凡凡「趣味の玉手箱」

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曲学阿世

2005-11-30 05:01:56 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-104 武帝の時代-7 曲学阿世

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

武帝は身分,階級にとらわれず、事務能力を備え、聖人の教えに精通しているものを招聘することにした。

彼らを上京させるときは、沿道の諸郡に順次食事を提供させ、また、時期を、その郡の責任者が都に年次報告する時期に合わせ、同行させて旅費がかからぬよう配慮した。

こうして、“し川郡”からは公孫弘(こうそんこう)が選ばれた。公孫弘は武帝の質問に答えた。

「君主が天の法則に従順で,和の徳を身につければ、下々にもそれが行き渡って、人民は和合して暮らすものです。このように“心”の和が達せられれば、気にも和がもたらされ、気の和が達成されれば、“形”にも和がもたらされ、“形”の和がもたらされれば“声”にも和がもたらされ、かくて、天地万物の和がこれに呼応して起こるのです」

公孫弘がこの答書を差し出したところ、武帝はこれを第一等として、早速彼を登用し、宮中の金馬門に顧問役として待機させた。

同じ頃,斉出身で90余歳の“えん固”が賢良の科目によって朝廷に招かれていた。二人は同僚であったが、公孫弘は朝廷で“えん固”に顔を合わせると、いつも目をそらせるのだった。

あるとき、“えん固”は公孫弘をつかまえてこう言った。

「公孫弘どの、正しい学問を身につけてからものを言うが良い。学を曲げて世に阿(おもな)ってはなりませんぞ」



曲学阿世

2005-11-30 05:00:20 | 中国のことわざ
中国のことわざ-76 曲学阿世

曲学(真理を曲げた不正の学問)をもって権力者や世俗に阿り(おもねり:機嫌をとって相手の気にいるようにする)人気を得ようとすること。曲学阿世の徒。

漢の武帝の時代、あるとき、閣僚たちが、あらかじめ打ち合わせた統一見解を携えて朝議にのぞんだが、武帝がそれに不満の意を示すや、公孫弘はしゃあしゃあと武帝の意見に賛成したという。

公孫弘を苦々しく思っていた同僚の“えん固”は公孫弘をつかまえて「公孫弘どの、正しい学問を身につけてからものを言うが良い。学を曲げて世に阿(おもな)ってはなりませんぞ」と言ったという。

曲学阿世という言葉は、かつて吉田茂首相が、サンフランシスコ講和条約の締結に際して、全面講和をとなえる南原繁東大総長をこう呼んで有名になった。

(出典)広辞苑、史記、「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」


夜郎自大

2005-11-29 05:08:56 | 中国のことわざ
中国のことわざ-75 夜郎自大

漢の武帝の時代、野郎国の王が漢の広大なことを知らず、自らを強大と思って漢の使者と接したことに由来する成語。

自分の力量を知らないで、幅を利かす態度をとるたとえ。野郎大とも言う。

日本のことわざでは「井の中の蛙」にあたる。

(出典)史記(西南夷伝)、広辞苑


版図広がる

2005-11-29 04:58:19 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-103 武帝の時代-6 版図広がる

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

北方の匈奴との戦闘再開についで、武帝は南方にも目を向ける。現在の雲南、貴州、広東、広西省あたりには、当時異民族の王国が何百という小国に別れて存在していた。

唐蒙(とうもう)という者が上書した。

「南方の蛮夷を攻略して、漢の属郡にしたいと存じます」

武帝は許可を与え、啓蒙を中郎将に任命して仙人の兵を授けた。

漢軍が野郎国に攻め入ると、野郎国はすぐに降伏し、漢の命令に従うことを誓った。野郎国は漢の一郡となった。

さらに武帝は、司馬相如を中郎将に任命し、西方の蛮夷に派遣した。漢軍は4国を配下におさめ、漢の一郡とした。

こうして、漢の版図は、西は沫水(まつすい)、若水(じゃくすい)まで、南は“しょうか”にまで拡がったのである。



匈奴戦再開

2005-11-19 06:54:54 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-102 武帝の時代-5 匈奴戦再開

