テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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松戸の一本桜:県立松高の枝垂れ桜

2010年03月30日 | 散歩
 私の家の近くにある県立松高。校門を入った玄関前広場の右手に枝垂れ桜の木がある。
満開の頃ではないかと寄ってみたら、ちょうど見ごろを迎えていた。


県立松高の校門から枝垂れ桜が見える


枝垂れ桜は満開を迎えていた(となりの椿に接して写す)


ちょうど今たけなわといった感じ


花びらが大ぶりで幾分細長く勢いがある

古賀メロディ聴き比べ17:三百六十五夜

2010年03月29日 | 歌謡曲
 昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなったようだ。
 霧島昇と松原操は、『旅の夜風』をいっしょに歌ったのが縁となって結婚、『一杯のコーヒーから』など多くのヒットを飛ばした。松原操は子育てをするため、この歌を最後に引退して、専業主婦となった。




<「三百六十五夜」 自選聴き比べ>
霧島昇と松原操 シングルレコードの歌唱。
本間千代子 めずらしい本間千代子のカバー曲歌唱。
石川さゆり さゆりらしい歌い方である。




       三百六十五夜

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 みどりの風に おくれ毛が
   やさしくゆれた 恋の夜
   初めて逢(お)うた あの夜の君が
   今は生命(いのち)を 賭ける君

 2 たそがれ窓に 浮かぶのは
   いとしき人の 旅すがた
   我ゆえ歩む 道頓堀の
   水の夕陽が 悲しかろ

 3 鈴蘭匂う 春の夜
   灯(ともしび)うるむ 秋の夜
   泣いた 三百六十五夜の
   愛の二人に 朝が来る


湯島から神田へ

2010年03月27日 | 散歩
 卯月の会の散策、今月は「神田」。
一部予定を変更して、湯島天神にも寄ることにした。
そこで、今回は「湯島から神田へ」としました。
千代田線「湯島」駅に9時40分に着き、スタート。
湯島天神へは歩いてすぐ。


湯島天神の女坂(左)と男坂(右)


湯島天神社殿(平成7年(1995年)12月に再建とわりと新しい)


泉鏡花筆塚と梅園
泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。


梅まつりが終了し、一輪だけ咲いていた湯島の白梅

 湯島天神から南へ600m程、清水坂下から神田明神へ。


神田明神石鳥居


隨神門から神田明神社殿
その創建は古く、天平2(730)年といわれる。祭神は大己貴命であるが、12世紀初頭に、現在の皇居に居館を設けた江戸氏の氏神と伝えられる江戸大明神を合祀した。さらに朝敵の汚名をきせられながらも坂東の民衆に敬愛されてきた平将門(?~940)の霊を、いつしか境内鎮守の明神として祀るようになり、江戸の産土神・氏神として代々の領主や民衆に信仰されるようになった。


神田明神社殿(昭和9年(1934)権現造の鉄筋コンクリート・総漆朱塗)、鳳凰殿(左)


境内の桜は5分咲き


珍しい獅子山
社殿の右には文化財指定の獅子山がある。苔むした岩、流れ落ちる滝を見下ろすように山の上には獅子が彫られている。下には子供の獅子が上を見上げている構図。
享保年間(1716~1735)の作


銭形平次の碑
社殿の右脇には銭形平次と八五郎の碑がある。「実在の人物でないのに?」と説明文を読んでわかった。作家や出版社が建てたもので遊び心があって面白い。

 湯島聖堂を出て本郷通りの向かいに湯島聖堂がある。


湯島聖堂の杏壇門(きょうだんもん)
寛政2(1790)年、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。


杏壇門の屋根の奇怪な動物?


