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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

石原孝二編 当事者研究の研究 医学書院

2019-02-12 22:10:35 | エッセイ オープンダイアローグ

 2013年に初版で、18年7月に3刷を数えている。最近、読んでいる本で医学書院率が高い。当事者研究関連、オープンダイアローグ関連と、そうか、國分功一郎氏の「中動態の世界」もそうか。

 石原孝二氏は、東京大学の哲学の準教授、最近では、オープンダイローグ・ネットワーク・ジャパンの共同代表。つい先日、「精神障害を哲学する 分類から対話へ」(東京大学出版会)を読んだばかり。このブログでも紹介しているが、9月に東大駒場キャンパスで開催されたシンポジウム「オープンダイアローグと中動態の世界」では、コーディネーターを務められた。

 第2章担当の河野哲也氏は、立教大学の哲学の教授。たびたび気仙沼にはお出でいただき、気仙沼図書館関連で「哲学探検隊」とか、「てつがく対話」などと称し、いわゆる「哲学カフェ」を実施していただいている。1月25日には、気仙沼中央公民館を会場に行われた「てつがく対話」に、私も参加させていただいたところだ。

 私がものの本を読む限りでは、オープンダイアローグ、哲学カフェと当事者研究というのは、非常に相性が良い、というか、なにか根幹のところが共通したものがあるというふうに思われる。上記のシンポジウムのテーマにもなっているが、これらと「中動態の世界」もまた相性が良い。

 私なりに、このところの日本の哲学の歴史をたどると、中村雄二郎の「臨床の知」とか「受動の知」、「演劇的な知」、下って、これは、現在の日本の哲学カフェの主唱者と言えるので言わずもがなとも言えるが、鷲田清一の「臨床哲学」、そこに國分功一郎の「中動態の世界」とつながってくることになる。

 デカルト以来の西洋哲学の、あるいは、西洋文明の、そして、現在の日本を含む世界を覆いつくす、合理主義、能動的な世界観に対するアンチテーゼというふうにいえるところである。

 人間は、理性の力によって自分自身を含む世界全体をコントロールできるという世界観。これまではそうでなかったとしても、科学の進展によって、将来的にはコントロールできるときが訪れるはず、という世界観。そういう世界観の破綻が明らかになってしまった時代である。

 しかし、世の中は、その破綻の認識にもかかわらず、むしろ理性中心主義、それは端的に「お金」という抽象的な存在のみにあらゆる人間の尺度を「転換」してしまう状況が極限まで推し進められていると見える。

 正しいこと、ふつうであることが求められ、それから外れたことが切り捨てられてしまうような世界。

 この本の紹介ではないが、2014年に読んだ、京都大学人文科学研究所準教授の立木康介(精神分析学)の著書「露出せよ、と現代文明は言う」(河出書房新社)にこんなことが書いてあった。(こちらの本の紹介も、このブログで繰り返し読まれているようだ。)

 

「私が『エヴィデンスの光』と呼んだ、単一の尺度ですべてを計測しようとする薄っぺらな科学主義-これは今日の世界を蹂躙するネオリベラルな資本主義が知的生産のフィールドを属領化するためにふりかざす道具にほかならない-は、結局のところ、光を当てることができるものだけに光を当て、カウントすることができるものだけカウントする思想だ。」(272ページ エピローグ)

 

 このところ、私も、現代社会のありようについていつもこんなようなことを言っていたのだが、そうか、ここで立木氏がこのとおり書いていたのか。もちろん、私自身、自分で考えついたとかではなくて、ものの本を読んでそんなことが言われているよな、と整理したに過ぎないのだが。

 さて、「当事者研究の研究」から少々引用する。冒頭、石原氏はこんなことを書いている。

 

「二〇〇一年、北海道の浦河べてるの家で「当事者研究」は始まった。浦河の地で行われていた当事者研究は、精神障害を持つ当事者自身が、自分たちが抱える問題を「研究」するというものだった。…(中略)…

 この当事者研究は独特の感染力を持っている。精神障害や他の障害を持つ当事者の間に広がりを見せていることがそのことを示している。しかし、当事者研究が感染するのは障害者だけではない。当事者研究とは、苦悩を抱える当事者が、苦悩や問題に対して「研究」するという態度において向き合うことを意味している。苦悩を自らのものとして引き受ける限りにおいて、人は誰もが当事者であり、当事者研究の可能性は誰に対しても開かれている。」(はじめに 3ページ)

 

 狭い意味での障害者のみならず、現代社会に生きるすべてのひとびとは、何らかの苦悩を抱えた当事者にほかならない。ここ数年、私が取り組んでいる「気ままな哲学カフェ」の場も、一種の当事者研究のようなものとして機能しているのではないか、と思い当たったところである。参加者には、不思議な居心地よさを感じてもらえているようなのだ。参加者がどこのだれかという氏素性をかっこに入れて、語り合う。自分自身に距離感を持つ。さらに、すぐに反論したり、意見をしたりすることを差し控えて、まずは、発言者が語ることに耳を傾ける。傾聴である。

 第1章「当事者研究とは何か―その理念と展開」は、石原孝二氏の担当である。

 

