凡凡「趣味の玉手箱」

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「夏王朝は幻ではなかった」

2006-01-29 17:14:37 | 読書備忘録
「夏王朝は幻ではなかった」副題は「1200年遡った中国文明史の起源」である。

著者は中国の歴史学・考古学・天文学・放射線物理学に及ぶ第一線の研究者約200名を集めて1995年~2000年かけて「夏・商・周年表作成国家プロジェクト」のすべての会議に同席を許された作家である。

夏の存在は史記などで広く語られてきたものの、商(中国では殷のことを商という)や周の時代については曖昧な年代しか判らなかった。

それがこのプロジェクトによって、①夏代はほぼ紀元前2070年に始まった②商(殷)は1600年に始まった③商の最後のあの悪名高き紂王が周の武王に征伐されたのが紀元前1046年である事などが明らかになった。

これらの年の特定に当たっては、歴史学・考古学・天文学・放射線物理学を駆使して算定されたものであるが、その数字はきりの良い数字となっている。

この研究は史記はもちろんのこと、尚書(書経)・竹書紀年や孟子等の書物、甲骨・竹簡・青銅器などに記された文字記録や天象記録、次々と出土されてきた甲骨の放射線年代測定法等々を前後左右に組み合わせてジグローパズルを埋めてゆくかごとくの作業を行って辿りついたものである。

2000年の11月にこの研究が公表されるまでは中国で公式に最も古いとされていた年が紀元前841年だったのである。それがこの研究で一挙に、1200余年遡ったわけである。

内容的に難しくいろいろな地名が出てくるのでゆっくりと時間をかけて読み直したいと思っているが、興味を引かれた点を2,3記しておく。

① 放射線同位炭素による年代測定:炭素14による年代測定法は考古学において最も広くつかわれている年代測定法。炭素14は生物体が死ぬと新たに補充されず5730年ごとに半減するという法則に従って減少する。そのため、植物動物を問わず、死亡後そのサンプルに含まれる炭素14の減少の度合いを測定すれば死亡した年代を割り出すことができる。すべての生物の死体に残る有機物及び風化していない骨や貝殻などはすべてこの方法で年代が測定できる。ただこの測定は誤差が100年ないし500年にわたることがある
② 加速器質量分析法(AMS法)による年代測定:1970年代末に欧米で開発された核分析技術であり、寿命の長い放射線核素・スクレインの同位元素の存在比を測定して年代を推定するもの。従来の炭素法に比べると必要とするサンプルの量が1000分の1以下ですむというメリットがある。また炭素法の最低でも48時間かかるところがこのAMS法では僅か数十分で結論が出る。精度も炭素法よりも高い
③ 天文学の発展:今では高性能コンピューターによって過去の日食や月食の起こった時期をかなり性格に推定できる。古代中国では天象観測を極めて重要な国の政とみなしどの王朝でも高い位の担当官を置いていた。尚書や史記・春秋さらには甲骨文には日食などの記述が見られる。これらの文書記録を天文学と照合することによって古代中国で起こった年を推定することができる。

一応、夏まで中国の歴史を遡ることができた。修正は加えられるかもしれないが、ともかくも画期的なことだと思う。次のターゲットは黄帝・堯・舜の伝説の時代であるという。興味の尽きないところである。

書名:夏王朝は幻ではなかった
著者:岳
訳:朱建栄、加藤優子
発行所:柏書房(株)
発行年:2005年5月25日

狼狽というコトバ

2006-01-29 09:33:57 | 中国のことわざ
中国のことわざ-103 狼狽というコトバ
1月29日の日本経済新聞朝刊の漢字コトバ散策からである。
ライブドアの不正疑惑で個人投資家に不安が高まって、狼狽売りが殺到、挙げ句東証がシステムダウンしたのはつい最近のこと。この狼狽というコトバは漢の時代からあるという。

広辞苑によれば“あわてふためくこと”、“うろたえ騒ぐこと”とある。「狽」は狼の一種、一説に、狼は前足が長く後ろ足はその逆。狽はその逆。両者は常にともに行動し、離れると倒れてうろたえることから、「狼狽」というそうである。この説は唐代の「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」という書に出ている。