湯島聖堂の築地塀、奥に聖橋がみえる


湯島聖堂の入徳門


湯島聖堂の庭のムラサキハナナ(ダイコンソウ)

 湯島聖堂から神田川沿いにすこし下ると、昌平橋に出る。


昌平橋から神田川を眺めると、3つの線路が交差している貴重な場所だった。

 昌平橋を渡って神田川沿いの道を今度は登ると、御茶ノ水駅付近につく。
そこを南にすこし下るとニコライ堂だ。


ニコライ堂
日本ハリストス正教会の東京復活大聖堂である。石造の重文としてはもっとも古い物。コンドルの設計によって建てられた。
日本最大のビザンチン様式建築物。


ニコライ堂境内に入ってみたら、堂内参観は午後からだった


明大通り


富士見坂
左のロシア料理「サラファン」は若い頃から何回か入ったなつかしい店。


昼食はこんごう庵(神田神保町1-18)で「へきそば」、もちろん生ビールで乾杯
「へきそば」は、コシがあってなかなかおいしかった。天婦羅盛り合わせも美味だった。


すずらん通り
ここも若い頃からよく歩いた通り。昔は「中華街」だったそうだ。


猿楽町を歩くと桜が咲いていた


夏目漱石が学んだ錦華小にある「我輩は猫である」の碑(現在の御茶ノ水小学校)
漱石は明治11年、錦華小学校(現お茶の水小学校)を卒業している。


男坂(左)と女坂(右) とにかく神田は坂が多いところだ。

神田散策を終えて水道橋駅へ。
その後、小石川後楽園に行ってみようということになり、そこへ向かう。
坂道で多少へばったががんばろう!  次の「小石川後楽園」へ

小石川後楽園 枝垂れ桜満開!

2010年03月27日 | 散歩
 神田散策の帰りに以前行けなかった小石川後楽園に寄ってみようということになった。
今は近くにある正門でなく奥の西門が入り口になっている。
入り口に着いたら、入園券を買うのに行列が続いていた。
なんでこんなに人が多いのだろうと思ったが、あとになってわかった。
今日はここの枝垂れ桜が満開を迎えていたのである。
今日来てほんとにラッキーだった。

 小石川後楽園は江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられた。
 庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。また、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されている。


小石川後楽園入り口


入って正面、東京ドームをバックに満開の枝垂れ桜






渡月橋わきの枝垂れ桜






大堰川と渡月橋と桜


川面に映える枝垂れ桜


通天橋と桜


池の東側からの眺望、枝垂れ桜と徳大寺石(右)


内庭


内庭の桜




徳大寺石と舟着(右)、右後ろは文京シビックセンター


龍田川からの眺望

東京のど真ん中にこんな優雅な庭園があることに感謝!

 このあと、16時30分には松戸に戻り、2次会。今日はいつもより歩いたようで足がパンパンに張ったような感じがする。

古賀メロディ聴き比べ16:あの夢この歌

2010年03月25日 | 歌謡曲
 昭和23年には、新東宝映画「あの夢この歌」の主題歌として、「あの夢この歌」が霧島昇、二葉あき子の歌で発表された。
また昭和41年にはテレビの主題歌で北原謙二が歌っていたようだ。
古賀政男大全集では三鷹淳の歌で収録されている。



古賀メロディの中でも、この歌は私のベスト3に入ると思う。大好きな歌なのだが、三鷹淳の歌唱以外に探したが見つからない。三鷹淳の歌唱はすなおで清潔感がありこれはこれで良い歌唱である。あとになって北原謙二の歌唱も見つかった。


<「あの夢この歌」 自選聴き比べ>
1.霧島 昇・二葉あき子 古いレコーディング。
2.北原謙二 個性的名歌い方で歌心を感じさせる。



     あの夢この歌


  作詞 西條八十 : 作曲 古賀政男

1 おさない日かなしい日 聞いた歌
  優し メロディー
  君うたう今うたう 花の唇燃えて
  ときは春あかしやの みどり白雲
  楽しげに渡鳥 翼はかがやく

2 涙ぐみ別れたる うるわしの
  君の姿 浮かび来て
  流れ来てわれを 泣かすよ呼ぶよ
  若き日の恋の花 すみれひなげし
  におう夜の歌声に 月さえかがやく

3 あの夢もこの夢も ながれ去り 
  残る メロディー
  あの人がこの人が 哀れ歌いしメロディー
  歌は蝶むらさきの 紅の蝶々
  華やかに朗らかに こころを結ぶよ


松戸の一本桜:常盤平団地-金ヶ作公園

2010年03月23日 | 散歩
 東京は昨日(22日)桜が開花したと報じられたが、
 松戸では早咲き桜がほぼ満開となっています。そのいくつかを訪ねました。

<常盤平団地>

 常盤平3-25にある団地内の一角に、大きな桜の木が2本あり、ほぼ満開を迎えていた。
花は白く清々しい桜である。


奥の桜が満開。(手前は枝垂れ桜でまだつぼみの状態だった)








