テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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古き佳き青春の歌謡曲13:君といつまでも

2009年08月30日 | 歌謡曲
 加山雄三の5枚目のシングル。1965年12月5日発売。
この「君といつまでも」が最初にして250万枚の大ヒットとなり、鼻の脇を撫でながら<幸せだなァ>というのが若者の間で定番ともなりました。
加山の主演映画『エレキの若大将』(1965年、東宝/岩内克己監督)では、主題歌として、「君といつまでも」と「夜空の星」がともに歌われている。
さらには『アルプスの若大将』(1966年、東宝/古澤憲吾監督)の主題歌としても使われている。

 岩谷時子(1916年~)は、越路吹雪のマネージャーを30年間勤めたが、マネージャー料は一切取らず越路吹雪に<愛の賛歌>などシャンソン訳詞を提供し続け、その間ザ・ピーナッツ、西田佐知子などに歌詞を提供していた。越路の没後は作詞に専念するようになり、郷ひろみ、ピンキラ、GSグループなどの多くの歌詞を作ったが、特に加山雄三の大ヒット曲の殆どが加山本人(弾厚作)の作曲と共作である。 



 この曲が発売された年は私の青春時代の真っ只中23歳。海や山に友人と良く出掛けたものだ。また加山雄三のファッションを真似て街を歩くと、注目されているような気分になったものだ。


加山雄三 シングルレコードの歌唱。
加山雄三 ステージ映像。
カラオケバージョン




       君といつまでも

   岩谷時子 作詞 弾 厚作 作曲


   二人を夕闇が 包むこの窓辺に
   明日も素晴らしい 幸せが来るだろう
   君の瞳は星と輝き
   恋するこの胸は 炎と燃えている
   大空染めて行く 夕陽色あせても
   二人の心は 変わらないいつまでも

   「幸せだなあ 僕は君といる時が
   一番幸せなんだ
   僕は死ぬまで 君を離さないぞ
   いいだろう?」

   君はそよ風に 髪をとかせて
   優しくこの僕の しとねにしておくれ
   今宵も日が暮れて 時は去りゆくとも
   二人の思いは 変わらないいつまでも


古き佳き青春の歌謡曲12:寒い朝

2009年08月26日 | 歌謡曲
 「寒い朝」は1962年5月にビクターレコードから発売された吉永小百合のデビューシングル。20万枚を売り上げた。石坂洋次郎原作「寒い朝」の映画化作品「赤い蕾と白い花」の主題歌。
 この曲はいわゆる「青春歌謡」と呼ばれた時代の曲で、アイドルと言う言葉がまだ存在しない時代。今で言うアイドルよりも遙かに手の届かない”スター”であり、本当の意味で「アイドル=偶像」であった吉永小百合・・・。この曲はその清らかな吉永小百合のイメージ沿って制作されたものだと思う。


 私のこの歌の思い出は、大学時代ワンダーフォーゲル部のスキー合宿の時。
合宿の朝は早く起きて炊事当番、氷のように冷たい水で朝食の準備をし、
その合間に囲炉裏に手をかざしながら、みんなでこの「寒い朝」を歌った。
 後年「寒い朝」を耳にすると、かならず合宿のシーンを思い出すのである。


吉永小百合 映画「赤い蕾と白い花」の映像シーン。
吉永小百合 映画「いつでも夢を」の挿入歌、映像シーン。
カラオケバージョン マヒナスターズの伴奏、吉永小百合のかわいい映像つき。



      寒い朝

  作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正

 1 北風吹きぬく寒い朝も
   心ひとつで暖かくなる
   清らかに咲いた可憐な花を
   緑の髪にかざして今日も ああ
   北風の中に聞こうよ 春を
   北風の中に聞こうよ 春を

 2 北風吹きぬく寒い朝も
   若い小鳥は飛び立つ空へ
   幸福(しあわせ)求めて摘みゆくバラの
   さす刺(とげ)いまは忘れて強く ああ
   北風の中に待とうよ 春を
   北風の中に待とうよ 春を

 3 北風吹きぬく寒い朝も
   野越え山越え 来る来る春は
   いじけていないで 手に手をとって
   望みに胸を元気に張って ああ
   北風の中に呼ぼうよ 春を
   北風の中に呼ぼうよ 春を





