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テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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古賀メロディ聴き比べ20:思い出の記

2010年05月03日 | 歌謡曲
 1968年(昭和43年)に発表された曲。
古賀政男が人生を振り返って書き記した詩とメロディは聴くものの胸を打たざるを得ない。特に古賀政男本人がナレーション入りでこの歌を歌っているのには感動した。少し長いがナレーション全文を下記に記す。

<「思い出の記」 古賀政男の語り(全文)>
 「終戦とともにわたくしは、これで自分たちの(世代)世界はすべて終わったのだ。わたくしが再び作曲を発表するような時代は決して巡ってこないだろうと覚悟していました。故郷に帰りわずかな土地を耕し、暇があればギターを手にする(晴耕雨読)晴耕雨唱の生活を送ろうと心密かに決めていました。そしてすSべてが悪夢であったあの激しい生きることの困難な時代をせめてこうして無事に生きながらえたことを喜ばねばならないと自分を慰めていました。ある日ふたつの出来事がわたしを立ち直らせてくれたのです。
 ひとつは米軍将校たちの馬の訪問でした。ミスター古賀はどこにいるかと近所を訪ね回っていると聞き、わたしは一瞬戦犯としてかと思ったが、そうではなく、わたしのファンであるわたしのメロディーの愛好者だったのです。日本に来たら是非わたしに会いたいとたくさんの食料や飲み物をもって訪れてくれたのです。そうして私の歌や彼らの国の歌を歌いながら夜の明けるまで飲み明かし語らったことでした。
 もうひとつのことはわたしが幼少自体を韓国で過ごしたことから彼らの同胞の一人だろうと在日韓国人の人たちの訪問を受けたことでした。朝鮮の人々が日本の社会に厳然として存在していた民族差別の垣根に泣いていた頃、わたしを同胞と信じ、密かに誇りにし、わたしの歌が心を慰めていた多くの人がいたと聞いたことでした。
 わたしは思い直しました。この二つの出来事はわたしにとって天の声でした。たとえ国は破れても、またわたしの築いた過去の基盤がうたかたの様に消え去っても私の歌は国境を越えて人々の心の中に生き続けていることを改めて知り命のある限り作曲を続けようとわたしは決意したのです。」


福岡県大川市(旧 三潴郡田口村)にある古賀政男記念館



<「思い出の記」 自選聴き比べ>
 (残念ながらこの歌の映像は見当たりません、歌唱で比べてみます)
佳山明生 シングルレコードの歌唱。
古賀政男 ナレーション入りの歌唱。




     思い出の記

   作詞作曲 古賀政男

   ああ思い出は懐かしく
   ふるさと恋いて訪ぬれば
   親はらからはすでに逝き
   誓いし友の面影も
   いまはむなしき菜の花よ

   希望に燃えてあこがれて
   幾山川は越えたれど
   幾山川は空遠く
   親はらからもいつか逝き
   語りし友も今は消え
   また春秋は巡れども
   越えねばならぬ人の世の
   幾山川はまだ遥か
   幾山川は空遠く

   ああ人生は夢の夢
   幾とせ変わらぬ山川も
   流れる雲か風に散る
   人の心は山吹の
   花はほろほろ散るばかり

古賀メロディ聴き比べ19:無法松の一生

2010年04月19日 | 歌謡曲
  村田英雄は20歳(1949年)の時、日本一の浪曲師を夢見て上京し、1958年古賀政男に見出され無法松の一生で歌手デビューした。しかし当初はヒットに恵まれなかった。1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、その人気を不動にした。


映画「無法松の一生」(昭和38年、三船敏郎主演、高峰秀子、芥川比呂志、飯田蝶子、笠 智衆)
 福岡県小倉(現在の北九州市)で、荒くれ者で評判だった人力車夫・富島松五郎(通称無法松)と、よき友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた作品。
か弱い吉岡母子の将来を思い、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて齟齬が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい大団円などが描かれている。


<「無法松の一生」 自選聴き比べ>
村田英雄 シングルレコードの歌唱。
小倉祇園太鼓 まつりの映像。
島倉千代子 ステージ映像。
坂本冬実 ステージ映像。
神野美伽 ステージ映像。




