ジャンルもので語りの速度がまあまあはやいとか興奮度が高いと、アート映画では出来ていた裏を読むのがやりにくいということはある。
最近だと、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とかね。
おいらは、気づいたら、見るモードを切り替えれば、速度は上げられるんだけど、人によっては、見終えてもモードが変わらずにいるひともいるよね。
是枝裕和が著書で、「娯楽は陶酔を、アートは覚醒を目指す」というようなことを書いていて、両立するのは、そりゃ、難しいってことなんですよ。
だから、作家が、観客の陶酔を目指すか、覚醒を目指すか、選ばねばならないというところはある。
でも、この両方をがっつり入れている作品も普通にあるしね。
宮崎駿作品とか。
それでも陶酔が強い。
高畑勲は、覚醒を目指した内容だったが、陶酔が前に出てきてしまうので、そのバランスのいびつさにより、ファン層がアート方面に偏るところはある。(TVアニメでは逆だった)
陶酔していても、物語のテーマや裏を伝えるために、つくり手はシナリオの技法として複数の繰り返しやライトモチーフとか、シンボル化、多層構造などの手法を使うんですけどね。
それでも、気づていもらえなかったり、忘れられたり。
そういえば、かつて、フランシス•フォード•コッポラは「わたしにはウディ•アレンの映画はほとんど笑えない。撮影が美しすぎるんだ」と言ったが、それは笑えるものなのに、という思いが隠れている。
陶酔していると笑えないとも言える。
でも、アイドルとかの言葉で笑ったりするのには、陶酔がある気もする。
笑いにも陶酔と覚醒の両方の方向があると言えるなぁ。