古き佳き青春の歌謡曲11:赤いハンカチ

2009年08月22日 | 歌謡曲
 「赤いハンカチ」は昭和39年(1964)に石原裕次郎が歌い大ヒットした。同年に日活が映画化した。石原裕次郎主演で、ほかに二谷英明、笹森礼子、浅丘ルリ子、芦田伸介、金子信雄など。内容は、当時の日活調アクション映画。麻薬組織の容疑者を誤って射殺してしまった刑事・三上は、責任を感じて辞職する。それから4年、今ではダム工事の人夫として働く三上のもとを先輩の土屋警部補が訪ねてくる。土屋は三上の同僚・石塚が事件当時いとも簡単に容疑者に銃を奪われたこと、そして射殺された容疑者の娘と結婚し、出世していることに疑問を持っていると語る。最初は取り合わなかった三上だが、土屋の言葉に動かされ横浜で真相の究明に乗り出す。しかし、そこには数々の陰謀が待ちうけているのだった…。
日活ムード・アクション最盛期の傑作にして、数ある石原裕次郎&浅丘ルリ子共演作の中でも代表作といえる一本。主題歌も大ヒットを記録した。



 私の青春時代真っ盛りの時、町を歩いても海水浴に出掛けても、いたるところでこの歌がスピーカーから流れていた。



石原裕次郎 シングルレコードの歌唱。
石原裕次郎 映画「赤いハンカチ」の映像シーン。
カラオケバージョン



      赤いハンカチ

  作詩 萩原四朗 作曲 上原賢六

 1 アカシアの 花の下で
   あの娘がそっと 瞼を拭いた
   赤いハンカチよ
   怨みに濡れた 目がしらに
   それでも涙は こぼれて落ちた

 2 北国の 春も逝く日
   俺たちだけが しょんぼり見てた
   遠い浮雲よ
   死ぬ気になれば ふたりとも
   霞の彼方に 行かれたものを

 3 アカシアの 花も散って
   あの娘はどこか おもかげ匂う
   赤いハンカチよ
   背広の胸に この俺の
   こころに遺るよ 切ない影が

古き佳き青春の歌謡曲10:有楽町で逢いましょう

2009年08月20日 | 歌謡曲
 1957年5月に開店した有楽町そごう店のキャンペーンソングとして作成されたものの、キャンペーン終了後の昭和48年(1973年)の第24回NHK紅白歌合戦でフランク永井が歌って以来、現在でも非常に人気の高い歌となっている。
 有楽町そごうは1957年5月25日の開店以来40年以上に亘り、多くの来店客に親しまれ、デートコースに同店を組み込む来店客も存在していた程の人気もあったが、1990年代以降は東京都庁舎の新宿区への移転を契機に来店客が減少し始め、有楽町界隈の街の変化、平成不況、更に2000年7月にそごうの民事再生法適用も重なり、同年に閉店した。なお有楽町そごう跡の読売会館は、2001年よりビックカメラがテナントとして入居している。2008年、「有楽町で逢いましょう」リリース50周年を記念し、有楽町マリオン前にはこの楽曲の石碑も設置された。

 有楽町マリオン前の、「有楽町で逢いましょう」歌碑

 私はこの歌に対する思い出がとてもたくさんある。有楽町は学生時代にはクラブ活動のためのレコードを借りに行ったり、会社に入ってからは合唱部のコンサートがあったり、婚約した頃のデートコースだったり、その後会社が銀座のビルに移転したりで、仕事と遊びで闊歩した街であった。


フランク永井 昭和32年発売シングルレコードの歌声。
フランク永井 昭和33年ステージ映像。
ジェロ 歌碑の除幕式で歌う映像。



    有楽町で逢いましょう

  作詞 佐伯孝夫 作曲 吉田 正
  

 1 あなたを待てば 雨が降る
   濡れて来ぬかと 気にかかる
   ああビルのほとりの ティー・ルーム
   雨も愛しや 唄ってる
   甘いブルース あなたと私の合言葉
   「有楽町で逢いましょう」

 2 心に沁みる 雨の唄
   駅のホームも 濡れたろう
   ああ小窓にけむる デパートよ
   今日の映画(シネマ)は ロードショウ
   かわす囁き あなたと私の合言葉
   「有楽町で逢いましょう」

