涙かくして踊る夜は
    濡れし瞳にすすり泣く
    リラの花さえなつかしや

  2 わざと気強くふりすてて
    無理に注がして飲む酒も
    霧の都の夜は更けて
    夢もはかなく散りて行く

  3 山のけむりを慕いつつ
    いとし小鳩の声きけば
    遠き前途(ゆくて)にほのぼのと
    緑うれしや地平線

古賀メロディ聴き比べ4:サーカスの唄

2010年01月11日 | 歌謡曲
 昭和8年(1933)3月、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日した。団員総勢約150人、動物182頭。日本人が初めて見る本格的なサーカスであった。
 このサーカスの宣伝のために作られたのが、『サーカスの唄』である。この歌は、古賀政男の快調なメロディと西條八十のしゃれたフレーズによって大ヒットした。
 この曲をレコーディングした松平晃は当時の歌手の中では抜きんでた容貌の持ち主といわれ、その端正な容姿と甘い抒情的なバリトンの歌声が、多くのファンを魅了した。戦後は渡航したブラジルで原因不明の血液病にかかり、何度も手術を受けた結果声が荒るなどでホット曲に恵まれず50歳で他界した。

 松平晃

<「サーカスの唄」 自選聴き比べ>
1.松平晃 最初にレコードを出した歌手。若い清楚な歌声。
2.森昌子 懐メロもなかなかうまい。
3.美空ひばり 高音低音独特の節回しで歌い上げる。



     サーカスの唄

  作詞:西條八十、作曲:古賀政男
  唄:松平晃  (昭和8年)

  1 旅のつばくろ 淋しかないか
    おれもさみしい サーカス暮らし
    とんぼがえりで 今年もくれて
    知らぬ他国の 花を見た

  2 昨日市場で ちょいと見た娘
    色は色白 すんなり腰よ
    鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
    可愛いあの娘(こ)は うす情

  3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
    遠くはなれて テントで暮らしゃ
    月も冴えます 心も冴える
    馬の寝息で ねむられぬ

  4 朝は朝霧 夕べは夜霧
    泣いちゃいけない クラリオネット
    流れながれる 浮藻(うきも)の花は
    明日も咲きましょ あの町で





古賀メロディ聴き比べ3:影を慕いて

2010年01月07日 | 歌謡曲
 「影を慕いて」は、昭和4年に作られた。
昭和4年(1929年)といえば、10月にニューヨークで株式市場が大暴落を起こし、世界恐慌が始まった年で、日本はすでに2年前に片岡大蔵大臣が東京渡辺銀行が破綻したと失言したことにより、金融恐慌が起こっており、不景気の只中にあった。
 古賀政男は当時明治大学の学生であり、大学を卒業しても前途に明るさが見えないという状況の中で彼は、恋にも破れ、絶望の淵に立っていた。ある山奥の温泉で自殺を図ろうとしたが、死に切れません。その時の悲しい失恋の思いを曲にしたのが、「影を慕いて」であった。

当時、彼は、マンドリンクラブの指揮者で、演奏会に、当時第一線の歌手であった佐藤千夜子が参加してくれることになり、この曲を彼女に歌ってもらい、演奏会は大成功を納めた。これが縁で古賀政男はレコード界入りし、文字通り出世作となったわけである。
レコード化は昭和5年(1930年)12月にテイチクレコードから発売されており、歌手は当時東京芸大の学生だった藤山一郎である。

 古賀政男の青春の絶望のどん底から生まれた、聴いていて胸が締め付けられるような悲痛が叫びに共感を覚えるが、それを乗り越えて生きていこうという精神の強さも感じられるのだ。



<「影を慕いて」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 レコードを最初に出した歌手。戦後復興期に活躍した正統派。
2.ギター演奏 80年前の蓄音機で聴く「影を慕いて」、ギター演奏:木村好夫 。
3.島倉千代子 女性歌手でこの曲ではベスト。長谷川一夫と若尾文子の映像シーンも見もの。
4.カラオケバージョン



        影を慕いて

    作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎


  1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
    月にやるせぬ 我が思い
    つつめば燃ゆる 胸の火に
    身は焦れつつ 忍び泣く

  2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
    ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
    どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
    振音(トレモロ)寂し 身は悲し

  3 君故に 永(なが)き人生(ひとよ)を霜枯れて
    永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
    ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
    儚(はかな)き影よ 我が恋よ


森と広場 水辺の輝き

2010年01月06日 | 散歩
 空気は冷たいが、穏やかな日差しと青空。
今年初めての森と広場、小川と湧水路が冬の日差しを浴びて、きらきらと光が反射している。
夏場に水辺で遊ぶ子供たちもいないので、ひっそりとして、水も穏やかに澄んでいる。
この時期はことのほか、水辺が輝いているようだ。
今日はそんな水辺の風景を撮った。

 「二十一世紀の森と広場」には、金ヶ作・常盤平地区の台地に降った雨の一部が地下にしみ込み、
数ヶ月の後に斜面からしみ出してくる湧き水が各所にある。
それはこの地区に畑や山林が多く残されているために、雨水が浸透しやすくなっているからだ。
 この湧き水は、「二十一世紀の森と広場」の財産になっている。