      無法松の一生

  作詩:吉野夫二郎 作曲:古賀政男
 
 1 小倉生まれで 玄海育ち
   口も荒いが 気も荒い
   無法一代 涙を捨てて
   度胸千両で 生きる身の
   男一代 無法松

   空にひびいた あの音は
   たたく太鼓の 勇み駒
   山車の竹笹 提灯は
   赤い灯(あかし)に ゆれて行く
   今日は祇園の夏祭り
   揃いの浴衣の 若い衆は
   綱を引き出し 音頭とる
   玄海灘の 風うけて
   ばちがはげしく 右左
   小倉名代は 無法松
   度胸千両の あばれうち

 2 泣くな嘆くな 男じゃないか
   どうせ実らぬ 恋じゃもの
   愚痴や未練は 玄海灘に
   捨てて太鼓の 乱れ打ち
   夢も通えよ 女男(みょうと)波


古賀メロディ聴き比べ18:りんどう峠

2010年04月07日 | 歌謡曲
 昭和30年代は今で言うアイドル的存在(テレビ放送世代の元祖アイドルともいえる。)で一時代を築いた。非常に独特な高音のビブラート唱法や浮遊感あふれる発音など味わい深い歌唱法を持っていた。
 「りんどう峠」は1955年デビュー曲「この世の花」に続く大ヒット曲。これが島倉千代子にとっては最初の古賀政男作品で、以来1977年「ひろしまの母」まで多くの古賀作品を歌った。

 島倉千代子デビュー当時の写真


<「りんどう峠」 自選聴き比べ>
島倉千代子 シングルレコードの歌唱。
島倉千代子 1978年のステージ映像。




       りんどう峠

   作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 りんりんりんどうの 花咲くころサ
   姉サは馬コで お嫁に行った
   りんりんりんどうは 濃むらさき
   姉サの小袖も 濃むらさき
   濃むらさき
   ハイノハイノハイ

 2 りんりんりんどうの 花咲く峠
   姉サは馬コで あとふりかえる
   姉サに行かれて なんとしょう
   いっしょに柴刈る ひとも無い
   ひとも無い
   ハイノハイノハイ

 3 りんりんりんどうは 小雨にぬれる
   わたしゃ別れの 涙でぬれる
   りんりん鳴るのは 馬の鈴
   姉サは峠に 消えてゆく
   消えてゆく
   ハイノハイノハイ



古賀メロディ聴き比べ17:三百六十五夜

2010年03月29日 | 歌謡曲
 昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなったようだ。
 霧島昇と松原操は、『旅の夜風』をいっしょに歌ったのが縁となって結婚、『一杯のコーヒーから』など多くのヒットを飛ばした。松原操は子育てをするため、この歌を最後に引退して、専業主婦となった。




<「三百六十五夜」 自選聴き比べ>
霧島昇と松原操 シングルレコードの歌唱。
本間千代子 めずらしい本間千代子のカバー曲歌唱。
石川さゆり さゆりらしい歌い方である。




       三百六十五夜

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 みどりの風に おくれ毛が
   やさしくゆれた 恋の夜
   初めて逢(お)うた あの夜の君が
   今は生命(いのち)を 賭ける君

 2 たそがれ窓に 浮かぶのは
   いとしき人の 旅すがた
   我ゆえ歩む 道頓堀の
   水の夕陽が 悲しかろ

 3 鈴蘭匂う 春の夜
   灯(ともしび)うるむ 秋の夜
   泣いた 三百六十五夜の
   愛の二人に 朝が来る


古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌

2010年03月25日 | 歌謡曲
 昭和23年には、新東宝映画「あの夢この歌」の主題歌として、「あの夢この歌」が霧島昇、二葉あき子の歌で発表された。
また昭和41年にはテレビの主題歌で北原謙二が歌っていたようだ。
古賀政男大全集では三鷹淳の歌で収録されている。



