凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

蟷螂捕蝉

2007-05-25 04:40:49 | 中国のことわざ
中国のことわざ-282 蟷螂捕蝉(とうろうほぜん) 蟷螂、蝉を捕う(とうろう、せみをとらう) 


カマキリに関する成句をもう一つ紹介しましょう。
「蟷螂捕蝉」は目前の利益だけに目が向いて,大局を見ないことのたとえです。


時は春秋時代、呉王が楚を討とうとしました。
まわりのものたちは皆、不利と考えていましたが、「妨げんとするものは死罪とす」という呉王のコトバに恐れをなして口を皆閉ざしておりました。
そのような中で、呉王に仕えていた若者が次のようなパフォーマンスを行いました。


呉王はある朝、庭園を見て驚きました。
一人の若者が弓を持って朝露にまみれて歩いているのです。
呉王はいぶかって、「何をしているのか」と若者に聞きました。
すると若者はこう答えました。
「今、朝露の中を蝉が気持ちよさそうに鳴いています。満足げな蝉だがカマキリにねらわれています。かまきりはもうすぐご馳走にありつけると満足げです。だが、カマキリは雀にねらわれています。雀ももうご馳走は目の前だと満足しています。けれども、私がその雀を矢で射殺そうとしているのです」
聡明な呉王は若者の意図するところをさっと掴みました。楚をねらう自分はこの蝉のもののような存在だと反省したという次第です。
このたとえ話は、中国ではよほどお気に入りと見えて「荘子」や漢の劉向が撰した「説苑」にもあるそうです。


出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

蟷螂の斧

2007-05-24 05:59:29 | 中国のことわざ
中国のことわざ-281 蟷螂の斧(とうろうのおの) 


蟷螂はカマキリの漢名です。
広辞苑によれば、「自分の微弱な力量を顧みずに強敵に反抗すること。はかない抵抗のたとえ」とあります。


この「蟷螂の斧」は古く「荘子(そうじ)」の中にあらわれています。
紀元前6世紀、春秋時代の魯の国に顔闔(がんこう)という賢人がおりました。彼の人物を見込んだ衛の霊公に、太子の守り役として招かれました。しかし太子は子供ながらに酷薄な性格の持ち主で、顔闔は受けるのがよいか迷って、やはり衛の賢人として知られた“きょ伯玉”に相談しました。
その時のコトバは次のとおりです。
「汝、夫(そ)の蟷螂を知らずや。其のひじを怒らせて車轍にあたる。其の任に勝(た)えざるを知らざるなり」
君はカマキリを知っているだろう。腕を振り上げ斧をかまえて車に立ち向かい、ゆくてをとめようとしたりするではないか。それは、普段弱い虫を残酷に殺しているので、身の程知らずになっているからだ。そして、そういう人物(霊公の太子のような人物)に対しては、いっぺんに改めさせようと正面から向かうのではなく、相手にあわせるようにしながら、だんだんと欠点を改め教えさとすべきだ、と伯玉は言っているのです。


時代は下って、三国時代の詩文家陳琳が劉備に袁紹の側につくようにすすめた檄文の中にもこのコトバが出てきます。陳琳は万里の長城の守りを固める兵士の労苦をうたった五言古詩「飲馬長城窟行」の哀切きわまりない名詩を作ったことで知られています。
「蟷螂の斧を以て、隆車(りゅうしゃ)の隧(すい)を禦(ふせ)がんと欲す」
春秋時代の“きょ伯玉”が言った言葉と同じ意味です。
カマキリの斧で、行きよい良く走る車(隆車)の行くて(隧)をさまたげ、ふせごうとするということで、弱者が身の程知らずに自分より強いものに立ち向かうことのたとえです。無謀な行動のたとえでもあります。
自分が世の中で一番強いと思いこんでいる、いわゆる「夜郎自大」に対する戒めもこめられた成句です。


前漢末期の乱世に立った曹操にとって、最初の敵は袁紹でした。建安五年(200年)の官渡の戦いで曹操が袁紹を破る前、一時、袁紹の方が優勢でした。そこで陳琳は袁紹に加担しました。そして、曹操に対抗しようとしていた劉備に、袁紹の側につくよう檄文を送ったのです。
曹操を「蟷螂の斧」にたとえ、曹操はもうダメだ、すぐにでも「隆車」の袁紹に踏みつぶされるだろうから、袁紹側にお付きなさいと劉備にすすめたのです。
なお、袁紹が官渡の戦いで敗れると、陳琳はこんどは曹操の側についてしまったと言うことです。まあ節操がないものと思いますが、戦国の時代の智恵だったのかも知れません。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

