凡凡「趣味の玉手箱」

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陳の滅亡

2006-08-06 23:08:33 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー151-陳4-陳の滅亡


後主は、随の軍が来襲したとの知らせを受けても、「そもそも建康は、楚の昔から帝王の気が空を覆ったというゆかりの地だ。随ごときに何ができよう」と、太平楽を決め込んでいた。それに油を注いだのが、孔範である。
「揚子江は天然の要害、いかなえびすといえども飛び越えるわけにはまいりませぬ。私は、かねがね位の低いのを苦にしておりますが、もしも彼らが揚子江を渡りましたなら、見事これを破って、三公の位を頂戴いたしましょう」
こうして後主の慢心はつのるばかり、あいも変わらず歌舞と酒宴にうつつをぬかし、詩を作っては楽しんでいる。



この間に、随の将軍賀弱弼の軍は、江陵から揚子江を渡河し、また韓擒虎の率いる一帯は、夜陰に乗じて横江浦(おうこうほ)から采石磯(さいせきき)へ渡ることに成功した。ところが陳の守備兵はみな酒に酔っていて、防戦することができない。韓擒虎の部隊は建康のはずれの新林浦から進撃して、宮城の南門に突入した。



後主は、景陽殿の空井戸の中に隠れひそんだ。不審を抱いた随の兵士が石を投げ込もうとすると、中から大声で助けを乞う者がいる。縄を垂らして引き上げてみたところ、なんと後主ばかりか張貴妃、孔貴嬪までゾロゾロとあがってきたものだった。後主はかくて生け捕りとなり、随の都長安へ送られた。



陳は高祖武帝から五代、22年にして滅びたのである。



「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



後主が逃げ出そうとしたとき、尚書僕射が色をなして後主を諫め、梁の武帝が侯景を引見した例を引いて、従容と隋兵を迎えるよう説得した。だが後主は耳を貸さず、自分から進んで井戸に隠れたという。この井戸は後に、辱井(じゃくせい)-恥かき井戸-と呼ばれるようになった。宋、斉、梁と最後の帝は禅譲の後、すべて殺されてきたが、恥さらしの張本人であった後主は、生きながらえて隋の恩徳を示す道具に使われた。張貴妃は生かしておくと禍のタネになるとして、斬られてさらしものにされたという。



ようやくⅢ巻を読み終わりました。少し休んでから、次はⅣ巻です。貴重な時間をこんな事に費やしてと笑っていらっしゃる方もおられると思いますが、これが日々のおつとめの一つで、楽しみながらやっていますのでご容赦下さいね。

郭璞の予言

2006-08-06 23:07:15 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー150-陳3-郭璞の予言



随は、晋王楊広(のちの随帝煬帝(ようだい)を総司令官とし、陳征討に乗りだした。楊素(ようそ)の軍団、韓擒虎(かんきんこ)の軍団、賀弱弼の軍団と、数方面にわかれての進撃である。総参謀長の“高けい”が、部下の薛道衡(せつどうこう)に、「首尾良く江東を占領できるだろうか」




後主長城公煬(よう)、名は叔宝(しゅくほう)。太子の頃から補佐官の江(こうそう)を相手にして酒浸りの生活を送っていた。薛道衡はきっぱりと断言した。「成功は間違いありません。郭璞の予言に「東晋王朝は江東に分離独立したが、三百年の後に、ふたたび中原と合体するであろう」とありますが、その期限ももういっぱいになろうとしております」




武官上がりの将軍は無学ということで軽蔑され、いささかでも過失があれば容赦なく解任されてしまう。このため、行政機構も軍の指揮系統も、まったく体をなさなくなってしまった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



亡国の調べ

2006-08-06 23:06:21 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー149-陳2-亡国の調べ



