凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

緑林という言葉

2006-01-25 21:48:21 | 中国のことわざ
中国のことわざ-101 緑林という言葉

盗賊や山賊のことを緑林という。前漢と後漢のつかの間の王朝新の皇帝、王莽の失政を咎めて西暦18年に立ち上がった反乱軍である赤眉軍が、緑林山にたてこもったことに基づく。その主体は王莽の失政で生業を離れた流亡の農民であった。

なお、赤眉軍は王莽の軍と味方を区別するために、眉を赤く染めたため軍の名前を赤眉といった。

出典:「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」、広辞苑


王朝の簒奪(さんだつ)者-王莽

2006-01-25 21:47:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-1 王朝の簒奪(さんだつ)者-王莽(おうもう)

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

高祖劉邦によって創設された漢王朝は、のちに魏王朝にとって代わられるまで、ほぼ400年間存続する。この大帝国は前漢と後漢とにとに分けられる。なぜかと言えば、その半ばほぼ200年を過ぎたところで、一時、国号を新と称する王朝が存在したからである。この、王朝の期間は僅か15年であったが、その創始者が王莽である。

彼はドラスティックな政治理論にもとづいて、理想的な政治支配をもくろんだ、狂信的な政治家であった。外戚の一員として、「平帝」の時代に儒教イデオロギーによる一大改革を行いその功あって、諸侯王よりも上位のランクに位置づけられる宰衡の称号を得た。彼の制定した礼制、官制、学制などの諸制度はのちの中国王朝に受け継がれたと評価されている。

こうして権勢を得た王莽は、その後次第に「自分が皇帝になるべきだ」という妄想を抱くに至った。当時、陰陽五行思想に基づく、讖緯説(しんいせつ:天文、暦数などにより未来を予言する説)が広く信じられていたが、彼はこの説を儒教イデオロギーに取り入れた。

「地上の主宰者である皇帝権を神秘化し、漢王朝は滅亡し、新しい王朝が出現するであろう」と予言したのである。その巧妙な手口に引っかかって、48万人が王莽の徳業を褒め称える上書を行った。彼の皇帝即位は当然のことと受け入れられた。

王莽の評判は王朝の簒奪者として、また、儒教イデオロギーや讖緯説を作為的に利用した人物として、後世の王莽に対する評価は極めて良くない。





中国2005年に9.9%成長

2006-01-25 21:43:19 | 中国関連ニュース
中国国家統計局は2005年の国内総生産GDPの前年比の伸び率が物価変動の影響を除いた実質ベースで9.9%になったと発表。1000億ドル(約11兆5千億円)を超える巨額の貿易黒字と投資が牽引し、三年連続で10%前後の高成長となった。

名目GDPは18兆2321億元(約259兆円)、米日独英仏に次ぐ世界6位(フランスを抜いたという情報もある?)高成長の要因は1019億ドルに達した貿易黒字。今年は欧米との通商摩擦回避のため、黒字が減る公算が高い。民間の設備投資や公共投資を合わせた固定資産投資は前年比25.7%の高い伸び。地域別では都市部の伸びが農村より9.2ポイント高く27.2%。消費者物価の上昇率は前年比1.8%。高成長にも関わらず物価が殆ど上がらないのはガソリンなどのエネルギー価格を政策的に低く抑えていることに加え、家電製品や自動車の価格が供給過剰で落ちているため。

一方、昨年11月に起こった吉林省の化学工場爆発による汚染物質の河川への流出や、湖南省や重慶市でも工場から有害物質が流出、一連の流出事故は高成長の追求が環境対策を二の次にしている事を暗示している。

中国の農村では1億5千万人の余剰労働力があるとされる厳しい雇用情勢がある。成長の鈍化が農村中心に社会不安を招来、中央政府批判がおこり、政権の基盤を揺るがす事態に陥らぬよう高成長路線を取らざるを得なかったという見方もできる。これからも綱渡りの政策運営を強いられよう。

(日本経済新聞25日夕刊から)





