凡凡「趣味の玉手箱」

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遺憾というコトバ

2006-06-27 07:29:16 | 中国のことわざ
中国のことわざ-234 遺憾というコトバ


昨日も文化庁のお役人がイタリア人画家スギ氏作品の盗作を見抜けなかったことにタイして遺憾であると謝罪していましたね。不祥事が起きたとき、会社のトップ等組織の責任者が必ず謝罪するときに使われるのが「遺憾」というコトバ。最近よく聞かれます。村上代表は遺憾という言葉を使わなくて申し訳ありませんでしたと潔く謝罪していましたが。それはともかく、遺憾は、例えば、「社会的な信用を失墜させて、誠に遺憾に存じます」と謝罪する時に使用します。「遺憾」は訓読すれば、「憾み(うらみ)を遺す」で、ことが思うように進まず心残りな気持ちを言う。残念に近いニュアンスです。



また、国家の間でトラブルが生じて、相手の措置が不十分な場合、不満を表す言葉としても「遺憾」が使われる。「当方の主張が認められず誠に遺憾に存じます」と。この場合は先方のやり方がこちらの思惑と違っていて、残念という意味で、相手への批判が込められている。



中国における「遺憾」古い用法として「遺憾無し」と否定形で使われることが多い。論語の“公治長篇”に孔子が顔淵と子路に向かって、お前たちの理想を聞かせてくれないかと問うた。子路が「車馬も着物もすべて持ち物は共用にして、それらが傷もうと壊れようと気に留めない。そのような友情関係を持ちたいものです(願車馬衣軽装、与朋友共、敝之而無憾)」と答えている。「憾」は“遺恨”の「恨」と同じに、訓では「うらみ」だが、その程度は「憾」の方が軽い。白居易の長恨歌の末尾で玄宗皇帝と楊貴妃の恋の思いがいつまでも絶えないことを「天長地久時有りて尽きんも、この恨み綿々として尽くること無からん」と言っている。



不祥事を起こした当事者が「遺憾でございます」と謝罪していることがどこまで本音なのかその態度から見ても、よく分からないことが多い。中国古典学者の興膳宏さんは“「遺憾」とは、存外軽いわび言葉なのである”と結んでいる。




出典:日本経済新聞6月4日(日)朝刊“漢字コトバ散策”、中国の思想・第9巻・論語・徳間書店



臭を万年に遣す

2006-06-27 07:28:21 | 中国のことわざ
中国のことわざ-233 臭を万年に遣す(つかわす)



この言葉はのちに大悪党(例えば、名将岳飛(がくひ)を殺して国を売った秦檜(しんかい))を罵倒する際の決まり文句となったようである。



晋では桓温がかねてより帝位を奪おうとの下心を抱いていた。夜中寝付かれぬままに嘆息し、「男子たるもの、後世に令名をうたわれることができぬほどなら、いっそ末代まで悪名を残してやりたい(男子不能流芳百世、亦当遣臭万年)」と言ったと伝えられている。



もともとの意は、桓温がいったように、男児たるものの野望のほどを語るものであった。



出典:「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」



君子に三戒あり

2006-06-27 07:27:13 | 中国のことわざ
中国のことわざ-232 君子に三戒あり




人格者が自らの戒めとする三つのこと。一つは青年期における色欲である。「少き(わかき)時は、血気いまだ定まらず」。若いときは血のまま、気息のまま、抑えられずに動く状態で、まだ知性や徳性の乏しい状態であるから、性欲が全面に出てきての行動となる。



一つは壮年期における人との争いごと。壮年期になると、「血気方に(まさに)剛し(つよし)」。血気が安定し、自信もできて、権力闘争となって人間関係は離合集散する。壮年期の用心は「闘いに在り」である。



一つは老年期における強欲。古今東西共通しているのだが、老年になると、身近な親しい人を失い、また、職場を離れかつての人間関係を失う、そして日々財産を取り崩してゆくのが一般的である。すると他者は老人を相手にしないで見捨てることになる。こうなると、人間を信用せずにものだけを信用することになる。所謂物欲である。老年期の用心は「得に在り」である。



