テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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世田谷線寺社巡り、三軒茶屋へ

2011年11月29日 | 散歩
 松戸からちょっと遠く、1時間ちょいかかる。
今日の卯月の会は三軒茶屋から世田谷線に乗って、沿線にある寺社を訪ねる。
そのあと私のかつての実家だった三軒茶屋をぶらつき居酒屋へ。
青春時代の思い出多い場所だった。


三軒茶屋三叉路交差点


世田谷線三軒茶屋駅 10時30分
ここからまず宮の坂駅へ


三軒茶屋駅、カラフルな車両


宮の坂駅、今の車両(左)とかつての玉電車両(右)

宮の坂駅からすぐ豪徳寺、線路隔てて世田谷八幡宮がある。

≪豪徳寺≫
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
招き猫伝説で有名、また桜と紅葉の名所でもある。


豪徳寺入口


仏殿と臥竜桜
臥竜桜は名所図会では「仏殿の前右のほうにあり、花弁は一重白い花が咲く」とあるが、現在の桜は江戸期の桜の2代目だそうである。
満開の桜は見事だろうと想像されるが、紅葉の桜も味があるものだ。


仏殿
井伊直孝の娘・掃雲院が父の菩提を弔うため、延宝5年(1677年)に建立。


紅葉


三重塔
2006年5月に落慶法要された新しい三重塔。


塔の「ねこ」浮彫
塔の蟇股(かえるまた)には十二支の像が置かれており、「子(ねずみ)」のところに招き猫が同居している。

招き猫伝説がある。
「江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。
また、同じ豪徳寺説でも別の話も有る。直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くのの寄進をした…というものである。


猫観音を祀る招猫殿(左)猫塚(右)


まねき猫いろいろ
願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。


絵馬


井伊直弼の墓
伊井家墓所は仏殿左奥に塀で囲われた中にある。伊井家代々の墓所であるから古い石塔が数多く建てられているが、直弼の墓はその中の西端にある。



帰り道、参道の松の巨木ごしの印象

≪世田谷八幡宮≫
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。


世田谷八幡宮


狛犬とよくなつく小犬


絵馬(左)と力石(右)
奉納相撲と同様、力比べをするための石。


土俵
奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になった。
例大祭は9月の第三土、日、奉納相撲は土曜日の午後に農大の相撲部によって盛大に行われるようだ。


摂社厳島神社
水が流れ鯉が泳ぎ、小さな滝が雰囲気を盛り立てている。

宮の坂駅から世田谷線で松陰神社前駅へ、ここで昼食タイム。


松陰神社前駅


そばや「近江家」
エビスビールで乾杯。かきあげ丼定食を食す。今日はそば+丼となった。たまには良いか。

松陰神社前駅から徒歩5分程で松陰神社につく。

≪松陰神社≫
明治15年(1882)に、吉田松陰のお墓の横に神社をつくったのが始まり。
松陰神社がある場所は昔、毛利家がもっていた。毛利家とは、吉田松陰の故郷の長州藩(今の山口県)の殿様の家。吉田松陰のお墓をたてるとき、の弟子達が毛利家から場所をもらい、この場所に吉田松陰のお墓を建てた。
谷を挟んだ向こう側には豪徳寺があり、豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の寺である。


松陰神社
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。




吉田松陰像


絵馬
松陰の直筆。勝絵馬(左)と志絵馬(右)
自分の弱い心に負けず・・・・初志を忘れず・・・・という松陰の言葉からとったもの。


社殿
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。


松下村塾 萩に現存する建屋を模したもの。


石灯籠
本殿の手前と両脇にある石灯籠は、50年祭に際して寄進された物で26基もある。
伊藤博文・山県有朋・木戸孝充・乃木希典・井上馨・桂太郎らの名前が刻まれており、松陰を慕う人たちが多かったことを物語る。


吉田松陰の墓
松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された(真ん中のもの)。罪人であったためか、目立たない小さな墓であった。


松陰神社駅から世田谷線で三軒茶屋に戻る。

≪三軒茶屋へ≫


キャロットタワー
「にんじん色」の26F建てのビル。最上階の展望フロア(無料)。


世田谷線が眼下に見える(上の森が豪徳寺)


中里小(左側)とティーズヒル(右側)
私の青春時代住んでいた町で、我が家は中里小の斜向かいにあった。
ティーズヒルはかつての明治薬科大学跡地にできた。


大山道標
三軒茶屋三叉路角にあり、ここから玉川方面はかつては大山詣への道であった。


商店街をゆく 私のかつての通学・通勤路だ。


「磯丸水産」で2次会 昼から呑める店である。
いか・鮪のほお肉を自火焼きして摘まむ。


夕暮れの三軒茶屋交差点 16時30分だった。
連れの2人の印象では、三軒茶屋は都心から離れているわりには、活気のある町だったようだ。

第1回シニアテニス大会 開催

2011年11月22日 | テニス
 私が所属している松戸テニス倶楽部では、平成21年に「松戸テニス倶楽部30周年記念シニアテニス大会」、昨年、平成23年には「シニアスクール発足10周年記念テニス大会」が開催され、年々シニアテニスが盛んになってきました。
そして毎年シニアテニスの大会を開き、シニア同士のきずなを高めていこうという気運が出てきました。
そこで今回、装いを新たに第1回シニアテニス大会が開かれた。真新しい優勝カップも添えられました。
80名近い参加者が、くじ引きでA・B・C・Dおよび紅白のグループに分かれ、グループ同士の総当たり戦。
各グループは14名、ペアで7組でダブルス戦。各自はグループ戦毎にペアを変えて一試合づつ戦う。

