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帝国の基礎固まる

2007-06-02 04:56:00 | 十八史略を読む Ⅳ
十八史略を読む-Ⅳー16-大帝国 唐の成立6-帝国の基礎固まる


高祖李淵の時代は、群雄との戦いに明け暮れた。煬帝を弑殺した宇文化及(うぶんかきゅう)は、まもなく浩も殺して自ら許帝と称し、竇健徳は河北に拠って夏王と称し、王世充(おうせいじゅう)は洛陽にて鄭帝と称し、いったん唐に降った李密(りみつ)が、再び反旗を翻す等々、天下は依然混沌としていた。彼らをあるいは滅ぼし、あるいは降伏させて、ことごとく平定したについては、李世民の、まさに東奔西走の大活躍があった。


高祖李淵が、唐を建国してから七年、各地に蜂起してそれぞれ国を称していたものがすべて滅び、ここに唐の天下が定まった。


この年、州・県・郷にはじめて学校を設置し、帝は自ら国子学(大学)に行って、先聖(周公)先師(孔子)を“釈てん”の礼をもって祀った。
また、はじめて官制を定め、新律令を天下に公布した。
そして、均田(きんでん)の法および租庸調(そようちょう)の法を定めた。16歳以上の人民には、田地一傾(けい)を与え、病者にはその40%,寡婦にはその30%に当たる田地を与えた。いずれも与えられた田地の十分の二は。その家に代々受け継がれ、十分の八は口分田(くぶんでん)とした。
一傾の田地を与えられた者は、租として毎年穀物二石を納め、調としては、各地それぞれの生産品によって綾(あや)、絹、紬(つむぎ)、布を納めさせた。
庸としては、毎年二十日間の労役に従事することとし、労役に出ない場合には、不足日数一日につき絹三尺の割合で払わせる。もし特別の事があって労役の日数が超過した場合には、それが15日に達した人民は調が免じられ、三十日に達した人民は、租・調共に免除となった。
このほか、水害、旱害、虫害、霜害などの天災のために、通常の十分の四以上の減収となった場合は租を免じ、十分の七以上なら租庸調すべてを免ずることにした。
また、人民の財産をその多寡によって九段階にランク付けした。民家百戸を里(り)、五里を郷(きょう)といった。四軒を隣(りん)、四隣を保(ほ)といい、城下にある集落を坊(ぼう)、郊外にあるものを村(そん)とした。俸禄を食む者は、民の利益をおかす仕事をしてはならず、工商その他の職業に従事する者は,士人のことに関与してはならない。
また、男女とも乳児は黄(こう)といい、四歳になると小、十六歳からを中、二十歳からを丁(てい)、そして60歳を過ぎると老といった。
このような諸々の制度を施行するために、毎年、租税計算の帳簿を作り、三年毎に戸籍簿を作った。


「十八史略 Ⅳ 帝王の陥穽 :徳間書店、花村豊生、丹羽隼兵訳、1987年7月第六刷」から



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