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

高祖が「平城の戦い」で匈奴に苦しめられてからというもの、漢は匈奴に対して和平策をとってきた。その伝統を破ったのが武帝である。

武帝は大行官“王かい”の建議を用い、匈奴を攻撃することにした。“王かい”らを馬邑(ばゆう)郡の谷間に潜め、一方では聶壱(じょういつ)に匈奴を巧みに誘い出し、塞(とりで)に入ったところを一気につぶす策略であった。ところが、単于(ぜんう)はそれと察し、塞外に去った。

このときから、匈奴は漢との友好関係を絶ち、境を接する塞をたびたび攻撃した。


神仙を求めて

2005-11-18 07:01:22 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-101 武帝の時代-4 神仙を求めて

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から
元光元年(武帝即位後7年)、武帝は各郡各国に命じて、親孝行者、人格清廉なるものをそれぞれ1名選ばせて、都に推薦させた。

二年、方士(仙術修行者)の李少君が武帝にまみえた。奇抜なことばかり言うが、これがぴたりと武帝の心の中を当てるのだ。

「竈(かまど)の神をお祀りなさいませ。さすれば神変不可思議なものを見いだすことができます。この黄金の器を用いれば、蓬莱島(ほうらいとう)の仙人に会うことができます」

武帝はこれをすっかり信じ、自ら竈の神を祀るようになった。

さらに、李少君が会ったという仙人の安期生らを探し出すため、方士を東海にあるという蓬莱島へ派遣した。この噂が広がると、東海一帯の燕や斉から、得体の知れぬ方士が陸続と上京し、神仙に関することを言上した。

*秦の始皇帝が不老長寿を求め、晩年になって仙人探しを行ったが、武帝は20歳代からすでに神仙に興味を持っていたという。しかし、武帝の場合は不老長生への個人的な願望ではなかった。儒家の観点から天子は天の命を受けて天下を治めるものであり、そこには神秘的な要素がどうしても含まれ、皇帝たることを追求すれば、神仙にたどり着かざるを得ないのだそうだ。


漂着ゴミ日本も加害者

2005-11-17 21:52:54 | 環境問題
日本に中国や韓国そしてロシアから流れ着く漂着ゴミ問題は厄介な問題だ。

今日のNHKテレビクローズアップ現代を見ての感想。

まず日本海に面する海岸のみならず太平洋岸にも漂着ゴミがあることに驚く。つぎにゴミになんと大きな洗濯機もあることに仰天。長崎県の対馬ではボランティアの方が懸命にゴミ集めをされているもののその処分には相当巨額のお金がかかる。しかも、いわゆる焼却炉では燃やせないのだ。理由は海流に乗ってやってくるためゴミにはたっぷりと塩分がふくまれ、これを焼却炉に入れれば塩酸が発生してたちまち炉が腐食してしまうとのこと。ペットボトル、魚網、家電製品、ロープ、医療用系ゴミなど有りとあらゆるゴミが流れてくるので分別もままならないのだ。しかしなんとかしなければ、せっかくのすばらしい景観が失われるばかりか、生態系にも悪影響を及ぼす懸念がある。

ここまでの話は私も知っていたが、日本からの漂着ゴミがミッドウエイやハワイさらにはカリフォルニア沖まで流れ着き、鳥の楽園で雛が次々に死んで行く悲惨な場面を見てショック。雛は親鳥が間違えて食べたプラスティックを親から口移しにもらってそれが喉につかえてもがき苦しんでいるのである。ボトルには日本語が刻印されており確かに日本から流れ着いたものだ。