杜甫の詩にはよく「狼狽」が出てくる。安禄山の乱を避けて、疎開中の家族を訪ねた旅を描く長編「北征」では戦乱の発端を回顧する。

億う(おもう)昨て(かつて)狼狽の初め
事は古先(こせん)と別なり

「狼狽」は安禄山の乱による騒動を指し、過去の先例と異なって果断だったとほめる。

また、杜甫が成都にすんでいた頃、大雨で谷川が氾濫したことを詠う「渓漲(たにみなぎる)」という詩に、水中の動物のうろたえる様を描いて言うには

蛟龍(こうりゅう)も亦た(また)狼狽す
況や(いわんや)是れ(これ)鼈(べつ)と魚をや

“蛟(みずち)や龍だっておろおろするのだから、鼈(すっぽん)や魚のあわて方は無理もない”というのである。

ところで、蝋梅(ろうばい)という黄色い花を咲かせる木がありますが、これは中国原産だそうです。「狼狽」とは関係ないと思いますが。

出典:広辞苑、日本経済新聞1月29日朝刊漢字コトバ散策


緑林山の反乱

2006-01-28 19:36:42 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-4 緑林山の反乱

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

天鳳四年(西暦17年)、荊州(けいしゅう)に反乱が起こった。その指導者は新市出身の王匡(おうきょう)という者で、これに亡命中の馬武、王常、成丹らが加わって、当陽付近の緑林山に立てこもった。

天鳳六年、“瑯や(ろうや)”出身の樊崇(はんすう)、東海出身の“ちょう子都(ちょうしと)”らが、王莽打倒の兵を起こした。三年後、樊崇の率いる反乱軍は赤眉軍と称した。

緑林山にたてこもっていた反乱軍は、その後山を降りて、下江の兵と新市の兵とにわかれた。荊州の平林でも反乱が起こった。

*盗賊や山賊のことを緑林というのは、これに基づく。その主体は、王莽の失政によって生業を離れた流亡の農民で、赤眉軍(見方を識別するため眉を赤く染めた)も同様である。これらの反乱集団は、数百人から次第に数を増し五万、十万と膨れあがった。


ある老学者の死―揚雄

2006-01-28 19:12:04 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-3 ある老学者の死―揚雄

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から
即位した年、王莽は元帝の太子子嬰を廃して,定安公とした。
翌年、太皇太后の王氏が没した。
天鳳(てんほう)五年(西暦18年)王莽の大夫(宮中顧問官)揚雄(ようゆう)が死んだ。
揚雄は、成帝の代に郎中(ろうちゅう:宿衛侍従の官)に取り立てられ、殿中の奏上事務をつかさどった。成帝、哀帝、平帝と三台にわたって、同じ職務にあった。王莽の簒奪後」、その老年に至るまで、良く同じ職務にあったことが認められて、大夫に抜擢されたのである。彼は「太玄」「法言」の二書を著したが、その結論の部分で、王莽の業績は古代の名宰相伊尹(いいん)と周公のそれに匹敵すると称賛した。そち、さらに「秦を非難し新をたたえる」文章を書いて、王莽を称賛した。

“劉ふん”という男がいた。揚雄に師事して、古代の文学を学んでいた。この男が反政府運動を行って、獄に入れられた。その自供によって、揚雄も関係していたことが判った。その日、揚雄は宮中の天禄閣にあって、書物の校閲をやっていたが、役人が逮捕しに現れると、天禄閣から身を躍らせて自殺を図った。これを聞いた王莽は、詔を下して、それ以上彼の罪を追求するのを取りやめさせた。その結果、揚雄は、この日まで生命を長らえたのである。

*漢の皇帝三代に仕えた揚雄は腹の底では王莽を憎んでいたのでしょうか。王莽を安心させるために王莽を称賛する書物を書いたのでしょうか。ここの紹介エピソードだけでは揚雄の本心はよくわかりません。


義和団、外国侵略者に抵抗する

2006-01-28 12:16:07 | 読書備忘録
中国の歴史:中国小学校社会教科書⑥ 義和団、外国侵略者に抵抗する

アヘン戦争以降、西方列強の侵略勢力は我が国の内地に進入した。外国の宣教師は不平等条約をかさにきて、我が国の各地でのさばり、田畑や家屋を占拠して、人民のこの上ない恨みと強烈な抵抗を引き起こした。轟々(ごうごう)たる義和団の帝国主義に反対する運動が爆発した。

