凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

国号「新」

2006-01-07 20:45:17 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-146 国号「新」

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

成帝には男の子がなかったため、甥に当たる哀帝(あいてい)が立った。哀帝の時代、哀帝の母および祖母が勢力を得、王氏一族の勢力はいったん後退する。

だが、哀帝は即位六年にして急死したため、再び王氏の勢力が盛り返す。王氏は相談の上、元帝の孫で九歳の幼児であった中山王(ちゅうざんおう)を迎えて帝位につけた。これが平帝である。

王莽(おうもう)は大司馬・太傳・尚書としてすべてを手中におさめた。そして、五年後に平帝を毒殺。次いで自ら王位について、国号「新」を称する。

* 成帝には男の子がなかったと言われているが、産まれた男子を趙合徳が殺させたと言う説もある。
* 王莽(おうもう)は最初の内は不遇であった。ところが、叔父の王鳳が病の床についたとき、王莽は数ヶ月に渡って、風呂にも入らず看病した。王鳳は、そのため皇太后と成帝に王莽を引き立ててほしいと頼み亡くなった。これが陽朔三年で、その後王莽は順調に昇進し、永始元年には新都侯に封ぜられた。
*「十八史略第二巻」をやっと読み終えました。来週からは第三巻に入ります。


好色皇帝

2006-01-07 20:44:11 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-145 好色皇帝

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

いったん、衰勢と向かった流れを変えるのは、至難の業である。むしろ、駄目なときは駄目なことが続くのが通例である。元帝の跡を継いだ成帝には、そもそも政治に立ち向かう気構えさえなかった。外戚、すなわち母親王氏の一族が次から次へと登用される。

成帝の名は“ごう”という。皇后王氏の子で、第一宮殿で生まれた。

成帝は幼少の頃経書ばかり読んでいたが、その後、酒と音楽に興味を持ち始め、日夜宴会にふけるようになった。元帝の時に太子の位についたが、あまりの放蕩ぶりがたたり、あやうく廃位されそうになったこともあった。その時は、史高の子の丹が元帝の寝室まで入り、号泣して元帝の翻意を求めたので、事なきを得た。

元帝が亡くなり、この太子が帝位についた。母の王氏を尊んで皇太后の称号を贈り、また母の長兄である王鳳(おうほう)を大司馬大将軍に取り立て、尚書を統括させた。

健始元年、中書令の石顕は、罪を得て罷官された。そして郷里に帰る途中、急死した。

この年成帝の母方の叔父王崇(おうすう)を安成侯に封じた。また、王譚(おうたん)、王商、王立、王根、王逢時(おうほうじ)の五人にも関内侯の爵位を与えた。

河平二年、成帝は母方の叔父をすべて列候に封じた。

陽朔(ようさく)三年、大司馬大将軍王鳳が死んだ。弟の王音(おういん)が代わって大司馬となった。また王譚が近衛兵を管轄するようになった。

鴻嘉(こうか)四年、王譚が死んだ。王商が代わって近衛兵を管轄した。

永始元年、成帝は、大后の弟、王蔓(まん)の子である王莽(おうもう)を新都侯に封じた。この年、趙氏を皇后として立てた。この人の名は飛燕(ひえん)という。妹の合徳(ごうとく)も女官として宮中入りした。

* すさまじい王氏一族の登用ラッシュである。
* 趙飛燕、合徳の姉妹は、中国史上の代表的美女かつ淫女として名高い。成帝はやりたい放題の生活がたたって、在位26年にしてある夜急死を遂げる。この死因は合徳が帝に勧めた精力剤だったとされ、彼女は自殺した。飛燕も転変の末、平民に身分を落とされ自殺に追いやられた。


中国代表的美女の王昭君匈奴に嫁ぐ

2006-01-07 19:19:22 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-144 王昭君匈奴に嫁ぐ

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

元帝の時代は、儒教官僚が進出する一方、王顕(おうけん)が中書令として実権を握り、漢の衰亡を一歩進めた時代といえよう。だが、北方の匈奴にも、往年の力がなかった。

元帝即位後13年の健昭三年、西域取締り副官の陳陽が、勅命と詐って出兵し、都護の甘延寿とともに、康呂の“しつ支単于(ぜんう)”を攻撃し斬殺した。

四年春、単于の首が都に送られてきた。この首は10日間、外国人居留地にさらされた。

竟寧(きょうねい)元年呼韓邪単于(こかんやぜんう)が来朝した。漢の皇女を妻にしたいという。元帝は後宮の中から王しょう、字は昭君という女性を選んで、皇女という名目で単于に与えた。