以上の青年期の色欲、壮年期の人との争いごと、老年期の強欲のみっつを三戒という。



出典:加地伸行著・すらすら読める論語・講談社・2005年11月15日発行、論語(微子篇)、故事ことわざ
&四字熟語辞典



備わらんことを一人に求むるなかれ

2006-06-27 07:26:19 | 中国のことわざ
中国のことわざ-232 備わらんことを一人に求むるなかれ




人格・才能・知識などをすべて兼ね備えている人間などいるはずがない。人間ならだれしもいくつかの欠点があるのがあたりまえである。一人の人間に完全無欠を要求することは、無理な注文だということ。




英語では「He is good that failed never.」(期待にそぐわないこともあるもの)




出典:論語(微子篇)、故事ことわざ&四字熟語辞典



知者は水を楽しむ

2006-06-27 07:25:00 | 中国のことわざ
中国のことわざ-231 知者は水を楽しむ




水が1ヶ所に停滞せずに流れてゆくように、知者は臨機応変に事を処理する(広辞苑)



子曰、知者楽水、仁者楽山。
   知者動、仁者静。
   知者楽、仁者寿。



出典は論語の「擁也」知者はどちらかといえば水が好き、仁者はどちらかといえば山が好きだ。一方は動的であり、他方は静的である。そのため知者は自分に満足できるし、仁者は長寿をうる。(中国の思想第9巻論語・徳間書店)




王猛死す

2006-06-27 07:22:42 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー120 王猛死す


秦では、丞相王猛が亡くなった。秦王符堅(ふけん)は心の底から嘆き悲しんで言った。
「天はわが天下統一の大望を受け入れては下さらぬのか。なぜかくもつれなく王猛を奪い去ってしまうのだろう!」




王猛は臨終に際して、次のように奏上した。
「晋室は、いまや江南の地方王朝に過ぎぬとはいえ、依然として正統たる名誉を保ち、君臣の分も崩れておりませぬ。私の死後も、なにとぞ晋を併呑しようなどとはお考えになりませぬよう。これにひきかえ、鮮卑の慕容氏および西羌(せいきょう)の姚(よう)氏こそ年来の仇敵、獅子身中の虫ともうすべきもの。徐々に彼らを衰亡に追いやって、王室の安泰をおはかり下さい」




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




入幕の賓

2006-06-27 07:21:34 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー119 入幕の賓



桓温の無理押しで即位した簡文帝司馬は、殺されることを恐れて、泣き泣き位についたという。帝位について九ヶ月目に危篤に陥り、急ぎ桓温を召し寄せて太子司馬昌明を補佐させようとした。
帝の桓温にあたえた遺詔は、最初「周公の故事にならって摂政し、わが子が不肖ならば帝位を取れ」との内容だったが、側近の王坦子がこれを破棄し、「王導の例にならって幼主をたすけよ」と書き改めた。
桓温は帝が自分に位を譲るか、少なくとも摂政に任ずるであろうと期待していたが、ことごとく裏切られてしまったわけである。当時、朝廷に重きをなしていたのは、王坦子と謝安の両名である。桓温は、自分の足をひっぱったのはてっきりこの両名に違いないとにらみ、心中ははなはだ穏やかでなかった。




烈宗孝武帝、名は昌明。即位の時はまだ十歳であった。
その翌年、桓温が兵を率いて入京した。勅命により、謝安と王坦子とが責任者として新亭に出迎えることになった。桓温はきっと王・謝の両名を殺し、帝位を奪うに違いない。こんな噂が巷に流れ、部下の人士は戦々恐々として事の成り行きを見守った。王坦子は気が気ではない様子だが謝安の態度は平然として日頃と異なるところがない。




