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始皇帝による統一

2005-08-26 06:07:18 | 十八史略を読む
十八史略を読む-83 戦国の七雄-7 秦 その13 始皇帝による統一
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

昭襄王が没して孝文王柱が立った。孝文王が没して子の荘襄王楚が立った。そして荘襄王の没後、王位を継いだのが政(せい)である。

政は、六国を併合して皇帝の地位についた。これが秦の始皇帝である。

黄帝以来、天下に百里四方の国は一万を数えた。朝令は中原から辺境の地まで達していた。中国の制度を示す『礼記』王制編によって調べることの出来る国は九州に千7百七十三あった。

昔、諸侯を設けた頃は、各諸侯がそれぞれの国の君主となり、民を我が子のように慈しみ、天子を宗主としてあがめたものだ。

しかし、夏、殷を経て、周の時代になると、十二カ国を残すだけで、他は殆ど滅び去り、さらに戦国時代になると、六カ国か七カ国だけになってしまった。

それも秦の始皇帝の時代になって、すべて併呑されてしまったのである。

これで十八史略Ⅰ巻の覇道の原点を読み終わったことになります。

かなりはしょって、ポイントだけを記載した部分も多いものですから、さらに詳しく読みたい方は原本:「十八史略 Ⅰ 覇道の原点:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」をお読み下さい。

次回からはⅡ巻 乱世の群像です。十八史略を読むⅡとして掲載してまいります。



役目が終われば交代するもの

2005-08-26 06:05:07 | 十八史略を読む
十八史略を読む-82 戦国の七雄-7 秦 その12 役目が終われば交代するもの
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

秦の名将の武安君白起(はくき)は范雎と折り合いが悪かった。

このため、将軍を解任されて一兵卒となった。そればかりか、王より剣を授かったのである。自殺せよと言う意味であり、白起は杜郵というところで自刎して死んだ。

昭襄王は、しかし、朝廷で嘆いた。「内には良将がなくなり、外には強敵ばかりだ」

これを耳にした范雎は、内心恐れるところがあった。

その范雎に向かって、蔡沢(さいたく)が言った。

「春夏秋冬の各季節にしろ、役目が終われば、次に交代するものだ」

范雎は病気と称して、職を辞し、蔡沢が後任となった。

周滅亡する

2005-08-26 06:03:33 | 十八史略を読む
十八史略を読む-81 戦国の七雄-7 秦 その11 周滅亡する
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

昭襄王は范雎の遠交近攻の策を用いて、毎年のように韓、魏、趙に武力行使し、首を取ること数万に達した。

周の赧王は、脅威を覚えて、諸侯と合従を約し、秦を討とうとした。

そこで秦は周を攻めた。

周は支えきれず、赧王は秦におもむいて、頓首し罪を詫びた。そして、周の36邑をことごとく秦に献上した。

かくして周は滅びた。


一飯の恩に報う

2005-08-25 20:43:33 | 十八史略を読む
十八史略を読む-80 戦国の七雄-7 秦 その10 一飯の恩に報う
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