* 後宮には多くの女性がいる。皇帝は一人一人の女性を覚えてはいられない。そこで夜ごとの美女を選ぶために、後宮の女性の肖像画を画工に描かせていた。女性たちは少しでも美しく描いて貰うために画工に賄賂を送るのが常であったが王昭君は賄賂を送らなかった。ために王昭君はひどい醜女に描かれてしまった。帝は図鑑をめくってどれを選ぶか探したが美女を送るのは惜しいので、なるべく醜い女性を選んだ。それが王昭君だったわけであるが、元帝はあとで実物を見て悔しがったという。無理もない中国の4大美女と言われる王昭君だったわけだから。彼女は匈奴に嫁ぎ、幸せな人生を送ったという。彼女はいつ帝のお側によばれるかわからぬままに、一生を後宮で朽ち果てるよりも、匈奴に嫁ぎ愛され、子供を設けた方が良かったと言えるだろう。


自殺に追い込む

2006-01-07 18:41:13 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-143 自殺に追い込む

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

外戚・宦官派は巧みな罠を仕掛けて正義派を抹殺しようとはかる。

元帝は暫くしてから、周堪と劉更生の二人を再登用した。さらに蕭望之を呼び戻して、丞相に付けようとした。この元帝の意志を知って、弘恭と石顕ら4人は蕭望之がプライドが高く、屈辱に耐えがたい性質の持ち主である事を利用して、蕭望之を陥れようと考え、元帝に言上した。

「蕭望之は過ちを悔い、罪に服した気配はなく、かえって朝廷に恨みを抱いている始末。彼はかつて陛下の教育係であったことを鼻にかけ、自分は罰せられることはないとたかをくくっているのです。彼を暫く投獄して改心させるべきでしょう」

元帝「しかし蕭望之は剛直な男だ。そんなことをすれば、獄吏の手にかかることを潔しとせずに自決するのではないか」

弘恭ら4人「命はかけがえのないものです。いくら彼でもそれほど早まったことはしないでしょう。蕭望之の場合は言論上の微罪ですから、そのようなご心配は無用かと思われます」

元帝はその意見を入れ、使者を立てて蕭望之に出頭を命じた。一方、四人はすぐに軍衛の騎兵を出動させ、急遽、蕭望之の邸宅を取り囲んだ。蕭望之は、投獄されると知り、鴆毒(ちんどく:毒鳥の羽にあるという猛毒)を飲んで自殺した。


言葉の意味を理解せず牢にぶちこむ

2006-01-07 17:47:02 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-142 言葉の意味を理解せず牢にぶちこむ

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

元帝には政務のことが飲み込めない。そこにつけこんで、外戚・宦官連合派が巻き返しに出る。

弘恭と石顕も「蕭望之(しょうぼうし)、周堪(しゅうかん)、劉更生(りゅうこうせい)の三人はあること無いことを言いふらし、重臣たちを誹謗し、皇族の方々を分裂させようとしております。彼らは権力を専横して不忠を働こうとしております。陛下を欺くとはふとどき千万。早速、使者に命じて彼らを召し出し、廷尉に引き渡すべきと存じます」と上書した。

当時、元帝は即位して日も浅く「召し出して廷尉に引き渡す」というのが、牢獄に入れると言うことを意味するとは知らなかった。それほどのこととは思わず彼らの意見を受け入れた。

ところが暫く経って、周堪と劉更生を召し出したところ、二人は獄につながれているという。元帝はびっくりした。「なんと、ただ廷尉が取り調べをするだけではなかったのか」
さっそく、二人を牢から出し、以前のように政務を執らせた。しかし、弘恭と石顕の二人は史高をたきつけ、元帝を説得させた。ついに元帝は、蕭望之、周堪、劉更生の三人を罷免してしまった。

