凡凡「趣味の玉手箱」

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かくれた徳行の報い

2006-01-02 18:47:10 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-138 かくれた徳行の報い

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

宣帝即位後の23年の甘露三年丞相黄覇が在位4年で没した。続いて、御史太夫であった于定国(うていこく)が丞相になる。

于定国の父の于公はかつて東海郡の獄吏をしていた。ある時郡内に夫に先立たれた後、舅によく仕えていた評判の嫁がいた。舅はこのままでは娘が再婚できないと思い首をくくって自殺してしまった。

意地の悪い小姑が、「姉が母を強要して死なせたのです」とお上に訴え出た。娘はどうすることもできないままに処刑されてしまった。獄吏の于公は彼女の無実を主張したが、ついに彼女を助けることができなかった。

それからというもの、東海郡では日照りが続いて作物が枯れた。三年後新しく赴任してきた長官に于公は日照りの原因は冤罪事件に違いないと訴えた。早速、長官があの娘の墓を祀って、霊を慰めたところ、はたして雨が降り始めた。このように于公は、職務上、表面に現れないところで徳行を積んだ人物である。

あるとき、于公は自分の村の入口の門をつくりかえて、四頭立ての馬車が通れるようにしてこう言った。「わが一門には、必ず立身出世を果たすものが出よう。そのとき、馬車が入れなくては困るからな」

案にたがわず、地節元年に、息子の于定国が廷尉となった。「彼が廷尉になってからというもの、“人民は冤罪を被ることがない”と確信している」と朝廷の人々はその仕事ぶりを見て于定国を賞賛した。

やがて、于定国は廷尉から御史大夫に昇進し、丞相の黄覇が亡くなるに及んで、丞相の座に着いたのである。


毒婦と傾国

2006-01-02 08:41:30 | 中国のことわざ
中国のことわざ-91 毒婦と傾国

「毒婦」は腹黒く、悪事を働く女。妖婦(なまめかしく美しく。男を惑わす女)
「傾国」は“美人が色香で城や国を傾け滅ぼす意”①美人の称。特に遊女。傾城(けいせい)②遊里。遊郭。

夏と殷の滅亡の原因となった妻妾の妹喜と妲己を中国では「毒婦」と言うそうだ。可愛そうに彼女たちは「傾国」とはされていない。

出典:広辞苑、中国名言・故事歴史篇(田川純三著、日本放送出版協会1990年発行)


座右銘:心に響く古人の戒め

2006-01-02 08:21:50 | 中国のことわざ
中国のことわざ-89 座右銘:心に響く古人の戒め

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

さて、新年にふさわしい中国のことわざってあるのだろうかと、昨年の暮れ考えていたが、ついに思いつかなくて今日に至った。そうだ、元旦は日曜日、きっと興膳宏先生が良いコトバを載せてくれるだろう。ということで元旦の日本経済新聞を楽しみにして待っていた。

流石興膳さん。“一年の計は元旦にあり”から始めている。続いて“新しい年の心構えを定めて、それを座右の銘とするのも良いだろう”としている。

ということで、今年の最初のことわざではないがコトバは座右の銘。広辞苑によれば“常に身近に備えて戒めとする格言。ざうめい。”とある。以下は興膳宏の漢字コトバ散策から。

「銘」とはもともと韻文の一種で、行動の戒めとする言葉を日用の器物に彫りつけたもの。「座右」は、それを身辺におくことを言う。戒めとする言葉であるからには必ずしも威勢の良い内容とは限らない。座右の銘の元祖は後漢の崔瑶(さいえん)の「座右銘」。これは二十句百字から成り、「文選」に収められる。つまり「座右銘」はそもそも作品のタイトルでだったわけだ。崔瑶の座右銘は「人の短を道(い)う無かれ、己の長を説く無かれ」から始まる。人の短所をあげつらうな、自分の長所を自慢するなという意味である。世の中にはこれを座右の銘とすべき人が多いよなあ。(同感)弘法大師空海が草書でこの二句を書いた「座右銘」の断簡が、いま高野山に伝わっている。

因みに小泉首相の座右銘は「信無くば立たず」、前原民主党代表のそれは「至誠、天命に生きる」だそうでいずれも漢文調の句となっている。

さて、あなたの座右銘はと聞かれて?私は城山三郎の小説のタイトルから“打たれ強く生きる”です。

出典:広辞苑、日本経済新聞2006年12月4日朝刊「漢字コトバ散策」


殷鑑遠からず

2006-01-02 08:18:04 | 中国のことわざ
中国のことわざ-90 殷鑑遠からず

殷王朝は前代の夏(か)が滅亡したことを鑑(かがみ)として戒めよの意。失敗の先例は遠くに求めなくとも、すぐ目の前にある。

周の文王が殷の紂王(ちゅうおう)の淫逸と暴虐を嘆き、諫めた言葉。

殷鑑不遠    殷鑑遠からず
在夏后之世   夏后(かこう)の世に在り(あり)

殷が手本とすべきものは手近にあるではないか。あの夏の后(きみ)の世の乱れをこそ鑑とすべきではないか、と言うのである。

この場合、手本とはいわば、反面教師である。

夏后は殷王朝前代の夏王朝の最後の王「桀王(けつおう)」をいう。桀王は妹喜(ばっき)という妻妾に溺れ、彼女の歓心をかうために奢侈(しゃし)淫乱にふけり、そのため、殷の湯王(とうおう)に滅ぼされたのである。

周の文王が紂王に紂王が妲己に溺れて政治を顧みないのを見て、桀王と同じ愚を犯さないよう、忠告したが紂王は聞き入れなかった。そのため、文王の子の武王に誅殺され、桀王と同じ運命を辿ったのである。

以来、中国では夏桀殷紂と言う語が生まれ、暴君の代名詞となった。そして、妹喜と妲己は毒婦とされた。ともに国を傾けた女性であったが「傾国」とは呼ばれない。傾国とは美人の代名詞であり二人はたんに淫婦だったからである。

現在中国では商鑑不遠(しょうかんとおからず)という。中国で殷王朝を正式に周王朝と呼ぶからである。

出典:広辞苑、中国名言・故事歴史篇(田川純三著、日本放送出版協会1990年発行)