中国人が海鮮を食べ始めた

2006-01-23 21:38:51 | 中国知っ得情報
我が家の食卓には魚が上がることが多い。連れも私も肉は殆どとらず、魚が主体で、刺身はもちろん、煮魚、塩焼きなど好んで食べている。

これまでのように豊富で安い値段の魚を食べることが、この先できるのか、怪しくなってきた。

NHKのクローズアップ現代を見た感想である。

中国では経済成長で人々の生活が豊かになったことと、道路整備などが進み内地への運送インフラが整ってきた等の理由から、このところ海鮮の消費が急拡大しているそうだ。今や中国は世界一の海鮮消費国でシェアは3分の一を占める勢い。もともと、海鮮は高価なもので少し昔はごく一握りの金持ちが食べる食材であったようだ。そのため。中国で海鮮はまだ沿岸部の人が主体で食べているのだが(沿岸部にすむ4億人の人が中国の海鮮市場の70%を占める)、経済成長の進展とともに、これからは9億人の内陸部の人も好んで口にするようになる可能性がある。瀋陽では最近は、川魚の売り場が海の幸で溢れているそうである。

水産業者も抜け目ない。これからますます海鮮市場が拡大してゆくことを見越して、水産工場を建設するとともに、オーストラリアなどから鮑やエビなどを高値で購入し始めている。そして漁獲専用船を多数所有して、東シナ海での操業を始めたという。東シナ海には日中双方が自由に漁獲できる水域があるそうだが、そこに中国船がどっと押し寄せてきた。

日本船が長年培った感とノウハウにより有望な魚域を探し当てると、その日本船を目指して中国船が駆けつけるという構図。日本船は多勢に無勢で、最近では思うように漁獲高が上がらないという。放送では触れなかったがある限度を超えて漁獲すれば将来にわたって漁獲量が減少する懸念も出てくるだろう。(獲りすぎの弊害)

大連にある大連海鮮漁業という中国の会社幹部は、最近、さばの漁獲量が日本一の長崎県の○○(町の名前を忘れました)を訪れて、我が国では規格外で餌用として安くしか取引できない小さな鯖(大きな鯖の単価の約8分の1)に目を付けて、これを大量に、日本の相場の値段よりもはるかに高い値段で買っていったという。長崎県の○○としては、日本人の魚離れの直撃を受けて売上が伸び悩んでいたところにこの話であるから、渡りに船である。

中国が豊かになるのは結構なことであるが、急激な成長が様々なマイナスの影響をもたらす事も事実である。日本は日中間でまた一つ、頭の痛い問題を抱えた。


梟雄の系譜

2006-01-22 23:28:24 | 十八史略を読む Ⅲ
いよいよ徳間書店から発行されている十八史略も三巻目です。これから十八史略Ⅲとして少しずつ読んでゆきます。昨年ブログを開設してから約7ヶ月で二冊を読んだ勘定ですから今年は四巻まで読めるかもしれません。

さて、このⅢ巻の副題は「梟雄の系譜」です。広辞苑によれば、梟雄(きょうゆう)は残忍でたけだけしい人とあります。中国の歴史上、春秋戦国に次ぐ第二の危機の時代を扱っています。

この巻で扱うのは紀元1世紀初頭から6世紀の末までです。王朝では後漢から魏・呉・蜀三国鼎立(ていりつ)の時代を経て南北朝の終焉に至る、約600年間の時期となります。


人口というコトバ

2006-01-22 23:22:08 | 中国のことわざ
中国のことわざー100 人口というコトバ

1月22日の日本経済新聞朝刊の漢字コトバ散策からである。

興膳宏さんは副題を“為政者の思惑ににじむ数え方”としている。それは人数を意味する言葉として人口の他に人頭があって、この方は頭数を指す。人頭税といえば個人の税金の負担能力に関係なしに頭割りで取り立てる原始的な徴収法。民を養う面に重点があれば口で数えるといい、興膳氏はそこに為政者の思惑が暗示されているのかと指摘されている。

そういえば、昨年11月に中国に仕事で出張したとき西安市や上海の人口についての議論があったように記憶している。政府発表の人口の統計値に比べて実態はもっと多いのではないかという。確かに上海あたりでは周辺からの出稼ぎで来る流入人口が多いのかもしれない。それはそうと本題の人口というコトバに戻ろう。