無用というコトバ

2007-05-23 07:51:56 | 中国のことわざ
中国のことわざ-280 無用というコトバ 


久しぶりに興膳宏さんの漢字コトバ散策から取り上げました。
無用を広辞苑で引きますと、三つの意味があって、①役に立たないこと。必要でないこと②してはならないこと。天地無用。口外無用③用事がないこと。無用の者入るべからずとあります。今回は①に関してです。


この「無用」というコトバは、老荘思想に特有の考えで、世間的な常識に対する逆説を含んでいます。現代においては、少しでも無駄なものを削って、短い期間の間に成果を上げようとする風潮が強いですね。しかし、ムダは人や社会にとって本当に無用なのかもう少し突き詰めて考える必要があるのではないかと、冒頭に興膳さんは書かれています。


荘子の逍遙遊篇には、曲がりくねり、節くれ立った無用の大木を巡る議論が見えます。
荘子はそれを木材に使うなどという考えを捨てなさい。そもそも見渡す限りなにもない荒野に立つ木の下で、ゆったりと歩き回ったり寝そべることができるのは、この木の役立たずのおかげで木が大きく成長してくれた恩恵によるものだと認識すべきであると言っているのです。


荘子によれば、「無用」なるものをムダとして片っ端から切り捨ててしまえば、結局は人間の存在自体が危機に瀕すると指摘しています。


興膳さんは独立行政法人化された国立大学を例に取られています。六年間の中期計画期間中に、何らかの目のつく成果を出して自己の存在をPRしようとするあまり、企業との共同研究や委託研究ばかりが重要視されて、本来大学が行わなければならない「無用」の学問の有用性が忘れられてしまうことを強く懸念されています。


企業経営でも同じことが言えるのでしょう。目先の利潤に目が行き、ともすれば研究開発がおろそかになる傾向があるようです。こうして企業は将来の飯の種を失って、次第にじり貧状態に陥いります。そのようなリスクが垣間見えるようです。


出典:広辞苑、日本経済新聞8月27日漢字コトバ散策から
詳しくは新聞をご覧ください。

傾城傾国

2007-05-22 19:24:14 | 中国のことわざ
中国のことわざ-279 城を傾け国を傾ける 傾城傾国(けいせいけいこく) 


「城」は中国語では、「城市」つまり都市の意味である。傾城傾国は一つの都市,一つの国を投げうち傾けさせるほどに、男にとって魅力に満ちた妖艶な美人の意味である。美人にうつつをぬかして入れあげ、「病膏肓(やまいこうこう:物事に熱中してどうしようもない状態になる)」となれば、ついには「傾城傾国」となるのである。


この語は「漢書」外威伝に出てくる。
漢の武帝の時、いわば宮中歌舞団のリーダーに李延年という男がいた。ある日、武帝の前でこんな歌を歌った。

北方有佳人      北方に佳人あり
絶世而独立      絶世にして独り立つ
一顧傾人城      一顧すれば人の城を傾け
再顧傾人国      再顧すれば人の国を傾く
寧不知傾城与傾国   寧んぞ知らず傾城と傾国と
佳人難再得      佳人は再びは得難し

「北方に絶世の美人が群を抜いて独り立っている。一度見れば城を傾けさせ、二度見れば国を傾けさせるほど、忘れがたい魅力がある。傾城傾国したとてかまわぬではないか。こんな美人は二度と手に入らない」というのである。


こうして李延年が武帝にすすめそそのかした美人は、ほかならぬ自分の妹であった。
自分の妹を武帝に売り込むためのPRソングだったのである。
英雄色を好むのたとえ通り、心動かされた武帝が召しだしてみれば、まさに絶世の美女であった。武帝はただちに皇宮に入れ、妾妻の一人にした。
李夫人への武帝の寵愛は深いものがあったが、美人薄命のたとえで李夫人は若くして亡くなってしまった。武帝の悲嘆は深く、予め自らの墓として造営しておいた陵墓たる茂陵(もりょう)の傍らに葬った。現在の西安西郊にある茂陵の傍らに寄り添うように営まれている李夫人の墓を見ることができるという。それは武帝の数ある女性の中で李夫人ただ一人受けた待遇であった。


