で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1808回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『朝が来る』
里親となった夫婦の元に、ある日、見知らぬ少女が子供を返してと訪ねてくるヒューマン・ミステリー。
人気作家・辻村深月の同名ベストセラーを『あん』、『光』などの河瀬直美監督し、映画化。
夫婦役に永作博美と井浦新、実母役に蒔田彩珠。
物語。
5歳の息子朝斗を育てているサラリーマンと栗原清和と専業主婦の佐都子の夫婦。
幼稚園で起きたある事件、無言電話が佐都子を悩ませる。
30を超えて結婚した二人は、子供をつくろうとするが、ある事実が発覚する。
その事実を受け止め、不妊治療をはじめたのだった。
だが、別の手立てがあることを知る。
原作:辻村深月『朝が来る』
脚本:河瀬直美
共同脚本:高橋泉
出演。
永作博美 (栗原佐都子)
井浦新 (栗原清和)
佐藤令旺 (栗原朝斗)
蒔田彩珠 (片倉ひかり)
浅田美代子 (浅見静恵)
田中偉登 (麻生巧)
中島ひろ子 (片倉貴子)
平原テツ (片倉勝)
駒井蓮 (片倉美咲)
山下リオ
森田想
堀内正美
山本浩司
三浦誠己
池津祥子
若葉竜也
青木崇高
利重剛 (浜野剛)
スタッフ。
製作総指揮:木下直哉
プロデューサー:武部由実子
ラインプロデューサー:齋藤寛朗
助監督:甲斐聖太郎
撮影:月永雄太、榊原直記
照明:太田康裕
美術:塩川節子
スタイリスト:小林身和子
ヘアメイク:小泉尚子
録音:森英司、ロマン・ディムニー
サウンドデザイナー:ロマン・ディムニー
編集:ティナ・バス、渋谷陽一
音楽:小瀬村晶、アン・トン・タッ
主題歌:C&K 『アサトヒカリ』
『朝が来る』を鑑賞。
里親夫婦を見知らぬ少女が子供を返してと訪ねてくるヒューマンミステリー。
辻村深月の同名ベストセラーを河瀬直美が映画化。
朝ドラの劇場版ではない。
定番の一つである、反対にいる二人を主役にして、章立てにして描く構成。
蒔田彩珠ショー、だが苦言を呈すならメイクをもう少し頑張って欲しかった。この世界に生きて見せる永作博美と浅田美代子に距離が消える。佐藤令旺が救う。
とにかく風景と光が美しい。光に欧米的モチーフを託す。
幸福で切り取ったベッドシーンなどがフリとなる。
不幸から幸福の流れが幸福から不幸へと移っていく鏡像構成。
だが、サスペンスの部分はイマイチうまくない。血を描く部分がうまく機能していないなどササクレが邪魔する。ベタな演出が距離をとらせる。
リアルとフィクションの同居はまぁまぁうまくいってるだけに。
涙の見せ方があの大ヒット作品と類似しており、作家として、ついに王道に挑んだ可能性は高い。多くの作家がこれをやって成長するので。といいつつ『ひかり』でもやっていたけど、あまり巧みではないんだよなぁ。サスペンスとしては下手な部類。たぶん、フックの部分に興味がないんだな。シナリオの弱さが気になる。シナリオじゃない部分が強い分ね。
音楽の使い方の雑さとかね。
素晴らしい部分も多いのでそりゃ気になるよ、やっぱり。
虚構の力の限界を感じているのではなかろうか。
人は育まれることを思い知る顔作。
おまけ。
2020年の作品。
製作国:日本
上映時間:139分
映倫:G
配給:キノフィルムズ
朝ドラは『あさが来る』。
同じ原作のTVドラマ版もあります。
蒔田彩珠をマキタージュと呼んでしまう。
ネタバレ。
逆光が幸せの象徴となる。
だが、少女ひかりは不幸の象徴となる。
朝斗は朝で光を示すので、里子に出されたという点で逆光となる。
ひかりの家族によって、絆とは血ではないことが示される。
それは環境によって、育まれる。
この映画の気になる点はは、フックが機能してないところ。
その環境によって人が変わってしまうことが描かれるので、夫婦は、少女の顔を見ても同一人物だと思えないはずなのだが、そこが成立していない。