やがて桓温が到着すると、文武百官は道ばたにいならんで拝礼した。桓温は物々しく武装した護衛の将兵を従えて、高官たちを引見した。王坦子は冷や汗をだらだらとながし、笏をさかさまに持つなどの失態を演じたが、謝安は臆する色もなく、席に着くや、こう言いはなったものである。「諸侯が徳義を守りさえすれば、近隣諸邦はおのずから藩屏となる、といわれております。なにも廊下にまで護衛をおくことはありますまい」  




桓温は弁解じみたく苦笑を浮かべた。「身の不徳がおのずと行動に現れた、とでもいいましょうかな」
かくて、ついに護衛を引き払わせ、そのまま謝安と時の経つのも忘れて語り合ったのである。




さて、桓温の腹心の“ち超”は、とばりの背後に身をひそめて会談の一部始終に耳を澄ませていたが、たまたま風がとばりを吹き上げたため、すっかり丸見えになってしまい、またもや謝安の笑いを買った。
「なるほど、“ち”君は、入幕の賓というわけですか」




桓温は、いくばくもなく病気のため姑執る(こじゅく)に引き上げたが、病状はつのる一方である。それとなく手を回して九錫の栄誉を要求してきたが、謝安と王坦子はわざと決裁を下すのを引き延ばしていた。そのうちに桓温は死去した。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



ヒゲの参軍

2006-06-27 07:20:29 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー118 ヒゲの参軍



哀帝、名は丕(ひ)。即位後二年にして病床に臥し、その一年後に崩じた。弟の瑯瑯王(ろうやおう)があとを継いだ。帝奕(えき)と呼ばれているのがこの人である。
帝奕、諡はなく、本名を取って、帝奕という。成帝の末子。即位ののち、会稽王司馬(しばいく)を丞相とした。




 桓温は、哀帝の時に大司馬(三公の筆頭)になり、内外の軍事を統括したばかりか、行政面においても全権を掌握し、さらに揚州の長官をも兼任して、水陸の要衝姑孰(こじゅく)に駐屯した。その腹心の部下だったのが参軍の“ち超”と主簿(幕僚長)の王(おうじゅん)である。そのため世間では、「ヒゲの参軍チビの主簿、桓温さまのごきげんは、いつもふたりの思うまま」とはやしたてたものである。




哀帝の末年、洛陽は燕軍の包囲攻撃を受けて陥落し、守備にあたっていた将軍沈勁(しんけい)も殺された。四年の後、桓温は大軍を率いて燕討伐に乗り出したが、枋頭(ほうとう)の一戦に惨敗を喫して逃げ帰った。
ところで、桓温の軍を撃退したのは、燕王の叔父慕容垂(ぼようすい)であった。この功績により、垂の声望は高まる一方であったため、燕王“慕容い”の憎しみを招き、ついに秦に亡命する事態となった。
秦は王猛を総司令官として燕に出兵し、ついに国都“ぎょう”を包囲した。秦王苻堅(ふけん)は“ぎょう”に入城し、燕王“慕容い”を捕虜にして帰国した。  




晋では桓温がかねてより帝位を奪おうとの下心を抱いていた。夜中寝付かれぬままに嘆息し、「男子たるもの、後世に令名をうたわれることができぬほどなら、いっそ末代まで悪名を残してやりたい」と言ったと伝えられている。
 彼は野心達成の手順として、まず軍事上の大功をたて、九錫の栄誉を受けようと意図した。だが枋頭の敗戦以来、その声望もにわかに衰え始めた。ここで桓温に献策したのが“ち超”である。「殷の宰相伊尹が王の太申を追放し、漢の大司馬霍光が帝賀を廃した故事にならうべきです。でなければ権勢を高めることはかないますまい」
 桓温は意を決して入京し、皇太后に迫ってついに帝奕を退位させた。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



南北の屋台骨―謝安と王猛

2006-06-27 07:18:56 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー117 南北の屋台骨―謝安と王猛



秦王の符健が亡くなり、子の生が位を継いだ。姚襄は、殷浩との確執がもとで秦と手を切ったのち、燕に服属し、北方の許昌(きょしょう)を根拠地として、やがて洛陽に進攻した。晋は桓温を総司令官として姚襄討伐にさし向けた。




