劇団キャラメルボックスの演劇作品「賢治島探検」の冒頭近いセリフの中にひとつの短い数式が出てくる。ごく簡単な足し算である。
ある役者が、舞台上の登場人物の人数について語る。この役者は取りまとめ役、一行の幹事役を務めていると思われる役どころである。教授が1人、学生が6人だから総勢8人いるはずだと。
1+6=8
しかし、今、この場所に7人しかいない。1人足りないと。
念のため言っておけば、これはあからさまな間違いであり、常識的な正解は、
1+6=7
である。7人いれば、それで正しいはずである。
さて、役者は、滑舌よく「いち たす ろくは はち」と言った。もちろん、この劇団の役者たちは、すべてのセリフの滑舌がよく、聞きづらいセリフは一つとしてなかったが、思い出してみるに、この数式については、ことさらにはっきりと一つ一つの言葉の区切りよく、明晰に語っていたようだ。
聞いていて、ぼくはおや、と思った。これは、セリフ、間違っていると。
やがて、客席に、もうひとりの役者が現れる。因幡の白ウサギの大国主命よろしく、他の学生の分まで荷物を抱え、四苦八苦しながら舞台に上がる。
さきほどの役者は、なんだなんだ遅くなってと突っ込みながら、おお、これで、8人揃った、とまずは一件落着する。
この作品は、宮沢賢治の研究者である「教授」と、そのゼミの学生が、フィールドワークとして、日本全国にあるはずの「賢治島」を探すという設定である。プロローグとエピローグは、ある土地(=公演地)にやってきたそのゼミの様子、そして、第一話として「セロ弾きのゴーシュ」、第2話として「銀河鉄道の夜」を(必ずしも原文どおりではない)劇中劇として演ずる。
「銀河鉄道の夜」は、主人公ジョバンニの唯一の親しい友人カムパネルラが、川におぼれて死にゆくことを見送る葬送の儀式の物語であると言える。全編に漂う静謐な哀しさは、ジョバンニの、余命いくばくもないかのような母の病い、北の海に出稼ぎに出て音信不通の父の不在、そしてカムパネルラ以外の友人から相手にされないジョバンニ自身の孤独によるものであると同時に、親友カムパネルラの死を送る儀式の物語であることによる。
母は、死にそうで、もうすぐ不在になりそうだ。父は、遠くに行って現に不在である。親友は、今まさに不在となった。「銀河鉄道の夜」は、不在をめぐる物語である。
ところが、「賢治島探検」は、「1+6=8」の世界である。こちらは余剰と言うべきか、あるいは、同じく不在というべきか。
いずれにしろ、この演劇の舞台は、常識的な公理が通用する世界ではない。通常の意味での実世界とは違う原理が働く別の世界である。
そもそも演劇は、そして広く言って芸術は、額縁のような、舞台のような、現実の世界から切り取られた「もう一つの世界」を提示するものだ。
あの役者が「1+6=8」であると明晰に宣言することで、この舞台の異世界性、「もう一つの世界」であることを、われわれ観客に改めてあからさまに告げ知らせる。
ところで、実世界とは、一つの原理から導き出される単純明晰なものではない。それ自体としては、掴みどころのない混沌である。数学的な公理から演繹される世界は、あくまでひとつの抽象、仮の姿、仮象でしかない。現実ではない。
実のところ人間は、ひとりひとり別の世界を生きている。同じ世界にいるように見えて、実は全く別の世界を生きているのだ。現実の世界とは、その個人の多様な世界の重ね合わせである。ひとつの原理で説明しきれる単純なものではない。
問題はそこにある。
演劇は、広く芸術は、世界が多重であり、多様であることを告げ知らせるために存在する。そして多重であり、多様である世界でこそ、われわれは自由に生きていくことができる。のびのびと自由に呼吸することができる。
ひとつの原理で貫徹した世界は息苦しい。そして生き苦しい。
われわれは、多重な、多様な世界でこそ生きていける。
「1+6=8」というセリフは、われわれがこの世で生き延びていくことを可能にしてくれる魔法の言葉なのだ。
エピローグにおいて、このセリフは再び登場する。
「1+6=8」のはずなのに、ここには全員で9人いる、と。二度語られることによって、この数式が、役者の言い間違いではないことが、改めて明らかになる。脚本家によって意図されたセリフであると。
舞台上の役者は、確かにいつの間にか、1人増えている。ありていに言えば、脚本家が、あるシーンで、さりげなく登場人物をひとり増やす指定をしただけであるが。セリフを聞くと、どうやらそのひとり増えた登場人物は「賢治先生」であるらしい。
この土地に、宮沢賢治が降臨し、まさしくここが「賢治島」となる。余剰の賢治が登場する。
私が賢治です、とあからさまにその人物は名乗ることをしないが、鋭敏な観客は、もちろん、誰がその新しい人物であるか認めることができる。自らは言葉を発せず、小さく頷くのみのその人物を。
ところで、この作品の二つ折りの小さなプログラムを見ると、例のセリフを語る役者は「助手」であるらしい。確かに助手であれば、「教授」ではなく、「学生」でもない。「教授」の1でもなく、「学生」の6でもない。であれば、一見、何の謎も残らないように見える。しかし、彼は、等式の左辺では自分を含めず、右辺では勘定に入れている。通常であれば「1+1+6=8」であるというべきところだ。これはまやかしである。嘘をついている。
彼は、右辺と左辺が等しいという、常識的な数学の公理を否定してみせる。このことになんら変わりはない。この芝居は虚構ですよ、フィクションですよ、と宣告している。謎が解決されたわけではない。
注;ここで私が書いたことは、私のオリジナル、では全くない。どこかで読んだ本に書いてある事柄が、劇団キャラメルボックスの舞台を触媒にして浮かび上がってきたのみである。
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