テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
(縮小画像はクリックで拡大表示)
「リンクメニュー」(分類別目次)機能付。

森と広場 秋らしくなってきた

2011年09月28日 | 散歩
 猛暑の夏が去り、台風も去り、ここにきてめっきり秋らしくなってきた。
秋晴れの公園を散策した。
一部紅葉が始まっているが、まだまだ秋の始まりだ。


つどいの広場


みどりの里
陸稲が実っていた


花壇


野草園 ヒガンバナ


野草園 木道


千駄堀池


光と風の広場
今日はあまり人が見当たらない


光と風の広場 湧水路


紅葉ごしにパークセンタ


桜の葉の紅葉と千駄堀池


自然観察舎

秋晴れの上野公園

2011年09月24日 | 散歩
 豪雨と強風を残して去った台風15号、二日過ぎた今日はひさしぶりの秋晴れ。
澄み切った青空が広がり、暑くなく寒くなくまさに行楽日和。
今日は三人で上野公園を散策。何度も来ている上野公園をおのぼりさん気分で歩く。
上野東照宮から不忍池を通り下町風俗資料館を見学。
何度も来ているところだが、初めて見るような新鮮な場所もあった。


上野駅(公園口)


公園内はまだ紅葉は早い


見事な銅像!
上野といえば西郷さんの銅像が有名だが、上野動物園そばにあり目立たないが、近くに寄ってみると騎馬にまたがった見事な銅像があった。
明治維新の功労者であり、会津征討の総督(東征大将軍)に任じられ、日本赤十字社にも貢献された、伏見宮邦家親王の第8王子「小松宮彰仁親王」の騎馬像とのこと。


右折すると、上野東照宮へ

上野東照宮
 徳川家康を祀る神社で、寛永4年(1627)、伊賀上野藩主藤堂高虎がみずからの屋敷地に建立するが、家康を崇拝していた3代将軍家光の命により慶安4年に大改築、江戸の象徴、金色殿として現在に残っている。


上野東照宮 大石鳥居
寛永10年 酒井忠世建築奉納。昭和17年国宝指定されている。


水舎門
慶安4年阿部重次建築奉納


石灯篭がたくさん並び壮観


修理中の唐門と拝殿(金色殿) 修理中で実物大写真が掲げられていた!
上野東照宮は、元和二年(1616年)二月駿河城に徳川家康を見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正が危篤の家康鋼の病床で末永く鎮魂出きる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけ高虎の屋敷領地であった上野の山に、寛永四年(1617年)本営を造宮した。
その後三代将軍家光がこの寺院に満足出来ず慶安四年、現在の社殿(金色殿)を造形し以後江戸の象徴とした。
上野東照宮には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られている。
唐門も慶安4年建築です。総金箔の門で、室町、桃山時代の技術を集大成したものとして評価されている。

普段は200円の拝観料を払うだけで内部参観できるのに、現在は修復中で再来年完了予定とのこと。そのときぜひ再訪したい。


『栄誉権現絵馬』 牡丹と狸をあしらったもの。
なぜ、たぬきなのか? 家康が狸と称されたからかも知れないが。社殿向かって左側にある栄誉権現は江戸時代に大奥など安置される各所で災いをもたらし、大正年間に東照宮に寄贈されると災いがなくなったと言われた神様で、「お狸さま」と呼ばれている。
現在では「他を抜く、狸」という縁起から、受験の神様として人気がある。


五重塔(左:境内からは木立に隠れて見えにくい、右:上野動物園内からの映像2011/6/21)
寛永八年に総国佐倉城主土井利勝の奉納によるもの。竣工8年後焼失するが直ちに寛永16年再建され現在に至る。
現在は、上野動物園敷地内にあるので、現在の東照宮からは近寄ることはできない。

上野東照宮を出る


公園道路わきに咲くヒガンバナ


上野大仏
上野公園の桜並木に面した小高い丘に、
明暦、万治年間(1655~61)に木食浄雲という僧により、7メートル程の大仏が建造され、元禄年間(1688~1704)に、輪王寺宮公弁法親王によって、この上に大仏を守る大仏殿が建造された。大正12年(1923)の関東大震災で再び首がもぎ落ちさらに、公園整備のために大仏は取り払われ、あげくのはてに、顔面部以外が戦争用途のために消失するという過酷なな運命を持った大仏。
寛永寺に保管されていた顔の表面部がレリーフ状となって、もともとの場所に安置されたのである。