晋軍は黄河のほとりに到達した。桓温は幕僚とともに軍船の司令塔に登り、北方の中原をはるかに見渡して、つくづくと嘆息した。「この神州の地をむざむざと夷狄の手に百年も握らせおって・・・・。これもみな、王衍(おうえん)ども清談の徒の責任だわい」桓温は、洛陽の南方伊水(いすい)のほとりで姚襄と戦い、潰走させた。その後、洛陽の東の金よう城に入り、代々の帝陵に参拝し、守備隊を残して帰国した。




いっぽう、敗れた側の姚襄は、西方に兵を転じ、関中の地を奪取しようとして、秦との間に攻防戦を展開したが、敗れて斬られた。姚襄の弟の萇(ちょう)は、残りの手数もろとも秦に降伏した。




秦では、王の符生が徒弟の符堅(ふけん)に殺された。符堅は自立して秦の天王と称した。臣下のすすめで王猛と会うと、たちまち旧知のごとくうちとけ、自ら蜀漢の劉備と諸葛亮孔明にたとえるほどの親密な間柄となって、その後一年のうちに五回もその官職を昇進させた。符堅は、このように人材を抜擢し、官制を整備するとともに租税の負担を公平にし、困窮者をいたわったので、秦の人民の圧倒的な支持を集めた。




晋では、征西大将軍の桓温が謝安(しゃあん)を幕僚にした。この謝安という人物は、若い頃から傑物としての評判が高く、朝廷から召されること数回に及んだが一度も出仕しようとしなかった。そこで士大夫たちはみな「安石出ずんば蒼生をいかんせん(謝安どのが出馬しなければ、天下万民はどうなることやら)」と言ったものである。その謝安が、いまや齢四十を過ぎてはじめて出仕したというわけだった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



長安を目前に

2006-06-02 06:10:07 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー116 長安を目前に


桓温は、みずから軍を率いて秦討伐に乗りだした。藍田(らんでん)の戦いで秦軍に大打撃を与え、転戦して“は水”のほとりに軍を進めた。これに対して秦王符健は、長安の内城に立てこもって守勢を固める一方である。


長安を囲む三郡は、みな桓温に降伏した。桓温は住民を慰撫し、その安全を保障したので、住民はわれもわれもと酒食を持参して桓温の軍を歓迎し、沿道に立ち並んで見物する。感激の余り、「息のあるうちにこうしてまた官軍を迎えることが出来ようとは、夢にも思わなかった」と言って泣き出す老人もいたほどである。


さて、北海郡の出身に、王猛(おうもう)、字を景略(けいりゃく)という独歩自尊の気概に富み、大望に燃えた男がいた。その日まで華陰(かいん)に隠棲していたが、桓温の軍が関中に入ったと聞いて、ボロを身にまとい、桓温に面会を申し入れた。会ってみるとシラミをつぶしながら当今の急務を談じて、人を人とも思わぬ態度である。桓温は、珍しい奴だと思い、王猛にたずねた。「わしは勅命を奉じて逆賊どもを討ちはらった。だが、三秦の豪族たちは、まだ誰も馳せ参じてはくれぬ。これは、いったいどうしたわけであろう」
王猛は答えた。「将軍は数千里の遠路をものともせず、適地深く勝ち進んでこられました。ところがいま、長安を目前にしながら、あえて進もうとなさいません。民衆は将軍のお考えが奈辺にあるのかはかりかねております。これがつまりはその理由と申せます」桓温は黙ったまま、一言も答えなかった。


やがて桓温は、白鹿原で秦と戦ったが、戦況ははかばかしくなかった。そのうえ秦は、畑の作物をことごとく刈り取るという策に出たため、桓温軍は兵糧の調達に苦しんだ。桓温は引き揚げを決意するに際して、王猛を幕僚に伴おうとしたが、断られてしまった。


「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から