かつての須賈が魏の使者として秦を訪れた。

范雎は秦での身分がばれないようにぼろをまとって、人目につかぬようにして、須賈に会いに行った。

「おう、范雎生きておったか。」と言って,引き止め、ご馳走した上、「おまえはそんなに貧乏しているのか」と、厚い綿入れ一枚を与えた。

やがて、范雎は、須賈の馬車を御して、宰相の官邸に案内した。

「わたしがまず先に入って宰相に取り次ぎましょう」

須賈は入口で待っていたが、范雎がなかなか出てこないので、門番に聞いてみた。すると門番は応えた。

「范雎などというお方はいません。さっきのお方が宰相の張禄さまです」

須賈は、はじめてだまされていたことを知った。そこで范雎にかつての罪をわびるため、膝でにじり歩いて邸内に入って行った。

范雎は宰相の座に座ったまま、須賈を責めた。

「おまえが殺されずに済むのは、綿入れをくれたりして、いかにも昔なじみの情が表れていたからだ」

范雎は須賈の罰し方を考えた。

まず、諸侯の賓客たちを招き、盛大な宴会を開いた。そして、衆目の前で須賈にはワラと豆のカイバを与え、馬の格好でこれを食わせた。

さらに、須賈を帰国させるとき、魏王にこういわせた。

「いいか、速やかに魏斉の首を持ってこい。さもなければ、魏都大梁(たいりょう)を攻めて皆殺しにしてやる」

須賈は帰国すると、この旨、魏斉に報告した。

魏斉は恐れをなして、国を逃げ出し、自殺した。

范雎は秦でこうなり名を遂げると、こうして飯一杯の恩にも報いたし、またわずかの恨みにも必ず報復したのである。

金を受け、拷問される

2005-08-25 06:26:55 | 十八史略を読む
十八史略を読む-79 戦国の七雄-7 秦 その9 金を受け、拷問される
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

武王の弟昭襄王(しょうじょうおう)が即位した。

この頃、魏の人、范雎(はんすい)は魏の中大夫の須賈(しゅか)に仕えていた。

須賈が使者として斉に派遣されたとき、范雎も随員として斉におもむいた。

斉王は、范雎の弁舌の才を人づてに聞き、范雎に金と酒を贈った。

須賈はこれを知ると范雎が魏の秘密を斉に売ったと思いこみ、帰国するとすぐに、これを魏の宰相の魏斉(ぎせい)に報告した。

魏斉は怒り,范雎を拷問にかけた。肋骨が折れ、歯が欠けるほどの責めだった。

范雎が死んだ振りをしていると、魏斉はこれを簀巻(すまき)にして、便所の中に放り込んだ。

酔客が入れ代わり立ち代わり小便をかける。二度とこのようなものが出ないように見せしめにしたのである。

范雎は折を見て、番人に頼み、かろうじて脱出することが出来た。そして名も張禄(ちょうろく)と改めた。

たまたま、秦の使者の王稽(おうけい)が魏にやってきたとき、彼は密かに范雎を秦に連れ帰り、昭襄王に推薦した。

こうして、范雎は秦の客郷に取り立てられた。

范雎は秦王に遠交近攻の策を献じて重用され、宰相となり、「応候」と称した。


三人が同じ事を言えば

2005-08-24 17:48:27 | 十八史略を読む
十八史略を読む-78 戦国の七雄-7 秦 その8 三人が同じ事を言えば

「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

恵文王が没し、子の武王が立った。武王は甘茂(かんも)に命じて、韓の宜陽(ぎよう)を陥落させようとした。

甘茂は「宜陽を攻めるのは容易ではありません。時間がかかります。留守中のことが心配です

昔、魯に孔子の弟子の曾参(そうしん)という男と同姓同名の男がいて、人殺しをしました。

それを早合点して曾参の母親に『息子さんが人殺しをした』と知らせるものがいました。

母親は息子を信じて、平然として、機織りの手をゆるめませんでした。

ところが、同じように通報するものが3人もやってくると、さすがの母親も機織りの杼(ちょ)を投げだし、垣根を越えて逃げ出したと言います。

私が宜陽に行っている留守中、私のことをとやかく言う人間は三人どころではありません。その時、大王も杼を投げ出してしまうのではないかと心配です」

さらに、曾参は「私は他国ものです。韓を攻めている間に、韓にゆかりのある“樗里子(ちょりし)”“公孫せき”」が韓に肩入れして、私を誹謗したならば大王はそれに耳を傾けてしまうでしょう」と言った。

