で、ロドショーでは、どうでしょう? 第1551回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『天気の子』
天候の調和が狂っていく時代を舞台に、不思議な能力を持つ少女と出会った家出少年が運命に翻弄されながら繰り広げる愛と冒険の物語を描くファンタジー・アクション・アニメ。
原作・脚本・編集・監督は、新海誠。
再び『君の名は。』の川村元気プロデューサーとタッグを組んだ。
物語。
梅雨が長引き、雨が降り続く夏の東京。
天野陽菜は母の看病の病室から不思議な神社を見つけ、そこへ向かう。
そして、彼女はそこで不思議な力を手に入れる。
ある理由から故郷の離島を家出した高校生の森嶋帆高は、その船の上で、うさん臭い須賀圭介と出会う。
東京についたものの、なかなかバイト先を見つけられず、現実の厳しさに打ちのめされかけていた。
そんな中、ヒナのささやかな優しさに触れ、ほだされるのだった。
ある日、ホダカは彼女が胡散臭い男たちに怪しい場所に連れ込まれようとするのを見かけてしまう。
声の出演。
醍醐虎汰朗が、森嶋帆高。
森七菜が、天野陽菜。
小栗旬が、須賀圭介。
本田翼が、夏美。
吉柳咲良が、天野凪。
平泉成が、安井。
梶裕貴が、高井。
倍賞千恵子が、冨美。
スタッフ。
製作は、市川南 、川口典孝。
エグゼクティブプロデューサーは、古澤佳寛。
プロデューサーは、岡村和佳菜、伊藤絹恵。
企画・プロデュースは、川村元気。
アニメーション制作は、コミックス・ウェーブ・フィルム。
制作プロデュースは、STORY inc.。
演出は、徳野悠我、居村健治。
助監督は、三木陽子。
CGチーフは、竹内良貴。
キャラクターデザインは、田中将賀。
作画監督は、田村篤。
美術監督は、滝口比呂志。
撮影監督は、津田涼介。
音響監督は、山田陽。
音響効果は、森川永子。
音楽は、RADWIMPS。
音楽プロデューサーは、成川沙世子。
現代東京、長雨の街で家出少年と晴れ乞い少女が恋に落ちるファンタジーラブストーリー。
新海誠が作風である研究反映を行ってメジャーとマイナーを混ぜ込んだ。
シナリオは単純化と説明不足に加え、ご都合と無知でルールがガタガタだが、エモーションで押し切る。
宮崎駿引用をはじめとする多くの引用を強みでねじ伏せる。
キャラは記号化し、どこかで見たような展開をアニメ的快感で引きずり回す。
写実的美術、雨の表現は進化。
声は主演以外が役に合ってなくて気になるが芝居自体は悪くない。
『君の名は。』へのアンサーのよう。
RADWIMPSの音楽は心地よいが、さらに耳を覆う。
作家の押し付けに乗れれば、感動できるかも。
80年代若さと愛の無垢さの暴力で世界と向き合わせる雲作。
おまけ。
英語題は、『WEATHERING WITH YOU』。
『風化しよう、君と』。
上映時間は、114分。
製作国は、日本。
キャッチコピーは、「これは―― 僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」。
思わせぶりですが、最後まで見るとああ、それね、とは思います。
ややネタバレ。
トカレフは安全装置がないので装填してれば弾が撃てます。
『君の名は。』のキャラクターが大挙出てます。
あと、プロダクトプレイスメント(実際の商品を宣伝こみで出すこと)が多く、TVでもCMとしての『天気の子』を多く見かけます。
これは、『エヴァンゲリオン』の時のUCCなどの流れを汲むものではないかと。ハリウッドでは当たり前の方法。
日本ではあまりうまく使われてきませんでしたが、聖地巡礼などアニメにおいては非常に相性が良いもので、それを活用した作品も多く、『君の名は。』でもそこが取りざたされ、今作ではそれをさらに商品として活用したのでしょう。
だが、それは諸刃の剣でもあり、物語をコマーシャリズムで浸すことでもある。
ネタバレ。
この浸されまくったプロダクトプレイスメントは、今作のラストのテーマとも繋がっていく。
なぜなら、雨=金になってしまう。つまり、商売に塗れても自分の道=作家性を貫く、というテーマも纏う。
つまり、商売に溺れても、自分の泳ぎを貫け。
全体主義に流れがちな時代の波に対して、自分のために生きろ、と謳い上げる。
出来は置いておいても、自分を貫けばいい、そして、金を稼ぐのだという精神が現れてもくる。
これを出来の部分を上質にして、テーマとして謳ったのが、『トレインスポッティング』だ。
出来は置いといては日本の表現ビジネスで実は最も重要視されてしまう悪癖でもある。
人気原作、人気キャスト、宣伝で飾る。ビジネスで勝つことが重要であり、出来は二の次になる。出来を守ることは難しいがこの商売は法則なので、失敗してもやり続けていれば、打率を守ることが出来る。
