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古賀メロディ聴き比べ6:東京ラプソディ

2010年01月25日 | 歌謡曲
 昭和11年(1936年)は、軍国主義が高揚され、軍歌が流行る中で「ああそれなのに」などのネエ小唄が流行するという妙な時代。そんな中で健康的で軽快な曲「東京ラプソディ」が6月に発売された。歌は藤山一郎が歌っている。

 藤山一郎は、明治44年(1911年)、東京日本橋蠣殻町の生まれ。生家はモスリンの問屋さん。慶応の幼稚舎普通部を経て昭和4年に上野の東京音楽学校、現在の東京芸術大学声楽科に入学。
 歌ってはいけない流行歌を、傾いた家業を助けるためアルバイトでうたっていたのが学校にバレて一カ月の停学処分。それでも音楽学校は首席で卒業した。

しかし家業のかかえた借金莫大で、その返済のためもあり、流行歌手が本業になり、古賀メロディだけでなく、数々のヒット曲をとばした。平成5年に亡くなっている。

 神田・ニコライ堂


<「東京ラプソディ」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 最初にレコードをだした清潔な歌い方。
2.女性歌手 坂本冬美・伍代夏子・藤あやこ・長山洋子・香西かおり 1994。



     東京ラプソディ

  作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男
  唄:藤山一郎 (昭和11年)

 1 花咲き 花散る宵も
   銀座の柳の下で
   待つは君ひとり 君ひとり
   逢えば行く ティールーム
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 2 現(うつつ)に夢見る君の
   神田は想い出の街
   いまもこの胸に この胸に
   ニコライの 鐘も鳴る
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 3 明けても暮れても歌う
   ジャズの浅草行けば
   恋の踊り子の 踊り子の
   ほくろさえ 忘られぬ
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
 4 夜更けにひととき寄せて
   なまめく新宿駅の
   あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
   気にかかる あの指輪
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京

 5 花咲く都に住んで
   変わらぬ誓いを交わす
   変わる東京の 屋根の下
   咲く花も 赤い薔薇
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京
   楽し都 恋の都
   夢のパラダイスよ 花の東京


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3 コメント

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『東京ラプソディ』・・モダン東京のテーマソング (メロディコンサート)
2018-06-19 12:50:42

藤山一郎主演、PCL映画『東京ラプソディ』1936.12.1の主題歌(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)他に「東京娘」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)、「青春の謝肉祭(カーニバル)」がある。「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝。門田ゆたか作詞は西條八十の弟子。

映画『東京ラプソディ』の制作には技師として、後にソニーの創業者の一人となる井深大が参加していた。井深と交流を持つようになった藤山は後にソニーに嘱託として勤務し、さらに社友となった。

古賀には音楽監督料として900円が支払われ、古賀は全額を(昭和9年1934)に死去した母親を祀るための仏壇の購入に充てたという。

昭和9年にテイチクに移った古賀政男は、他にも次々とヒット曲を生み出し「テイチク黄金時代」といわれる第二期黄金時代を築く。昭和11年、東京音楽学校を卒業した藤山一郎をテイチクに迎え入れた最初の曲で、《モダン東京のテーマ曲》ともいえるエポック曲とといえる。

作曲を担当した古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。
作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている。古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。

こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという。門田が起用された時点ですでにレコード吹き込みの日程は決まっており、B面の『東京娘』は完成していた。西條八十の弟子でもある門田は重圧と闘いながら、3日間ほとんど寝ずに作業をして詞を完成させた。

歌唱を担当した藤山一郎はこの曲を、「銀座、神田、浅草、新宿と、東京の盛り場を楽しく歌いあげた清潔にして軽快なフォックストロット調の歌」と解説している。吹き込みにあたって門田や古賀から注文をつけられることはなく、自由に歌うことができたという。

東京音楽学校で「声楽の基礎を完全にマスターした」という自負からフォックストロット調の流行歌は容易に歌えるという自信のあった藤山は、声音を明瞭に保ちつつ、曲調に合わせて「ある時は歯切れよく、あるときはシットリと」歌うことに神経を使ったと回顧している。