<金ヶ作公園>

 こちらはその近くの金ヶ作公園庭球場入り口にあるオオカンザクラ。
3月11日の映像ではまだ5分咲き程度だったが、
こちらは満開を過ぎつつあり、散り始めていた。
桃色が鮮やかである。







古賀メロディ聴き比べ15:湯の町エレジー

2010年03月18日 | 歌謡曲
 昭和23年(1948年)に近江敏郎が歌い大ヒットした「湯の町エレジー」。戦後の古賀メロディーの代表作である。
出だしのギターの伴奏が絶品! これだけでも名曲に入るだろう。

近江俊郎は大正7年(1918年)に東京に生まれ、武蔵野音楽学校を中退し、戦後歌手となった。新東宝や大蔵映画を設立した大蔵貢の弟であったことから、後に映画監督も努め、東宝の重役にもなった。
平成4年(1992年)に73歳で亡くなった。



<「湯の町エレジー」 自選聴き比べ>
1.近江俊郎 初レコード化した歌手。誠実な歌い方。
2.近江俊郎 レコードの歌唱。
3.木村好夫 ギター演奏。
4.アコーディオン演奏 公園で練習している風景。



     湯の町エレジー

  作詩 野村俊夫 作曲 古賀政男
  歌 近江俊郎 (昭和23年)

 1 伊豆の山々 月淡く
   灯りにむせぶ 湯の煙
   ああ 初恋の
   君を尋ねて 今宵また
   ギターつまびく 旅の鳥

 2 風の便りに 聞く君は
   出湯の町の ひとの妻
   ああ 相見ても
   晴れて語れぬ この思い
   せめて届けよ 流し歌

 3 淡い湯の香も 路地裏も
   君住むゆえに 懐かしや
   ああ 忘られぬ
   夢を慕いて 散る涙
   今宵ギターも むせび泣く 


古賀メロディ聴き比べ14:新妻鏡

2010年03月13日 | 歌謡曲
 日米開戦の前年、昭和15年(1940)に東宝映画『新妻鏡』(主演:山田五十鈴
、岡譲二) の主題歌として作られ、映画ともども大ヒットした。
1956年に再映画化(主演:池内淳子、高島忠夫)され、島倉千代子が特別出演した。
 「新妻鏡」は小島政二郎の原作。文代は、見合いの当日、隣家の少年・邦男に誤って空気銃で目を射たれてしまう。病室に邦男を連れて兄の博が見舞いにくるが、文代は冷たく追い返す。薄幸な美女がたどる数奇な運命と、純粋な愛を描く。

 古賀政男

<「新妻鏡」 自選聴き比べ>
1.霧島昇、二葉あき子 初めてレコードをだした時の歌唱。
2.島倉千代子 戦後島倉千代子がカバー曲としてレコード化しヒットした。クリアーな声がこの曲にピッタリ。


     新妻鏡

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  歌:霧島昇・松原操 (昭和15年)

 1 僕がこころの 良人なら
   君はこころの 花の妻
   遠くさびしく 離れても
   なくな相模の 鴎どり

 2 たとえこの目は 見えずとも
   聖(きよ)いあなたの おもかげは
   きっと見えます 見えました
   愛のこころの 青空に

 3 むかし乙女の はつ島田
   泣いて踊るも 生計(くらし)なら
   清い二人の 人生を
   熱い泪で うたおうよ


松戸の一本桜めぐり

2010年03月11日 | 散歩
 松戸には数箇所の桜通りがあり花見の時期には見ごたえがある。
これとは別に私はひっそりと咲く一本桜も好きだ。
この一本桜の開花時期にあわせて、出かけてみた。

<長聖寺(八ヶ崎) 3月5日>
 八ヶ崎の長聖寺に松戸に1本だけといわれた河津桜がある。
訪ねたこの日は、この河津桜がほぼ満開だった。
(注:河津桜は他に松戸神社付近の坂川沿いに植えられている) 