中国史には数多くの美女が登場するが、その中から傾国の美女とされる女性を次に挙げておきましょう。
1 呉王夫差は越王句践から西施を授かり、彼女の色香に惑い、越に滅ぼされる
2 最後まで虞美人をそばから離さなかった項羽は垓下で劉邦軍に敗れ覇権へののぞみを絶たれる
3 唐の玄宗皇帝は妖艶な楊貴妃と戯れ、政治に興味を失って安禄山の乱が起き唐王朝が衰運に向かった。

美女はこのほかにもたくさんいますね。例えば、夏と殷の滅亡の原因となった妻妾の末喜(ばつき)と妲己(だつき)がいます。彼女らは傾国の美女とはいわれていません。どのように中国でいわれているのかというと可哀想にも「毒婦」です。「毒婦」はなまめかしく美しいが男を惑わす腹黒い女です。
虞美人や楊貴妃は悲しい最期を遂げたましたが、せめてもの慰めは毒婦と呼ばれなかったことでしょうね。


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日

新疆は石油・天然ガスの調達・企業進出の戦略拠点

2007-05-22 19:18:47 | 中国知っ得情報
中国新疆ウイグル地区はカザフスタン、キルギス、タジキスタンなど中央アジア諸国との経済一体化が急速に進んでいるそうです。現在これらの地域の豊富な天然資源の獲得に向け各国のエネルギー外交が続いていますね。そんな中、中国政府は新疆ウイグル地区が国境を接する地勢を生かして中央アジア諸国との連携を強めているのです。

中国のプラスティックパイプ製造最大手の会社は水不足に悩むカザフスタンの首都アスタナまで水不足の解消のため460kmの水道管パイプ敷設事業を実施しています。
ウルムチには自由交易市場がつぎつぎと建設されています。その一つ市中心部にある「辺疆商貿城」には、2軒のホテルと税関が隣接しており、中央アジアから訪れたバイヤーが市場で買い付けた商品をワンストップで輸出できるそうです。
テーマからはずれますが、一つ大きな問題、それは偽物のソニーのMP3(新せんで製造)が100元(約1500円)で堂々と売られていて、それがカザフスタンやロシアに行くと80-100ドル(1万から1万2千円)となるということです。

中国の民間コンサルタントの一人は、「新疆と中央アジアにはシルクロードを通じた2000年の交易史がある。石油など豊富な外貨収入があっても産業のない中央アジアに、中国企業が進出し、国家建設に協力するのは“近水楼台先得月(水辺にある高閣は月見にもってこい”という意味で、利益を得やすいことを指す中国のことわざ)」と述べ、新疆と中央アジアの経済一体化には米国や日本が追随できない地政学上の利点がある」と強調しています。

毎日新聞5月22日朝刊から

南水北調

2007-05-20 20:29:07 | 中国知っ得情報

南水北調

中国北京では水不足が深刻なようです。そこで中国中央政府は長江の水を北京まで水路で引いてくる工事が3年後の完成を目指して行われています。なんと総延長1200km、水路は途中黄河を渡る必要があって、トンネルを黄河の下に敷設しなければなりません。これから、一番の難工事にさしかかるところだそうです。この膨大なプロジェクト、実は1950年代に毛沢東が提唱して始められた世紀を跨るプロジェクトなのです。 北京には水が供給されることになるわけですが、市中心部に優先的に水はまわされるそうで、周辺の農家には供給されないようです。北京周辺の農地は農業用水不足から乾燥し、乾燥に強いトウモロコシしか育たなくて農家の収入も減少しています。格差がますます広がろうとしていることは中国にとって頭の痛い問題でしょう。 そしてもう一つ深刻な問題があります。それは長江の水自体、相当、汚染が進んでいることです。源水が汚れているのではどうしようもありません。また5月20日の日経の朝刊には長江流域にある重慶では旱魃の影響によって河川では川床が露出しているとの記事がありました。この記事から予想されるのは長江の水自体も決して豊富な量があるわけではないのではという疑いです。地球温暖化の影響で氷河面積が縮小していますが、氷河がなくなってゆくと言うことは雪解け水が減少していると言うことだと思います。北京に水が引かれても中国のトータルとしての水の量は増えるわけではないのでしょう。地球温暖化が水資源不足を招来しているといえましょう。水資源の減少は、今、日本にも影響を及ぼしている黄砂の増大につながるのです。 過日、中国の温家宝首相が来日した折、安倍首相は日本が環境問題で中国に技術協力していくことを約束しました。長江流域の重慶、武漢、南京は「三大かまど」といわれ(5月20日日本経済新聞朝刊の画像参照)、石炭火力発電所による大気汚染が深刻度を増してきているそうです。日本の先進的な環境技術が中国の環境問題、ひいては地球環境問題の解決に貢献することが、今、期待されているのです。外出先から帰ってきてテレビをつけましたら、NHKで”南水北調”を取りあげていましたので、環境問題との関連について思いつくままに記事にしてみました。


