副題は、心理学と哲学のあわいに探る臨床の知。初版は2003年で、2009年に6刷が出ている。
鷲田清一氏は、最近発見した案配だが、河合隼雄との対談ということでは、これは、ぜひとも読んでみたいということで。
これもまた重要な書物である。
冒頭、河合は、「臨床の知」と題して次のように記す。
「そのうち生身の人間を相手にして、現実に生きる問題について共に考えてゆくことは、「近代科学」とは異なる方法をとらざるを得ず、それが科学でないからと言って、間違いとか駄目というのではない、という考えがだんだんと明確になってきた。ただ、これを他人に伝えるときに、どのように言うかについて悩んでいるときに、哲学者の中村雄二郎さんによる『臨床の知とは何か』(岩波新書)が大きい助けとなった。
世界を自分から切り離して観察し研究する近代科学による知に対して、人間はどうしても自分との関連において、あるいは、自分をも入れこんだものとして世界をいかに観るかということが必要である。後者が「臨床の知」にかかわってくる。そうなると、世界の個々のことを一義的に定めることはできず、極めて多層的、多義的になってくる。したがって、概念化して考えることよりも、いかにそれとかかわるのか、なにをするのか、ということが大切になってくる。これらのことを、中村雄二郎さんは極めて明快に、筋道を立てて論じ、「臨床の知」の有用性を示してくれる。
これに力を得て、私も「臨床心理学」を、ひとつの学問として大学で教え、研究することができるようになった。そのようなときに、鷲田清一さんの「臨床哲学」が出現してきた。これも私にとって実に嬉しく有難いことであった。」(10ページ)
私にとって「臨床」という言葉は非常に大切な言葉で、それは、哲学者・中村雄二郎と精神分析家、臨床心理学者・河合隼雄に学んだものだ。
そして、いま、鷲田清一という哲学者が現れた。
上に引いた河合隼雄の言葉は、まさしく、この本が読むべき書物であることを示している。ということで、この本の紹介はおしまい、ということにしてもよいところだ。
中村雄二郎は、1925年生まれ、河合は1928年、鷲田は1949年生まれとのこと。私の父が1926年(大正15年)生まれで、私が1956年。
中村雄二郎を読んでいれば、あえて、鷲田清一は読む必要がない、としばらく決めつけていた。
しかし、私の父の世代の中村、河合のあと、私の少し先輩にあたる鷲田清一を読む意義を言わば再発見した。
それは、その哲学が「臨床哲学」であることに関わる。学問は、常にその都度臨床の学として立ち上がることが必要だ、みたいな。
少しわき道にそれるが、舞台の演出家の「ダメだし」について考えたことがあって、ある舞台を、また、小さくいえばあるシーンの演技を成り立たせるため、演出家は「ダメだし」を行う。言葉を使って、役者を指導する。
その言葉が、どうも必ずしも一貫しない。以前と今回とで、違うことを言う。相反する、矛盾していることを言っていることすらある。
しかし、だから「ダメ」なのか、というと、実は、全くそんなことはないのだ、と思う。
役者の存在にことばを当てて行くとき、演出家は、一方からのみ役者を見るのではない。多方面から役者を見て行く。空間としての多方面というだけでなく、誰かの子であり、父母であり、友人であり、仲間であり、敵対者であり、あるグループのメンバーであり、他のグループのメンバーであり、観客から見られる対象であり、舞台上の役者たちの中で働きかけ働きかけられる要素であり、云々云々…
役者が舞台上でよりよく存在するために、最も有効な言葉を、演出家は選択して使おうとする。もっとも有効な言葉を役者に当てて行こうとする。その言葉は、その時点における、その場所における最適な言葉であり、その場での真理である、ことを目指すものだ。役者の多面性のうち、その場でもっとも必要な方向から言葉を投げ、当てて行く。だから、いま言ったことと、昨日言ったことが矛盾する場合がある。極端な場合、ついさっき言ったことと、矛盾することを言うことすらある。