だが、失望も広がる。試合の面白さが失われる。いつしか、観客は期待しなくなり、成長も止まり、表現は権力の元で惰性のビジネス装置に成り下がる。誇りを保てなくなり、文化は滅びる。悪循環を引き起こす。
それは、自由経済が常に持ち続ける強い流れであり、表現者はその中ででも戦い続けるものではあるが。
だが、それは突然、滅びる。その表現形式そのものの価値を落とし、新たな快楽装置に乗り換えられてしまう。
今作のテーマである、「ルールより自分勝手でいい」と突きつけた意気は買う。
実は、今作と近いテーマを『トイ・ストーリー4』も扱っている。かの作品でも、仲間とかどうでもいい君と自分と信念のために決断する様が描かれる。
面白いことに、『アベンジャーズ/エンドゲーム』では、これを選ぶヒーローと真逆の世界のために自分を殺すヒーローの二つの結末が描かれる。
『トイ・ストーリー4』、『エンドゲーム』は前の流れを汲んで、その時間を加味しての解決。同様に、『天気の子』は『君の名は。』へのアンサーとしての流れがある。
『トレインスポッティング』でそのテーマは自分勝手でも生き残れだった。
だが、その20年後の『T2 トレインスポッティング』でその選択の後の苦い結末を描いている。
そもそも、『崖の上のポニョ』がポニョがソウスケに会いに行くことで世界=島は水没し、古代の魚さえ泳ぐ、死後の世界に変えてしまっていた。今作は、男女を交換したとも言える。
もっといえば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』もある。
だが、あれでは勝手な愛は拒否される。
今作は、それを勝手な愛が拒否されない相手の自主性を重んじない愛の押し付けを描いたとも言える。
ある意味でこちらは、さらに「気持ち悪い」のだ。
ご都合や雑さを目をつむらせ、乗り越えてしまうのが演出力であるとも言う。
須賀は、義祖母の前でタバコはやめたと嘘をつくが、染みついた煙草臭さはバレるものだ。この映画にも同様の安易な嘘が横行している。
嘘というか秘密が全体の重要なエッセンスになっている。
ホダカの家出、ヒナの年齢、須賀の煙草や愛人や労働条件、そもそも扱う記事もその系統で、夏美もそれを好む。
冒頭のナレーションで明かすように、二人だけの秘密とされる長雨の理由。
そして、世界の形=東京という観客への嘘。
嘘は物語を面白くする要素だが、観客への嘘は視聴の熱を奪いもする。だが、ふっかうかなげなければ、嘘で騙したままでいることで熱を保つというのも手法の一つ。
主要キャラの無知さに観客を引きずり落とすというのもある意味で嘘に当たる。現実の一般常識や物語内の基礎知識から観客を遠ざけることで、物語を作家の都合よく操作する。新海誠が時折使う方法で、『君の名は。』の時間のズレなんかもそれ。今作ではホダカのネットの使用方法や須賀の教えていた取材方法などにそれが現れている。
新海作品では今まで、人の心や愛の距離を物理的距離で反比例させてきたが、今作はそれが最後の瞬間に突然描かれる。だが、その距離は非常に曖昧かつ思い込みなので、その素晴らしいアニメーションでもさすがに冷静になってしまう。
鳥居をくぐったら、彼女の元に行けるってあれは、雨の中で太陽があの鳥居に射していたからよね。晴れた後ではそのルールは晴れてたらいつでもルールになってしまうし、天気の巫女だからって話が消えてしまう。『君の名は。』では口噛み酒や組紐のアイテムがあったがそれさえない。
どうしても受け入れられなかったのが、雨続きだし、天気は国家レベルの重要なものであるし、さすがに天気を願ったことがあるはずなのに、ホダカもヒナも天気への渇望を甘く考えたままにしているところ。空模様くらいで、って・・・。天気予報の会社がどれだけ儲かるか。災害は多く天気によるもので、雨乞いとかの知識がないのか。
100%の晴れ女を調査していたはずのホダカがそういった天気に関しての知識を知らないままにする。
16歳でバイトが見つからなかったホダカを見せておいて、詐称で15歳でマックでヒナは働いているとか、物語内でのルールがガタガタ。
何度も描いていた、空には別の生態系があるかもや大量の水を被すシーンの説明は放棄。世界が壊れ始めているネタとしてはよくある描き方。それが世界が狂っているからで、巫女がそれを戻す役目だとしたら、あのクライマックス後はただの雨ではなく、それらがさらに姿を現し、東京自体が危険地帯になっているのではないかしら。それでも生きているということなのかもしれないけど。
拳銃のニュースからゴミ箱から拾った拳銃はテーマとしてしか使われず、ヒナによって非難され、ホダカは拳銃を捨てる。だが、ヒナを救うために再び手にする。成長の拒否でもあるし、相手の人格の否定こそ愛と言っているかのようだ。
たとえば、ホダカはヒナの決断についていき、空の世界で暮らせはしないのか?
