昨日の4月中旬に近い馬鹿陽気から一転、今日は10度近く気温が低くなった。
だが日差しは暖かく散歩するには申し分ない一日である。
卯月の会ではKさんがしばらく散歩はリタイアということになり、Sさんと二人での散歩となった。
新八柱から武蔵野線で西国分寺までちょうど1時間。
西国分寺駅から11時スタート
商店会では”武蔵天平の郷”と名づけている。”国分寺七重塔”も見える。
駅から南にのびる並木道、史跡通りを進む。
武蔵台遺跡公園があり、約4000年ほど前、縄文時代中期の柄鏡形敷石住居跡がこの公園の一角に移設され保存されていた。
さらに南に「旧鎌倉街道」に沿い進む。
鎌倉街道跡として保存されている。鎌倉街道は幕府のあった鎌倉から諸国へ通じる道で、上の道、中の道、下の道があった。ここは上の道の一部で、鎌倉から町田、府中を経てここを通り、上野、信濃に向かっていた。頼朝が狩猟に通った道であり、新田義貞が分倍河原で戦ったときもこの道を南下した。
ここ旧鎌倉街道は静かな雑木林の切通し道で、歩いていてとても気持ちが良いところだ。
旧鎌倉街道の終点か。ここから見ると切通しであることがよくわかる。
右手側はJR武蔵野線が並行して走っている。
黒鐘公園、旧鎌倉街道の終点にあり、ローラースベリ台で子供たちが楽しく遊んでいた。
国分尼寺跡
鎌倉街道のゆるい坂道を下ると国分尼寺跡につく。聖武天皇の発願により国分僧寺と共に国毎に建てられた。今では発掘調査も終わって、中門、金堂、尼坊跡も判明し、それらの礎石もきれいに復元・整備され、国分寺市立歴史公園として開放されている。
尼坊跡の礎石から金堂方向を望む
国分尼寺跡全景(金堂跡(左手)、尼坊跡(右手))
武蔵国分寺跡
天平13年(741年)、当時流行った疫病の平癒や政治の混乱を治めるため聖武天皇の発願で、国毎に国分寺が建てられた。伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際焼失したと伝えられている。昭和31年(1956年)から発掘調査が始められ、現在も続いているが、調査の結果、その規模は全国でも最大級のものとされている。
金堂跡では発掘調査中
国分寺碑(左)と現在の国分寺(右手奥)
昼食時間になったので、北方面約300m行ったところにある、そばやを目指す。
そばや「山泉」で昼食
鴨塩焼きをつまみにエビスビールで乾杯!
十割そばのおおもりを注文、これがまたうまい!そばの香りとこしも良い。
江戸前風の濃いそばつゆに少しつけてそばを食べる、最高だった。
再び国分寺境内に戻る。
国分寺薬師堂
北側の裏手から入ると、薬師堂があった。これは建武2年(1335年)に新田義貞の寄進により、国分寺金堂跡に建立されたもので、その後宝暦年間に現在地に再建されたという。
現在の国分寺
正式名称は医王山最勝院国分寺といい新義真言宗のお寺。
本堂わきのしだれ梅
国分寺万葉植物園
境内は万葉植物園となっている。これは万葉集に歌われた植物を、昭和25年から38年までの13年間にわたって、当時の住職星野亮勝氏が集めたもので、植物の横に歌と簡単な紹介が添えられている。植物は当地で栽培できるものばかり160種ほど集められている。
境内の梅
国分寺楼門
立派な楼門で、元は東久留米市にある米津寺の楼門であったが、明治28年(1895年)に移築されたもの。
武蔵国分寺跡資料館
おもに史跡武蔵国分寺跡の出土品を展示して、これまでの発掘調査の成果や、市内の文化財、史跡武蔵国分寺跡の整備事業などを紹介している。
武蔵国分寺の展示ジオラマ
七重塔が大きくそびえているのが印象的だ。
武蔵国分寺の出土瓦
お鷹の道
現国分寺から東へ向かう。住宅街の中を細い流れに沿って遊歩道が整備されている。夏には蛍が飛び交うという。
江戸時代、この辺りは尾張徳川家の御鷹場になっていた。それでこの清流沿いの道を「お鷹の道」と呼ばれるようになった。
お鷹の道が続く
お鷹の道を左に折れ真姿の池湧水群に向かう
