熊野純彦氏は、久しぶり、となる。これまで何冊か読ませてもらっているが、このブログに読書の記録を書くようになってからは、はじめてのようだ。
本棚を見ると、「レヴィナス 移ろいゆくものへの視線」(岩波書店1999年)、「レヴィナス入門」(ちくま新書1999年)、「西洋哲学史 古代から中世へ」(岩波新書2006年)、「西洋哲学史 近代から現代へ」(岩波新書2006年)と4冊あった。10年以上経過したということか。
レヴィナスと言えば、内田樹ともなるが、そちらも含め、読んで、ああ何かわかったぞ、という感覚は持てないでいる。
熊野氏の「西洋哲学史」については、おお、力作をものされた、と思ったものである。
西洋哲学史と言えば、余談になるが、先日オープンダイアローグジャパンの講演会で、國分功一郎氏が講演されて、ソクラテスが、肉体と道具の関係について、使うものと使われるもの、能動と受動の対立のはてに、肉体の外に魂なるものを持ちだした、と語られた。神が人間を操っているのと同じように、魂が肉体を使っているのだと、ソクラテスが語っていたのだ、と。
もちろん、魂が能動で、肉体は受動だという区分になる。能動vs受動図式の根は深い、というべきである。
と、ここらは、別に、先日のオープンダイアローグの講演会の報告は書きたいと思っているので、そちらに譲る。というか、この場では、そもそもが余談である。
「世界革命はこれまで二度おこっている、一度目は一八四八年であり、二回目は一九六八年のことだった、と言われます。Ⅰ・ウォーラ―ステインの言葉です。」
この本の冒頭は、こう始まる。
1848年の世界革命か。
いわゆるフランス革命は、1789年に始まって、ナポレオン帝政、王政復古などを経て、この年はいわゆる2月革命か。
しかし、このあと、ルイ・ナポレオンの第2帝政期に入って、なんというか、市民革命も、その後一直線で民主主義が実現していったというわけではないのだな。
この1848年のフランスでの革命は、その後、ドイツやイタリアはじめヨーロッパ各地に影響し、伝播され、まあ、ほぼヨーロッパの枠内なのだろうが、世界革命とも呼ばれるような状況を呈したということか。
現代の民主主義、資本主義の世の中が成立していくうえでの重要なエピソードということにはなるのだろう。
しかし、改めて、ウィキペディアで、経過をたどり直すと、いわゆる民主派といえばいいか、そういう一派と、それに対する王政復古を求める王党派の力もずいぶん強かったようで、そうそうやすやすと民主化の方へ一辺倒に不可逆な過程として進展したなどとは言えない状況もあるようだ。フランスの場合、王党派のほかに、いわゆるポナパルティスト、ナポレオンの帝政派も存在し、王党派と帝政派が協力しあうなどという事態があれば、民主派を凌ぐ力があったようでもある。
考えてみれば、イギリスは、王制が残って、立憲君主制として民主主義が完成したというようなことなのだろうし、我が日本も、天皇制のもとでの民主主義国家である。
君主制を廃した大統領制等の民主主義国家こそ、現在の理想的な政治体制だ、などとはそうやすやすとは言えないのだろうな。
ああそうか、民主主義国家から、共産主義の世界への歴史の発展、人類史の進歩などという考え方に、私たちは、どこかとらわれてしまっているところもあるのだろうな。
人類の歴史か。
この大問題。
1968年のころ、私は、12歳である。小学校から中学校に上がる頃。
世は、60年安保から、70年安保にかけて、日本でも大学生の反乱、学生運動が華やかだったころである。
映画「いちご白書」は、まさしく、アメリカの1968年の出来事の映画化か。
ウッドストックは、1969年か。
当時(数年遅れで、70年代に入っていたはずだが)、東北の片田舎の港町の映画館で「ウッドストック」の映画を見て、ロック・ミュージックの世界に憧れ、「いちご白書」を見て、アメリカの若者たちと連帯を夢み、世界をより良きものに変革していくことを夢みていたティーネイジの私がいた。世から貧困が除かれ、みな平等に、そして何よりも自由に生きていける世界。
その頃、私たちは、人類は未開の闇から、誰もが幸福に生きていける未来の光明の中へ、進歩発展していけるものと信じ込んでいた。あるいは、われわれ若者が、旧弊を打破して、人類の歴史の進歩発展に貢献できるものと信じ込んでいた。
打破すべき、解決すべき問題は多々残っているにせよ、希望に満ちた未来を見とおせる、ほんとうに幸福な時代だった。
しかし、その後の、世界史の進展は、あるいは、日本の社会のありようはどうだったかという問題である。
私のすべての読書は、この問題の解決のため、であると言って間違いでない。しかし、一方で、この問題は決して解決されることのない問題である、と私は信じてもいる。
宮沢賢治ではないけれど、世界が幸福にならないうちは、私は幸福であってはならないのか、あるいは、世界はどうであれ、私は、私の家族は幸福であってよいのか、あるいは、私の属する共同体が、とりあえず、生き延びていければよいのか、では、私の属する共同体とはなにか、ここになんらかの正答はあるのかもしれず、ないのかもしれない。
で、この本では、有名な「W(商品)-G(貨幣)-W(商品)」の図式が「G-W-G」と転化していく経緯が解説されている、のだと思う。
人間が必要なものを必要な範囲で供給しようとする、経世済民であるはずの経済が、金が金を生む、現在の倒錯した経済、利潤が利潤を生み増やそうとしていく世界経済に化けてしまっていることの成り行き。
現在、心ある論者は、すべて、本来の経世済民である経済を取り戻そうと語っている、と私は考えている。しかし、ひとつの自然な過程として、当然の成り行きとして、すべての企業が利潤追求に追い立てられているように見える。
それでいいのか?
この世界は、金が金を生むマネーゲーム偏重の世界でしかないのか?
「資本制はすべての生産を資本制的商品生産の色で染めて、あらゆる地域を商品交換のなかに呑みこんでゆくことで、世界を市場に変えてゆきます。現在主流の経済学では資本主義という語も資本制ということばも使用されず「市場経済」という表現が好まれますけれども、これはすでにひとつのイデオロギーです。「いっさいの国々の生産と消費とを全世界的なものとする」(『コミュニスト党宣言』)資本制の歴史を、自然過程として肯定するイデオロギーであり、グローバリゼーションという現在を自然状態とみなして、支配を正統化する世界像なのです。」(155ページ)
この本の終章は、「交換と贈与」と題される。
もんだいは、贈与にあり、ということにはなるのだろう。柄谷行人的な贈与。
等価交換による市場経済、というイデオロギーからの脱却、は可能なのか、どうか。
ところで、念のため言っておけば、マルクスの行った経済学の批判は、現在でも相当に有効なものであり、今後の人類の社会より良き進展のために役に立つものだ、と、私は考える。学ぶべき存在である。
ふむ、今回も、未整理なことを書き連ねてしまった。
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