サン=テグジュペリは、もはや著作権が切れているので、いつだったか、切れたころ、何社もの出版社から、いろいろなバージョンが出版された。2005年とか、そこら。そのあとに、どこのか忘れたが一冊読んだ。
小さな頃に、ダイジェスト版だとか、絵本化されたものとか、なにかは読んでいたような気がするが、あるいは、だれかれが読んだことについて書いているものを読んで読んだ気になっていただけなのか、このあたりは定かではない。
まあ、それほどに広く親しまれ、愛されている本であるから、私などがあえて何か書くべきところでないとも言える。
2010年4月に、本吉図書館に配属された後に、書架で目にして借りて読んだのかもしれない。岩波書店の最初の翻訳の版だったかもしれない。でも、オリジナルの挿絵を使ったものだった気がするので、違うのかもしれない。
あ、だが、この本を読んだあとで、あからさまにその素材を使って「大切なものは」という詩を書いている。ブログを検索して見ると、2009年の1月に、アップしている。(その後、2011年2月発行の寓話集に収めた。)
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/483a30a4738b66ba413988c1dad28593
これは、霧笛のバックナンバーをひっくり返せば、いつ書いたのかは明らかだが、まあ、それ以前であることに間違いはない。ということは、仙台の方に派遣されていたときか、観光課時代か。
買って読んだのではなく、借りて読んだのには間違いがないと思う。書棚をざっと見た限りでは見当たらないし。(実は、読んだ本の書名、著者名等は、ずっとノートに記録しているので、それを手繰れば出て来るのだが、それなりの冊数にはなっていて、そういうことを始めると、一冊一冊の本の記憶がよみがえって、単純に探す作業に集中できなくなって、もはや夕暮れ、という事態になってしまう。ネット上に読んだ本の紹介を載せ始めたのは最近のことである。)
とにかく、一度は、全文翻訳のものは読んでいるが、あえて、あらためてこれを読んでみようと思った。
唐桑分館の棚に、この本が展示されていた。薄いハードカヴァーの絵本。厚い物語ではなく、絵本の体裁で。表紙は、自らの星に立つラッパズボンで黄色い紙の王子様。
職員が、いわゆる「面出し」して、表紙を見せて書棚に展示していたもののうちの一冊。どういう意図でこの本を選んだのかは聞いていないが。
こういう本は、ついつい手に取ってみたくなるものだが、もうひとつ、ぜひ、読んでみたい理由があった。
翻訳者が、奥本大三郎先生であったことだ。
このひとは、私にとっては数少ない恩師である。大学では、唯一か、二か三か。
私は仏文でなく、哲学の方の専攻で、先生の方も、横国かどこかの講師で、埼玉大学には非常勤講師でお出でだったころ、一年間だけ、ランボーの講読を指導いただいた学生のひとりで、受講生は十人に満たない程度であったが、覚えておられるということはないはずだ。しかし、私にとっては、まぎれもない恩師である。
奥本大三郎と言えば、虫屋、ファーブル昆虫記の翻訳者として高名である。幼い頃から、昆虫採集が大好きな少年であったようだが、職業としてはフランス文学の学者、仏文の大学教師であって、生物学者ではない。大学の教師として職業生活を全うされたということ自体で、羨ましいこと限りないわけだが、そのうえでさらに、専門家としての学殖を幼い頃からの趣味に結び付けて大きな成果を挙げられているというのは、こういう人生、望むべくもないようなものなのではないだろうか?
あとがきは、「子供のためのあとがき」と名付けられている。この本が、子どものため、と意図した出版であることを示している。サン=テグジュペリが「原作」であり、奥本大三郎が「文」とクレジットされている。翻訳ではなく、抄訳であり、かつ、奥本先生の意図によって選ばれ、書き出された、一種の創作も紛れこまされた文章であるということ。
「この本は、フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『Le Petit Prince』(直訳すると「小さい王子」)の中から、特に大切だと思われるところを選び、短く書き直したものです。」
翻訳。それはもちろん、フランス語を、端的に技術的に日本語に置き換える作業ではない。(気仙沼在住の翻訳家・熊谷千寿氏の講演会においても、このことがひとつの主題であった。どういう言葉を選ぶのか、外国語で書きあらわされた事態を、どういう日本語で表現するのか、その選択が翻訳家の独自性である、みたいな。)
これは、まさしく、奥本大三郎がメッセージを込めて、奥本自身の語り口で語り直した「ル・プティ・プランス」にほかならない。
冒頭、
「ぼくが六つのときのことだけど、ジャングルのことを書いた本の中で、すごい絵を見たことがあるんだ。」
と、書き出される。そして、ウワバミとけものの挿し絵があって、
「ウワバミが、一匹のけものを呑んでいるところ。こんな感じの絵だったんだよね。ウワバミって、ものすごく大きなヘビのことだよ。」
(このけものは、熊なのか、狼なのか、あるいは黒ヒョウのようでもあるが定かでない。サン=テグジュペり自体が「けもの」としか書いていないのだろう。ジャングルだから、たぶん、熊でも狼でもないはずだが。)
そして、この後に、例のウワバミがゾウを飲み込んだ絵の話が続く。
さらに、羊の入った箱の話、バオバブの木や、トゲのあるとってもおしゃれな花の話、とってもきれいなキツネ…
そしてあの、
「…大切なものは目に見えない…」(38ページ)
私たちは、サン=テグジュペリの作品であると同時に、奥本大三郎の作品として、この本を楽しむことができる。
この長さであれば、子どもたちの前で、読み聞かせをしようとするとき、一回の時間の中で、読み終えることができる。
この絵本は、子ども向けに翻案され、リライトされた抄訳であることに間違いはないが、これ自体が奥本大三郎による一種オリジナルな作品であるといえる。
「子供のためのあとがき」の、先ほどの続きは、
「はじめに、ゾウを呑んだウワバミの絵の話が出てきます。これを見て「大人」の人は帽子だと思ってしまうのですが、ここで「大人」と言われているのは、思い込みのつよい、頭のカタイ人のことです。/ところが、王子さまには、この絵がウワバミを描いたものだとすぐわかります。それどころか、絵に描いた箱の中のヒツジまで見えてしまうのです。」
そして、キツネが「大切なものは目に見えないんだ」と語ること。
(この本の文章は、漢字にはすべて、ひらがなのルビが振られています。)
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