北周の武帝は、北斉を滅ぼして北朝の統一に成功した。だがその子宣帝は自堕落者で、即位後一年も経たぬうちにくらいを幼児静帝に譲って、淫楽にふけり、すぐに死んでしまった。朝廷の実権は、外戚にあたる随公楊堅(ようけん)に握られた。楊堅は相国、隋王に進み、九錫の礼遇を得た後、静帝の禅譲を受けて隋王朝を開いた。静帝はいくばくもなく殺された。
楊堅は、西魏以来の属国、後梁を廃して直領に編入した。残るは陳のみである。当時、陳帝は五代目の陳叔宝だった。




後主長城公煬(よう)、名は叔宝(しゅくほう)。太子の頃から補佐官の江(こうそう)を相手にして酒浸りの生活を送っていた。




即位するとさっそく宮中に臨春閣・結綺閣・望仙閣と名付ける三つの高殿を造営した。それぞれの高さは数十丈、数十に上る部屋のことごとくを香木でしつらえた上に、金銀宝玉で飾り立てた。真珠のすだれや七宝のついたてをはじめとして、服飾品や什器類の見事なことは、古今にその例を見ぬほどである。周囲には池を掘り築山を築き、様々な草花を植えた。




そして後主自身は臨春閣に住み、貴妃の張麗華(ちょうれいか)は結綺閣に、“きょう”、孔の両貴嬪(きひん)は望仙閣に住んで、高殿を結ぶ二層の廊下から行き来した。



江は宰相になったものの、とんと政務に携わろうとせず、毎日のように孔範(こうはん)らの文人とともに、帝を囲んで、大奥での遊宴にふけった。この人々は、当時、“おべっか連”と呼ばれたものである。後主は、女官達と“おべっか連”に詩歌のやりとりをさせて楽しんだ。それらの詩歌につけた曲の中に、亡国の調べとして有名な“玉樹後庭花”の類が含まれている。こうして飲めやうたえの乱痴気騒ぎが、夜を徹して続けられたのである。



こんな具合だから、宦官と近習とが気脈を通じ合い、王族も外戚も気ままに振る舞って、賄賂が公然とまかり通った。なかでも孔範は、孔貴嬪と義兄妹のちぎりを結び、恩寵をかさにきて、「文武の才能にかけては自分に及ぶものはあるまい」とまで思い上がるようになった。



武官上がりの将軍は無学ということで軽蔑され、いささかでも過失があれば容赦なく解任されてしまう。このため、行政機構も軍の指揮系統も、まったく体をなさなくなってしまった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



陳王朝の創始者

2006-08-06 23:05:25 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー148-陳1-陳王朝の創始者



陳の高祖武帝、姓は陳、名は覇先(はせん)。呉興(ごこう)の出身である。
梁の武帝の大同年間に広州の幕僚となり、反乱鎮圧の功によって将軍となった。ついで交州の幕僚長を経て高要(こうよう)郡の知事と西江(せいこう)の軍司令官を兼務し、七郡の兵を率いて再三に渡る反乱を平定した。




侯景が国都建康を占領したとき、彼は始興(しこう)郡の知事であったが、郡内の剛勇の士の協力を得て追討の軍を起こし、まず江州を奪ってその長官となり、各地の軍を糾合してついに侯景を覆滅させた。こうしてやがて大将軍、相国となり、梁から帝位を譲り受けることになったのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



図書十四万巻を焼く

2006-08-06 23:04:30 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー147-梁5-図書十四万巻を焼く



東魏では、高歓(こうかん)の第2子高洋(こうよう)が丞相となり、ついで静帝の禅譲を受け、北西王朝を開いた。
梁では候景敗死ののち、蕭氏一族の間で帝位争奪戦が始まり、勝ち残った蕭繹(しょうえき;武帝の第七子)が江陵において即位した。これが博学で知られる文帝である。当時、蜀の地方はすでに西魏の手に落ち、梁は揚子江の中流以東を支配するのみとなっていた。




西魏は、桂国(将軍職の最高位)の于謹を総司令官として、梁に出兵し、江陵に侵入した。
元帝は、所蔵した古今の図書十四万巻を焼き捨て、「ああ、文武の道も今宵限りで尽き果てた!」と嘆じて降伏した。ある人から書物を読破したにもかかわらず焼いた理由を問われたとき、「自分は、万巻の書物を読破したにもかかわらず、今日の運命に立ち至った。書物に何の効用があろう」と答えたという。