古賀メロディの中でも、この歌は私のベスト3に入ると思う。大好きな歌なのだが、三鷹淳の歌唱以外に探したが見つからない。三鷹淳の歌唱はすなおで清潔感がありこれはこれで良い歌唱である。あとになって北原謙二の歌唱も見つかった。


<「あの夢この歌」 自選聴き比べ>
1.霧島 昇・二葉あき子 古いレコーディング。
2.北原謙二 個性的名歌い方で歌心を感じさせる。



     あの夢この歌


  作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男

1 おさない日かなしい日 聞いた歌
  優し メロディー
  君うたう今うたう 花の唇燃えて
  ときは春あかしやの みどり白雲
  楽しげに渡鳥 翼はかがやく

2 涙ぐみ別れたる うるわしの
  君の姿 浮かび来て
  流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
  若き日の恋の花 すみれひなげし
  におう夜の歌声に 月さえかがやく

3 あの夢もこの夢も ながれ去り 
  残る メロディー
  あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
  歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
  華やかに朗らかに こころを結ぶよ


古賀メロディ聴き比べ15:湯の町エレジー

2010年03月18日 | 歌謡曲
 昭和23年(1948年)に近江敏郎が歌い大ヒットした「湯の町エレジー」。戦後の古賀メロディーの代表作である。
出だしのギターの伴奏が絶品! これだけでも名曲に入るだろう。

近江俊郎は大正7年(1918年)に東京に生まれ、武蔵野音楽学校を中退し、戦後歌手となった。新東宝や大蔵映画を設立した大蔵貢の弟であったことから、後に映画監督も努め、東宝の重役にもなった。
平成4年(1992年)に73歳で亡くなった。



<「湯の町エレジー」 自選聴き比べ>
1.近江俊郎 初レコード化した歌手。誠実な歌い方。
2.近江俊郎 レコードの歌唱。
3.木村好夫 ギター演奏。
4.アコーディオン演奏 公園で練習している風景。



     湯の町エレジー

  作詩 野村俊夫 作曲 古賀政男
  歌 近江俊郎 (昭和23年)

 1 伊豆の山々 月淡く
   灯りにむせぶ 湯の煙
   ああ 初恋の
   君を尋ねて 今宵また
   ギターつまびく 旅の鳥

 2 風の便りに 聞く君は
   出湯の町の ひとの妻
   ああ 相見ても
   晴れて語れぬ この思い
   せめて届けよ 流し歌

 3 淡い湯の香も 路地裏も
   君住むゆえに 懐かしや
   ああ 忘られぬ
   夢を慕いて 散る涙
   今宵ギターも むせび泣く 


古賀メロディ聴き比べ14:新妻鏡

2010年03月13日 | 歌謡曲
 日米開戦の前年、昭和15年(1940)に東宝映画『新妻鏡』(主演:山田五十鈴
、岡譲二) の主題歌として作られ、映画ともども大ヒットした。
1956年に再映画化(主演:池内淳子、高島忠夫)され、島倉千代子が特別出演した。
 「新妻鏡」は小島政二郎の原作。文代は、見合いの当日、隣家の少年・邦男に誤って空気銃で目を射たれてしまう。病室に邦男を連れて兄の博が見舞いにくるが、文代は冷たく追い返す。薄幸な美女がたどる数奇な運命と、純粋な愛を描く。

 古賀政男

<「新妻鏡」 自選聴き比べ>
1.霧島昇、二葉あき子 初めてレコードをだした時の歌唱。
2.島倉千代子 戦後島倉千代子がカバー曲としてレコード化しヒットした。クリアーな声がこの曲にピッタリ。


     新妻鏡

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  歌:霧島昇・松原操 (昭和15年)

 1 僕がこころの 良人なら
   君はこころの 花の妻
   遠くさびしく 離れても
   なくな相模の 鴎どり

 2 たとえこの目は 見えずとも
   聖(きよ)いあなたの おもかげは
   きっと見えます 見えました
   愛のこころの 青空に

 3 むかし乙女の はつ島田
   泣いて踊るも 生計(くらし)なら
   清い二人の 人生を
   熱い泪で うたおうよ


古賀メロディ聴き比べ13:なつかしの歌声

2010年03月04日 | 歌謡曲
 1938年秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年秋、アメリカNBC放送で古賀政男の作品が取り上げられ全米にそのメロディーが流れた。帰国してみたら、代々木の家が弟によって売られていたと言う事件があった。
 コロムビアで再びヒット曲を飛ばす。『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・。映画音楽を中心に第3期古賀メロディー黄金時代を築く。

