錦糸町。昭和41年(1966)に私は時計の精工舎に入社した。思い出の場所である。事務所棟2階の経理部が私の職場だった。
私の定年後、精工舎は解体され今はない。精工舎はセイコー・プレシジョンと名前を変えて平成8年(1996)南船橋に移転している。
この地には新しくショッピングモール「オリナス」が平成18年(2006)誕生している。
今はない精工舎を偲び、オリナスを訪れた。

精工舎事務所ならびに工場の一部
私が入社した時、ほとんどこの写真と変わらないと思う。
精工舎は明治26年現在の墨田区太平に工場を移転し、その後昭和3年に鉄筋コンクリート3階建の懐中時計工場(東館)を竣工、同5年に掛・置時計工場(西館)と四方に時計塔を持つ三階建の事務所棟を完成。さらに昭和9年には南館(第二懐中時計工場)、12年には中央館(工作機械工場)と増築していった。
事務所棟は時計塔を中心に左右対称に建物が広がり、上部が丸くアーチを描いたアールデコ調の窓が近代工場の玄関らしく彩どりを添えていた。当時の錦糸町界隈の建築物はほとんどが木造家屋だったため、その中に白くそびえ立つ時計塔は地域のシンボルにもなっていた。

精工舎 平面図

セイコー時計資料館
時計塔のある事務所棟は昭和52年に新館ができたのを契機に56年セイコー時計資料館に生まれ変わり、以後工場がその役目を終えるまで各種資料が一般公開されていた。(セイコー時計資料館は現在、墨田区東向島3に移転している)世界最大級の時計工場としての保存が期待されたが、平成9年に工場が閉鎖となり、平成13年に東京都都市計画が決定、再開発により、錦糸町のランドマークとして親しまれてきた精工舎は平成14年(2002年)おしくも解体された。

オリナス正面
精工舎の時計塔のある事務所棟跡地付近からオリナスを見上げる。
時計塔ならぬ、新しい時計台がビルに併設されていた。
精工舎を偲ぶ、唯一の風景かも知れない。

オリナス3階南面から錦糸公園テニスコートを望む

オリナス南面は公園を望む休憩コーナーになっている

オリナス東側連絡通路

なつかしいお面売り場を見つけた
私の定年後、精工舎は解体され今はない。精工舎はセイコー・プレシジョンと名前を変えて平成8年(1996)南船橋に移転している。
この地には新しくショッピングモール「オリナス」が平成18年(2006)誕生している。
今はない精工舎を偲び、オリナスを訪れた。

精工舎事務所ならびに工場の一部
私が入社した時、ほとんどこの写真と変わらないと思う。
精工舎は明治26年現在の墨田区太平に工場を移転し、その後昭和3年に鉄筋コンクリート3階建の懐中時計工場(東館)を竣工、同5年に掛・置時計工場(西館)と四方に時計塔を持つ三階建の事務所棟を完成。さらに昭和9年には南館(第二懐中時計工場)、12年には中央館(工作機械工場)と増築していった。
事務所棟は時計塔を中心に左右対称に建物が広がり、上部が丸くアーチを描いたアールデコ調の窓が近代工場の玄関らしく彩どりを添えていた。当時の錦糸町界隈の建築物はほとんどが木造家屋だったため、その中に白くそびえ立つ時計塔は地域のシンボルにもなっていた。

精工舎 平面図

セイコー時計資料館
時計塔のある事務所棟は昭和52年に新館ができたのを契機に56年セイコー時計資料館に生まれ変わり、以後工場がその役目を終えるまで各種資料が一般公開されていた。(セイコー時計資料館は現在、墨田区東向島3に移転している)世界最大級の時計工場としての保存が期待されたが、平成9年に工場が閉鎖となり、平成13年に東京都都市計画が決定、再開発により、錦糸町のランドマークとして親しまれてきた精工舎は平成14年(2002年)おしくも解体された。

オリナス正面
精工舎の時計塔のある事務所棟跡地付近からオリナスを見上げる。
時計塔ならぬ、新しい時計台がビルに併設されていた。
精工舎を偲ぶ、唯一の風景かも知れない。

オリナス3階南面から錦糸公園テニスコートを望む

オリナス南面は公園を望む休憩コーナーになっている

オリナス東側連絡通路

なつかしいお面売り場を見つけた
私は1990年、中途で精工舎に入社しました。
当時も精工舎の雰囲気や建物の佇まいは素敵でしたが、今思うともっと記録を残して置くべきだったなあと思いました。拝見した、資料、平面図も含めて懐かしくてたまりませんでした。
数年前に私も当地を訪れてみましたが、錦糸町も含めて、あの頃の面影が薄くなっていて寂しい思いをしました。
今は遠くに離れていますが、たまに関係者のブログは無いかなと探したりしますが、めったに見つけられません。
取り壊される少し前に現地を見に行きました。再開発された後にも1度行きました。それもずいぶん前です。精工舎も錦糸町も懐かしいです。平面図は最高です。ありがとうございます。また訪れてみたいです。
私は日航機墜落事故の翌年まで約9年ほどはたらいていました。
コンピュータの営業機器部門にいた私は錦糸町から亀戸、八丁堀の貸しビルへと異動して錦糸町へはたまに出かける程度でしたが、楽しい数年を過ごせました。
錦糸公園で開催された運動会や、賃上げのストライキなど懐かしく思い出しました。
今は東北に住んでいて、東京にいくことはめったにありませんが、2年前に久しぶりにあの辺りを歩いたら、面影が全くなくなり、一抹の寂しさを感じました。
時計博物館として残して欲しかったな~と思うのでした(´・_・`)
写真の右手にある精工舎と書かれたのは、確かに給水塔です。
地図には記載されていませんでしたが、右手の通用門を入って右側あたりに給水塔やボイラー室がありました。給水塔には登り梯子がついていて登り降りすることができるようになっており、点検等に使用していたと思います。子どもでもある程度は登り降り可能と思います。ボイラーには簡単な風呂があり、私も徹夜勤務のおりに、ここの風呂に入った思い出があります。
西館や中央館の屋上からは夕方には西方に赤富士を望むことができました。時計塔は事務所と中央館の上にもあって、今では懐かしい思い出です。
私が産まれた時にはもう祖父は亡くなっていましたが祖母から祖父が服部時計店で働いていたことを聞いていました。
私の手元には精工舎事務所、精工舎屋上庭園、精工舎懐中時計組立工場、錦糸公園より見たる精工舎、精工舎置時計組立工場の葉書と精工舎なのかは不明ですが足台がついた文字盤を下にして足台と合わせるとドーム型になる時計があります。
祖父が亡くなった後祖母は福島の実家に戻り私は宮城で産まれました。
祖父との思い出探しに今月8日銀座に行く予定でいました。
祖父の手掛かりを見つけたいと思い検索していたらご主人さんの投稿を見つけコメントさせていただきました。
懐かしいですね。
母が昭和30-36まで働いてました。
メーデーやスキーに行った写真などあり
楽しそうな職場みたいでしたね。
精工舎しか知らない母なもので子供の頃は何かと精工舎でわ、
と聞いて育ちました。
私も近所に住んでいたのであの建物がなくなって寂しく思います。
久しぶりにみれて嬉しく思います。
まさか、精工舎がなくなる日がくるなんて…
さみしいものですね。