「つどいの広場」の湧水路、木立の影と日差しの光が交差している


湧水路のコサギ


湧水路脇の小道に冬の日差しが長い影を落とす


「みどりの里」の小川


枯れススキが小川に影を映す




「水とこかげの広場」、水辺に広場の橋の影のコントラストが鮮やか


「光と風の広場」の湧水路




何箇所かある”わき水”のひとつ、セリなどの水草の間を流れる


「野草園」の池、枯れススキが風で一方になびいている


「野草園」から眺めた千駄堀池


くの字に曲がる湧水路


千駄堀池


千駄堀池のコサギのオブジェ


千駄堀池、桜の木はまだつぼみが小さい


自然生態園、オオジュリンが鳴いていた


自然生態園、山の緑とアシの白と池の青がほどよく調和している


サザンカ(左)、ロウバイ(右)
公園内で今の時期に咲いているのが見られる花はこの2つだけ。

古賀メロディ聴き比べ2:酒は涙か溜息か

2010年01月04日 | 歌謡曲
 昭和6年(1931年)9月にこのレコードは発売された頃、満州事変が9月18日に起こっている。
「酒は涙か溜息か、こころの憂さの捨て所」という、当時の時代を憂うる思いがよく表現されているようだ。この歌のヒットで、作詞者の高橋掬(きく)太郎は、新聞記者から作詞家に転身し、藤山一郎はスターの座を確立した。古賀政男は、この曲で作曲家としての地位を不動のものにした。
 藤山一郎は、本名増永丈夫。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現したのである。

古賀政男と藤山一郎の合作芸術・《酒は涙か溜息か》は一世を風靡。だが、レコードが売れすぎて、藤山は音楽学校を一ヶ月の停学処分となったのであった。

 詩情豊かな言葉の響きが心地よく、それに情感のあるメロディ。古賀メロディの中でも最も古賀メロディらしい歌だと思う。

 藤山一郎

<「酒は涙か溜息か」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 キレがあり浪々として唄う、もち歌である。
2.石川さゆり カバー曲。




     酒は涙か溜息か

  作詩 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
  唄 藤山一郎 (昭和6年)

  1 酒は涙か溜息か
    心のうさの捨てどころ

  2 遠いえにしのかの人に
    夜毎の夢の切なさよ

  3 酒は涙か溜息か
    かなしい恋の捨てどころ

  4 忘れた筈のかの人に
    のこる心をなんとしょう




古賀メロディ聴き比べ1:丘を越えて

2010年01月01日 | 歌謡曲
 古賀メロディは私が歌謡曲を好きになった原点にあたる。子供の頃から折に触れふと耳にしていた歌が半世紀以上たった現在も、耳の奥に根付いているようだ。
複数の歌手で聴き比べてみると、いろんな違いがみえてくる。新たな感性でよみがえる曲もある。古賀メロディは現代にも十分通じるスタンダードナンバーになっている。
多くの古賀メロディの中から好きな20曲を選び、聴き比べを試みた。
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 「丘を越えて」は古賀政男の青春そのものであり、歌手藤山一郎の人気を決定付けた。もとは、「ピクニック」という明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲され、それに島田芳文が詞をつけたものが「丘を越えて」である。歌唱を担当した藤山一郎は、豊かな声量と正確無比な確実な歌唱で古賀政男の青春を高らかに歌い上げている。

ちなみに、伴奏のマンドリンによる前奏が長く、さらに間奏は新たなフレーズの後再び前奏を繰り返すので、伴奏の演奏だけの時間より藤山一郎が歌っている時間の方が短い。

また、『丘を越えて』の曲は古賀政男が明治大学マンドリン倶楽部の後輩と稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに行った際、満開に咲き誇る桜を背に酒を飲み交わし、下宿に戻り、ふと学帽についた一枚の桜の花びらに気がついた。これを見て二度と帰らぬ若さと青春がいとおしくなった。そのとき浮かんだメロディーを愛用のマンドリンを取り弾いてみた。おもしろいようにメロディーがつぎからつぎへと浮かんだ。こうして、『丘を越えて』のメロディーができ上がったという。

 名曲というのは一瞬の感性によって生み出される場合が多いのである。
戦前に作曲された歌だが、戦後の復興期に世の中を明るくするのに、この歌が一役かったように思う。




<「丘を越えて」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 懐かしの写真を見ながら聴きましょう。
2.五木ひろし マンドリン合奏をバックに歌うビデオ。



     丘を越えて

作詩 島田芳文 作曲 古賀政男
歌 藤山一郎 (昭和6年)

 1 丘を越えて行こうよ
   真澄の空は朗らかに
   晴れてたのしいこころ
   鳴るは胸の血潮よ
   讃えよわが青春(はる)を
   いざゆけ遙か希望の 丘を越えて


 2 丘を越えて行こうよ
   小春の空は麗らかに
   澄みて嬉しいこころ
   湧くは胸の泉よ
   讃えよわが青春を
   いざ聞け遠く希望の 鐘は鳴るよ 



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