勤労奉仕作業の始まりは昭和十三年八月三十日からでこれはかってなかったことで、この年から初めて開始された。毎朝五時に起床して朝食を終わり室園まで歩き無蓋電車で陸軍用地菊池飛行場建設予定地まで行く、帰寮は午後四時となり入浴、夕食、九時点検という規則正しい生活であった。作業は桑株の除去作業で学生・教師とも一致して汗と土にまみれての生活は気高くもあった。
学校教練の強化は年々実行され閲兵分列式が時々行われ、東京で学生に対する御親閲が五月二十二日実施された時には、五高からも数名が代表として参加した。しかしこの教練の強化は配属将校や教練教官の横暴につながっていった。
十月の記念晩餐会は恰も「銃後強調週間」にあたっており生徒主事からは諸種の注意があっていた。この時代校長と生徒主事は既に時局認識を持っていたが、寮生にはまだ強調された認識に過ぎなかった。この時代の日本は中国を侵略し十月二十七日には中国の漢口を占領し、国民的感激にひたりストームが行われた、提灯行列も行われた。二十九日にはヒットラーユーゲントの来日がありジャーナリストの恐ろしいまでの歓迎には眉をひそめている。
高木総代の日誌には「日本人は親善と阿嫌の区別さえつかぬようだ。彼らに通訳したり接待したりするのを戦傷兵を迎え遺骨を迎えるよりずっと光栄にしている連中が少なくない。ヒットラーユーゲントの青年たちは皆日本の青年団程度の者たちである。といって彼らをかろんじるわけではないが、しかし彼らをそんなに歓迎して当局は我が国をどう思わせるというのだろう。聞けば女学生のマスゲームを彼らの観覧に供すべく眼鏡をかけているものはそれを取らせ、身長五尺(1m50センチ)以下のものは参加させなかったのだそうであるがおかしな教育者もあったものだ」
東光会とはマルキシズム華やかなる頃これに対抗して「光は東方より」を叫んで結成された東洋研究団体で国粋主義傾向を表して活動した会である。この後マルキシズムは没落していったが、東光会の活動は活発になり活躍していった。
昭和14年2月1日寮内のコンパで議論は大いに進んで東大の河合、土方両教授の問題に及び学の絶対自由をといて軍官の思想的弾圧を痛感して祖国の前途を思い半ばに過ぎるものありとなす者があり、国家の大学において教壇に立つ以上、その国家に弓引く思想態度は許されぬといい、言論と思想を巡って論議が戦わされた。この日も河合教授に対して法学部学生がとった態度にたいし論ぜられたが遂には現今の教育制度そのものを恨むという結論に達している。