生贄にされた羌(きょう)族

2007-05-19 13:49:32 | 中国知っ得情報
中国で昨年33番目の世界遺産に登録されたのが河南省安陽の殷墟です。 広大な敷地に屋外展示施設と屋内施設があります。自分が行ったわけではなくて、NHKテレビの探険ロマン紀行で見たのです。場所は北京から南に約500kmの地点にあります。 殷は現在確認されている、中国最古の王朝といわれています。司馬遷の書いた史記によれば、殷の前に夏王朝が存在したようですが未だ確認されていません。殷の存在はここから発掘された甲骨文によってでした。この甲骨文に刻まれていた何人かの王の名前が史記に記されていた王様の名前と一致したことから殷王朝が実在していたことが証明されたようです。 さて、私がこの番組で興味を持ったのは、羌族です。殷墟には多くの人骨が発掘されましたが、その中には頭が切られた人骨が多くありました。なぜ首がないのでしょうか?それは、神や先祖に人間が生贄として捧げられたと言うことです。頭を切り落としたのはおそらく命が蘇らないようにしたのでしょう。そして甲骨文には羌族の羌という文字が多く見られました。殷は羌族の襲撃に悩まされたようですが、生贄として羌族を捕らえてきては神に捧げました。羌族は最初、中原にいましたが、徐々に追い詰められ西方に逃げてゆきました。今では四川省の茂県(もけん)というところの山の上に羌族が昔ながらに住んでいます。山には高い塔が見え、その高い塔のてっぺんには見晴台があります。そこからは敵が見渡せて、矢を放つことができます。殷から逃れ辿りつき敵から守るために小高い山に居を構えたのでした。塔の見晴台に、羌族が殷によって、西へ西へと追いやられてきた苦難の歴史が刻まれていたのです。NHK探険ロマン紀行のホームページは↓ http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/ 5月20日の11時3分頃からBS2で再放送があります。

一妻多夫のナシ族の村

2007-05-19 03:40:00 | 中国知っ得情報
中国一妻多夫の村 5月18日の深夜にNHKテレビで放映されました。見た方いますか? 場所は中国雲南省の町から歩いて二日間以上もかかり、電話もない山深い辺鄙な村であるウォーヤ村(幸福山谷)というところです。四川省とチベットに接する標高約1000mの場所です。ここに、今なお一妻多夫の風習は残っています。ただし、夫は誰でも良いというわけではなくて、兄弟に限られているようです。その理由は生きるための昔ながらの智恵だったようです。 村の人は昔から山羊などの家畜を飼い、麦やトウモロコシを育てて生計を立てています。村人は子供を学校にやるのが困難なくらいに非常に貧乏なのです。働き手は男で、女は子育てと家事を行います。テレビでは二人の兄弟が一人の妻と結婚したケースが紹介されていましたが、三人の兄弟が一人の女性と結婚する場合もあるのだそうです。男一人が一人の女性と結婚したのではとても食べてはいけないので、男二人が一人の妻を持つことになったようです。これはもう数百年以上も続いているのです。 ウォーヤ村に住んでいるのが、少数民族のナシ族です。彼らは現存している唯一の象形文字であるトンパ文字を使い、トンパ教を崇拝しています。男二人が妻一人を共有するわけですが、大切なのは妻が分け隔てなく二人の夫に仕えることだそうです。辺鄙な村にもようやくテレビを持つ家族が現れました。新しい情報が入るようになり、そして村の暮らし向きが良くなれば、やがて一妻多夫はなくなって行くのかもしれません。