 昭和10年代の銀座
昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真。
道路の真ん中には市電の線路が確認でる。左奥に見えるのは、現在和光になっている服部時計店の時計塔。今も昔も銀座のシンボル。
道路の両側には看板を掲げた店が建ち並び、人通りも多くさすがに賑わいがある。


<「なつかしの歌声」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎、二葉あき子 最初のレコーディング。
2.石原裕次郎 タフガイ裕次郎の甘い歌声。



     なつかしの歌声

  作詩:西条八十  作曲:古賀政男
  歌:藤山一郎、二葉あき子  (昭和14年)
 
1 銀座の街 今日も暮れて
  赤き灯燃ゆ 恋し東京 恋し東京 
  あの窓この小径 やさしの柳 
  あこがれは悲しき 乙女の涙 
  風よ運べよ いとしの君へ


2 歎きの道 ひとり行けば
  みどりの樹に 鳥はうたう 鳥はうたう 
  やさしく寄り添いし 姿はいずこ 
  おもいでの窓辺に 忘れな草が 
  風に泣いてる きのうも今日も


3 夕焼け空は 君と眺め
  うたいし歌 楽しいメロディー 楽しいメロディー
  うたえば涙ぐみ こころは咽(むせ)ぶ 
  落葉ちる朝(あした)に 雪ふる宵に 
  呼ぶはこの歌 返らぬ涙 




古賀メロディ聴き比べ12:誰か故郷を想わざる

2010年03月01日 | 歌謡曲
 昭和15年(1940年)作詩西條八十、作曲古賀政男が手がけた「誰か故郷を想わざる」が霧島昇の歌でレコード化され、大ヒットした。

切々と故郷への想いを歌ったこの曲は、海外の戦地へ赴いた兵士たちから圧倒的な支持を受け、その後国内で大流行した。
タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。




<「誰か故郷を想わざる」 自選聴き比べ>
1.霧島昇 最初にレコードをだした歌手の歌声。
2.石川さゆり カバー曲。
3.藤山一郎? 台湾の方のカバーかも知れないが、かなり良い歌声。

    誰か故郷を想わざる

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男
  歌 霧島昇 (昭和15年)
 
 1 花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 帰りみち
   幼馴染みの あの友この友
   あゝ誰か故郷を想わざる

 2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
   小川の岸で さみしさに
   泣いた涙の なつかしさ
   幼馴染みの あの山この川
   あゝ誰か故郷を想わざる

 3 都に雨の 降る夜は
   涙に胸も しめりがち
   遠く呼ぶのは 誰の声
   幼馴染みの あの夢この夢
   あゝ誰か故郷を想わざる

古賀メロディ聴き比べ11:人生劇場

2010年02月22日 | 歌謡曲
 昭和34年(1959年)に村田英雄が歌ってリバイバルヒットした「人生劇場」。
この曲は、戦前昭和13年(1938年)に楠繁夫が歌ってヒットしており、戦前から戦後、昭和30年代と長い間、日本人に親しまれた曲のひとつである。



<「人生劇場」 自選聴き比べ>
1.楠繁夫 最初のレコードの歌声。
2.村田英雄 リバイバルレコードの歌声。




     人生劇場

  作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  歌 楠繁夫 (昭和13年)