上野精養軒(左)、鐘楼(右)
上野精養軒は明治5年創業のフランス料理の老舗、ハヤシライスが名物料理だった。
上野の山の時の鐘は、精養軒入口の小高いところにある。所属は東叡山寛永寺。鐘楼が設けられたのは寛文6年(1666)。現在の鐘は天明7年(1787)のものである。今でも正午と朝夕の6時には往時そのままの鐘の音が鳴り響く。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。


これぞ和風自販機! 
上野精養軒から下ったところに、竹塀の中から顔を出す珍しい自販機があった。


花園稲荷
創祀年月は不祥だが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称で、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも呼ばれている。


先日(9/21)の台風15号で倒れた桜の大木の切り株が残っていた。
公園道路の桜並木が綺麗なところ。巨大台風の傷跡だ。


清水観音堂(左)、絵馬(右)
寛永8年(1631年)に京都の清水寺に倣って建立されたお堂で、清水の舞台からは不忍池の蓮池が眺望できたそうだ。


不忍池・弁財天
寛永寺を創建した天海僧正が建立。創建当時のお堂は戦災で消失し、現在の堂は昭和33年(1958年)に再建したもの。ご本尊(八臂大弁財天)は、長寿や福徳・芸能の守りとして信仰されている。


不忍池

昼食タイム。公園からすぐ近くの、そばや「池の端藪蕎麦」を探す。なかなか見つからず、やっと仲町通りに見つけた。


池の端藪蕎麦(湯島3-44-7)
「かんだやぶ」から分家したのが昭和29年、藪蕎麦御三家の一つだが、1番安いとのうわさ。
板わさをつまみにエビスビールで乾杯。ざる二枚を注文。
藪特有の濃いそばつゆ、こしのあるそばは旨かった。

昼食を終え、下町風俗資料館を見学。


下町風俗資料館
関東大震災前のいまだ古き良き江戸の風情をとどめた、東京の下町の路地に囲まれた長屋、商家の家並みなどを再現している。


1F内部


長屋の住人たちの暮らしの場~路地と駄菓子屋の店先


便所(「ご不浄」と言われたころ)、井戸

見学を終え、ぶらり御徒町まで歩く。焼き鳥を探すが、昼間から開いている店が見つからない。やっと・・・


御徒町駅(南口)に近い飲み屋「ボヤキ」で2次会
生ビールと焼き鳥で。
みんなで味わったハイボールは、イマイチだったようだ。
酎ハイで口直し。

モーツァルトCDの風景7:西方への大旅行

2011年09月14日 | モーツァルト
 第三回目の「研鑽と才能披露の旅」に向け、1763年6月9日モーツァルト一家はザルツブルクをあとにした。
ウィーン旅行の際に購入した自家用馬車で一家は旅に出たのである。この旅には従僕のS.ヴィンターが同行した。
 今回はドイツ各地、ベルギー(当時はフランドル)、フランス、イギリス、オランダそしてスイスにまで及び、ザルツブルクには1766年11月29日に戻るという、約3年半にも亘る旅となるのであった。
この旅行はモーツァルト親子が経験した最大規模の旅行となり、俗に「西方への大旅行」と
称されている。モーツァルトは7歳でこの旅行に出発し、故郷ザルツブルクに帰着した時には10歳と10ヶ月になっていた。

<パリ>



メレヴィル城と庭園(フランス)
16世紀に建てられたマナーハウス。18世紀の庭園芸術の傑作。
しかし、一部壊された城を1709年王のメレヴィル侯爵ピエール・デルペシュが再建、息子のジャンがホテルデュパンの塔やヴィエーユ寺院のルネッサンス様式を習って窓や西正面の玄関を飾る。
1784年投資家のジャン・ド・ラボルトは南北の翼を改築しようとして、その庭園の設計からやり直した。

<モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番K.467・ロンドK.382他 ピリス(P)、グシュルバウアー指揮/リスバン・グルベンキアン財団室内管弦楽団 (ERATO WPCC-5273 輸入盤)>
「ピアノ協奏曲 第21番」は第二楽章の絶妙な美しさで知られる名作。名演が多く選択に迷う。
「コンサート・ロンド」はK.175のピアノ協奏曲終楽章をウィーンでの再演時に親しみやすく華やかさを盛り込んだもの。


