十八史略を読む-Ⅲー136-宋6-自滅への道
文帝はやがて太子の劉劭(りゅうしょう)に殺害された。すると、その弟の劉駿が挙兵して劉劭を殺して帝位についた。これが孝武帝である。孝武帝は猜疑心が強く、肉親を多く殺したが、この傾向は、その子、前廃帝子業(しぎょう)に至って極点に達した。
そこで叔父の劉(りゅういく)は、窮余の策として子業を暗殺し、帝位についた。これが明帝である。だがその明帝もまた猜疑心のとりことなり、即位の後、前廃帝の兄弟の生き残りをことごとく殺害した。孝武帝の子は28人にたというが、ここで完全に根絶やしにされたのである。だが血で血を洗う陰惨な地獄絵巻は、まだ完結したわけではなかった。
後廃帝、名は(いく)。明帝には子がなかったため、寵臣李道児の子をわが子とした。それがである。明帝は一族の王十数名を殺害したが、それはひとえに太子の将来を案じたからに他ならない。
後廃帝が即位したのは、十歳の時である。その翌年、叔父に当たる桂陽王劉休範(りゅうきゅうはん)が反乱を起こし、国都建康へ攻め寄せた。蕭道成が将軍として迎え撃ち、劉休範を斬り殺して、その功により領軍将軍となった。
さて、後廃帝は手のつけようのない無軌道ぶりで、見境なく人を殺しては、それを無上の楽しみとする。宮廷の内外を問わず、人々は恐怖におののいた。
蕭道成は意を決して、重臣の袁粲(えんさん)と鎭淵(ちょえん)に、皇帝廃立の相談を持ちかけた。袁粲は反対だったが、鎭淵の賛同を得て、ついに皇帝の殺害が決行された。
「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から
一日殺さざれば惨然として楽しまず:「資治通鑑」には後廃帝の無軌道ぶりが書かれている。帝は従者はもとより自らもかなづち、のみ、のこぎりの類の凶器を携行し、行き会うものは人間であろうと動物であろうと見境なく殺戮した。気に入らないものがあるとたちまちのうちに八つ裂きにしてしまう。殺しをやらなかった日はむっつりと不機嫌である。皇太后がくれた扇が気にくわないと言って毒を盛ろうとしたこともあったという。
そしてこんなこともあった。
夏の昼下がり、蕭道成が上半身裸で昼寝をしているところへ、踏み込んできて、「その太鼓腹を弓の的にさせろ」と言ってきかない。生母の陳夫人から。「道成を殺してしまったら、だれがお前を守ってくれるのですか!」と叱りつけられて、どうにかおさまったものの、このことが、蕭道成に弑逆(しいぎゃく)を決意させる直接のきっかけになったのである。
文帝はやがて太子の劉劭(りゅうしょう)に殺害された。すると、その弟の劉駿が挙兵して劉劭を殺して帝位についた。これが孝武帝である。孝武帝は猜疑心が強く、肉親を多く殺したが、この傾向は、その子、前廃帝子業(しぎょう)に至って極点に達した。
そこで叔父の劉(りゅういく)は、窮余の策として子業を暗殺し、帝位についた。これが明帝である。だがその明帝もまた猜疑心のとりことなり、即位の後、前廃帝の兄弟の生き残りをことごとく殺害した。孝武帝の子は28人にたというが、ここで完全に根絶やしにされたのである。だが血で血を洗う陰惨な地獄絵巻は、まだ完結したわけではなかった。
後廃帝、名は(いく)。明帝には子がなかったため、寵臣李道児の子をわが子とした。それがである。明帝は一族の王十数名を殺害したが、それはひとえに太子の将来を案じたからに他ならない。
後廃帝が即位したのは、十歳の時である。その翌年、叔父に当たる桂陽王劉休範(りゅうきゅうはん)が反乱を起こし、国都建康へ攻め寄せた。蕭道成が将軍として迎え撃ち、劉休範を斬り殺して、その功により領軍将軍となった。
さて、後廃帝は手のつけようのない無軌道ぶりで、見境なく人を殺しては、それを無上の楽しみとする。宮廷の内外を問わず、人々は恐怖におののいた。
蕭道成は意を決して、重臣の袁粲(えんさん)と鎭淵(ちょえん)に、皇帝廃立の相談を持ちかけた。袁粲は反対だったが、鎭淵の賛同を得て、ついに皇帝の殺害が決行された。
「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から
一日殺さざれば惨然として楽しまず:「資治通鑑」には後廃帝の無軌道ぶりが書かれている。帝は従者はもとより自らもかなづち、のみ、のこぎりの類の凶器を携行し、行き会うものは人間であろうと動物であろうと見境なく殺戮した。気に入らないものがあるとたちまちのうちに八つ裂きにしてしまう。殺しをやらなかった日はむっつりと不機嫌である。皇太后がくれた扇が気にくわないと言って毒を盛ろうとしたこともあったという。
そしてこんなこともあった。
夏の昼下がり、蕭道成が上半身裸で昼寝をしているところへ、踏み込んできて、「その太鼓腹を弓の的にさせろ」と言ってきかない。生母の陳夫人から。「道成を殺してしまったら、だれがお前を守ってくれるのですか!」と叱りつけられて、どうにかおさまったものの、このことが、蕭道成に弑逆(しいぎゃく)を決意させる直接のきっかけになったのである。