 9時30分開会式。
 10時試合開始。
14時30分閉会式。
と、丸一日を好天に恵まれた中でゲームを楽しむことができた。
ペアでは同じ同好会のなじみの人と組む場合もあり、また初めて会う人と組む場合もあった。
グループはなじみや初めての集まりだったので、いつもと比べて新鮮味があったと思う。
私はBグループで4グループ中の3位、私のペアは1勝3敗、という戦績だった。



熱戦のもよう



閉会式

橿原から飛鳥へ

2011年11月14日 | 旅行
                            (コースマップ)

 ひさしぶりの橿原から飛鳥への旅。紅葉には少し早かったが、温かい天気に恵まれた一日だった。
私が飛鳥方面に関心を持ったのが、1986年6月 大和三山を歩いたことがきっかけであった。その時の思い出をたどりつつ、まだ見ていない場所や万葉歌碑を妻と訪ねてみた。

 近鉄橿原神宮前駅からレンタサイクルで橿原方面、藤原京一帯、香久山の尾根に展開する万葉の森、をゆき、
その後、飛鳥方面に南下して甘樫丘付近を通り、橘寺・亀石を経由して飛鳥駅に至る。
飛鳥駅前で乗り捨てできる便利なレンタサイクルを利用した。


出発駅:橿原神宮前駅(東口)駅前でレンタサイクルを借りる。


橿原公苑付近をゆく


神武天皇陵 横に眺めて走る。


大窪寺 ここは初めて訪れたところ。
聖徳太子建立48ヶ寺の一つとされ日本書紀にもでてくる、畝傍山の東麓に位置する古寺。
金堂跡とみられる大きな塔心礎がある。


娘子塚(おとめつか) 大窪寺境内にあり
「大和名所圖會」に、
”大久保村にあり。 むかし此の所に娘子(をとめ)あり。容顔美艶(ようがんびえん)にして、ほとりの人 道路に顧みて賞す。名を櫻兒(さくらご)といふ。又 二人の壮士(わかもの)ありて、これを娶らんと互いに挑み、死を貪って相敵す。娘子(をとめ) こころやすからず、歔欷(なげ)いていふやう、古(いにしへ)より今に至るまで、一女二門に適(あ)ふことを聞かざるなり。二士の意和平(こころほど)けがたし。 妾(せふ)が身 死して 相害を永く息(や)めんとて、林中に入りて樹に懸り、縊れて死す。
[萬葉集]小序に見えたり。”


娘子塚にちなむ万葉歌碑
春さらば 挿頭(かざし)にせむと わが思(も)ひし 櫻の花は散りにけるかも (巻16-3786)
   →万葉アルバム


畝傍御陵前駅 駅わきの踏切を渡り行くと、視野が開けて、本薬師寺跡につく。


本薬師寺跡
薬師寺の前身で、現在は金堂跡と東西両塔跡に大きな礎石を残すのみだが、文武天皇2年(698)に、皇后の病気平癒祈願のために建てられ平城京遷都の際に現在の西ノ京に移された。静かに眠る栄華の名残り。


ホテイアオイの群落 


藤原京朱雀大路跡
正面に耳成山が見える。その手前に藤原宮跡がある。ここ一帯がかつての藤原京である。


左手には畝傍山


右手には香久山とあわせて大和三山が一望できる


藤原宮跡
藤原京は694年に完成した日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城。694年に飛鳥より遷都、710年に平城京に遷都されるまでわずか16年間(持統・文武・元明の三天皇が居住)日本の首都だったところ。


畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
別名「哭沢の神社」(なきさわのもり)とも言う。
万葉集には1首だけに詠まれて、神社を入った左手に歌碑がたてられている。
イザナギノミコトがイザナミノミコトの死を悲しんで流した涙から生まれた「哭沢女(なきさわめ)」を祭っているとのこと。


古池・万葉の森への分岐点


古池
香久山の麓にある「古池」という大きな池。
古代に天皇の食事を用意した専属料理人、膳夫(かしわで)氏の一族がこの一帯に住んでいたことで、膳夫古池ともいわれている。


万葉の森 入口
万葉の森は、1981年第32回全国植樹祭記念事業の一環として整備された森で、天香具山の東側中腹から麓一帯にかけて広がっている。
香久山の裏側尾根にあるため、わかりにくく不便な場所だ。
だがそのおかげで自然豊かで静かな散策路が作られている。ゆっくりまた来てみたいところである。