義和団は主に貧困な農民と各種の職人(大工、石工など)からなる、外国侵略者に抵抗する民間の組織である。義和団の将兵の多くの人はすぐれた武術を身につけていた。義和団はまず山東で蜂起した。彼らは太刀、長い矛、棍棒などの武器を持って悪事の限りを尽くす教徒(キリスト教徒)と、教会とぐるになって悪事を働く悪玉の親分を攻撃した。義和団は広範な農民に積極的に擁護されて、勢力はたちまち北京、天津地区にまで発展した。

義和団運動の発展は、西方列強を大いに狼狽させた。1900年、イギリス、ロシア、日本、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアの八カ国は公使館保護を理由に、八カ国侵略連合軍を組織して、天津から北京に向かって侵犯し、義和団の勇敢な抵抗に遭遇した。

1900年6月11日午後、一隊の八カ国連合軍が“落はつ”駅で、義和団が破壊した線路を大急ぎで修理していた。突然、大勢の頭を赤い布で縛った義和団の兵士が、手に太刀、長い矛を持って突撃してきた。八カ国連合はたちまち蜂の巣をつついたように乱れて、廊坊駅に隠れた。義和団は廊坊駅を四方から包囲した。14日早朝、八カ国連合軍を乗せた汽車が、集中した火力に援護されて、包囲を突破しようと企てたが、義和団に勇敢に阻止されて、やむなく退却した。数日が過ぎこの八カ国連合軍は弾が尽き食料がなくなったので、再び包囲突破を強行した。しかし、駅を出たとたんに、義和団と一部の愛国的な清軍の包囲攻撃にあった。戦闘は2時間余り続き、多くの敵を殲滅した。残った八カ国連合は25日になってやっと天津に逃げ戻った。この戦役は廊坊の大勝利と称されている。

廊坊の大勝利の後、八カ国連合軍はさらに多くの兵力をかき集めて、1900年8月北京を占領した。慈禧太后は光緒皇帝を連れてあわてふためいて逃げ去った。逃げ去る途中で、侵略軍のご機嫌を取るためになんと義和団を攻めるように命令した。義和団は勇敢に戦ったが、無残にも敗北した。

八カ国連合軍は北京を占領すると、焼く、殺す、略奪と悪の限りを尽くした。彼らは清朝政府の銭の倉庫、銀の倉庫を略奪し、清の宮殿の洗いざらい略奪した。運ぶことのできる金銀財宝、文物書画はすべてすっかり持ち去られた。宮殿の門の外の大きな水瓶に張られた金箔さえも、貪欲な侵略者に剥がされて持ち去られた。八カ国連合は北京で公然と数日間略奪し、北京駐在の外国公使たちも略奪に加わった。財物を奪い取ると、侵略者たちは火を放って証拠を湮滅(いんめつ)した。一時期、北京中で火の手があちこち起き、濃い煙が逆巻いていた。

1901年イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの11カ国の列強が清朝に迫って主権を失う国辱的な辛丑(しんちゅう)条約を締結した。条約は清朝政府に4.5億両の白銀の賠償金を要求した。1900年は旧暦の庚子の年に当たるので、この賠償金は庚子賠償金と称される。

書名:中国の歴史:中国小学校社会教科書
監修・訳:小島晋治
訳:大沼正博
発行所:明石書店
発行年:2000年11月10日

上記は、ほぼ教科書そのままの文章です。中国が列強に蹂躙されつつある時に、その外国勢力に猛然と向かっていった農民中心の軍団である義和団を賞賛しています。冒頭の部分で「悪事の限りを尽くす教徒(キリスト教徒)と、教会と“ぐる”になって悪事を働く悪玉の親分を攻撃」とありますが、この部分を読んだキリスト教徒はどう思うでしょうか。中国人の愛国心を高揚させようという中国政府の意図が随所に認められるような気がします。ロシアなどを含む八カ国連合の寄せ集めの軍ですから軍の規律も緩いといった一面はあったのかもしれませんが少々誇張しすぎている感がなくもありません。昨日の毎日新聞に「中山大学の袁偉時教授が執筆した論文「現代化と歴史教科書」1900年の義和団事件についてで「義和団が現代文明を敵視し,排外主義を取っていた」と説明し、義和団メンバーが外国人計231人を殺害するなどの残虐行為を行っていた」という記事が掲載されていました。大学の先生が執筆した論文ですから、おそらく史実に基づいて指摘されたものと思います。