「べてるの家における自己病名は、専門家の知を否定するのでもなく、また、そのまま受け入れるのでもない。自己病名は「病気」であることを認めつつも、診断名だけでは捉えきれない当事者個々人の多様な苦労を表現している。それはまさに、反精神医学ならぬ半精神医学とでもいうべき実践を象徴するものだろう。」(38ページ)

 

「べてるの家のミーティングにおける気分・体調の報告は、治療のコミュニケーション空間以外の場で、他人の評価を気にすることなく、安全に自分の状態を表出することを可能にするものである。こうした気分・体調の報告は、当事者研究への入り口である。」(43ページ)

 

 半精神医学。

 すっきりと割り切ることをせず、距離感を持つ。当事者間においても、適度な距離感を保ち、性急に理解しようとせず、解決しようとせず、じっくりと耳を傾ける。頼りすぎることはせず、頼らないということもない。

 一方的な能動ではなく、一方的な受動でもない。全面的な客観ではなく、全面的な主観でもない。まさしく「中動態の世界」である。

 第2章「当事者研究の優位性 発達と教育のための知のあり方」は、河野哲也氏の手になる。当事者研究の実践の要点を、河野氏はこうまとめられる。

 

「(1)障害当事者が自身で自分の問題に取り組み、何らかの形での生活の改善を目指す。

 (2)その際に、自分の障害に対して距離をとり、知的探求の対象として客観化する(症例に自分で名前をつける、問題発生の過程や構造を明らかにする)。

 (3)医学的な障害によって自分たちを分類するよりも、同じような種類の問題(苦労)を持つ人たちが集まり、自分の事例を開示し、その問題を改善する実践的方法について一緒に考え、語り合うことで相互的な自助援助(ピアサポート)を行う。」(74ページ)

 

 これまでの障害者教育の問題点を指摘される。障害者は、「正常」者と区別され、専門家による一方的な指導、援助の対象であった。

 

「「異常」な子どもたちは「正常」な子どもたちから分離して障害別に振り分け、専門家による最善の治療を受ければよいとされる。標準的・平均的であることが正常と同一視され、標準・平均はそこに合わせねばならない規範となる。…(中略)…そして、「正常」に到達することが社会参加するための必要条件と見なされてきた。…(中略)…こうした発達観と教育観の問題点はすでに明らかである。」(79ページ)

 

 障害者が当事者として、自らを助ける、援助する。

 デカルト以来の合理主義、客観主義、科学万能主義、西洋文明最優先主義、つまり、現代社会のありようを批判する。(ここでの科学は、本来の意味での科学ではなくて、通俗的な、表面的な、似非科学と言うべきだろうが。科学は、むしろ、自らの限界を知っているものであるはずである。)

 

「発達し、成長するシステムを扱う科学は、「客観的」であることなど、決してできない。たとえば、生態系という成長するシステムを扱うエコロジーは「客観的」ではありえない。エコロジーは、生態系に介入してしまう点で「客観的」ではありえないし、その生態系をどのような形で保全するかという規範問題を含んでいる点でも「客観的」ではない。」(86ページ)

 

「生命は、生態系や企業と重大な点で異なる。すなわち、生命は自ら規範を設定する。意識を持った生命である人間は、目的を自分で設定・再設定することによって発達していくのである。/したがって、医療や教育という分野は、本人の規範設定、すなわち、当事者による目的設定をないがしろにして行える学問ではありえない。医療や教育は当事者を成長「させる」ことなどできはしない。当事者が自ら設定する過程を、側面から支援し、促進するものでしかありえない。」(86ページ)

 

「「客観的」であることができるのは、決して世界に介入せずに、生命という価値から超然としていられる存在、すなわち、デカルト的な意味での純粋主観ないし精神実体だけだということである。身体を持つ生けるものは、世界に介入せざるをえない。「客観的」であることを目指す科学は、暗黙のうちに、宇宙から亡命している純粋観察者として自らを仮定している。…(中略)…しかし、そのような純粋主観などはフィクションに過ぎない。」(89ページ)

 

 と、まあ、引用が長くなったが、そんなことである。

 池田喬明治大学准教授による、第3章は、「研究とは何か、当事者とはだれか―当事者研究と現象学」。フッサール以来の現象学である。ここも、私などは、多少、ものの本を読みながらかじってきたところではあるので、興味深い箇所は多々あるが、引用は省略する。 

 第4章以下は、当事者研究の創始者といえる、向谷地 生良氏(北海道医療大学看護福祉学部臨床福祉学科精神保健福祉講座教授、元浦河赤十字病院ソーシャルワーカー、社会福祉法人浦河べてるの家理事)、熊谷晋一郎氏(東京大学先端科学技術研究センター准教授、小児科医、脳性まひ当事者)、綾屋紗月氏(アスペルガー症候群当事者)らによる、当事者研究の実践の報告である。ここも、この場で紹介すべきところではあるが、実際に書物にあたっていただくこととする。

 いずれにしても、大変に興味深いだけでなく、当代、最も重要な書物のひとつであることは間違いない。

 

(参考) 立木康介「露出せよ、と現代文明は言う」(河出書房新社)



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