「卯月の会」、今日は葛飾区柴又から松戸市矢切へと都県をまたがう散策である。
何回も来ている柴又帝釈天だが今回は彫刻ギャラリーをじっくり拝観しようと、
またお目当てのそばやは柴又のここがベストというところを見つけた。
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柴又駅
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駅前に立つ寅さん像
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帝釈天参道
京成柴又駅から帝釈天までの約200mの参道は、昔ながらの趣を今なお色濃く残している。年6回の庚申の日には、格別の賑わいを見せる。
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草だんご老舗の「高木屋」(左)と「とらや」(右)
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「川千家」(左)と「そば処やぶ忠 参道店」(右)
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柴又帝釈天 山門
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帝釈天本堂
寅さんが産湯をつかったお寺。
正式名は経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)といい、
帝釈天は寛永6年(1629)日忠上人の草創と伝えられ、本尊は日蓮上人自刻の帝釈天の板仏。
この板本尊は長年行方不明だったが、安永8年本堂再建の際に発見され、この日が庚申の日だったため、以来庚申の日を縁日の日に決めたと言われている。
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本堂の彫刻
本堂の周りには彫刻が施してあって、「彫刻ギャラリー」として見学する事も出来る。
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彫刻ギャラリーへ入る
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彫刻ギャラリーの一部
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庭園回廊へ
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庭園の眺望
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山本亭
山本亭は大正末期から昭和初期に建築された和洋折衷の珍しい建物。
築山、瀧のある日本庭園を眺めることができるが、今回は概観のみ。
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寅さん記念館
館内では、「くるまや」のセットをはじめ、実物資料や模型や映像で「男はつらいよ」と寅さんの世界を味わうことができる。
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撮影スタジオ「くるまや」
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「くるまや」模型
2階で寅さんが昼ねをしている!
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昭和30年代の帝釈天参道のジオラマ
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懐かしい紙芝居のジオラマ
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人車鉄道ミニチュア
明治32年から大正2年まで、金町・柴又間約1.5kmを人力で運行し帝釈天への参拝客を運んだ。
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資料展示コーナー
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寅さんのトランク
実際に撮影で使用したもので、入っているものが興味深い。
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寅さんシリーズのポスターが壁面を飾っている
寅さん記念館を後にして、柴又街道に出て、すこし新柴又方面に歩く。
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「そば処 やぶ忠 本店」
お目当てのそばや、間口はいたって狭い感じだが、店内は広く落ち着いている。
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調べておいた「そば三昧」(1400円)を早速注文し、生ビールで乾杯。
鴨つくね・蕎麦の実焼き味噌・刺身こんにゃく・鴨焼き(味噌味)に、もりそば。
酒の肴に最高!鴨焼きは美味だった。
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矢切の渡しに向かう
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矢切の渡し入り口
小説や歌謡曲でも有名な手漕ぎ渡し舟で、江戸川では現存する唯一のもの。 小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいる。
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渡し舟
これは我々が乗るひとつ前の舟、
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矢切側に着き、野菊のこみちを歩く
昼下がりの日差しはまだまだ真夏の暑さを感じる。
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道の前面に矢切台地が横たわる
この台地の一角に野菊苑があり、そこを目指す。
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矢切橋、欄干に野菊のイメージが
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野菊苑
矢切台地の高台に位置し、矢切を舞台にしている伊藤左千夫の純愛小説「野菊の墓」を記念して昭和40年に建立された文学碑に、伊藤左千夫の門人土屋文明の筆により、「野菊の墓」の一節が刻まれている。
「僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡野上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一円が見渡せる。
秩父から足柄箱根の山々、富士の高峰も見える。東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。はづれの坂の降口(おりくち)の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。
ここから見おろすと少しの田圃(たんぼ)がある。色よく黄ばんだ晩稲(おくて)に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々しく、胸のすくやうな眺めである。」
伊藤左千夫著 野菊の墓より 昭和三十九年十月 門人 土屋文明識
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野菊苑公園から眺める江戸川
隣接する野菊苑公園から、矢切の田園風景から江戸川を一望することができる。
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矢喰村庚申塚
青面金剛(しょうめんこんごう)を主尊(しゅそん)とする庚申塔は全国でも最も多く見られる。下矢切庚申塚にある寛文8年(1668)銘庚申塔は、形状は光背型(こうはいがた)で上部に阿弥陀三尊種子(しゅじ)と日月を刻み、正面には青面金剛像、そしてその足元に三猿が配されている。
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矢喰村庚申塚の由来石碑に、
「下総の国の国府が国府台に置かれた千3百年ほど前から武士たちの政争の場となり、
なかでも北条市や里見氏の国府台合戦はこの矢切が主戦場となり、没者は一万余を数えました。
家は焼かれ田畑は荒らされ女 子供 年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され傷つき
一家は離散、この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ親から子 子から孫に言い伝えられ、戸時代中期に二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきました・・・」とある。
二度と戦乱のない世の中を願って、矢喰・矢切と名づけたという、悲しい歴史があったのだ。
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矢切神社
宝永元年(1704年)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。
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神社本殿(左)と絵馬(右)
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終着点:矢切駅
帰路は東松戸経由八柱へ、「大漁船」で2次会。
”かれいのあんかけ”が食べごたえ十分だった。