 3 悲しい宵は 悲しいよに
   燃えるやさしさ 街灯り
   ああ命をかけた 恋の花
   咲いておくれよ いつまでも
   いついつ迄も あなたと私の合言葉
   「有楽町で逢いましょう」

古き佳き青春の歌謡曲9:逢いたいなアあの人に

2009年08月18日 | 歌謡曲
 この歌は昭和31年の暮れに発表されてヒットした島倉千代子の紅白歌合戦初出場の曲である。素朴な可憐さを盛り込んだ彼女独特の“泣き節”は純情歌手のイメージを更に印象づけた。石本美由起は次のように語っている。「この歌について、私は広島出身なので、故郷である瀬戸内甲海の素朴な島の生活をテーマにして書いた。瀬戸内海の波の光、島の緑、その中で育った幼き日への追憶等がこのメロディーににじんでいる。げんとさんはそういう私の気持ちを十分に表現してくれた。」
 非常に独特な高音のビブラート唱法や浮遊感あふれる発音など味わい深い歌唱法を持っている歌手である。



 私が中学修学旅行で京都奈良をバスで回った時、バスガイドのお姉さんが「逢いたいなアあの人に」を歌ってくれたのを憶えている。この時のバスガイドさんは白いブラウスと手袋に紺色の制服でタイトスカート、紺色の帽子が良く似合っていた。この歌を聴くと懐かしい美人のバスガイドさんを思い出すのである。



島倉千代子 シングルレコードの歌唱。
島倉千代子 ステージ映像。
カラオケバージョン



    逢いたいなァあの人に

  作詞:石本美由起 作曲:上原げんと

 1 島の日暮れの 段々畑
   紺のモンペに 涙がホロリ
   ホロホロリ
   逢いたいなァ あの人に
   子どもの昔に 二人して
   一番星を エ~~エ~エ 探したね

 2 風が泣いてる 夕風夜風
   姉さんかむりに 花びらホロリ
   ホロホロリ
   逢いたいなァ あの人に
   つばめは今年も 来たけれど
   わたしは一人 エ~~エ~エ 待ちぼうけ

 3 たばこ畑の 石ころ小道
   はいた草鞋に 夜露がホロリ
   ホロホロリ
   逢いたいなァ あの人に
   今夜もこっそり 裏山に
   出てみりゃ淋し エ~~エ~エ おぼろ月


古き佳き青春の歌謡曲8:別れの一本杉

2009年08月16日 | 歌謡曲
 1955年12月にリリースされたシングルで、春日八郎の代表曲のひとつである。
 作詞は高野公男、作曲は船村徹による。二人は大学在学中に知り合い、コンビを組んで活動していた。当時二人は新人でこれといったヒットに恵まれず苦しい時代を過ごししていた。そのような中でいくつかの曲をキングレコードの春日八郎のもとに売り込みにいき、その中で目に留められた曲がこの『別れの一本杉』であった。
この曲は当時50万枚のセールスを記録し、当時としては爆発的な人気となった。これにより、春日八郎の演歌歌手としての地位を確固たるものになり、また船村徹と高野公男の活動も本格化したが、この曲がヒットした矢先・作詞家の高野公男は結核に罹り、『別れの一本杉』が発表された翌1956年に26歳にて死去した。この高野の若すぎる死を悼み、彼の生涯とこの曲の情景をモチーフに同名のタイトルで翌1956年に松竹から映画化された。主演(高野公男役)は川喜多雄二が務めた。また春日八郎も劇中に歌手として出演している。


高野公男さんの生誕地である、笠間市大郷戸にある「別れの一本杉」歌碑。



春日八郎 1955年リリースしたレコードの歌声。
船村徹 作曲者の歌声もなかなか味がある。



    別れの一本杉

  作詞:高野公男 作曲:船村 徹


 1 泣けた 泣けた
   こらえきれずに 泣けたっけ
   あの娘と別れた 悲しさに
   山のかけすも 泣いていた
   一本杉の
   石の地蔵さんのよ 村はずれ 
 
 2 遠い 遠い
   想い出しても 遠い空
   必ず東京へ ついたなら
   便りおくれと 言った娘(ひと)
   りんごのような
   赤い頬っぺたのよ あの泪