役者の側が、それを矛盾とあげつらう場合もあるだろう。しかし、演出家の意図を的確につかむ弟子もいる。良き役者は、その場その場で、良き受け止め方をする。良き受容をする。良き受動の知を働かせる。
ここに、良き臨床の知が作動している、ということになるのだろう。
と、脇道が長くなってしまった。
さて、世に講壇哲学という言葉がある。大学の中の哲学。大学の講義として講じられる学問としての哲学。静かに着席して聴き耳を立てる(あるいは振りをして居眠りする)学生を前にして、偉い教授が黒板を背に、講壇の前に立って、何年も使い古したノートをめくりながら、小難しい専門の術語を振りまわし、学生が理解しているか否かなどお構いなしに一方的に時間まで語り続ける、みたいな。
哲学というのは、そういうものというふうに一般には思いこまれているのかもしれない。
しかし、哲学とは、そういうものではない。もっとビビッドなもの、その場その場の現場感あふれるもの、のはずなのだ。
「哲学は本来ダイアローグなのに、知らない間にモノローグになってしまった。」(鷲田 28ページ)
ダイアローグとは、対話、モノローグとは、独語。偉い先生が、一方的に語り、教え込もうとするもの。
「哲学する前に、哲学学があまりにすごいのができてきたから、皆哲学することが下手になって来て。」(河合 30ページ)
「哲学学」というのは、これまでの人類の歴史の中での哲学の歴史をまとめ、書物として書かれた知識をまとめた、膨大な分量の学びきれない情報の総体、というか。講壇哲学、という言いかたとほぼ同義であろう。
「哲学学の方は日本は相当レベルが高く、ヨーロッパに負けないくらいですけどね。本当にヨーロッパの哲学の精神を一人ひとりの市民がやるのは、やっと今これからだと思うんです。」(鷲田 32ページ)
哲学学とは、近寄りがたい、冷たい、極端に言えば死んだ知識。それに対して、もっと生き生きとしたあたたかい、現場の知恵、のようなもの。
ただし、念のため言っておけば、そういう「哲学学」が無用だというわけではない。それも、重要なものである。そういう蓄積があってこその現在である。
これまでの蓄積を学ぶことが、今の現場での判断に的確な道筋を与えてくれる。
しかし、それにしても、世界から自分を切り離して、距離を置いて方法を確立してから現場に当たるというわけにはいかないこと。現場で実際に対処しながら方法論を立てて行くことが必要なことである、というような。
科学の限界、科学的手法の限界。
経済学もその限界の内にある。
先端の科学は、実は、自身の限界を知っている。生半可な似非科学こそ、限界を知らず、常に明晰判明な論理として、成り立っていると勘違いしてしまう。「エヴィデンス」、明晰な証拠を振りかざす。
世の経済学も、この限界のうちにあることは実は明白である。
「河合 経済学でも方法論を確立したら、すごい経済学ができますわね。
鷲田 でも、経済自体は全然当たらないというのが最近分かってきまして。
河合 このごろバレて来たでしょう?」(131ページ)
ここでの河合の言葉は、「方法論が本当の意味で確立できたら、それはすごいものになるが、実際のところは、そんな明晰な方法論などは、あらかじめ確立することなどできない」ということである。だから、「全然当たらない」ということが「最近バレテきている」ということになるものだ。
経済学は、どこまで行っても仮説であり、その適用は、常に博打である。
われわれは、そのことを踏まえておく必要がある。経済学を信じすぎてはいけない。
この場合には、経済学、というよりは、金融工学、といったほうが正確か。
というようなことで、河合隼雄氏は、すでにお亡くなりになり、中村雄二郎氏も、著作が途絶え、動静も伝わらないなかで、私にとって少し先輩に当たる鷲田清一氏の哲学は、フォローしていくべき先達であり、学ぶべき対象である、ということが明らかになった、ということになる。
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