松戸からちょっと遠く、1時間ちょいかかる。
今日の卯月の会は三軒茶屋から世田谷線に乗って、沿線にある寺社を訪ねる。
そのあと私のかつての実家だった三軒茶屋をぶらつき居酒屋へ。
青春時代の思い出多い場所だった。
三軒茶屋三叉路交差点
世田谷線三軒茶屋駅 10時30分
ここからまず宮の坂駅へ
三軒茶屋駅、カラフルな車両
宮の坂駅、今の車両(左)とかつての玉電車両(右)
宮の坂駅からすぐ豪徳寺、線路隔てて世田谷八幡宮がある。
≪豪徳寺≫
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
招き猫伝説で有名、また桜と紅葉の名所でもある。
豪徳寺入口
仏殿と臥竜桜
臥竜桜は名所図会では「仏殿の前右のほうにあり、花弁は一重白い花が咲く」とあるが、現在の桜は江戸期の桜の2代目だそうである。
満開の桜は見事だろうと想像されるが、紅葉の桜も味があるものだ。
仏殿
井伊直孝の娘・掃雲院が父の菩提を弔うため、延宝5年(1677年)に建立。
紅葉
三重塔
2006年5月に落慶法要された新しい三重塔。
塔の「ねこ」浮彫
塔の蟇股(かえるまた)には十二支の像が置かれており、「子(ねずみ)」のところに招き猫が同居している。
招き猫伝説がある。
「江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。
また、同じ豪徳寺説でも別の話も有る。直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くのの寄進をした…というものである。
猫観音を祀る招猫殿(左)猫塚(右)
まねき猫いろいろ
願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
絵馬
井伊直弼の墓
伊井家墓所は仏殿左奥に塀で囲われた中にある。伊井家代々の墓所であるから古い石塔が数多く建てられているが、直弼の墓はその中の西端にある。
帰り道、参道の松の巨木ごしの印象
≪世田谷八幡宮≫
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。
世田谷八幡宮
狛犬とよくなつく小犬
絵馬(左)と力石(右)
奉納相撲と同様、力比べをするための石。
土俵
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。
例大祭は9月の第三土、日、奉納相撲は土曜日の午後に農大の相撲部によって盛大に行われるようだ。
摂社厳島神社
水が流れ鯉が泳ぎ、小さな滝が雰囲気を盛り立てている。
宮の坂駅から世田谷線で松陰神社前駅へ、ここで昼食タイム。
松陰神社前駅
そばや「近江家」
エビスビールで乾杯。かきあげ丼定食を食す。今日はそば+丼となった。たまには良いか。
松陰神社前駅から徒歩5分程で松陰神社につく。
≪松陰神社≫
明治15年(1882)に、吉田松陰のお墓の横に神社をつくったのが始まり。
松陰神社がある場所は昔、毛利家がもっていた。毛利家とは、吉田松陰の故郷の長州藩(今の山口県)の殿様の家。吉田松陰のお墓をたてるとき、の弟子達が毛利家から場所をもらい、この場所に吉田松陰のお墓を建てた。
谷を挟んだ向こう側には豪徳寺があり、豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の寺である。
松陰神社
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。
吉田松陰像
絵馬
松陰の直筆。勝絵馬(左)と志絵馬(右)
自分の弱い心に負けず・・・・初志を忘れず・・・・という松陰の言葉からとったもの。
社殿
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。
松下村塾 萩に現存する建屋を模したもの。
石灯籠
本殿の手前と両脇にある石灯籠は、50年祭に際して寄進された物で26基もある。
伊藤博文・山県有朋・木戸孝充・乃木希典・井上馨・桂太郎らの名前が刻まれており、松陰を慕う人たちが多かったことを物語る。
吉田松陰の墓
松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された(真ん中のもの)。罪人であったためか、目立たない小さな墓であった。
松陰神社駅から世田谷線で三軒茶屋に戻る。
≪三軒茶屋へ≫
キャロットタワー
「にんじん色」の26F建てのビル。最上階の展望フロア(無料)。
世田谷線が眼下に見える(上の森が豪徳寺)
中里小(左側)とティーズヒル(右側)
私の青春時代住んでいた町で、我が家は中里小の斜向かいにあった。
ティーズヒルはかつての明治薬科大学跡地にできた。
大山道標
三軒茶屋三叉路角にあり、ここから玉川方面はかつては大山詣への道であった。
商店街をゆく 私のかつての通学・通勤路だ。
「磯丸水産」で2次会 昼から呑める店である。
いか・鮪のほお肉を自火焼きして摘まむ。
夕暮れの三軒茶屋交差点 16時30分だった。
連れの2人の印象では、三軒茶屋は都心から離れているわりには、活気のある町だったようだ。