広辞苑によれば①人口とは一国または一定地域に居住する人の総数②世人の口。世人の噂。(史記)とある。

興膳氏によれば(広辞苑①の)人口という用法は、漢書の王莽伝(おうもうでん)に「人口万二千人になるべし」とあるそうだ。この時代からはるかにさかのぼり、老子が逆説的な箴言として言った「五味は人の口をして爽(そこな)わしむ」がその一つ。そして、「人口に膾炙する」といえば広く人々の口の端にのぼってもてはやされることだ。

では人数を言うのになぜ“口”という字を使うのか。そのヒントとなるのが諸国を遊歴し、王者の道を説いた孟子が記した「孟子」にある。最初に彼が訪れた梁国の恵王に向かって熱弁をふるいこう言ったという。

「狭い宅地でも、桑の木を植えて、養蚕を振興し、また家畜をきちんと飼って労役で農耕の時を奪ったりしなければ「八口」の家でも飢えに苦しむことはありません」

八口の家とは八人家族の家を意味するが、いずれも家族が満足に食べていけることをいっている。民が不安なく食べられる生活を保障するのが、君主の責任であると孟子は言ったのである。

そして、冒頭掲げたとおり、興膳氏の人数を意味する二つのコトバ“人口”と“人頭”の説明へと続く。


駅伝という言葉

2006-01-22 23:06:56 | 中国のことわざ
中国のことわざー99 駅伝という言葉
1月15日の日本経済新聞朝刊漢字コトバ散策からである。

箱根駅伝を始め駅伝は真冬のスポーツのひとつである。今日は第11回全国都道府県対抗男子駅伝競走が広島の平和記念公園で行われました。長野県が三連覇で優勝したそうです。

さて、この駅伝というコトバは中国の古代からあったそうだ。

本来の「駅伝」は都を中心にして四方に伸びる道路の宿場と宿場の間を、馬や馬車でつなぐ交通・通信の制度であり、古くから国家支配の重要な装置でもあった。この点日本も中国も同じ。

「駅」も「伝」も、宿場あるいは宿場間を往来する馬や車を意味している。「駅伝」が逆転して、「伝駅」となることもある。「伝」はまた「転」に通じ、次々と受け渡してゆく意味を含む。

広辞苑で「駅伝」を調べてみると①(やくでんとも)古代の交通制度。中国では秦漢帝国以来、首都を中心に全国的に駅伝制度を施行し、清末に及んだ。日本の律令制では、唐制にならって、馬車および伝馬の制を定める②遠距離を中継または交代しながら連絡すること③駅伝競走の略とある。

なお、関連ですが、先日NHKで放映されていた万里の長城にある烽火台も事が起こったときに順番にのろしを上げてゆき、危急を都に知らせるということで、昔中国で、通信の重要な役割を果たしていたのだなと見て思いました。


児婦人の口は用うべからず

2006-01-21 19:25:45 | 中国のことわざ
中国のことわざー98 児婦人の口は用うべからず

女こどもの言うことに耳を貸すなという意味である。

この言葉を吐いたのは、意外にも、高祖の未亡人の呂后であった。彼女は高祖亡き後、天下の実権を握り呂氏一族を次々と王に立てた。

しかし呂后も高祖の重臣たちの動向が気にかかった。なかんずく、丞相をつとめる陳平は知謀の士、表面では呂后のやることにいちいち賛成しているものの本心はわからない。

ある時、呂后の妹の“呂しゅ”が「陳平は丞相の地位にありながら、政治はほったらかしにして。毎日、酒と女にうつつを抜かしております」と呂后に言った。

これを人づてに聞いた陳平は“呂しゅ”の讒言通りに日夜、女遊びにふけった。この機会を利用して、呂后を安心させて、自分の身の安全を確保しようと考えたのである。呂后は密かにほくそえんだ。陳平も酒色に溺れているようでは恐れるに足りないと。