藤山にとってこの曲は、ビクターからテイチクへの移籍後第1作であった。藤山に移籍の話を持ちかけたのはテイチクの重役を務めていた古賀で、藤山はテイチクをレコード会社としては二流だと感じながら、かつて『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』、『影を慕いて』でヒットを飛ばした古賀とのコンビに魅力を感じて移籍を決断した。
歴史家の今西英造は、『東京ラプソディ』の歌詞には戦時色が濃くなり、権力によって昭和モダンが抑圧され分解しつつあった世相にあっても消えることのなかった、モダニズムを追求する人々の心が表れていると分析し、『東京ラプソディ』を「モダニズムの残響」と評している。

昭和の大作曲家・古賀政男を取りあげる。彼は敗戦の虚脱状態から、どう立ち直ったのかを、『自伝 我が心の歌』で、こう綴っている。

「無条件降伏を告げる玉音放送をつたえ聞いたのは、疎開先の山梨県のいなかであった。……終戦とともに、私はこれで自分たちの世代はすべてが終ったのだと思った。私が再び作曲を発表するような時代や、また、すでに発表した歌が、再び唄われる日も決してめぐって来ないのだと覚悟した。故郷に帰って僅かな土地を耕し、暇があればギターを手にする“晴耕雨唱”の生活を送ろうと、心にひそかに決めていたのである。」
「私たちが疎開していた素朴な田舎にも、飢えと貧困、悪徳と混乱の戦後がやってきた。犬畜生にも劣る激しい人間社会の変りようにただ驚きあきれた。心のささえのすべてを失い、絶望の日日が続いた。今後何をたよりになにを求めて生きていけばいいのだろうか。
 
終戦のあのとき、これからの身の処し方を決め、心の整理ができたはずであったが、あまりに激しい世相に再び虚脱状態に陥ってしまった。そんなある日のこと、村役場の女子事務員が私の許に血相を変え、息せききって駆けこんできた。「先生、大変です。アメリカ兵が来ました。先生をさがしているんです。いまのうちに早く裏山にでも逃げて下さい。」というのだ。その頃は、米軍がしきりに戦犯を逮捕して巣鴨に収容している頃であった。

お嬢さんの説明によると、ジープ二台に乗った米兵が村役場にやって来て、「ミスター・コガはどこにいるか」と村長を掴まえてしきりに尋ねているのだという。気をきかした村長が、時間を稼ぎながら、女子事務員をそっと裏口からは知らせて私に連絡してくれたのだった。私には逃げる理由はなかった。軍歌を多少つくったことがあっても、戦時中は被圧迫者の一人だったのだ。説明すればわかるはずである。「いや、ぼくは逃げないよ」と、心配する家人たちに私は答えたが、夜道にジープのヘッドライトがだんだん近づいて来るのを見たときは、さすがに不安であった。

 米軍の将兵たちは、私が探している当人だと知ると「オオ、ミスター・コガ」と、愛想よく、まるで百年の知己であるかのように握手を求めた。逮捕などという気配は全くない。いぶかる私に、一人が流暢な日本語で訪問の目的を説明してくれた。
 彼等は戦争中、日本進駐後の司令部要員として、米陸軍で日本語の教育を受け、テキストとして日本映画を見せられた。ところがそのとき、私がかつて作曲した東京ラプソディなどの歌をきき非常に感動したのだという。そして、日本に行くようなことがあれば、作曲した古賀政男という男に、是非とも会ってみようと相談していたのだったという。彼等は親切にも、食糧難で私も困っているだろうと、ジープに食糧を沢山積んで、私にプレゼントするためはるばる訪ねて来てくれたのだった。
 すでに夜となった。それに河口村は当時は電灯もない僻地の山村である。とにかく皆さん今夜は泊っていったらどうだと私が奨めると、彼等もそうしたいというので、私はなけなしのウイスキーを出して彼等の厚意に報いた。それから私の歌や外国の歌を唄いながら彼等と夜の明けるまで飲み明かし、朝になって私の歌を声一ぱい合唱して別れた。彼等の一人は別れ際に「ミスター・コガ、私たちの日本語が上達したのは、貴男のおかげです。心からお礼を申しあげたい」と、丁寧に頭を下げるのであった。……」
 