 1 やると思えば どこまでやるさ
   それが男の 魂じゃないか
   義理がすたれば この世は闇だ
   なまじとめるな 夜の雨

 2 あんな女に 未練はないが
   なぜか涙が 流れてならぬ
   男ごころは 男でなけりゃ
   解るものかと 諦めた


 3 時世(とき)よ 時節は変ろとままよ
   吉良の仁吉は 男じゃないか
   おれも生きたや 仁吉のように
   義理と人情の この世界


古賀メロディ聴き比べ10:青春日記

2010年02月18日 | 歌謡曲
 昭和12年(1937年)2月に、「青い背広で」のB面としてA面B面ともに大ヒットした「青春日記」。歌は藤山一郎。
この年の7月には、盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まった。12月には日本軍が南京を占領、所謂大虐殺事件が起こった。
戦時色が色濃くなり始め、各地で千人針や慰問袋が盛んになる。そのような中で歌われた曲で、当時はこのような純粋な恋心がすなおに唄われていたのである。
感傷に溢れたメロディーで、藤山一郎の歌唱も美しく、青春の哀歓を歌い上げた。古賀メロディーの名曲の一つである。




<「青春日記」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 最初にレコードをだした歌手。
2.島倉千代子 歌と映画の一シーンの映像がドラマチック。



     青春日記


作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀 政男
 歌 藤山一郎 (昭和12年)

 1 初恋の
   涙にしぼむ 花びらを
   水に流して 泣きくらす
   あわれ十九の 春の夢

 2 今日もまた
   瞳に燃ゆる 夕映に
   思い乱れて むらさきの
   ペンのインクも にじみがち

 3 泣きぬれて
   送る手紙の 恥ずかしさ
   待てば淋しや しみじみと
   街の舗道の 雨の音

 4 明日から
   二度と泣くまい 恋すまい
   いくら泣いても 笑うても
   胸の痛手は なおりゃせぬ

古賀メロディ聴き比べ9:人生の並木路

2010年02月11日 | 歌謡曲
 古賀政男は1904年(明治37年)に福岡県三潴郡田口村(現、大川市)に生まれた。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。7歳で父が死亡、田口村を離れ、朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代をすごした。故郷喪失の悲しみは「人生の並木路」のモチーフとなったが、最初は仁川に、その後京城で暮らした。

 「人生の並木路」は昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。
 映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。

「人生の並木路」は、昭和12年(1937年)1月に発売された。古賀政男の名曲のひとつでディックミネが歌って大ヒットした。
ディックミネは、明治41年(1908年)10月に徳島県に生まれ、立教大学を卒業し、ジャズバンドマンから歌手となった。
昭和15年(1940年)には内務省から敵国の名前を禁じられ、本名の三根耕一と改めたというエピソードがある。



<「人生の並木路」 自選聴き比べ>
1.ディック・ミネ 最初にレコードをだした歌手。
2.森進一 演歌の歌声である。
3.森昌子&北島三郎 1985年のステージ映像。


     人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


古賀メロディ聴き比べ8:青い背広で

2010年02月08日 | 歌謡曲
 昭和12年(1937年)3月に、藤山一郎の歌でレコード発売された。
 当時の普通のサラリーマンの洋服は黒、紺、茶色が標準的なものであった。ある日、藤山一郎が、当時としては珍しいダーググリーンの背広を来てテイチクのスタジオに現れた。詩人佐藤惣之助は、藤山の濃緑の背広を見て《青い背広で》を思いついた。例によって佐藤は酒気をおび、だいぶ酩酊していた。「ダークグリーン」の背広が、「青い背広」になってしまったのである。 
 歌詞の<甘い夜風がとろりと吹いて、月も青春泣きたい心>などは、戦争へと出征しなければならない青年層の不安な心理を巧みに衝いている。《青い背広で》がヒットした年(1937・昭和12)は、盧溝橋事件を契機に日本と中国は日中戦争へと拡大。翌1938(昭和13)は国家総動員法が発布された。
 



川崎駅近くの川崎信用金庫裏手の川崎信金ふれあい広場に、昭和12年(1937年)
に流行った「青い背広で」(佐藤惣之助作詞 、古賀政男作曲)の歌碑がある。作詞の佐藤惣之助の生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、この場所の北隣の砂子2丁目4番地がその場所であることから、歌碑が建てられたそうだ。


<「青い背広で」 自選聴き比べ>
藤山一郎 最初のシングルレコードの歌唱。
森昌子 当時の映像つき。
カラオケバージョン



      青い背広で

  作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  唄 藤山一郎 (昭和12年)