長聖寺(真言宗豊山派、松戸市八ヶ崎2丁目35-2)
河津桜が咲いているのが門前の奥に見える。
門前にある四季桜(写真左)10月頃に咲くようだ。 


長聖寺の満開の河津桜


河津桜は、寒緋桜と早咲き大島桜の自然交配種と言われており、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢がある。
花形は平開形で一重のやや下向きであり、花弁は5枚の円形で無毛である。
色は蕾の時は濃紅色だが、満開時は淡紅色になるという。



<金ヶ作庭球場 3月11日>
 常盤平の金ヶ作庭球場前の駐車場入り口に一本の桜の木がある。
木に付いている名札に「オオカンザクラ」(大寒桜)と命名されている。
オオカンザクラはカンヒザクラとオオシマザクラの種間雑種。花は半開状で、下を向いて咲いている。
カンザクラとくらべて開花は遅いというが、この時期に咲く早咲きの一種である。
今日はまだ5分咲き程度と思われる。満開は14・5日頃だろうか。






つぼみは濃いピンク色だが、開いた花は薄いピンク色。
淡いピンクに染まった花がまとまって咲く様子が美しい。



古賀メロディ聴き比べ13:なつかしの歌声

2010年03月04日 | 歌謡曲
 1938年秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年秋、アメリカNBC放送で古賀政男の作品が取り上げられ全米にそのメロディーが流れた。帰国してみたら、代々木の家が弟によって売られていたと言う事件があった。
 コロムビアで再びヒット曲を飛ばす。『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・。映画音楽を中心に第3期古賀メロディー黄金時代を築く。

 昭和10年代の銀座
昭和10年代ごろの銀座の風景を撮影した古写真。
道路の真ん中には市電の線路が確認でる。左奥に見えるのは、現在和光になっている服部時計店の時計塔。今も昔も銀座のシンボル。
道路の両側には看板を掲げた店が建ち並び、人通りも多くさすがに賑わいがある。


<「なつかしの歌声」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎、二葉あき子 最初のレコーディング。
2.石原裕次郎 タフガイ裕次郎の甘い歌声。



     なつかしの歌声

  作詩:西条八十  作曲:古賀政男
  歌:藤山一郎、二葉あき子  (昭和14年)
 
1 銀座の街 今日も暮れて
  赤き灯燃ゆ 恋し東京 恋し東京 
  あの窓この小径 やさしの柳 
  あこがれは悲しき 乙女の涙 
  風よ運べよ いとしの君へ


2 歎きの道 ひとり行けば
  みどりの樹に 鳥はうたう 鳥はうたう 
  やさしく寄り添いし 姿はいずこ 
  おもいでの窓辺に 忘れな草が 
  風に泣いてる きのうも今日も


3 夕焼け空は 君と眺め
  うたいし歌 楽しいメロディー 楽しいメロディー
  うたえば涙ぐみ こころは咽(むせ)ぶ 
  落葉ちる朝(あした)に 雪ふる宵に 
  呼ぶはこの歌 返らぬ涙 




古賀メロディ聴き比べ12:誰か故郷を想わざる

2010年03月01日 | 歌謡曲
 昭和15年(1940年)作詩西條八十、作曲古賀政男が手がけた「誰か故郷を想わざる」が霧島昇の歌でレコード化され、大ヒットした。

切々と故郷への想いを歌ったこの曲は、海外の戦地へ赴いた兵士たちから圧倒的な支持を受け、その後国内で大流行した。
タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。




<「誰か故郷を想わざる」 自選聴き比べ>
1.霧島昇 最初にレコードをだした歌手の歌声。
2.石川さゆり カバー曲。
3.藤山一郎? 台湾の方のカバーかも知れないが、かなり良い歌声。

    誰か故郷を想わざる

  作詩 西条八十 作曲 古賀政男
  歌 霧島昇 (昭和15年)
 
 1 花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   唄をうたった 帰りみち
   幼馴染みの あの友この友
   あゝ誰か故郷を想わざる

 2 ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
   小川の岸で さみしさに
   泣いた涙の なつかしさ
   幼馴染みの あの山この川
   あゝ誰か故郷を想わざる

 3 都に雨の 降る夜は
   涙に胸も しめりがち
   遠く呼ぶのは 誰の声
   幼馴染みの あの夢この夢
   あゝ誰か故郷を想わざる

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