真姿の池
小さな池がある。池の真ん中の島に祠宇があり、弁天様が祀られている。ここには真姿の名のいわれの伝説がある。
真姿の池の名の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21回参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという説から来ている。
真姿の池でサギ(チュウサギか)が近くに
真姿の池湧水群
真姿の池の前の流れには国分寺崖線下の湧水が出ていた。きれいな水で、環境庁の名水100選に選ばれており、都の名勝に指定されている。
お鷹の道に戻りさらに東へ進む。
この湧水路にはホタルが住むという。
東に進むと不動橋につく。
今日の最終目的地・殿ヶ谷戸庭園はもうすぐ。
殿ヶ谷戸庭園
大正2年から4年にかけて、後の満鉄副総裁江口定條が別邸として設けたものを、昭和14年に三菱財閥の岩崎彦弥太が買い取って和洋折衷の回遊式林泉庭園とした。さらに昭和49年に東京都が買収して開園した。
庭園の中心部
庭園内の竹林がここの特徴でもある。
崖線から湧き出す水が豊富で、武蔵野に自生する植物や昆虫も数多く見られる。
国分寺崖線(通称ハケ)と呼ばれる崖地を巧みに利用した。
福寿草とこもかぶりの木
殿ヶ谷戸庭園を出て国分寺駅に15時前に着く。
散歩をリタイアしたKさんと八柱に16時に待ち合わせて、「大漁船」で飲み会。
足のしびれは糖尿からきているようで、しばらく散歩は無理のよう、
お酒も普段は控えており、たまにならよさそうだ。
散歩みやげ話もしながら、楽しい一時を過ごした。
だが日差しは暖かく散歩するには申し分ない一日である。
卯月の会ではKさんがしばらく散歩はリタイアということになり、Sさんと二人での散歩となった。
新八柱から武蔵野線で西国分寺までちょうど1時間。
西国分寺駅から11時スタート
商店会では”武蔵天平の郷”と名づけている。”国分寺七重塔”も見える。
駅から南にのびる並木道、史跡通りを進む。
武蔵台遺跡公園があり、約4000年ほど前、縄文時代中期の柄鏡形敷石住居跡がこの公園の一角に移設され保存されていた。
さらに南に「旧鎌倉街道」に沿い進む。
鎌倉街道跡として保存されている。鎌倉街道は幕府のあった鎌倉から諸国へ通じる道で、上の道、中の道、下の道があった。ここは上の道の一部で、鎌倉から町田、府中を経てここを通り、上野、信濃に向かっていた。頼朝が狩猟に通った道であり、新田義貞が分倍河原で戦ったときもこの道を南下した。
ここ旧鎌倉街道は静かな雑木林の切通し道で、歩いていてとても気持ちが良いところだ。
旧鎌倉街道の終点か。ここから見ると切通しであることがよくわかる。
右手側はJR武蔵野線が並行して走っている。
黒鐘公園、旧鎌倉街道の終点にあり、ローラースベリ台で子供たちが楽しく遊んでいた。
国分尼寺跡
鎌倉街道のゆるい坂道を下ると国分尼寺跡につく。聖武天皇の発願により国分僧寺と共に国毎に建てられた。今では発掘調査も終わって、中門、金堂、尼坊跡も判明し、それらの礎石もきれいに復元・整備され、国分寺市立歴史公園として開放されている。
尼坊跡の礎石から金堂方向を望む
国分尼寺跡全景(金堂跡(左手)、尼坊跡(右手))
武蔵国分寺跡
天平13年(741年)、当時流行った疫病の平癒や政治の混乱を治めるため聖武天皇の発願で、国毎に国分寺が建てられた。伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際焼失したと伝えられている。昭和31年(1956年)から発掘調査が始められ、現在も続いているが、調査の結果、その規模は全国でも最大級のものとされている。
金堂跡では発掘調査中
国分寺碑(左)と現在の国分寺(右手奥)
昼食時間になったので、北方面約300m行ったところにある、そばやを目指す。
そばや「山泉」で昼食
鴨塩焼きをつまみにエビスビールで乾杯!