 3 呼んで 呼んで
   そっと月夜にゃ 呼んでみた
   嫁にもゆかずに この俺の
   帰りひたすら 待っている
   あの娘はいくつ
   とうに二十はよ 過ぎたろに


古き佳き青春の歌謡曲7:越後獅子の唄

2009年08月15日 | 歌謡曲
 「越後獅子の唄」は、松竹映画「とんぼ返り道中」の主題歌で、「私は街の子」(松竹映画「父恋し」主題歌)、「あの丘越えて」(松竹の同名映画主題歌)と三部作といわれるものである。美空ひばりは、この三部作とこれに続く「りんご追分」で大スターの座を不動のものにした。9歳でデビューしてこの三部作が13~4歳のころにあたるという、まさに天才歌手であった。
 越後獅子は江戸時代の「角兵衛獅子」の別称で越後の蒲原郡月潟村を発祥とすることから、そうも呼ばれていた。子どもが小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い歩く、飢饉や貧農故の口減らしを兼ねた道中行脚でもあったわけで、その悲しみが「越後獅子の唄」にはよく歌い込まれている。


 映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」

 私はこの曲を聴くと、何故か胸がジーンとなる。
生れ故郷が新潟でもないし、何故なのかはわからないが、これが歌のもつ引き付ける魅力なのだろうと思う。



美空ひばり 1950年、ひばり13歳のレコード歌唱。
田川寿美 最近の女声歌手では一押し。
カラオケバージョン



     越後獅子の唄


  作詩 西条八十 作曲 万城目正
  歌 美空ひばり (昭和25年)

 1 笛にうかれて 逆立ちすれば
   山が見えます ふるさとの
   わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
   ながれながれの 越後獅子

 2 今日も今日とて 親方さんに
   芸がまずいと 叱られて
   撥(ばち)でぶたれて 空見上げれば
   泣いているよな 昼の月

 3 打つや太鼓の 音さえ悲し
   雁が啼く啼く 城下町
   暮れて恋しい 宿屋の灯(あかり)
   遠く眺めて ひと踊り

 4 ところ変われど 変わらぬものは
   人の情けの 袖時雨(そでしぐれ)
   ぬれて涙で おさらばさらば
   花に消えゆく 旅の獅子

古き佳き青春の歌謡曲6:夜来香

2009年08月13日 | 歌謡曲
 夜来香(イェライシャン)は、黎錦光が作詞作曲し、1943年(中華民國32年)に李香蘭の歌唱により上海の百代唱片公司から発売された中国の歌謡曲。全中国にヒットした。やがて新中国建国の後は、国情とは合わず廃れてしまったものの、何十年もの長い時間を経て、夜来香の甘い香りに寄せた情緒豊かなこの歌は、麗君(テレサ・テン)の歌声で復活した。だが、「何日君再来」等と共に、中国(中華人民共和国)政府により、聴くことも歌うことも禁止されてしまった時もあったが、現在は中国大陸でも解禁され、今や全世界の中国人に好んで歌われるチャイナ・メロディーの代表曲となっている。

 日本では、李香蘭が日本に帰国後、山口淑子の名前で吹き込んだ日本語版で、1950年(昭和25年)年1月にビクターレコードから発売されている。
 私が社会人になりたての頃、まだ新橋の「夜来香」が廃業前で二三度通ったことがあった。花とは別の夜の香が懐かしい思い出である。

 李香蘭(山口淑子)


 夜来香(左)、チューベローズ=月下香(右)
夜から明け方にかけて花が甘い香りを発することから「夜来香」の和名がある。 ガガイモ科テロスマ属。但し夜来香は黄色なので、歌詞にあるような白い花となるとチューベローズ=月下香がこの歌のモデルになったようだ。
春植えの球根で真夏に葉を伸ばして大きくなり、9月に開花し10月頃まで白い花を咲かせ、夕方の6時ごろから夜12時ぐらいにかけて甘くさわやかな香りを放つ。


李香蘭(山口淑子) 1958年映画界20周年・引退記念の舞台映像。
テレサ・テン 日本語でのカバー曲。私の好きな歌手だった。
上戸彩 2007年TVドラマ「李香蘭」に於ける収録シーン一部映像。


