今朝掲げるのは昭和十八年も一月の最後の週の分、この頃の研修は坐禅が中心のようだ。同じ生徒が阿蘇道場へ来るのは年に一~二回、クラスの研修や、サークルの研修以外、特に阿蘇に来る必要がなければ来なかった。何時の時代も同じことであるようだ。
一月三十日 (土) 晴
飯島教授、平田俊春教授(佐高)、及び習学寮幹事十八名、一名は遅れ六時頃到着した。
阿蘇五岳が綺麗雪を戴いていて気持の良いものである。風が強かった国旗掲揚、掃除、坐禅(その前に入浴あり、半数位入る)夕食である食後、火鉢三つを入れる。雑談、主に寮生活に関しての話がはずんでいた。熊本から持って来たパンを一人前六ケ宛配布する。十時半より夜の坐禅、床に就いたのが十一時十分頃だ。流石に寒くて最初は寝つかれない位であった。蒲団は殆ど動員してしまった。
一月三十一日 (日) 晴
六時半起床、風がないので割合に暖かいというものの外に出ると手足が冷たい。清掃、拝礼、国旗掲揚、体操と済んで坐禅、いろいろ生きるときの注意あり、朝食は一人宛て一合玄米粥で柔らかい様な堅い様な、味がして面食らった。良く噛んで食べねばならむとか。食後一時間位雑談して作業にかかる。佐高の平田先生は十一時の汽車で帰られるので十時頃道場を退場されて帰らる。作業は道路にバラスを敷くことである。日光が当って気持ちの良い仕事であった。十一時半終了。朝食がかゆで足らなかった者がいたのが、昼食は一人宛て一合五勺の玄米飯ではりきって食らっていた、噛まねば旨くない。作業の時間、三宮、飯塚互いに散髪し合う。一時前、拝礼をして退場帰校する。飯島先生は仕事があるとて道場に残られた。寮指導せんとする幹事が皆合宿鍛錬だの精神を寮に於ても常に持っていて貰いたいと思う
昭和十八年は車もない時代であり紗にもに列車か歩くほかは阿蘇内牧まで行かれなかったのでさぞう面倒な時代であったと思う。俺の時代の約四十年後は大学構内から道場玄関前までトラックで狭い山道の道路を乗り付けていたので道場までの途中の様子などほとんど思い出せない。
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