十割そばのおおもりを注文、これがまたうまい!そばの香りとこしも良い。
江戸前風の濃いそばつゆに少しつけてそばを食べる、最高だった。
再び国分寺境内に戻る。
国分寺薬師堂
北側の裏手から入ると、薬師堂があった。これは建武2年(1335年)に新田義貞の寄進により、国分寺金堂跡に建立されたもので、その後宝暦年間に現在地に再建されたという。
現在の国分寺
正式名称は医王山最勝院国分寺といい新義真言宗のお寺。
本堂わきのしだれ梅
国分寺万葉植物園
境内は万葉植物園となっている。これは万葉集に歌われた植物を、昭和25年から38年までの13年間にわたって、当時の住職星野亮勝氏が集めたもので、植物の横に歌と簡単な紹介が添えられている。植物は当地で栽培できるものばかり160種ほど集められている。
境内の梅
国分寺楼門
立派な楼門で、元は東久留米市にある米津寺の楼門であったが、明治28年(1895年)に移築されたもの。
武蔵国分寺跡資料館
おもに史跡武蔵国分寺跡の出土品を展示して、これまでの発掘調査の成果や、市内の文化財、史跡武蔵国分寺跡の整備事業などを紹介している。
武蔵国分寺の展示ジオラマ
七重塔が大きくそびえているのが印象的だ。
武蔵国分寺の出土瓦
お鷹の道
現国分寺から東へ向かう。住宅街の中を細い流れに沿って遊歩道が整備されている。夏には蛍が飛び交うという。
江戸時代、この辺りは尾張徳川家の御鷹場になっていた。それでこの清流沿いの道を「お鷹の道」と呼ばれるようになった。
お鷹の道が続く
お鷹の道を左に折れ真姿の池湧水群に向かう
真姿の池
小さな池がある。池の真ん中の島に祠宇があり、弁天様が祀られている。ここには真姿の名のいわれの伝説がある。
真姿の池の名の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21回参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという説から来ている。
真姿の池でサギ(チュウサギか)が近くに
真姿の池湧水群
真姿の池の前の流れには国分寺崖線下の湧水が出ていた。きれいな水で、環境庁の名水100選に選ばれており、都の名勝に指定されている。
お鷹の道に戻りさらに東へ進む。
この湧水路にはホタルが住むという。
東に進むと不動橋につく。
今日の最終目的地・殿ヶ谷戸庭園はもうすぐ。
殿ヶ谷戸庭園
大正2年から4年にかけて、後の満鉄副総裁江口定條が別邸として設けたものを、昭和14年に三菱財閥の岩崎彦弥太が買い取って和洋折衷の回遊式林泉庭園とした。さらに昭和49年に東京都が買収して開園した。
庭園の中心部
庭園内の竹林がここの特徴でもある。
崖線から湧き出す水が豊富で、武蔵野に自生する植物や昆虫も数多く見られる。
国分寺崖線(通称ハケ)と呼ばれる崖地を巧みに利用した。
福寿草とこもかぶりの木
殿ヶ谷戸庭園を出て国分寺駅に15時前に着く。
散歩をリタイアしたKさんと八柱に16時に待ち合わせて、「大漁船」で飲み会。
足のしびれは糖尿からきているようで、しばらく散歩は無理のよう、
お酒も普段は控えており、たまにならよさそうだ。
散歩みやげ話もしながら、楽しい一時を過ごした。