現在のメレヴィル城

<ロンドン>


ロンドン:ラネラーのトロンダの内部
(Interbi della Rotonda di Ranelagh) 1754年
18世紀イタリアを代表する景観画家カナレット、英国滞在期の著名な傑作『ロンドン:ラネラーのトロンダの内部(ラニラのトロンダ内部)』。
当時、最も賑わっていた行楽庭園のひとつである≪ラネラー・ガーデン≫内へ建てられていたトロンダと呼ばれる円形建造物の舞台・社交施設の内部が画題とされている。
 描かれた10年後に同時代のモーツァルトがこの施設で演奏をおこなったことも知られてる。
画面中央の大支柱を中心に、円状に形成されるトロンダの内部では、当時の最新の流行を取り入れた衣服で着飾った人々が優雅に会話や音楽を楽しんでいる。画面右側に配される音楽演奏者用の席では、今まさに演奏がおこなわれている様子である。

<モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番K.488・第24番K.491 カーゾン(P)、ケルテシュ指揮/ロンドン交響楽団 (DECCA 452 888-2 輸入盤)>
「ピアノ協奏曲 第23番」は全体に流麗極まりなく、嬰ヘ短調で書かれた第二楽章の美しさはたとえようがない。私の特に好きな曲。
「ピアノ協奏曲 第24番」はこの分野の頂点に立つ名作。当時の聴衆の理解を越える表現の深さがある。この曲は現代のピアノと大編成のオーケストラがふさわしい。

ストラヴィンスキーの歌劇「夜鳴きうぐいす」 かつて観たことがない演出

2011年09月09日 | クラシック音楽

 9月3日のNHK-BSプレミアムシアター、ストラヴィンスキー:歌劇「夜鳴きうぐいす」を予約録画していたので、見てみたら人形浄瑠璃のスタイルを取り入れた、あまりの斬新さとすばらしさでびっくり仰天。
こんなオペラ公演なんて、かつて観たことがないほどだ。
なんと舞台の前に大きなプールがあり、出演者は腰まで水につかり演じている。
また出演者ひとりひとりは文楽人形ほどの人形を操りながら演じているのである。
人形の操り方も見事だし、もちろん本職の歌の方もすばらしい。
有名な「春の祭典」の作曲家のオペラであり、生き生きとしたアリアの数々。
セットも衣装も人形も色彩豊かで、それが音楽と妙に溶け込んでいるかのよう。
日本の若手指揮者である大野和士がタクトを振っているのも注目である。


第1幕海岸
歌手がそれぞれ自分と同じ人形を操りながら歌う
 
エクサン・プロバンス音楽祭2010 歌劇「夜鳴きうぐいす」
合唱:リヨン国立歌劇場合唱団
管弦楽:リヨン国立歌劇場管弦楽団
指揮:大野和士
(フランス プロバンス大劇場・2010年6月、7月)

 あらすじは、
中国の皇帝が、森に住む美しい声で鳴くウグイス(ナイチンゲール)を宮廷に招き、聞き惚れる。
ところがある日、宝石に飾られた機械仕掛けのウグイスが贈られ、皇帝はそちらに夢中になり、ウグイスは去ってしまう。
その後、皇帝は重い病にかかり、死を前に美しい歌声を聞きたいと願うが、機械仕掛けのウグイスはとうに壊れてたまま。そこに美しい歌声が…あのウグイスが戻って歌っている。死神も歌声に聞き惚れ、去っていく。
皇帝は生き返り、ウグイスは時々やってくるようになる。

ウグイスとは、サヨナキドリ (小夜啼き鳥)、ナイチンゲールのこと。
別名がヨナキウグイス(夜鳴鶯)という。
アンデルセン童話「ナイチンゲール」が台本のもとになっている。 


第2幕宮廷
プールに船が動き機械仕掛けで羽を動かしたりする
右手奥に指揮者大野和士のうしろ姿が見える。オーケストラ・ピットは演じ手達の奥に陣取っているのだ。


第2幕宮廷
日本からやってきた使者。歌舞伎のこわもてのようだ。


第2幕宮廷
中央:夜鶯(オリガ・ペレチャトコ)右下:皇帝の人形とその歌手(イリヤ・バニク)


第2幕宮廷
日本の皇帝から贈られた機械仕掛けの鶯(中央)に満悦の中国皇帝(右)


第3幕寝室
巨大なガイコツの寝室。ガコツの手足が動き喋りだしたりと奇抜な舞台。
皇帝は重い病にかかり、死を前に美しい歌声を聞きたいと願うが、機械仕掛けのウグイスはとうに壊れたまま。


第3幕寝室
そこに美しい歌声が…あのウグイスが戻って歌っている。死神も歌声に聞き惚れ、去っていく。
皇帝は生き返り、ウグイスは時々やってくるようになる。

45分という短い時間があっという間に過ぎ去ってしまった実に楽しい舞台であった。
ロベール・ルパージュの演出の色彩豊かで奇抜で洗練された舞台に圧倒された。

夏の終わりのテニスコート

2011年09月05日 | テニス
                          (今日のテニスコートと雲)