戊戌(ぼじゅつ)変法

2006-01-28 12:14:49 | 読書備忘録
中国の歴史:中国小学校社会教科書⑤戊戌(ぼじゅつ)変法

甲午日中戦争における清朝政府の敗北と、日本侵略者の残虐と貪欲が、多くの愛国的知識人を覚醒させた。彼らは各地に奔走して呼びかけ、皇帝に上書し、変法救国を主張した。

上書の内容は康有為や梁啓超などが日本との和議に反対し、変法を請うたものである。歴史上この上書を「公車上書」と称する。公車上書は全国を騒然とさせ、変法救国を要求するのが当時の潮流となった。

1897年、ドイツがわが山東の膠州湾(こうしゅうわん)を占領し、再び人民の激しい憤りを呼び起こした。康有為(こうゆうい)は続けて三度上書し、変法の必要性を力説した。彼は「変法して国を強くしなければ外国の侵略は一層激しくなるだろう、国家は既に最も危急の時に至っている、維新派の人士を任用して国事に参加させ、皇帝が命令して変法を実行することを要求する」と言った。

光緒皇帝は康有為の上書を読んで、深く感動し、「亡国の君となることに甘んぜず」と述べて、変法を決心し、1898年か6月から9月まで数十通の変法の政令を発布し、康有為、梁啓超、譚嗣同(たんしどう)ら維新派の人士を起用して、変法を実行した。この年は旧暦の戊戌の年に当たるので、戊戌変法と称する。

戊戌変法の主な内容は以下の通り。①政治面では余分な官吏を削減し、維新派の人士を起用②経済面では農業・工業・商業及び鉱業の発展を奨励③文化の面では学校を広く設立し、首都に大学堂を設立する④軍事の面では新式海軍・陸軍を訓練する。

戊戌変法は広範な愛国的知識人に擁護されたが、慈禧太后(北京郊外に広大な庭園、頤和(いわ)園を再建した西太后のこと)をかしらとする頑迷派の利益を犯したので、頑迷派の力の限りの妨害と切り崩しにあった。光緒皇帝の発布した変法の命令は、大多数は一通りの空文と同じで実行されなかった。

1898年9月21日、慈禧太后は政変を起こして、光緒皇帝を拘禁し、命令を下して変法の命令を廃止し維新派の人士を逮捕した。康有為、梁啓超は国外に逃げたが、譚嗣同は逃亡をのぞまず甘んじて変法のために身を献じ、死を以て国民を目覚めさせた。譚嗣同とその他の5名の維新派の人士は頑迷派に同時に殺害された。歴史上彼らを「戊戌六君子」と称する。戊戌変法は103日続いたので、歴史上「百日維新」とも称する。

書名:中国の歴史:中国小学校社会教科書
監修・訳:小島晋治
訳:大沼正博
発行所:明石書店
発行年:2000年11月10日

中国で中国版歴史教科書問題を批判

2006-01-28 12:13:40 | 中国関連ニュース
「歴史を正しく伝えていない」と中国の中学歴史教科書を批判する論文を載せた週刊紙が当局から発行停止余分を受けた。中国共産党機関紙の附属週刊紙で独自の社会評論で評判が高かった「氷点」で25日から発行が停止された。

問題となったのは、中山大学の袁偉時教授が執筆した論文「現代化と歴史教科書」1900年の義和団事件についてで「義和団が現代文明を敵視し,排外主義を取っていた」と説明し、義和団メンバーが外国人計231人を殺害するなどの残虐行為を行っていたと紹介した。

これらが歴史教科書に記述されていないことを指摘した。そして中国が日本を「歴史を歪曲している」と批判しているが、「我々の近代史観も類似の問題がある」と述べ、民族情緒をあおるのではなく、理性的な態度で歴史を分析する必要があると訴えた。

(毎日新聞1月27日朝刊から)

*袁偉時教授、良くぞ言っていただきました。それにしても、中国の言論統制はひどい。


惨めな孤児の王莽

2006-01-28 12:11:47 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-2 惨めな孤児の王莽