呂后は陳平を呼び出して、“呂しゅ”の密告の件を形だけ問いただした上でこう言った。

「“女こどもの言うことに耳を貸すな”と下世話にも言う。“呂しゅ”の讒言など気にすることはないのですよ」

もうこの男は放っておいても大丈夫というわけである。

こうして呂后は陳平に対してすっかり心を許し、大っぴらに呂氏一族を王に立てた。

呂后が没するや、陳平は大尉の周勃とはかって、一挙に呂氏一族を誅伐し、文帝を擁立した。

*今時、“女こどものことばに耳を傾けてはいけません”などと言ったら、世のあらゆる女性・マスコミから総スカンを食うことでしょう。

出展:司馬遷、史記[別巻]史記小辞典、徳間書店、1988年11月30日第二版第一刷、陳丞相世家

讒女は国を乱る

2006-01-21 17:53:54 | 中国のことわざ
中国のことわざー97 讒女(ざんじょ)は国を乱る(みだる)
女の告げ口が政治を乱しているという意。

漢の高祖の未亡人の呂后の人ブタ事件はじめその犠牲となった人は多い。戚夫人の一子如意はじめ、高祖が他の女に生ませた子供を呂后は何人か殺している。

高祖の子、趙王の友も犠牲者の一人である。彼は呂氏一門の女を后としたが、側室ばかりを寵愛し、后には冷淡であった。そのため、后は呂后に告げ口した。

「太后が死んだら、必ず呂氏一族を倒してやる」と友が言っているというのだ。それを聞いて、かっとなった呂后は趙王を一室に閉じこめ、食事を与えることも禁じてしまった。

この言葉は友が飢えに苦しみながら、無念の思いをこめて歌った歌の中に出てくるという。

「女の告げ口が政治を乱している」というのである、中傷のたぐいが政治を混乱させるのは古今を問わないようだ。

この結末。可愛そうに趙王は餓死させられた上、亡骸は庶民同然の扱いで民間の墓に埋葬されたという。

出展:司馬遷、史記[別巻]史記小辞典、徳間書店、1988年11月30日第二版第一刷、呂后本紀

管をもって天を窺う

2006-01-21 17:52:33 | 中国のことわざ
中国のことわざー96 管(くだ)をもって天を窺(うかが)う(管を用いて天を窺う)

管の穴から天をのぞくように、狭い見識で広大なものごとをうかがっても、その真相を知り得ない。"ヨシの髄から天井をのぞく"と同じ意味で見識の狭さをたとえる。

春秋末期の医聖の扁鵲(へんじゃく)が"かく"の国に行ったときのこと、太子が死んだという噂を聞いて、宮廷の医師を訪ね、太子がどんな病状で死んだのかと聞いた後、

「いつ亡くなられたのですか」

「明け方です」

「納棺されましたか」

「いえ、まだ亡くなられてから半日も経っていませんので・・・・」

「では、私が太子を生き返らせて進ぜましょう」

「いいかげんなことはおっしゃらないでください。赤ん坊だって、そんなことは信用しませんよ」

扁鵲は医師とこんな問答を続けた後、天を仰いで嘆息して言った。

「あなたの医術など、管を通して広い天を窺い、隙間から複雑な模様を見るようなもの、とても全般を見通すことはできませんぞ。もし私の言うことが信用できぬなら、も一度太子を診てごらんなさい。その耳が鳴り、鼻がふくらむ音が聞こえるはずです」

これは余りにも図星だったため、相手は驚きのため、目がくらみ舌が動かなくなってしまった。

報告を聞いた「かく」の君主は太子の治療を扁鵲にまかせた。扁鵲が鍼(はり)を打つと
太子は蘇生し、さらに治療を重ねて20日後に全快した。

このため、死人を生き返らせることができる名医という評判が立ったが、扁鵲は「死人を生き返らせたわけではない。まだ死んでいない人を治したまでのことだ」と言った。

この話から、「管見」という言葉も生まれた。自分の知識や見解を謙遜して言う場合に用いる。

出展:広辞苑、司馬遷、史記[別巻]史記小辞典、徳間書店、1988年11月30日第二版第一刷、扁鵲・倉公列伝