 台風12号が四国に上陸し、紀伊半島に集中豪雨をもたらし、死者27人、不明者52人に達する惨事となった。

 関東地方でも山間部では雨があるものの、平野部、我々が居住する千葉県松戸市では雨はほとんど降らない。今日は台風の影響のような雲が流れ、湿気が高くムシムシした陽気だ。

テニスのブログ記事は3月以来ひさしぶり。

この間、3月は震災の影響でテニス大半中止。4-6月は私は大腸ポリープ除去手術を行ったため、テニスを半分程休んだ。
また、8月は急な用事と夏カゼで半分休んだ。
このように春から夏にかけて今年はテニスの出席率が極めて良くない。

大腸ポリープ除去手術の影響も今はなくなり、体力回復にと初めてサプリメント(セサミン系)を服用し始めた。

今日、月曜同好会は3回連続休んだあとだったので、少々新鮮な気持ちだった。
湿気が高いせいか、からだのきれがイマイチのようだ。
今年の夏は例年以上に暑い夏のようだった。
9月に入り、残暑の厳しさで特にそれを感じる。

夏場の水分補給と保冷剤はいつも通り。
ボトルの水を前夜から凍らせておいたのが、半分氷になっていて重宝した。

練習ゲームを4ゲーム程こなした。
サーブはまあまあの出来か。ストロークに切れがいまいち。ボレーはわりといい。

まあ、これから秋のベストシーズンなので、調子を上げていきたい。

モーツァルトCDの風景6:ウィーン旅行

2011年09月04日 | モーツァルト
1762年1月(モーツァルト6歳)にミュンヘン旅行したあと、9月には、一家で3ヶ月半、第1回目のウィーンへ出かける。このときのハイライトは、オーストリア女帝陛下マリア・テレジアと皇帝フランツ1世の御前で姉弟で演奏したことである。
女帝は既に有名になりつつあった姉弟をいたく歓迎し、モーツァルトをひざに抱きキッスした、というエピソードがある。


ウィーン ホーフブルク王宮
大広間レドゥーテンザール
1760/10/10に女帝マリア・テレジアの皇太子ヨゼフ2世とイザベラ・ド・パルマの結婚を記念して開かれた音楽会。

<モーツァルト:3つのディヴェルティメントK.439b他 シュタードラー・トリオ (GLOSSA GCD 920602 輸入盤)>
バセットホルン三重奏の形で演奏されている、しっとりと奥深い音色の魅力ある1枚。


中央右端にモーツァルトが描かれている。となりはザルツブルク大司教。
実際にはモーツァルトはこの時来ておらず、のちにモーツァルトの人物画が描き加えられたものだそうだ。


シェーンブルン宮殿
1762年10月13日、6歳のモーツァルトはここで女帝マリア・テレジアらに拝謁した。
御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、モーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)にプロポーズしたという逸話がある。

<モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番K.482・第26番K.537<戴冠式> ビルソン(フォルテピアノ) ガーディナー指揮/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ (ARCHIV POCA-2538)>
「ピアノ協奏曲 第22番」は重厚な大作。ハ短調で書かれた第二楽章が特に優れている。第三楽章には、オペラの一場面を思わせるような変イ長調のアンダンテの部分が挿入されている。
「ピアノ協奏曲 第26番<戴冠式>」は有名だが深味に欠ける曲。あまりに高みへ行ってしまったモーツァルトは聴衆のために再び平易さを考えたようだ。


御前演奏のご褒美として女帝から贈られた大礼服を着たモーツァルト
大礼服は女帝の皇子や皇女の 古着だが、他にも時計や指輪なども贈られたようだ。
一平民のモーツァルト一家にとって、それは身に余る光栄だった。帰郷後に記念に、この栄誉ある服を見に着けさせて描かせたのがこの絵である。

<モーツァルト:初期チェンバロ作品集 エリック・スミス (PHILIPS PHCP-3594)>
「メヌエット ト長調K.001e」は16小節からなっている。冒頭の旋律が後半で展開される仕方に進歩のあとがみられる。典雅な趣のメヌエット。
「四手のためのピアノ・ソナタ ハ長調K.019d」はモーツァルト一家の有名な肖像画で、ナンネルの左手をモーツァルトの右手が越えている。この曲を演奏しているのかもしれない。

ブログセンタ