今日の卯月の会は三軒茶屋から世田谷線に乗って、沿線にある寺社を訪ねる。
そのあと私のかつての実家だった三軒茶屋をぶらつき居酒屋へ。
青春時代の思い出多い場所だった。
三軒茶屋三叉路交差点
世田谷線三軒茶屋駅 10時30分
ここからまず宮の坂駅へ
三軒茶屋駅、カラフルな車両
宮の坂駅、今の車両(左)とかつての玉電車両(右)
宮の坂駅からすぐ豪徳寺、線路隔てて世田谷八幡宮がある。
≪豪徳寺≫
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
招き猫伝説で有名、また桜と紅葉の名所でもある。
豪徳寺入口
仏殿と臥竜桜
臥竜桜は名所図会では「仏殿の前右のほうにあり、花弁は一重白い花が咲く」とあるが、現在の桜は江戸期の桜の2代目だそうである。
満開の桜は見事だろうと想像されるが、紅葉の桜も味があるものだ。
仏殿
井伊直孝の娘・掃雲院が父の菩提を弔うため、延宝5年(1677年)に建立。
紅葉
三重塔
2006年5月に落慶法要された新しい三重塔。
塔の「ねこ」浮彫
塔の蟇股(かえるまた)には十二支の像が置かれており、「子(ねずみ)」のところに招き猫が同居している。
招き猫伝説がある。
「江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。
また、同じ豪徳寺説でも別の話も有る。直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くのの寄進をした…というものである。
猫観音を祀る招猫殿(左)猫塚(右)
まねき猫いろいろ
願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
絵馬
井伊直弼の墓
伊井家墓所は仏殿左奥に塀で囲われた中にある。伊井家代々の墓所であるから古い石塔が数多く建てられているが、直弼の墓はその中の西端にある。
帰り道、参道の松の巨木ごしの印象
≪世田谷八幡宮≫
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。
世田谷八幡宮
狛犬とよくなつく小犬
絵馬(左)と力石(右)
奉納相撲と同様、力比べをするための石。
土俵
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。
例大祭は9月の第三土、日、奉納相撲は土曜日の午後に農大の相撲部によって盛大に行われるようだ。
摂社厳島神社
水が流れ鯉が泳ぎ、小さな滝が雰囲気を盛り立てている。
宮の坂駅から世田谷線で松陰神社前駅へ、ここで昼食タイム。
松陰神社前駅
そばや「近江家」
エビスビールで乾杯。かきあげ丼定食を食す。今日はそば+丼となった。たまには良いか。
松陰神社前駅から徒歩5分程で松陰神社につく。
≪松陰神社≫
明治15年(1882)に、吉田松陰のお墓の横に神社をつくったのが始まり。
松陰神社がある場所は昔、毛利家がもっていた。毛利家とは、吉田松陰の故郷の長州藩(今の山口県)の殿様の家。吉田松陰のお墓をたてるとき、の弟子達が毛利家から場所をもらい、この場所に吉田松陰のお墓を建てた。
谷を挟んだ向こう側には豪徳寺があり、豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の寺である。
松陰神社
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。
吉田松陰像
絵馬
松陰の直筆。勝絵馬(左)と志絵馬(右)
自分の弱い心に負けず・・・・初志を忘れず・・・・という松陰の言葉からとったもの。
社殿
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。
松下村塾 萩に現存する建屋を模したもの。
石灯籠
本殿の手前と両脇にある石灯籠は、50年祭に際して寄進された物で26基もある。
伊藤博文・山県有朋・木戸孝充・乃木希典・井上馨・桂太郎らの名前が刻まれており、松陰を慕う人たちが多かったことを物語る。
吉田松陰の墓
松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された(真ん中のもの)。罪人であったためか、目立たない小さな墓であった。
松陰神社駅から世田谷線で三軒茶屋に戻る。
≪三軒茶屋へ≫
キャロットタワー
「にんじん色」の26F建てのビル。最上階の展望フロア(無料)。
世田谷線が眼下に見える(上の森が豪徳寺)
中里小(左側)とティーズヒル(右側)
私の青春時代住んでいた町で、我が家は中里小の斜向かいにあった。
ティーズヒルはかつての明治薬科大学跡地にできた。
大山道標
三軒茶屋三叉路角にあり、ここから玉川方面はかつては大山詣への道であった。
商店街をゆく 私のかつての通学・通勤路だ。
「磯丸水産」で2次会 昼から呑める店である。
いか・鮪のほお肉を自火焼きして摘まむ。
夕暮れの三軒茶屋交差点 16時30分だった。
連れの2人の印象では、三軒茶屋は都心から離れているわりには、活気のある町だったようだ。