*言葉を知らないと悲惨な目に会うことがあります。だいぶ昔ですが、アメリカでハロウィンの時、不審者と間違われてピストルで射殺されたことがありましたね。この時、アメリカ人は「止まれ:ブリーズ??」と言ったのですが、日本人は意味がわからず、動いたため、撃たれたと記憶しています。


宦官の台頭

2006-01-06 18:26:46 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-141 宦官の台頭

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

独裁君主制の下では、君主が暗愚だと、補佐役に誰がつくかで政治的地図ががらりと変わる。優位に立つのは、常に君主のそばにいる者。まず第一が妃とそれに繋がる外戚。第二が宦官であろう。

元帝の時代には、この宦官が外戚と手を結んだ強力な補佐役が出現したのである。

中書令の弘恭(こうきょう)と僕射(ぼくや:丞相職の一つ)の石顕(せきけん)は、すでに宣帝の時代から、政治の中枢を握っていた。続いて元帝が即位したが、とかく病気がちだったために、石顕に政務を代行させるようになっていた。

宦官は生殖能力を持たず、姻戚関係を生じないことから、政務を任せても、害はあるまいと考えたのである。

それからというもの、ことの大小を問わずすべて石顕を経由して元帝の裁決を仰ぐことになった。元帝の信頼は石顕一人に集中した感があり、官吏という官吏は石顕に頭が上がらなくなった。

石顕は実に頭が良く回る男で、元帝の意中を細かな点まで読みとることができた。しかも性格は陰険と来ており、詭弁を弄して人を中傷する。彼は外戚の史高(しこう)とはツーカーの関係にあった。

蕭望之(しょうぼうし)らは、外戚の許延寿(きょえんじゅ)、史高の放縦ぶり、および弘恭と石顕の権力専横を目に余るとして、元帝に上書した。

「中書令は政治の根本であり、国家の重要なことを取り扱う職です。それ故この職には事理に通じ、公明正大なる人物が必要とされます。確かに武帝は中書令に宦官を登用されましたが、これはあくまで大奥での酒宴の相手をさせるためでありました。宦官を中書令に採用するというのは決して古来の制度ではございません。死刑に継ぐ厳しい宮刑を受けた前科者(宦官のこと)は近づけぬと言うのが、古来、為政者の心得でございます。古来の道に従われますよう」

しかし、元帝にはこの意見を受け入れる力もなかった。


なぜ元帝は宣帝の後継になれたか

2006-01-06 18:25:29 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-140 なぜ元帝は宣帝の後継になれたか

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

宣帝没後、漢王朝は57年続く。その間、帝位についたのは元帝、成帝、哀帝、平帝であったが、いずれも名君と言える器ではなかった。57年間見事なまでに下降線を辿ったのだが、その禍は儒学であった。

元帝の太子時代、彼は温和な性格で儒学を学んだ。彼から見ると父の宣帝は法治主義に偏している。官吏には法律に通じた人物ばかり登用するし、もっぱら刑罰によって人民を統治している。

ある日、酒宴の席をかりて、太子はもの静かな調子で宣帝に訴えた。「陛下は刑罰に頼り過ぎておられるかと思われます。この際、是非儒者を採用して、聖人が教えた政治をなさってはいかがでしょうか」

宣帝はさっと顔色を変えてこう言った。

「漢家には、立派に漢家の制度がある。覇道と王道、双方を併用するのが伝統となっている。なにゆえその片方である徳治主義だけを用いて、周代の政治をまねしなければならぬのか。その上儒者どもは、時宜にかなったことは何一つわからんのだ。連中は口を開けば昔を誉め、現代をそしって、世人の判断を惑わせ混乱に陥れる。あんな連中に政治が任せられると思っているのか」

こう言ってから、宣帝は大きくため息をついた。「わが漢家を混乱させる者は、この太子に違いない」

それでは、その太子がなぜ帝位につくことができたのか。かつて宣帝は、少年時代、太子の母(すなわち宣帝の妃)である許氏の実家に身を寄せていた。その恩義があった上、のち許皇后が霍氏によって毒殺されたので、この太子を廃するに忍びなかったからである。かくて、宣帝没後、太子が即位した。


宣帝の治政

2006-01-06 18:24:13 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-139 宣帝の治政