      夜来香

  作詩 佐伯孝夫  作曲 黎錦光
  歌 李香蘭(山口淑子) (昭和25年)

   あわれ春風に 嘆くウグイスよ
   月に切なくも 匂う夜来香
   この香りよ

   ながき夜の泪 歌うウグイスよ
   恋の夢消えて 残る夜来香
   この夜来香

   夜来香白い花 夜来香恋の花
   ああ胸痛く 歌哀し

   あわれ春風に 嘆くウグイスよ
   つきぬ想い出の 花は夜来香
   この夜来香
   夜来香 夜来香 夜来香  


古き佳き青春の歌謡曲5:旅の夜風

2009年08月11日 | 歌謡曲
 「旅の夜風」は、1938年(昭和13年)9月10日に、「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコードから発売された。松竹映画「愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした歌であった。
映画の中で、タイトルバックや、田中絹代演じるヒロインの高石かつ枝が新橋駅のプラットホームに駆けつけ、上原謙演じる恋人の津村浩三の後を追って京都へ行くも会うことが出来ずに、悄然と京都の町を歩くシーンなどで流された。
 歌は霧島昇、ミス・コロムビア。なお、戦後に藤原良・高石かつ枝、神戸一郎・青山和子の各コンビでカバーされた。

 「愛染かつら」という名前の由来は、長野県別所温泉の奥に北向観音という古刹があり、その境内に、愛染明王堂と並んでカツラの巨木が立っていて、川口松太郎は、別所温泉に逗留していたとき、この木を見て「愛染かつら」という言葉を思いつき、恋物語の想を得たとされている。
 
 私は「旅の夜風」の冒頭の伴奏部分が大好きで、マーチ風の溌剌とした元気の良いところが、当時の世相を活気づかせるのに一役かっていたように思う。


  (映画「愛染かつら」より、上原謙と田中絹代)


霧島昇、ミス・コロムビア
 字幕歌詞付。
映画「愛染かつら」より 


      旅の夜風
 
  作詞西條八十 作曲万城目正

 1 花も嵐も踏み越えて
   行くが男の生きる途(みち)
   泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
   月の比叡(ひえい)を独(ひと)り行く

 2 優しかの君ただ独り
   発(た)たせまつりし旅の空
   可愛い子供は女の生命(いのち)
   なぜに淋しい子守唄

 3 加茂の河原に秋長(た)けて
   肌に夜風が沁みわたる
   男柳がなに泣くものか
   風に揺れるは影ばかり

 4 愛の山河(やまかわ)雲幾重(くもいくえ)
   心ごころを隔てても
   待てば来る来る愛染かつら
   やがて芽をふく春が来る


古き佳き青春の歌謡曲4:夢去りぬ

2009年08月09日 | 歌謡曲
 「夢いまだ醒めやらぬ、春のひと夜」というそれこそ夢のようなタンゴである。題名にもLove's goneと併記されているし、武骨な戦時歌謡や純日本調のメロデ-に馴れきった当時の人々には極めておしゃれな「外国曲」の味がしたことは間違いない。この曲の作曲家名を見るとReo Hatta「レオ ハッタ-」とある。やはり、「西洋の曲は一味違うなア!」と感心された方も多いのではないか。

 ところが実は、この曲は戦時中に曲に愛着をもつ服部が検閲官を欺こうと一計を案じて、外国人らしい名前を使ってレコ-ド化したものだった。当時はレコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったのである。しばらくこの優美なタンゴは戦時体制下の日本の特に若い人々に愛好された。

 このように、「夢去りぬ」は昭和14年に発売されたときは、「Love‘s Gone」という題で、ハッター作曲、ヴィック・マックスウェル楽団演奏で発売された。当時ジャズ音楽は敵性音楽とみなされ、服部良一(1907-1993)が盟邦ドイツのタンゴと偽装して出したレコードだったのである。戦後の昭和23年に霧島昇が日本語歌詞のレコードを出したのであった。



 この「夢去りぬ」は、ジャズのフィーリングとテンポをもち、現代でも通じる素敵な曲で、私の大好きな曲のひとつである。霧島昇のもち歌であるが、私はボニー・ジャックスのカバー曲として歌ったCDを見つけ、この歌の良さを体感したのである。ジャズ調のせいかコーラスグループにもピッタリの曲である。

