テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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武蔵国分寺跡からお鷹の道へ

2011年02月26日 | 散歩
 昨日の4月中旬に近い馬鹿陽気から一転、今日は10度近く気温が低くなった。
だが日差しは暖かく散歩するには申し分ない一日である。
卯月の会ではKさんがしばらく散歩はリタイアということになり、Sさんと二人での散歩となった。
新八柱から武蔵野線で西国分寺までちょうど1時間。


西国分寺駅から11時スタート


商店会では”武蔵天平の郷”と名づけている。”国分寺七重塔”も見える。


駅から南にのびる並木道、史跡通りを進む。


武蔵台遺跡公園があり、約4000年ほど前、縄文時代中期の柄鏡形敷石住居跡がこの公園の一角に移設され保存されていた。


さらに南に「旧鎌倉街道」に沿い進む。
鎌倉街道跡として保存されている。鎌倉街道は幕府のあった鎌倉から諸国へ通じる道で、上の道、中の道、下の道があった。ここは上の道の一部で、鎌倉から町田、府中を経てここを通り、上野、信濃に向かっていた。頼朝が狩猟に通った道であり、新田義貞が分倍河原で戦ったときもこの道を南下した。


ここ旧鎌倉街道は静かな雑木林の切通し道で、歩いていてとても気持ちが良いところだ。


旧鎌倉街道の終点か。ここから見ると切通しであることがよくわかる。
右手側はJR武蔵野線が並行して走っている。


黒鐘公園、旧鎌倉街道の終点にあり、ローラースベリ台で子供たちが楽しく遊んでいた。


国分尼寺跡
鎌倉街道のゆるい坂道を下ると国分尼寺跡につく。聖武天皇の発願により国分僧寺と共に国毎に建てられた。今では発掘調査も終わって、中門、金堂、尼坊跡も判明し、それらの礎石もきれいに復元・整備され、国分寺市立歴史公園として開放されている。


尼坊跡の礎石から金堂方向を望む


国分尼寺跡全景(金堂跡(左手)、尼坊跡(右手))


武蔵国分寺跡
天平13年(741年)、当時流行った疫病の平癒や政治の混乱を治めるため聖武天皇の発願で、国毎に国分寺が建てられた。伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際焼失したと伝えられている。昭和31年(1956年)から発掘調査が始められ、現在も続いているが、調査の結果、その規模は全国でも最大級のものとされている。


金堂跡では発掘調査中


国分寺碑(左)と現在の国分寺(右手奥)

昼食時間になったので、北方面約300m行ったところにある、そばやを目指す。


そばや「山泉」で昼食
鴨塩焼きをつまみにエビスビールで乾杯!
十割そばのおおもりを注文、これがまたうまい!そばの香りとこしも良い。
江戸前風の濃いそばつゆに少しつけてそばを食べる、最高だった。

再び国分寺境内に戻る。


国分寺薬師堂
北側の裏手から入ると、薬師堂があった。これは建武2年(1335年)に新田義貞の寄進により、国分寺金堂跡に建立されたもので、その後宝暦年間に現在地に再建されたという。


現在の国分寺
正式名称は医王山最勝院国分寺といい新義真言宗のお寺。


本堂わきのしだれ梅


国分寺万葉植物園
境内は万葉植物園となっている。これは万葉集に歌われた植物を、昭和25年から38年までの13年間にわたって、当時の住職星野亮勝氏が集めたもので、植物の横に歌と簡単な紹介が添えられている。植物は当地で栽培できるものばかり160種ほど集められている。


境内の梅


国分寺楼門
立派な楼門で、元は東久留米市にある米津寺の楼門であったが、明治28年(1895年)に移築されたもの。


武蔵国分寺跡資料館
おもに史跡武蔵国分寺跡の出土品を展示して、これまでの発掘調査の成果や、市内の文化財、史跡武蔵国分寺跡の整備事業などを紹介している。


武蔵国分寺の展示ジオラマ
七重塔が大きくそびえているのが印象的だ。


武蔵国分寺の出土瓦


お鷹の道
現国分寺から東へ向かう。住宅街の中を細い流れに沿って遊歩道が整備されている。夏には蛍が飛び交うという。
江戸時代、この辺りは尾張徳川家の御鷹場になっていた。それでこの清流沿いの道を「お鷹の道」と呼ばれるようになった。


お鷹の道が続く


お鷹の道を左に折れ真姿の池湧水群に向かう


真姿の池
小さな池がある。池の真ん中の島に祠宇があり、弁天様が祀られている。ここには真姿の名のいわれの伝説がある。
真姿の池の名の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21回参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという説から来ている。