後ろ姿でさえもひかりに見える。画は分からないようにしているのに。これは構成がうまくいっていないせいで、彼女に当たる人間を先に出してミスリードする必要がある。
加えて、クローズアップの画がよいので、そのせいでもあるかも。
その統一性が光を示してしまっている。
そもそも、このフックには興味がないんだろうなぁ。
「学校に言う」はアサトは小学校に上がるという話から始まっているのだから、ヒカりがいう小学校にもばらすと言っている意味は分かる。
ところどころ、こういったセリフのが機能しきれていないところがある。
これは、サスペンスとしては非常に靴の中の小石になる。
大分、馴染んではいるが、本物と役者の違いが見えて、何度か距離をが生まれる。
ここはわざとの可能性がある。現実の里子の部分は虚構に混ざらないようにしているのかも。
どこにでもある普遍的人物造型と瞬間の感情のさすがの手腕。
だが、そこに里子を信じるかというささやかなサスペンスに違和感があり、しかもあっさりした解決を迎えるので、少々座りが悪い。
あそこは、親とは何かを問うところなのに。
アサトからヒカリが透けて見えるようにしているのだろうが、描き方が薄いんだよなぁ。
新聞配達の店長も疑似親になっているのだろうが、ここも踏み込みが足りない。
涙の見せ方が、役者の方が大仰で、本物の人々のものに飲まれてしまっている。
映画全体の涙の見せ方が、劇場版『鬼滅の刃』の涙のそれと似ている。
これは日本人好みのスタイルだし、この方法で涙を流させるのも、悲恋や難病ものではない話ならありかなとは思う。
でも、役者陣にもうちょっと泣き方にバリエーションが欲しかった。
本物の泣きを見せられた後だからなぁ。
最後の新聞配達のあの子をうまく先に見せておいたら、どうだったか。
TVドラマ版では、中学生とハイティーンではキャストを変えていた。
映像的な技法だが、映画のいろいろな技を信じたら、もっといろいろ出来たと思うし今作での顔を見せない方法はそれでも選んだこれまた王道の方法ではあるが、顔を見せないので、逆にその人にしか思えない。夫婦にとっての主観がないし、他に登場人物を知らないから、アカリ以外が浮かばない。本来は、「誰だ?」が浮かぶはずなのに、そこがうまくいっていない。それは顔を隠すから。
記号の爪と黄色いスタジャンでミスリードを誘ってはいる。6年もあれば前に中学生の子をあったら、分からないことはある。だからこそ、特殊メイクでもそこでありえる本当に人が変わって見えるを作り出して欲しかった。
結局、感じが変わっただけで、同じ人にしか見えないのが結論になってしまう。
そこにはヒカリも元に戻れるかもという希望も見えなくはないが。
1,顔をほんの一部だけ見せれば、97%ヒカリ彼女でない可能性がある。
2,顔を変えて見せれば、70%くらいはヒカリだとわかる可能性がある。
でも、1はこの物語では、「だからどうした?」になってしまう。結局、最初の掴みだけだ。
そして、結局、人は変わらないということが現れてしまう。だって、観客はあの子だと知っているし、実際、彼女にしか見えないのだから。
それでも、彼女の物語を語ることで、超えられるはずだったのだろう。
だが、そこには夫婦編とのバランスで崩れてしまった。
ありふれた悲劇の中に納まってもしまった。
本当にちょっとしたことでだ。
美人キャストを並べてしまったことや仕事先のささやかな描写の積み重ねによって。女の悲劇の定型に納まってしまった。それは里子の部分のリアルが勝ってしまった。リアルに迫った後で、虚構を見せられたら、どこかで陳腐が見えてくる。
その比較も映画的に面白いことが起きたかもしれなかった。ドラマの力が弱かったからだ。
ドキュメンタリーの取材のシーンも役者にしか見えないことで比べてしまう。下手なのではなく、本物の後では違いに気づいてしまうのだ。
それぞれは単独ではとてもよい出来だったのに、繋げたことで比べる目ができてしまった。
大胆に、実母の章を大人から中学生に戻るように逆から語っていたらどうだったろうか?