武王は「そんなことはない」ときっぱりと否定し、息壌(そくじょう)の地で甘茂に誓いをたてた。

かくして、甘茂は遠征して、宜陽を攻めた。しかし、5ヶ月たっても陥落しない。

はたして、武王に向かって樗里子と公孫せきが甘茂を非難する言葉を述べた。武王はついこれを聞き、甘茂を呼び戻して戦いをやめようとした。

甘茂は「息壌のことをお忘れですか」と言った。はっとした武王はすぐさま態度を改め、全軍を投入して甘茂を応援し、ついに宜陽を陥落させることが出来た。


渭水ことごとく赤し

2005-08-23 17:29:42 | 十八史略を読む
十八史略を読む-77 戦国の七雄-7 秦 その7 渭水(いすい)ことごとく赤し

「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から


公孫鞅は法令の適用に於いて極めて厳格であった。例えば、田地の申告の時,一歩(ぶ)が6尺を少しでも超える者があると、罰した。

灰を道に捨てるものがあると、罰した。

かつて、渭水のほとりで裁判し、罪人を罰したところ、その血で渭水の水は真っ赤になったといわれる。


法を作った報いが自分の身に及ぶ

2005-08-23 17:28:25 | 十八史略を読む
十八史略を読む-76 戦国の七雄-7 秦 その6 法を作った報いが自分の身に及ぶ

やがて、孝王没し、恵文王が立つと、公子虔(けん)の一派が「公孫鞅が謀反をたくらんでいます」と王に讒言した。

公孫鞅は逃げだし、旅館に泊まろうとしたが、旅館の主は「公孫鞅さまの決めた法律で、証明書のないものを泊めると罪に問われます」と言って、断った。

公孫鞅はため息をついて「法を作った報いが我が身に及んだか」と言った。

公孫鞅は道を変えて魏に向かったが、受け入れてくれないばかりか秦に送り返されてしまった。

秦は、公孫鞅を車裂きの刑に処して、見せしめにした。


商鞅の改革の効果

2005-08-23 17:27:00 | 十八史略を読む
十八史略を読む-75 戦国の七雄-7 秦 その5 商鞅の改革の効果

こうして、10年秦では落とし物があっても誰も猫ばばしない。山奥でさえ盗賊が出ない。人民の生活が安定し、国の戦いとなれば勇敢に戦ったが個人的な争いは起こそうとせず。町にも平和な生活が訪れた

最初は新法に不満を唱えていたものがいたが、今や彼らも新法礼賛組に回った。

しかし、公孫鞅はかれらを「法を乱す民である」としてことごとく辺境の地に移した。

それからというもの、あれこれと議論を挟むものはあとを絶った。

さらに公孫鞅は、父子兄弟が一軒の家に同居することを禁じた。また、重ありの井田法を廃止、畦や境界をつぶして田を広げ、一律の租税法を適用した。

かくて、秦はますます富国強兵に向かった。

公孫鞅は、この功績により商・於以下15の領地を与えられ、以後は商君と呼ばれるようになった。


商鞅の改革

2005-08-23 17:25:44 | 十八史略を読む
十八史略を読む-74 戦国の七雄-7 秦 その4 商鞅(しょうおう)の改革

秦の孝公の時代、黄河・華山以東には強国が6,小国が10余あったが、皆、秦を夷狄(いてき)同様に見なして排斥し、諸侯の会盟にも参加させなかった。

孝公は現状を打破しようとして、「奇計を用いて富国強兵を実現するものには高い地位と領土を与える」と布告を出した。

これを知って、衛の公孫鞅(こうそんおう)が秦に来た。

彼は孝公に会い、帝道、王道、覇道を説き最後に富国強兵の策を示した。

孝公はたいそう喜びすぐに、法令の改革に着手しようと思ったが、人民の非難を浴びることを恐れて迷っていた。

公孫鞅は「ご心配には及びません。人民というのは着手する段階でわからせなくとも,成功の結果だけを享受させればよろしいのです」と言って孝公をはげました。

かくして、法令の改革は成った。その内容は次のようなものであった。

『五人組、十人組の制度を設け、人民を互いに監視、告発させて、組ごとの連座制を布く。他人の罪を知りながら告発しないものは、腰斬(ようざん)の刑に処する。告発したものには敵を斬ったのと同じ賞を与え、一方、罪人をかくまったものには、敵に降伏したのと同じ罰を与える』

公布後、まもなく、太子が新法を犯した。

公孫鞅は言った。「人民が法を守らないのは、上のものがこれを犯すからだ」

しかし、太子は世継ぎであり、本人を処分するわけにはいかない。そこで、侍従長の公子虔(けん)を処罰し、教育係である公孫賈(こうそんか)を入れ墨の刑に処した。

この効果はてきめんで、国中一人残らず法に服するようになった。