西魏は元帝を殺し、先に西魏に亡命してきた王族の“蕭さつ”を帝位につけて、江陵を中心とする傀儡王朝を建てた。史上これを後梁と称する。
建康にあった梁の将軍陳覇先は、元帝の子蕭方智を擁立した。これが敬帝である。陳覇先は相国、陳公となり、九錫の礼遇を得、陳王となった後、筋書き通り禅譲によって帝位に就き、陳王朝を開いた。梁はここに四代56年で滅びたのである。敬帝はその翌年に殺された。
梁の滅亡に先立って、西魏にも政変が起こった。大丞相の宇文泰の死後、その後を継いだ宇文覚(うぶんかく)が、恭帝に禅譲を迫って、北周の王朝を開いたのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



ハスの花が-武帝の死

2006-08-06 23:03:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー146-梁4-ハスの花が-武帝の死



東魏はやがて梁に和親を求めてきた。だがその本意は、候景を誅殺しようとする点にあった。候景は梁が東魏と友好関係を結んだのを怒って、寿陽に挙兵すると南下して揚子江を渡り、建康を包囲した。




梁朝が成立してこの方、江東地方には長らく平和が続いていた。武帝はひたすら仏教を信奉し、自ら捨身の行をたびたび繰り返したほどである。そのため梁の人士は、すっかり文弱の気風に染まっていた。
従って、候景の軍が宮城間近に押し寄せたというのに、援軍は片っぱしから破られて何の役にも立たない。




武帝はやむなく使者を出して和議を求め、候景を大丞相に任命するとの条件で合意に達した。かくて宮城は、包囲5ヶ月にして反乱軍の手に落ちた。




候景は謁見のため宮中に入って、三公の座席に着いた。武帝は泰然として、「そなたは長い陣中生活で、さぞや疲れたことであろう」とねぎらいの言葉をかけた。
候景はまともに顔が上げられず、額から汗を流してかしこまるばかり、退出してから、つくづくと述懐したものである。
「わしの長い戦場生活の経験では、たとえどのような危険にさらされても、ついぞ恐ろしいと思ったことはなかった。ところが、蕭公(武帝)の前では、自然と身がすくんでしまう。全く生まれながらの気品というやつには歯が立たん。二度とお目にかかりたくないものだ。




武帝は、候景のために閉じこめられ、ろくな食事も与えられなかったので、憤激のあまり寝ついてしまった。熱で口の中が苦くてならず、蜜をほしがったがそれさえもない。
うわごとに「ハスの花が・・・・」と繰り返しながら息を引き取った。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




武帝は優れた文化人で、彼の48年間の治世において、経済・文学は空前の活況を示した。「文選(もんぜん)」の編者として有名な昭明太子蕭統(しょうとう)は、その長子である。武帝はその一方で異常なほど熱心な仏教徒であった。即位に際して、斉の和帝をはじめその一族を殺した罪業の意識が彼を苦しめ続けたのかもしれない。
また晩年には、人を罰するのをいやがり、はなはだしくは反逆を企んだものまでも許してしまうほどであった。後世の史家たちは、この点を捉えて帝王の責務を忘れた振る舞いであると非難している。
だが訳者は、この武帝に見られる人間の弱さを陰惨な南北朝の歴史に咲いた一輪の花にたとえている。




熱にうなされて、「蜜が蜜が」と言わないで、「ハスの花が・・・・」とは。お釈迦さまが武帝のすぐそばに現れたのでしょうか。私も臨終にあたってこんなコトバを言いたいものですが。まあそれは無理でしょうな。

佞臣朱い

2006-08-06 23:01:44 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー145-梁3-佞臣朱い



東魏と西魏とは、連年攻伐を繰り返したが、戦況は一進一退、いずれも決定的な勝利をおさめるには至らなかった。そのうちに東魏の高歓が死ぬと、将軍侯景は東魏に離反し、支配下の十三州を引き出物として、梁の援助を求めてきた。