 1 青い背広で 心も軽く
   街へあの娘と 行こうじゃないか
   紅い椿で ひとみも濡れる
   若い僕らの 生命の春よ
 
 2 お茶を飲んでも ニュースを見ても
   純なあの娘は フランス人形
   夢を見るよな 泣きたいような
   長いまつげの 可愛い乙女
 
 3 今夜言おうか 打明けようか
   いっそこのまま 諦めましょか
   甘い夜風が とろりと吹いて
   月も青春 泣きたい心
 
 4 駅で別れて ひとりになって
   あとは僕らの 自由な天地
   涙ぐみつつ 朗らにうたう
   愛と恋との ひとよの愛か

古賀メロディ聴き比べ7:男の純情

2010年02月01日 | 歌謡曲
 昭和11年(1936年)10月に、藤山一郎の歌でレコード発売された。
男の気持ちを切なく訴えているこの歌は、当時の日活映画「魂」の主題歌だ。
<2.26事件>の年に出来た歌である。当時は、出征兵士を送る歓送会があちらこちらで開かれていたと聞く。重苦しい感じで軽いノリが無いのは、時代を反映して当然かも知れないが、メロディは覚え易くて品がある。

 戦後は、第2番目の節が省かれるようだが、ちあきなおみは全部を通して唄っている。彼女が唄うと、藤山一郎とは全く別の感じがする。

 古賀政男と藤山一郎


<「男の純情」 自選聴き比べ>

藤山一郎 シングルレコードからの歌声。
新沼謙治 1999年映像。




      男の純情

 作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
 唄 藤山一郎 (昭和11年)

 1 男いのちの 純情は 
   燃えてかがやく 金の星 
   夜の都の 大空に 
   曇る涙を 誰が知ろ

 2 影はやくざに やつれても 
   訊いてくれるな この胸を 
   所詮男の ゆく道は 
   なんで女が 知るものか
 
 3 暗い夜空が 明けたなら 
   若いみどりの 朝風に 
   金もいらなきゃ 名もいらぬ 
   愛の古巣へ 帰ろうよ 

古賀メロディ聴き比べ6:東京ラプソディ

2010年01月25日 | 歌謡曲
 昭和11年(1936年)は、軍国主義が高揚され、軍歌が流行る中で「ああそれなのに」などのネエ小唄が流行するという妙な時代。そんな中で健康的で軽快な曲「東京ラプソディ」が6月に発売された。歌は藤山一郎が歌っている。

 藤山一郎は、明治44年(1911年)、東京日本橋蠣殻町の生まれ。生家はモスリンの問屋さん。慶応の幼稚舎普通部を経て昭和4年に上野の東京音楽学校、現在の東京芸術大学声楽科に入学。
 歌ってはいけない流行歌を、傾いた家業を助けるためアルバイトでうたっていたのが学校にバレて一カ月の停学処分。それでも音楽学校は首席で卒業した。

しかし家業のかかえた借金莫大で、その返済のためもあり、流行歌手が本業になり、古賀メロディだけでなく、数々のヒット曲をとばした。平成5年に亡くなっている。

 神田・ニコライ堂


<「東京ラプソディ」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 最初にレコードをだした清潔な歌い方。
2.女性歌手 坂本冬美・伍代夏子・藤あやこ・長山洋子・香西かおり 1994。



     東京ラプソディ

  作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男
  唄:藤山一郎 (昭和11年)

 1 花咲き 花散る宵も
   銀座の柳の下で
   待つは君ひとり 君ひとり
   逢えば行く ティールーム
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 2 現(うつつ)に夢見る君の
   神田は想い出の街
   いまもこの胸に この胸に
   ニコライの 鐘も鳴る
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 3 明けても暮れても歌う
   ジャズの浅草行けば
   恋の踊り子の 踊り子の
   ほくろさえ 忘られぬ
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
 4 夜更けにひととき寄せて
   なまめく新宿駅の
   あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
   気にかかる あの指輪
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 5 花咲く都に住んで
   変わらぬ誓いを交わす
   変わる東京の 屋根の下
   咲く花も 赤い薔薇
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京


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