「それからしばらく後のこと、私は在日韓国人の代表らしい人たちの訪問を受けた。彼等は「古賀さん、絶対に他言はしませんから、ほんとうの名前を教えてください。そしてこんごわれわれの力になってください」というのだった。・・(略)・・
 この二つのできごとは、私にとって天啓であった。私はこれによって虚脱状態から立ち直る精神的糧を得たのだ。たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを私は改めて確認させられたのであった。私の歌だからということではない。それが歌というものなのだ。私はそのとき改めていのちのあるかぎり作曲を続けようと決意した。」
(古賀政男著『自伝 我が心の歌』(展望社、2001))
古賀政男は、昭和19年3月から20年8月まで河口湖畔に疎開。そして、戦後初の作品が「麗人の歌」(西條八十作詞 古賀政男作曲 霧島昇1946) 。
川口湖畔には、昭和20年に疎開のためにこの地を訪れた中で、地元中学校の校歌をはじめ、「河口湖おどり」「河口湖ワルツ」などの楽曲は、地域の音楽文化の礎となった。生誕100年を記念して平成16年に古賀政男記念公園として、「影を慕いて」音楽碑があって、懐かしいメロディーを奏でる。記念碑にはこの辺のことについて書かれている。

藤山一郎歌唱で、銀座を歌った戦後の歌に「夢淡き東京」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)がある。「東京ラプソディ」(1936)に匹敵する、戦後の東京(銀座)の歌をということで、昭和22年(1947)につくられたもので、他にも戦後、銀座を歌った歌は山ほどある。

これらを含めて、あの青春の息吹溢れる、《モダン東京のテーマ曲》ともいえる「東京ラプソディ」(1936テイチク 門田ゆたか作詞)、や「なつかしの歌声」(1940コロムビア 西條八十作詞)。

これを超えるものはまだ出ていない、今後もでないだろう。


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110







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藤山一郎と古賀政男 (メロディ)
2018-06-21 23:32:35
藤山一郎がラジオに登場したのは、昭和3年の慶応普通部時代で、それ以来、音楽放送の歴史とともに歩んできた。

『日本放送史』(日本放送協会編)には、「藤山は、《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」とある。

「藤山一郎」とは、昭和6年(1931)、「キャンプ小唄」をはじめとする一連の古賀作品をレコード吹き込みにあたっての名前、これが「歌う昭和史・藤山一郎」の実質的レコードデビュー原点。

平成四年、国民栄誉賞受賞。愛宕山のNHK放送博物館には彼のコーナーがあり、業績や記念物の展示があり、ビデオが見れる。

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ『古賀メロディー』ほどの大ヒット曲には恵まれなかった。

藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍して重役作曲家になっていた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。

契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。

テイチクに於ける古賀政男はレコード制作にかかわる全権を任され、専務取締役兼文芸部長兼作曲家兼プロデューサーであった。

昭和9年5月に東京銀座にテイチク東京文芸部(通称古賀文芸部)を置きマンクラ時代の7人を呼び寄せる。そしてディックミネや楠木繁夫などを呼び寄せた。

そしてコロムビア時代かあの藤山一郎のビクタ―契約切れを待つのだ。

1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。

これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。

PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。

藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画、国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。

1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。

卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。

『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めたのだ。

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。

代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。

デビュ-以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。

☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
*コロムビア
キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か  (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月(井上静雄名)
影を慕いて    (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
*テイチク
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12   加寿子のうたえる…
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
*コロムビア
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2

(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。日本帰任後,最初にNHKラジオ番組に出たことから主にラジオとの付き合いになってゆく。)

戦後-
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌   (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952

古賀政男と三浦環

[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。

古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html

(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環-古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html






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三浦環 《日本が生んだ世界的プリマドンナ》と古賀政男 (メロディ)
2018-06-23 17:08:24