 
ヴィック・マックスウェル楽団演奏 邦題「Love‘s Gone」
ボニージャックス 私の一押しです




      夢去りぬ

  奥山 靉作詞 服部良一作曲 

    夢いまだ さめやらぬ
    春のひと夜
    君呼びて ほほえめば
    血汐おどる
    ああ 若き日の夢
    今君にぞ通う
    この青春のゆめ
    さめて散る花びら

    過ぎし夢は はかなく
    消えて悲し 今はただ
    君がやさし 面影
    むねにえがき 今日もまた
    ギターを弾きて 歌うは
    君の大好きな あの歌
    今はせつなくひびく 恋の思い出よ

   ※ああ 若き日の夢
    今君にぞ通う
    この青春のゆめ
    さめて散る花びら


古き佳き青春の歌謡曲3:青春のパラダイス

2009年08月07日 | 歌謡曲
「東京の花売娘」を歌うこともあったが、それらに隠れてあまり選曲されず、現在、思い出のすみに追いやられてしまった名曲にこの「青春のパラダイス」がある。
 これは昭和21年に生まれたアップテンポな歌で、はつらつとして明朗な青春歌謡曲である。

 

 当時の人々は、戦争という名の嵐のもと“青春”という文字などほとんど忘れかけていた。だからこそいち早く、そして必死にその文字を思い出そう、取り戻そうとしていた。まさに日本が青春だったころである。
 そんな日本人の願いが自然と口から口に伝わりこの歌は、発売と同時に早いスピードで大ヒットしていったのだ。岡晴夫の甘い歌声は新しい時代の幕開けにはふさわしかったが、2年後の「憧れのハワイ航路」の出現でこの「青春のパラダイス」は隅に追いやられてしまったようだ。

 私は近年になって、この歌の魅力を再発見したのである。
それは、ボニージャックスがカバー曲として、この曲を収録したCDを聴いてからである。アップテンポの曲がコーラスグループのハーモニーに溶け込んで、見違えるような新鮮な曲になったように思う。
青春を絵に描いたような歌詞、アップテンポの溌剌とした曲、何ともいえない青春時代を回顧する良い曲なのである。
それ以来、私はカラオケでもこの曲をよく歌うようになった。
 それにしても、古き佳き青春の歌謡曲1~3が3曲共に岡晴夫の歌った曲だったというのはまったく偶然の結果である。

 岡晴夫とボニージャックスの歌唱を比べてみましょう。

岡晴夫 シングルレコードの歌唱。
ボニー・ジャックス 私の一押し、コーラスグループによる新鮮な歌唱。



   青春のパラダイス

  歌 岡晴夫  昭和21年
  作詩 吉川静夫  作曲 福島正二


  晴れやかな 君の笑顔
  やさしく われを呼びて
  青春の 花に憧れ
  丘を越えてゆく   
  空は青く みどり萌ゆる大地
  若きいのち かがやくパラダイス
  ふたりを招くよ

  囁くは 愛の小鳥
  そよ吹く 風もあまく
  思い出の 夢に憧れ
  丘を越えてゆく
  バラは紅く 牧場の道に咲く
  若きいのち あふれるパラダイス
  ふたりを抱くよ

  花摘みて 胸にかざり
  歌ごえ 高くあわせ
  美わしの 恋に憧れ
  丘を越えてゆく
  ゆらぐ青葉 白き雲は湧きて
  若きいのち うれしきパラダイス
  ふたりを結ぶよ


モーツァルトの歌劇11:その他の歌劇

2009年08月05日 | モーツァルト
 モーツァルトは、多くのオペラを作曲しているが、未完作品もかなり見られ、11歳から晩年に至るまでモーツァルトはオペラに憧れて作品にする機会を常に探っていたと思う。ところが教会お抱えの音楽家だったことや、生活苦に追われて依頼者の求めに応じての作曲も多く、ほんとうに書きたいオペラを十分に書けなかったのであろう。
 今まで取り上げた10作品のオペラの他にも、下記のきら星のようなオペラ作品が生涯にわたって見られるのである。
 