梁は、侯景を河南王に封じた。
これより先、侯景の使者が梁にやって来たとき、群臣の誰一人として、侯景を受け入れることに賛同する者はいなかった。武帝自身もなかなか踏み切ることができず、「わが梁は、きずひとつない金の瓶のように事なく治まってきた。侯景の受入が、問題の発端とならねば良いが」と案じるばかりだった。




ここにただ一人、積極的に受入説を主張したのが、寵臣の朱い(しゅい)である。武帝はついにその意見に従った。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




注)「平家物語」冒頭の有名な祇園精舎の下りに、梁の朱いを秦の趙高、漢の王莽、唐の安禄山と並べて、「これらはみな、旧主先皇のまつりごとに従わず、民間の憂うるところをしらざりしかば、久しからずして亡びにし者どもなり」と歌われている。
だが朱いは、他の三人と違って、国政を奪ったり天子を殺したりできるほどの大物ではなく、単なる佞臣にすぎなかった。
武帝は侯景支配下の十三州がノドから手の出るほどほしかったのだが、後難を恐れてためらっていた。朱いはそのところをよくのみこんで、帝におもねったわけである。

けい惑星、南斗を侵す

2006-08-06 23:00:37 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー144-梁2-けい惑星、南斗を侵す



北魏の分裂に先立って、けい惑星が南斗の星座に侵入するという現象が起きた。




梁の武帝は“けい惑星が南斗を犯すのは、天子が宮殿を捨てて逃げる前兆である”といういい伝えを信じ、厄払いのために自ら裸足になって庭におり、逃げ出すまねを演じたものだった。




やがて北魏の孝武帝が丞相高歓と争って敗れ、都を捨てて逃げたとの情報が入ったため、すっかりバツが悪くなり、「天文が夷狄にまで反応するとは考えもしなかった」と弁解したものである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




“梁の武帝にとって、これは誠にショッキングな発見だったに違いない”と注に記載されている。そもそも天子とは地上にただ一人の存在である。いかに夷狄が天子を自称しようとも天の認める正系われにあり、と自負していたその足下が崩れたわけである。漢民族は今や、いやおうなしに夷狄と対等の立場におかれたことを自認せざるを得ない羽目になったわけである。


菖蒲の花を飲んで-高祖の生い立ち

2006-08-06 22:59:22 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー143-梁1-菖蒲の花を飲んで-高祖の生い立ち



梁の高祖武帝、姓は蕭(しょう)、名は衍(えん)。斉室の遠縁に当たる。母の張氏が、あるとき庭先に菖蒲が花開くのを眼にした。だが、ほかのだれもこれに気づかない。瑞祥だというので花を摘んで飲んだところ、やがて武帝が生まれたという。




武帝は、英明で学識優れた人物だった。
東昏候即位の年、南雍州の長官として襄陽に駐屯していたが、内乱の起こることを見通して内密に軍備を整え、輩下に多数の勇士を招聘しておいた。またその一方では、竹材木材を檀渓の谷間に沈め、茅を刈り取って山のように積み蓄えておいた。




このため、兄の蕭懿の死を聞くや、ただちに東昏候討伐の旗をかかげて軍を動員し、檀渓にかくしておいた竹木と茅で軍船を艤装し、たちどころに戦闘態勢に入ることができた。
かくて一年ののち国都建康を陥れ、やがて禅譲を受けて梁朝を開いたのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



北魏の分裂

2006-08-06 22:58:24 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー142-北魏3-北魏の分裂



胡太后はわが子孝明帝と対立し、ついにこれを毒殺した。北鎮の実力者爾朱栄(じしゅえい)は、高歓のすすめによって挙兵し、洛陽を占領して胡太后の一党をことごとく殺した。




やがて爾朱栄が暗殺されると、将軍の高歓と宇文泰(うぶんたい)とが、それぞれに皇帝を奉じて洛陽と長安とに拠り、北魏は149年にして東魏・西魏の両王朝に分裂したのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から