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

初始元年(西暦9年)、王莽は真天子の位につき、国号を新と改めた。漢の太皇太后には兄弟が8人おり、その一人王曼(おうまん)の子が王莽であった。王曼は若くして亡くなったため、諸侯に取り立てられなかった。そのため、王莽は幼児から惨めな境遇にあった。

王莽の従兄弟たちはそれぞれ将軍に取り立てられ、いずれも羽振りが良く、豪華な馬車を乗り回したり、歌舞や女色に耽ったり、遊んでばかりいた。

それに対して王莽は従兄弟たちを横目で見ながら、じっと耐え、恭倹に振る舞った。ひたすら徳行を身につけ、学問に打ち込んだ。外では服装を質素にして、優れた人物とつきあい、内にあっては叔父たちに仕え、礼儀正しさを失わなかった。

こうした努力が認められて、王莽は新都侯に封ぜられた。その後トントン拍子に爵位が上がったが、彼はますます謙虚に振る舞った。彼の評判は、いやが上にも高まった。ついには、叔父たちの勢威をしのいで、国勢の実権を手に入れるまでになった。

哀帝が没すると、彼は平帝を迎えて、擁立した。その五年後、平帝を毒殺して、仮皇帝におさまり、さらに三年後、帝位を簒奪して、国号を新と改めたわけである。

*若いときの彼の行動からすると、平帝を毒殺するなど考えにくいですね。


中国2005年に9.9%成長

2006-01-28 12:10:44 | 中国関連ニュース
中国国家統計局は2005年の国内総生産GDPの前年比の伸び率が物価変動の影響を除いた実質ベースで9.9%になったと発表。1000億ドル(約11兆5千億円)を超える巨額の貿易黒字と投資が牽引し、三年連続で10%前後の高成長となった。

名目GDPは18兆2321億元(約259兆円)、米日独英仏に次ぐ世界6位(フランスを抜いたという情報もある?)高成長の要因は1019億ドルに達した貿易黒字。今年は欧米との通商摩擦回避のため、黒字が減る公算が高い。民間の設備投資や公共投資を合わせた固定資産投資は前年比25.7%の高い伸び。地域別では都市部の伸びが農村より9.2ポイント高く27.2%。消費者物価の上昇率は前年比1.8%。高成長にも関わらず物価が殆ど上がらないのはガソリンなどのエネルギー価格を政策的に低く抑えていることに加え、家電製品や自動車の価格が供給過剰で落ちているため。

一方、昨年11月に起こった吉林省の化学工場爆発による汚染物質の河川への流出や、湖南省や重慶市でも工場から有害物質が流出、一連の流出事故は高成長の追求が環境対策を二の次にしている事を暗示している。

中国の農村では1億5千万人の余剰労働力があるとされる厳しい雇用情勢がある。成長の鈍化が農村中心に社会不安を招来、中央政府批判がおこり、政権の基盤を揺るがす事態に陥らぬよう高成長路線を取らざるを得なかったという見方もできる。これからも綱渡りの政策運営を強いられよう。

(日本経済新聞25日夕刊から)





食指が動く

2006-01-25 21:49:18 | 中国のことわざ
中国のことわざ-102 食指が動く
「欲しがる」「その気になる」ことを「食指が動く」「食指を動かす」という。

鄭の霊公に楚から大きなスッポンが贈られてきた。たまたまその日、重臣の子家と子公が出仕しようとしたが、子公の食指(人差し指のことです)がぴくりと動いた。子公は「いつも、この食指が動くと必ず珍味が口にはいるのだ」と言った。

二人が霊公に拝謁すると、スッポンの吸い物をすすめられた。子公は笑って言った。「やはりそうだった」

霊公に問われるままに、子公はそのわけを話した。霊公は子公にだけ吸い物を与えなかった。怒った子公は吸い物の入った鼎に指を突っ込み、その指を嘗めて退出した。

霊公は怒って子公を殺そうとした。これを察知した子公は先手を打って霊公を弑殺した。

*食べ物の怨みは恐ろしい。スッポン料理って春秋時代に既にあったのですね。

出展:司馬遷、史記[別巻]史記小辞典、徳間書店、1988年11月30日第二版第一刷、鄭世家