古賀政男をはじめ流行歌の作曲家たちは、西洋音楽を優れたものとしてその上に声明や清本、催馬楽に近いものまで取り入れている。

いっぽう、邦楽・歌謡曲を低劣な音楽とするのが主流派である。

クラッシック音楽を基本とし、ジプシー音階、タンゴなど世界の音楽を積極的に取り入れている古賀政男、圧倒的な著作権、やっかみもあって純クラッシック音楽畑の評論家からさんざん攻撃対象にされた。

流行歌を「音楽の汚物」として一掃すべきだという主張がある。しかしクラシック音楽がそれほど上等なのだろうか。

こうした中で、自らの音楽が半世紀にわたる昭和の歌謡の歴史,日本にまだ大衆に歌える歌がなかったころから歌作りにかけた多くの才能。

その最前線にいたのは中山晋平、西條八十、佐藤惣之助、古賀政男、そして国を離れても応援していた音楽家がいた、三浦環や藤原義江、山田耕作がいた・。

日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環。大正から昭和にかけ、ロイヤルアルバートホールをはじめ、世界のオペラハウスで「蝶々夫人」2000回公演。エンリコ・カルーソ―と共演したこの大ソプラノ歌手。

山中湖に疎開していた中で病気を患い、昭和21年5月26日63歳、東京渋谷の病院で亡くなり、山中湖平野の寿徳寺に母堂とともに眠っている。上野寛永寺にもある。

墓碑には自筆で、こう刻まれている・・

《うたひめは強き愛國心を持たざれば、眞の藝術家とはなり得まじ .. 環》

環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちの多くがとかく西洋かぶれして、日本の文化を見失っていた中で、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。

古賀政男(1904 - 1978)と三浦環(1884~1946),この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環はこの後、昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を高く評価していた。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。

古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

上記、昭和十一年六月十六日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演は、昭和11年(1936年)『蝶々夫人』公演2000回達成後の凱旋帰朝でのことである。

その三浦環が古賀政男のファンで、あるとき古賀に言った。・・

 「古賀さん、あなたの歌こそほんとうの日本の歌ですよ。私は、あなたの歌に恋をしているの。日本にも、もっともらしい歌曲が出てきましたが、こんなの、みんなアチラのまねごとなのよ」

三浦環も相当な異端者にちがいないが、外国に長く暮らすと、日本の伝統の素晴らしさに気づくということがある。この言葉に古賀政男は励まされたと自伝に書いている。(『我が心の歌』(展望社刊1965))


 その古賀政男の唄には、三拍子が多いといわれる。「影を慕いて」ができるまで日本にメジャ―な三拍子の曲はなかった.「影を慕いて」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「湯の町エレジー」等々これらすべて三拍子である。

日本の歌には伝統的に三拍子はない。なのになぜ古賀に三拍子が多いのかというと、彼の不幸な生い立ちに関係があるともいわれる。

 
古賀政男がテイチクに移ったのは昭和9年5月。コロムビアは契約違反だとして抵抗、テイチクに移ってからも作曲に使う古賀のピアノを差し押さえた。

弘田竜太郎が救いの手を差し伸べた、古賀は契約以上の作曲をしてるとの一言で解決。

藤山一郎がビクターからテイチクに移ったのが昭和11年5月、「東京ラプソディ」が公開されたころ、昭和11年6月16日、日本青年館で明大マンドリン倶楽部第二十六回定期演奏会が盛大に開催され、三浦環と藤山一郎が招かれた。

倶楽部の五十年史『青春よ永遠』によると、第二部で世界的プリマドンナ三浦環がイタリア民謡《オオ・ソレミオ》(カプア・作曲)の後に古賀メロディー「忘れなの花束」と「乙女心」を歌っている。


また、藤山一郎が第一部で、イギリス民謡《永遠の誓い》と《谷間の小屋》を声楽家増永丈夫(バリトン)で、第三部『アラベスク・古賀政男想い出の名曲集より』で、《丘を越えて》、《東京ラプソディー》などを歌っている。

「乙女心」   (関種子 鹿山鴬村作詞 古賀政男作曲 1931)
「忘れなの花束」(西条エリ子 野村俊夫作詞、古賀政男作曲 1936)
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