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

宣帝は紀元前49年に在位期間25年で世を去った。武帝時代の華やかさはないものの、漢の最盛期であったと見ることもできる。

宣帝の生い立ち:青年期まで民間で育ったため、民間の苦しみに通じていた。

即位後の内政:「人民が安心して働き、ため息や恨み声を漏らさないならば、政治に不平等がなく、裁判に不公平がない証拠だ。こういう政治を実現するために、わしが頼みとするのは、賢明なる地方長官をおいて他にない」と言って、地方長官を重視し、功績ありと認めれば、そのたびに詔書をもって激励し、一層の努力を促した上に黄金を賜るなどした。中央政府の高官に欠員が生じたときには、かつて表彰した地方長官から抜擢した。さらには信賞必罰主義でのぞみ、公正的確に成績を評価した。そのため、役人はその職責を忠実に果たし、人民もその本業にいそしんだ。

外交:ちょうど匈奴に混乱が起きて分裂した時期であったが、宣帝は分立した諸族のうち、再建の見込みのないものは討伐し、存立の見込みのあるものを保護した。単于は宣帝の恩恵を受け漢の臣下になった。

宣帝の功績:上は遠く祖宗にまで、末は後世の子孫にまで光り輝くものであった。中興の祖として、殷の高宗、周の宣王に比肩しうる徳を備えていたと言えよう。

太子が帝位を継いだ。これが孝元皇帝(略して元帝)である。

*宣帝が現代に生まれたならきっと名政治家、名経営者になっているであろう。


かくれた徳行の報い

2006-01-02 18:47:10 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-138 かくれた徳行の報い

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

宣帝即位後の23年の甘露三年丞相黄覇が在位4年で没した。続いて、御史太夫であった于定国(うていこく)が丞相になる。

于定国の父の于公はかつて東海郡の獄吏をしていた。ある時郡内に夫に先立たれた後、舅によく仕えていた評判の嫁がいた。舅はこのままでは娘が再婚できないと思い首をくくって自殺してしまった。

意地の悪い小姑が、「姉が母を強要して死なせたのです」とお上に訴え出た。娘はどうすることもできないままに処刑されてしまった。獄吏の于公は彼女の無実を主張したが、ついに彼女を助けることができなかった。

それからというもの、東海郡では日照りが続いて作物が枯れた。三年後新しく赴任してきた長官に于公は日照りの原因は冤罪事件に違いないと訴えた。早速、長官があの娘の墓を祀って、霊を慰めたところ、はたして雨が降り始めた。このように于公は、職務上、表面に現れないところで徳行を積んだ人物である。

あるとき、于公は自分の村の入口の門をつくりかえて、四頭立ての馬車が通れるようにしてこう言った。「わが一門には、必ず立身出世を果たすものが出よう。そのとき、馬車が入れなくては困るからな」

案にたがわず、地節元年に、息子の于定国が廷尉となった。「彼が廷尉になってからというもの、“人民は冤罪を被ることがない”と確信している」と朝廷の人々はその仕事ぶりを見て于定国を賞賛した。

やがて、于定国は廷尉から御史大夫に昇進し、丞相の黄覇が亡くなるに及んで、丞相の座に着いたのである。


丙吉と黄覇

2006-01-01 11:41:15 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-137 丙吉と黄覇

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

丞相の魏相がなくなって、丙吉が代わって丞相となった。丙吉は、心の広い人物で小事にあくせくせず、礼儀正しくて、尊大ぶることがなかった。人々は、丙吉は丞相としての大きな職分を心得ていると賞賛した。

宣帝が即位してから19年後、丞相の丙吉がなくなって、後任に黄覇が任命された。黄覇は以前えい川(せん)郡の長官を務めていた。郡の役人にも人民にも尊敬され、誰もが長官は神のように聡明で、とてもごまかしはきかないと噂しあった。一方黄覇は、刑罰は軽視して、もっぱら教化を第一とする統治方針をとった。だが黄覇の才能は直接人民を治めるには適していたが、丞相には向いていなかった。功績、名声ともに、郡を治めていたときの方が高かった。

* 適材適所があるのはいつの時代でも同じ。ある人物が大きな功績をあげて、上位職に就けば、それで、その後もうまくいくとも限らないところが難しいところです。