真姿の池でサギ(チュウサギか)が近くに


真姿の池湧水群
真姿の池の前の流れには国分寺崖線下の湧水が出ていた。きれいな水で、環境庁の名水100選に選ばれており、都の名勝に指定されている。


お鷹の道に戻りさらに東へ進む。
この湧水路にはホタルが住むという。


東に進むと不動橋につく。
今日の最終目的地・殿ヶ谷戸庭園はもうすぐ。


殿ヶ谷戸庭園
大正2年から4年にかけて、後の満鉄副総裁江口定條が別邸として設けたものを、昭和14年に三菱財閥の岩崎彦弥太が買い取って和洋折衷の回遊式林泉庭園とした。さらに昭和49年に東京都が買収して開園した。

庭園の中心部


庭園内の竹林がここの特徴でもある。


崖線から湧き出す水が豊富で、武蔵野に自生する植物や昆虫も数多く見られる。
国分寺崖線(通称ハケ)と呼ばれる崖地を巧みに利用した。


福寿草とこもかぶりの木

殿ヶ谷戸庭園を出て国分寺駅に15時前に着く。

散歩をリタイアしたKさんと八柱に16時に待ち合わせて、「大漁船」で飲み会。
足のしびれは糖尿からきているようで、しばらく散歩は無理のよう、
お酒も普段は控えており、たまにならよさそうだ。
散歩みやげ話もしながら、楽しい一時を過ごした。

松戸坂川河津桜と戸定邸の梅

2011年02月19日 | 散歩
 今日は松戸の河津桜と梅。 
松戸神社にお参りし、神社わきを流れる坂川沿いに植えられている河津桜と、近くの戸定邸の梅を見に出かけた。


松戸神社
絵馬はスペースシャトルが描かれている
松戸出身の山崎宇宙飛行士をイメージしている

《 坂川河津桜 》

坂川河津桜まつりが始まっていた


橋にかかる垂れ幕


もちつきが行われていた


河津桜は満開の木もあった


桜の木に俳句の短冊が架かっていた
「我が友と河津桜に夢を抱く」


近くで見ると淡い桃色が綺麗だ


メジロが夢中で花をついばんでいた

次の戸定邸に向かう

《 戸定邸 》

戸定邸の入口


戸定歴史館前
手前に「ひなげしの小桂」の歌碑が見える
松戸ゆかりの歌人・与謝野晶子を記念して
園内に歌碑19基が置かれている。
歌人・与謝野晶子は大正時代に千葉県立高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)を訪れ、60首の短歌を詠んだという。歌碑のならぶ散策路は「ひなげしの小径」と名付けられた。「松戸シティガイド」ボランティアが、ガイド創立十周年を記念して計画した。


梅園に歌碑が点在する

歌碑全部は紹介しきれないので、印象に残った2基を紹介する。


歌碑のひとつ
「天に去る 薔薇のたましひ 地の上に 崩れて 生くる ひなげしの花」


歌碑もうひとつ
「花下総の 松戸に見れば 散る雲も 柳絮(りゅうじょ)のごとく なつかしきかな」(柳絮は柳の小さい種をいう)


庭園


梅園全景
白梅は満開、紅梅はまだ早い


白梅・紅梅


紅梅をアップで


戸定邸の客間
戸定邸は幕府最後の将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武が後半生を過ごした別邸で、明治17年に建設された。実兄で最後の将軍、徳川慶喜もよく訪れたところだ。


客間からすぐ左手に見えるのが緑額梅


緑額梅


松・サルスベリ・ネズミモチが合体した珍しい木もある

松戸小金北地区の散策

2011年02月13日 | 散歩
 昨日一昨日の小雪が降る寒い日から今日は一転晴天に恵まれた。
今日は広報に載っていた「緑のネットワーク・まつど」主催の、
「歴史薫るみどり 本土寺周辺~大谷口歴史公園をあるく」に参加した。


北小金駅(北口)
9:30に北口に集合し東平賀公園までゆく。


本土寺参道入り口


東平賀公園で散歩順序の説明がある。
人数が多いので3班に分かれて行動するようだ。
ここは東平賀貝塚の発掘地、
現在、江戸川が流れる低地は、かつて奥東京湾と呼ばれる遠浅の海だった。縄文人達が海から採ってきて食べた貝塚を長年にわたり捨てた結果、この貝塚ができた。


下総台地の地図での説明があり、今日の散歩は台地のヘリを上り下りするのが特徴のようで興味深いものになりそうだ。


本土寺参道の桜並木をゆく


本土寺仁王門


本土寺五重塔が見える


木造三階建ての実相閣


角の家の前に立つ巨木


三叉路に建つ碑を覗いている


聖徳太子の碑(左)、青面金剛の碑(右)
聖徳太子が法隆寺や四天王寺等の寺院建築に関係が深かったことから、大工などの職人たちの信仰対象となり供養塔として建てられた。
青面金剛(庚申塔)は近世民間信仰として盛んだった仏教系庚申信仰の主尊であり、二世安楽を願う供養塔で、道しるべの役割も担っている。