* 環境省は当然のことながら対策を考えているのだろうが、今ひとつ対策が進まない原因の一つは官庁の縦割り組織にあるようだ。海の領域は海上保安庁管轄、陸にゴミが上がれば国土交通省管轄など責任の所在が不明確な点。どのようなゴミでも一瞬にして分解し原子状にしてしまうような画期的な新技術開発あるいは圧縮固形化する減容化技術の開発とその用途先の探索などの開発。これらソフトおよびハード面からの対応が望まれる。韓国では海洋ゴミを漁民が採った場合その量に応じて政府がゴミを買い取っているそうである。これなども日本も検討に値する対策の一つかもしれない。しかし最も重要なことはやはりゴミを出さないことだろう。かけがえのない地球の自然を守るために今こそ手遅れにならない内に関係諸国が共通認識を持ってこの厄介な問題に取り組む必要があると思うのだが。





ただ実行のみ

2005-11-15 07:12:41 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-100 武帝の時代-3 ただ実行のみ

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

武帝は叔母と祖母のバックアップで18歳の時、即位した。即位後6年祖母の死によって、武帝は独自の政策を進める。祖母は道家びいきの儒家嫌いで武帝にとって煙たい存在であった。これ以降の武帝は、遠征軍の派遣、儒学の採用と、ただ“実行あるのみ”であった。

武帝はクッション付き迎賓用高級車と礼法通りの贈り物を持たせ、魯の儒者申公(しんこう)を招聘した。参朝した申公に、武帝は国家治乱をめぐる諸問題について尋ねたところ齢80数歳の申公は「議論しているときではありません。極力実行することです」と答えた。

建元3年、南方の“びん越国”が“東おう国”を攻撃した。武帝は使者を派遣し、さらに軍隊を送って、“東おう国”を救援した。そして“東おう国”の人々を江淮(こうわい)地方に移住させた。

そのころ、武帝ははじめておしのびで上林苑に行き、苑の修築を監督した。

建元5年、武帝は「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」についての専門家五経博士を置いた。6年“びん越国”が南越地方に侵入してきた。武帝は王恢(おうかい)らを派遣して、迎撃した。


鄭和の大航海

2005-11-14 17:13:23 | 中国知っ得情報
ことしは中国明代の鄭和が大航海を開始して600年目にあたるという。

バスコダガマやコロンブスの大航海時代にさぼる70年前に鄭和の船団は東南アジア、インドさらにはアフリカにも至った。海外の産物を入手すると共に、明への朝貢を促す目的があったようだ。

鄭和が指揮した船の中で最大のものは宝船(ほうせん)と呼ばれ、その長さは全長120メートルを越える大型船であったという。大変高度な造船技術を有していたのであろう。

不思議なことに、中国はこれを最後に大航海を止めてしまう。理由は定かではないようだが冒険的な航海は儒教精神に反すると見なされたものらしい。中国の海軍が育たなかったのも大航海を止めてしまったのが原因になっているのかもしれない。

毎日新聞11月13日朝刊から
鄭和については以下をご参照下さい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

*以前に、中国の原子力潜水艦が日本の領海を侵したというニュースがあったが、この600年目を契機に、中国が海軍増強に本格的に取り組みだした可能性もあるのではないか。

中国潜水艦グアム往復の記事は以下のブログを参照
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/14148143.html


八角とインフルエンザ

2005-11-14 17:09:57 | 中国知っ得情報
八角というと中華料理には欠かせない香辛料である。トウシキミと呼ばれる植物の実で形が八つの角を持つ星形あることから八角とかスターアニスと呼ばれる。豚肉の角煮等に良く合うそうだ。

この昔ながらのスパイスは鳥インフルエンザで今、話題となっている薬「タミフル」の原料だ。八角からは「シキミ酸」という物質が抽出される。これがタミフルの出発点だ。製造元のスイスのロシュによると、中国南西部で育つ特別な八角を使うそうだ。

毎日新聞11月13日朝刊発信箱から。
トウシキミについては下記をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%AD%E3%83%9F