「アポロとヒュアキントォス」CD:PHILIPS
「アポロとヒュアキントォス」K.38
   モーツァルト11歳、オペラ第1作。
   ザルツブルク大学の学年末の授賞式に際して上演された幕間劇。
「バスティアンとバスティエンヌ」K.50
   11歳の作。3幕のオペラ・ブッファ約40分。
   後の『フィガロの結婚』を予感させる召使も登場する。   
「ラ・フィンタ・センプリチェ」K.51
   12歳の作。1幕のドイツ語によるオペレッタ。
「アルバのアスカーニョ」K.111
   15歳。2幕の祝典劇約1時間20分。
劇的セレナータ「シピオーネの夢」K.126
   15歳。1幕。
「ルーチョ・シッラ」K.135
   16歳のモーツアルトの傑作。2作目の本格的なオペラ・セリア。
   全3幕約3時間30分。
「ツァイーデ」K.344
   23歳。未完のオペラ2幕。
ドラマ・ジョコーソ「カイロの鵞鳥」K.422
   27歳。未完のオペラ。
「騙された花嫁」K.430
   27歳。未完のオペラ。
「劇場支配人」K.486
   30歳。1幕約27分。

「賢者の石」CD:TELARC
「賢者の石」
   35歳。モーツァルトが一部分を担当した合作オペラ。
   「魔笛」をプロデュースしたシカネーダーがその1年前に上演したもの。
   「魔笛」とよく似た先行作品であることが注目され、1998年復活上演された。

古き佳き青春の歌謡曲2:東京の花売り娘

2009年08月02日 | 歌謡曲
 昭和21年。戦後の焼け跡に聞こえてきた歌だ。東京に花売り娘などはいなかったが、この歌のヒットとともに花売り娘が街角に立つようになったようだ。


「日々の食糧にも事欠く時代に、日本人には花を手にするゆとりはない。この年の末に、人気女優原節子とカーネーションを配した色刷りポスターを資生堂が戦後初めて出したが、その花も「夜の銀座で進駐軍に名の売れていた自称ジョージから入手したと伝えられている」(資生堂ものがたり)というほどの貴重品。花を手に入れることもできず、売れるはずもない。花売り娘もいなかった。しかし、その後社会が落ち着くにつれて花売り娘が出始め、二十四年ころには八十人ほどになり、大半が小学生だったという。二十七年には児童福祉法の改正施行に伴って警視庁築地署が約五十人を補導したと報じられている。」(funfanサイトより)

 

 この歌は明るいメロディーに包まれているが、途中短調に切り替り淋しげになるところに、歌の深みが出ていると思う。
 私はこの曲が、このところずっと「カラオケの18番」になっている。


岡晴夫 シングルレコードの歌唱。
 




     東京の花売娘

   歌 岡晴夫  昭和21年
   作詩 佐々詩生  作曲 上原げんと

  1 青い芽をふく 柳の辻に
    花を召しませ 召しませ花を
    どこか淋しい 愁いをふくむ
    瞳いじらし あのえくぼ
    あゝ東京の 花売り娘


  2 夢を見るよに 花かご抱いて
    花を召しませ 召しませ花を
    小首かしげりゃ 広重えがく
    月もあらたな 春の宵
    あゝ東京の 花売り娘


  3 ジャズが流れる ホールの灯かげ
    花を召しませ 召しませ花を
    粋なジャンバー アメリカ兵の
    影を追うよな 甘い風
    あゝ東京の 花売り娘


松戸花火大会 イン 2009

2009年08月01日 | 散歩
 今年のテーマは「みんなであげる夢花火」。打ち上げ本数8,000発。
世界同時不況の今年、花火の開催が中止になるところが多い中で、松戸市は花火大会を開催してくれた。大変ありがたいことである。
 また今夜は雲もすくなく風もおだやかで、花火にとっては好都合である。
さらに江戸川の涼しい川風のおかげで、真夏とは思えない程、気持ちが良い。
デジカメの「花火モード」だけで三脚なしでの撮影。300枚以上撮影した中から、自選した11枚をどうぞご覧下さい!
昨年の松戸花火大会の写真と比べてみて、大分良くなったはず。

第1部(サマーフェスティバル)19:20 始まる。








第2部(パステルワールド)



第3部(松戸の銘花)






第4部(花火・平和の証)



20:20終了。

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