それにより、凪だけを苦しめるという決断は出来たのではないか。二人だけの世界が完成する。
凪が重要なら、ラストには凪といるヒナを見せるべきだったろう。
上記もしたように勝手な愛の押し付けでも、相手が許すなら、それは報われるということなのか。拳銃はその象徴になってしまう。相手に言うことを利かせる道具で愛の暴走を認めるアイテムになっている。
凪もホダカを会ったときは、警戒していたのに次のシーンではテルテル坊主をかぶっているなど、シーンの都合のためにキャラクターを扱い過ぎ。
ヒナは体が透けて言っているのに、露出多めの服装でいるし、透けたからこそ覚悟したのに空の世界から戻ってきたらの症状が消えたのはなぜだろうか?
島から家出した理由を描いたのは、ホダカの行動からそれぐらい嫌な状態であったと推測できるから描いてないことは大した問題ではないが、この手の若者の恋愛ものでの親不在が過ぎるとは思う。『君の名は。』でも親の存在が希薄ではあったがそこを乗り越えるシーンがあった。
警察から逃げたら偶然バイクで夏美はやってくるし、須賀は知らないビルにタイミングよく現れる。
セカイ系は主人公のために世界があるのですが、それにしてもねぇ。
ホダカは東京の地形が変わったことを「世界の形を決定的に変えてしまった」と言ってしまうあたり、世界系の主人公であることを理解しているのではないかとさえ。
実は、これは前編なのかも。今後、後編をつくるのか、『君の名は。』も含めた壊れた世界についてのシリーズを続けるのかもしれません。
さて、この記事のタイトルに書いたように、宮崎駿色が色濃くあります。
もはや、みなが宮崎駿を引用するのが当然みたいな状態ではありますが。
湯浅政明が『きみと、波にのれたら』で『崖の上のポニョ』を思いっきり引用していましたね。
今作は『崖の上のポニョ』をハイティーン向けにしたとしか思えない展開をするし、『千と千尋の神隠し』と『天空の城ラピュタ』のエッセンスも見える。
それどころか、いつもにも増して、引用増し増し。
冒頭は渋谷に家出したきた少年で始まる『バケモノの子』だし、階段ダッシュは『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』だったり、空の世界とその脱出は『サカサマのパテマ』(これには『天空の城ラピュタ』の影響もあるけど)だったり。他にもこれ見たことあるが目白押しです。
テーマのためにストーリーがあるのは別にいいし、ストーリーが描写のためにあるのも別にいいのだけど、それらが噛み合ってないなら、全体の質は低いと言わざるを得ない。
部分がすべてを上回ったとしても。
その方法論の価値が、時代や場所で変わることはあるけれど。
世界より自分に大事なものを選ぶってのは、そこそこ昔からあります。
でも、最後のことなのでネタバレになっちゃうのよね。
だから、そこそこ有名だけど、ネタバレしても面白いヤツを2つ。
『ファイト・クラブ』はちょっと複雑だけどラストはまさに世界の形を変えてしまいます。まぁ、君を選ぶ前からあいつは世界を滅ぼそうとしているけど。
『ワールズ・エンド』は彼女じゃないけど世界の崩壊の方を選びます。
新海誠は『言の葉の庭』までは、どこかゲームの設定でゲームではできないことを描いてきた感じがあるが、『君の名は。』から、完全にゲームっぽい。選択肢選び系のゲームみたい。ぶっちゃけストーリー系のエロゲっぽい。ラブホの秘密告白シーンとか、そもぞも雨で濡れているところなど、エロゲからエロを抜いたように見える。そこは貶しているのではなく、ある種のジュブナイルものの良さは、このほのかな色気にもあるので、作家が持っている素養や経験値を上手く活用しているといえる。
透けた体を見せるシーンは名シーンだもの。
