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古賀メロディ聴き比べ1:丘を越えて

2010年01月01日 | 歌謡曲
 古賀メロディは私が歌謡曲を好きになった原点にあたる。子供の頃から折に触れふと耳にしていた歌が半世紀以上たった現在も、耳の奥に根付いているようだ。
複数の歌手で聴き比べてみると、いろんな違いがみえてくる。新たな感性でよみがえる曲もある。古賀メロディは現代にも十分通じるスタンダードナンバーになっている。
多くの古賀メロディの中から好きな20曲を選び、聴き比べを試みた。
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 「丘を越えて」は古賀政男の青春そのものであり、歌手藤山一郎の人気を決定付けた。もとは、「ピクニック」という明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲され、それに島田芳文が詞をつけたものが「丘を越えて」である。歌唱を担当した藤山一郎は、豊かな声量と正確無比な確実な歌唱で古賀政男の青春を高らかに歌い上げている。

ちなみに、伴奏のマンドリンによる前奏が長く、さらに間奏は新たなフレーズの後再び前奏を繰り返すので、伴奏の演奏だけの時間より藤山一郎が歌っている時間の方が短い。

また、『丘を越えて』の曲は古賀政男が明治大学マンドリン倶楽部の後輩と稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに行った際、満開に咲き誇る桜を背に酒を飲み交わし、下宿に戻り、ふと学帽についた一枚の桜の花びらに気がついた。これを見て二度と帰らぬ若さと青春がいとおしくなった。そのとき浮かんだメロディーを愛用のマンドリンを取り弾いてみた。おもしろいようにメロディーがつぎからつぎへと浮かんだ。こうして、『丘を越えて』のメロディーができ上がったという。

 名曲というのは一瞬の感性によって生み出される場合が多いのである。
戦前に作曲された歌だが、戦後の復興期に世の中を明るくするのに、この歌が一役かったように思う。




<「丘を越えて」 自選聴き比べ>
1.藤山一郎 懐かしの写真を見ながら聴きましょう。
2.五木ひろし マンドリン合奏をバックに歌うビデオ。



     丘を越えて

作詩 島田芳文 作曲 古賀政男
歌 藤山一郎 (昭和6年)

 1 丘を越えて行こうよ
   真澄の空は朗らかに
   晴れてたのしいこころ
   鳴るは胸の血潮よ
   讃えよわが青春(はる)を
   いざゆけ遙か希望の 丘を越えて


 2 丘を越えて行こうよ
   小春の空は麗らかに
   澄みて嬉しいこころ
   湧くは胸の泉よ
   讃えよわが青春を
   いざ聞け遠く希望の 鐘は鳴るよ 



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3 コメント

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「丘を越えて」と山田耕作 (メロディ)
2018-04-15 20:23:31
多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品、古賀メロディ。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴  く人の心を捉えて離さない。

『丘を越えて』、歌詞が出てくるまで、沢山の音符で構成された楽譜一枚分の前奏である。ひとの心をとらえないはずがないのだ。

これが当時の主流であった『晋平“節”』と一味違う、新鮮な『古賀“メロディー”』というものかと気ずかなければおかない楽譜である。

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「キャンプ小唄」「丘を越えて」「月の浜辺」「窓に凭れて」などを初め 、童謡など多くの大衆歌謡を手がけた


昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。今でもあちこちで演奏あれ歌われている名曲である。

なお、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。

山田耕作は「明朗性」を表す傑作として高く評価、ヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持ち歩き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。

日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価。

日本における交響楽団の雄たる山田耕筰がその最大の理解者であった事は特質に値する。

専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年(1932)12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。

その前、昭和7年(1932)6月には、古賀政男と山田耕作、二人の作曲家の合作・競作企画、財団法人富民協会の当選歌「農村婦人の唄」の作曲がある。

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《昭和・・「丘を越えて」・・古賀メロディの時代》 (メロディ)
2018-04-18 23:08:18
古賀メロディの時代・・・・、丘を越えて、酒は涙か溜息か、影を慕いて、‥の時代、それは日本の歴史の中でも最も苦難の時代でもあった・・


□昭和6年(1931)
金輸出再禁止。失業者300万人。東北・北海道大凶作、娘身売り。         
満州事変-柳条湖事件。溥儀擁立。       
歌; 「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」。        
□昭和7年(1932)
上海事変。満州国建国。五・一五事件、犬養首相射殺。ドイツ、ナチス第一党に。
歌; 「影を慕いて」「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」「涙の渡り鳥」 。    


昭和6年
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)

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☆萩原朔太郎と古賀メロディ (メロディ)
2018-04-21 00:23:41
『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。


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