昭和6年(1931年)9月にこのレコードは発売された頃、満州事変が9月18日に起こっている。
「酒は涙か溜息か、こころの憂さの捨て所」という、当時の時代を憂うる思いがよく表現されているようだ。この歌のヒットで、作詞者の高橋掬(きく)太郎は、新聞記者から作詞家に転身し、藤山一郎はスターの座を確立した。古賀政男は、この曲で作曲家としての地位を不動のものにした。
藤山一郎は、本名増永丈夫。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現したのである。
古賀政男と藤山一郎の合作芸術・《酒は涙か溜息か》は一世を風靡。だが、レコードが売れすぎて、藤山は音楽学校を一ヶ月の停学処分となったのであった。
詩情豊かな言葉の響きが心地よく、それに情感のあるメロディ。古賀メロディの中でも最も古賀メロディらしい歌だと思う。
藤山一郎
<「酒は涙か溜息か」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 キレがあり浪々として唄う、もち歌である。
2.石川さゆり カバー曲。
酒は涙か溜息か
作詩 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
唄 藤山一郎 (昭和6年)
1 酒は涙か溜息か
心のうさの捨てどころ
2 遠いえにしのかの人に
夜毎の夢の切なさよ
3 酒は涙か溜息か
かなしい恋の捨てどころ
4 忘れた筈のかの人に
のこる心をなんとしょう
「酒は涙か溜息か、こころの憂さの捨て所」という、当時の時代を憂うる思いがよく表現されているようだ。この歌のヒットで、作詞者の高橋掬(きく)太郎は、新聞記者から作詞家に転身し、藤山一郎はスターの座を確立した。古賀政男は、この曲で作曲家としての地位を不動のものにした。
藤山一郎は、本名増永丈夫。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現したのである。
古賀政男と藤山一郎の合作芸術・《酒は涙か溜息か》は一世を風靡。だが、レコードが売れすぎて、藤山は音楽学校を一ヶ月の停学処分となったのであった。
詩情豊かな言葉の響きが心地よく、それに情感のあるメロディ。古賀メロディの中でも最も古賀メロディらしい歌だと思う。
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<「酒は涙か溜息か」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 キレがあり浪々として唄う、もち歌である。
2.石川さゆり カバー曲。
酒は涙か溜息か
作詩 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
唄 藤山一郎 (昭和6年)
1 酒は涙か溜息か
心のうさの捨てどころ
2 遠いえにしのかの人に
夜毎の夢の切なさよ
3 酒は涙か溜息か
かなしい恋の捨てどころ
4 忘れた筈のかの人に
のこる心をなんとしょう
昭和6年9月、満州事変の勃発と東北大凶作、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。
これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた、同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。
人々は、主流だった【晋平“節”】に対し、【古賀“メロディ”】と呼んだ、ここにメロディを大切にした「古賀メロディ」が確立した。
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、あの前奏・間奏‣後奏がそれぞえ独立した一曲にも値するような、音のキャンバスいっぱいにつかったような、これまでにない新鮮でしかも哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場、「酒は涙か溜息か」と「古賀メロディ」の登場・・それは昭和の歴史上で、社会的、歴史的にも大きな出来事だった。
(最近、なんでも作曲家の後ろにメロディ-をつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する、戦後に至る唯一のトップブランドとしての「称号」。
後ろにそれ、「メロディ-」をつけるのは、「古賀メロディー」ただ一つだけ。)
戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と東北大凶作での娘身売り相談所の写真、世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。
その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。
しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。
大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。
中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
【古賀 “メロディ” 】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平 “節” 】に対する言葉である。(上山恵三)
上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。
昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。
西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男と提携、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。
昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に残る圧倒的な黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。
昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。
(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち
・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)
・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)