新海作品がゲームっぽいのは以前から指摘されていることでもある。
ただ、選択肢を選ぶ時間があった『君の名は。』に対して、選ぶ時間が少なく一気に進むことで観客を早いテンポで幻惑する手法を選んだ感じ。シナリオが雑なので、気づいてしまうとそれに蹴つまづくだけのことだ。
だから、どこか、ハッピーエンドもあるのだろうが、別ルートの自分好みルートではこれもあったかなという感じ。でもそのハッピーエンドはないなら、それはそれで現実っぽいともいえるか。
どこか、それを皮肉っていた『ブラックミラー:バンダースナッチ』の選べない版を見ているようでもあった。
世界に見捨てられた少年として前半描いているので、あの結論になるのも道理なのですがね。
これは今の邦画というか日本物語コンテンツ全体が抱える問題点でもあるけれど。
その方が物語の展開に裏が少なくなり、表面的になるので、置いてけぼりになることや情報のズレ、読解力をあまり必要としないし、展開を早く出来るので見易いのではあろうが、似たような描写ばかりになるし、現実とのリンクが薄くなる。フィクションなのだからそれでよいというのも分かるし、結局、現実のことは現実でしか補えないという意見もある種、真理だとは思う。
だが、そうなると現実が持つ複雑さを単純化するばかりで、現実には触れられない、もしくは触れているはずなのに見逃してしまう自分の思考だけではたどり着かない深みに目が向かなくなる。
物語りの面白味の多様性や多面性を失ってしまう。
子ども向けとはこういう物語のことを指すのだ。
一応、大人なので大人だからこそ楽しめるものも、もっと増えて欲しい。
もちろん、『天気の子』は子供向けなので、子供向けの内容で十分ではあるのだが、この子供と大人の間の時期を馬鹿にしたくないので、子供向けでありながら、も少しだけ深みを持って欲しかったと考えてしまうのだ。
ただ、最良を選ぶだけよりは、自分にとって良いものを選ぶという個人的選択をさせたのは、好みだし、よくぞ!という気持ちです。
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追記。
黒い雨にも見える、あの雨の塊や水の魚は放射線の影響なのかもしれない。つまり、この映画の止まない雨は原発事故後の日本なのかも。
あの大量の留まる水がまさに。そして、それは劇中では子供だけが浴びる。
『君の名は。』はどこか筒井康隆的だった(山中恒とも言えるが)が、『天気の子』は小松左京的とも言える。
映画とアニメで言うなら、細田守と大林宣彦から宮崎駿と岩井俊二になった感じ。
それは、内的から外的になったとも言える。
フィクションだからよいのだけど、愛はそこまで傲慢でいいのか。想像力のない若さだから、許されるのか。そう議論が起きること、疑念が起きる子tが物語役目だしな。
これが愛情ではなく、ホダカはヒナのことを恋愛多少出なかったならどうだろう?
同情や友情だったら、どうだったろうか?
凪のためだったら?
たとえば、愛する人の姉だったら?
母が子を、だったら?
子が母を、だったら?
物語は、心を動かすために描かれるのも最も重要な目的だから。
でも、それがプロパガンダにもなりえる。誰かに利用されることもあり得る。
今作は物語の無責任さをよく用いた例とも言える。
たとえば、お国のためにで死ぬことを美徳化させることへの逃げ道になりえる。
だからこそ、雑さをどこか許せないでもいる。
しかし、雑である方が愛されるということもヒット作によくある特色だったりする。
実は、これが元ネタだったりしてね。
ヒューストンズ(甲本ヒロト/クロマニヨンズ) 『呼んでくれ』https://www.youtube.com/watch?v=AT2NthqwB8c
(※ザ・ブルーハーツの未発表曲でもある)