大八車の車輪が壁にはめ込まれている、めずらしい光景


幸田第一公園(幸田貝塚)
市史跡に指定されているこの貝塚は、今から6000年前の縄文時代前に形成された貝塚。


貝塚を示す案内板


公園内での説明風景


公園の隅で見つけた貝


華厳寺
真言宗の寺院で 法峯山(ほうぶざん)地蔵院華厳寺。本尊は、地蔵菩薩。松戸七福神の中の一つ弁財天が祀られている。


華厳寺から富士山を眺める


梅林


坂大師供養塔付近
坂川の奥に東洋学園大学が建っている


坂大師供養塔
明治時代の中期に立てられた供養塔で、息子の冥福を祈って両親が建立。当時は坂の途中に建立されていたことから坂大師と名付けられ、昭和に入り区画整理によって現在の場所に移されたという。


浅間公園


医王寺
日照山(にっしょうざん)医王寺というのが正式な名称。不動明王を本尊として祀る真言宗のお寺。松戸七福神の中の一つ毘沙門天を祀っている。


医王寺本堂としだれ梅


おみくじの矢


めずらしい猫の石像


中金杉の曲がり角
崖になっており、流山市から新松戸にかけて一望できるところ
遠くに富士山と東京スカイツリーを望むことができた


広徳寺
金龍山(きんりゅうざん)広徳寺というのが正式な名称。 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を本尊として祀る曹洞宗の寺で、 高城胤忠(たかぎたねただ)によって 寛正(かんしょう)3年(1462年)栗ヶ沢(松戸市)の地で開山後、天文6年(1537年)に 高城(たかぎ)氏が大谷口に小金城を築城して移ると同時に現在の場所に移建した。高城氏の菩提寺であるこのお寺の境内左手奥の高台には、市史跡に指定されている高城氏の墓所( 胤忠(たねただ)・胤広(たねひろ)・胤吉(たねよし)・ 胤辰(たねとき)・胤則(たねのり)等)とその家臣達の墓所がある。


広徳寺境内にある香椿(ちゃんちん、中国産) 別名:唐変木(とうへんぼく)
境内は樹木も多く、トウヘンボクなど珍しい木もある。


高城氏の墓所


大谷口歴史公園の全景が見えてくる
戦国時代に東葛地方を支配した 高城(たかぎ)氏の居城(天文6年(1537)築城)小金城(小金大谷口城ともいう)跡を一部整備し、平成9年に開園。公園内には、城の遺構( 畝堀(うねぼり)・障子堀・土塁など)が保存され、樹木も多い公園。小金城は、自然の谷津と空堀を複雑に組み込んだ平山城形式の城郭で、その規模は、東西800m、南北600mにも及び、下総では大きい部類の城郭である。


障子堀


土塁


畝堀


金杉口跡
小金城北側の入口である 金杉口(かなすぎぐち)。

大谷口歴史公園をあとにし大金平に戻る。


大金平の碑
巨大な記念碑が目に入った。高さが二階家位あり、内容を見てみると、石碑を建てた人は、松本清氏。そうあのドラッグストアー『マシモトキヨシ』の初代社長。そして記念碑の内容は、この大金平の開墾の偉業のようだ。近所には、松本清記念会館もあった。

集会所(天神庵)で学習会
主催者側の説明と質疑応答。
この界隈のみどりについては寺と公園が点でつながっており、自然の里山は見られなかった。宅地化も進んでおり、これからどう緑化していくか課題のようだ。
14:30解散

解散後、北小金駅に向かう道すがら、小金城達磨口に立ち寄った。


小金城達磨口
小金城は、自然の谷津と空堀を複雑に組み込んだ平山城形式の城郭であり、4つの 虎口(こぐち)(入口)を持っていた。その一つがこの達磨口。


小金城達磨口にあった小金城復元略絵図

すこし歩いて北小金駅に到着15時過ぎだった。

森と広場 春のきざし

2011年02月04日 | 散歩
 3月中旬を想わせる春の日差し、風邪もなく穏やかな一日である。
ひと月ぶりに森と広場を散歩した。
今日は近所の散歩の延長だったので、いつものデジカメは持参しなかった。
そこで携帯電話のカメラ撮影した画像をブログに載せることにした。

 昨年秋に入手した携帯が、わりとカメラ機能が優れていて、設定では撮影サイズが2M、1920×1080ドット なのである。最大5Mまで可能だが、どうせブログには580×400程度に圧縮して載せているため、これで十分である。



梅園、梅の花は見ごろを過ぎたかな


白梅ごしに茶屋が


蝋梅が満開だ


水ぬるむ、みどりの里の小川


小川にいたコサギを間近にみる


春めいてきた、広場の橋を望む


おだやかな千駄堀池


桜のつぼみもふくらんできた


自然観察舎からの眺め、アオサギがえさをついばんでいた


わた畑の白いわたは春らしい雰囲気だ

ブログセンタ