万葉の森の散策路わきに万葉歌碑が9基点在する。
   →万葉アルバム


万葉の森を出たところからの、大和棟の民家 大和らしいたたずまいである。


多武峰山塊を望む 右手が飛鳥古京。歴史風土として良く保存されているのがわかるようだ。


雷丘
高さが10メートルほどの丘であるが、古来、雷神が降臨する聖なる丘として親しまれてきた。


雷橋右岸の散策路 前方は甘樫丘
最近整備された散策路だろう。かつてはなかった。新しい万葉歌碑が数点建っている。


雷橋と道標 岡寺・橘寺の標識がみえる。


ダリヤ畑 飛鳥古京にダリヤも良く似合う。


槻(つき)の木の広場
大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる場所。最近整備されたようだ。


飛鳥川 今も昔と変わらず流れ続ける。


橘寺
聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる寺。今では飛鳥一の大寺である。


川原寺 飛鳥アートプロジェクトの作品が野外展示されていた。
川原寺の名は日本書紀に見られ,天智天皇の時代に斉明天皇の冥福を祈って飛鳥に建てられたといわれている。藤原京の時代になってからも,大官大寺,飛鳥寺,薬師寺とともに飛鳥の四大寺とされた。


亀石
伝説によると、昔むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こりました。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまい、湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまったそうです。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうです。今は亀は南西を向いているが、もし西を向き大麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。ユーモラスなこの表情が人気を呼んでいるようだ。




下平田の農道から 正面が細川山
私はここからのアングルが大好きで、来る都度この場所から写真を撮っているが、30年前と雰囲気は変わっていないようだ。


高松塚古墳(右手)と歴史公園一望
この一帯は公園化され、以前と雰囲気が一変してしまった。以前は懐かしい水田が広がる長閑な田園だった。


終着駅:飛鳥駅 聖徳太子の人形がお出迎え。
ここでレンタサイクルを返却して、今回の旅を終えた。
久しぶりに飛鳥の雰囲気を存分に味わうことができたと思う。妻も飛鳥の風を感じて楽しんだようだ。

 今回の橿原・明日香の万葉歌碑の詳細は別ブログに掲載しています。
      →橿原市 藤原古京 万葉歌碑群
      →橿原市 香久山、万葉の森 万葉歌碑群
      →明日香村 飛鳥古京 万葉歌碑群

モーツァルトCDの風景9:プラハ旅行

2011年11月07日 | モーツァルト
モーツァルト30歳1786年 5月1日、オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。
 モーツァルトが初めてプラハを訪れたのは、31歳の時だった。
招待したのは親友のドゥシェク夫妻で、モーツァルトに別荘を与えた。
ここで完成されたオペラが<ドン・ジョヴァンニ>である。
モーツァルトは、その生涯のうちで4回、プラハを訪れており、最後の旅行先もプラハだった。
晩年の作曲活動と切り離せない町であり、交響曲第38番<プラハ>はその象徴といえる。

プラハ左岸の丘の上に広がるプラハ城内の一角にストラホフ修道院が建っている。


プラハ ストラホフ修道院
1787年にモーツァルトが訪れている。モーツアルトがこの教会でオルガン演奏をしたことがあり、亡くなったときには世界に先がけて追悼ミサが行われたそうだ。

<モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番K.216・第5番K.219 マゼール(V)、マゼール指揮/イギリス室内管弦楽団 (KLAVIER KCD 11046 輸入盤)>
指揮者マゼールがヴァイオリニストとしてきらびやかで華麗な演奏をし指揮ぶりをした一枚。
「ヴァイオリン協奏曲 第3番」は十九歳のモーツァルトの奇蹟のような傑作。
「ヴァイオリン協奏曲 第5番」は五曲のシリーズを締めくくるにふさわしい傑作。トルコ風のロンドなど、聴き手をあきさせない多彩な内容。


現在のストラホフ修道院


ストラホフ修道院の内部
中世から受け継がれてきたという「神学の間」と呼ばれる図書室。
もうひとつの「哲学の間」と共に古い写本と膨大な蔵書を誇っている。

森と広場 秋たけなわ

2011年11月02日 | 散歩
 秋たけなわ。紅葉はこれから徐々に色づき始める。
「松戸の美術100年史」の野外展示があり、これも楽しみのひとつ。


つどいの広場 紅葉が始まりつつある


つどいの広場 ここは紅葉最盛期に見応えのある場所


花壇 一面に咲き誇っている


池と紅葉


野草園 光と影


千駄堀池 桜の紅葉


池と広場の橋


稲刈りが終わって


ノハラアザミ(左)この赤い実は?(右)


縄文の森 地面を掘り下げて床を作った竪穴住居が復元展示されている。


「松戸の美術100年史」の野外展示案内
以下の4点はこの展覧会のための新作だそうだ。公園内に点々と置かれたのを探しながら歩く。


「露の玉」(片山健 作) 大理石でできているが、???


「cloud」(片山健 作) これも大理石。cloud=雲、ふんわり浮かぶ雲のようだ。


「View chair」(片山健 作) 大理石の椅子、すわったが冷たい。


「奇な気の木」(山本久美子 作)耐水紙でカラフル。題名がおもしろい。

作品はよくわからなかったが、散歩しながら芸術の秋をチョッピリ味わったような気がした!?。




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