凡凡「趣味の玉手箱」

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自滅への道

2006-07-29 05:23:19 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー136-宋6-自滅への道



文帝はやがて太子の劉劭(りゅうしょう)に殺害された。すると、その弟の劉駿が挙兵して劉劭を殺して帝位についた。これが孝武帝である。孝武帝は猜疑心が強く、肉親を多く殺したが、この傾向は、その子、前廃帝子業(しぎょう)に至って極点に達した。
そこで叔父の劉(りゅういく)は、窮余の策として子業を暗殺し、帝位についた。これが明帝である。だがその明帝もまた猜疑心のとりことなり、即位の後、前廃帝の兄弟の生き残りをことごとく殺害した。孝武帝の子は28人にたというが、ここで完全に根絶やしにされたのである。だが血で血を洗う陰惨な地獄絵巻は、まだ完結したわけではなかった。




後廃帝、名は(いく)。明帝には子がなかったため、寵臣李道児の子をわが子とした。それがである。明帝は一族の王十数名を殺害したが、それはひとえに太子の将来を案じたからに他ならない。
後廃帝が即位したのは、十歳の時である。その翌年、叔父に当たる桂陽王劉休範(りゅうきゅうはん)が反乱を起こし、国都建康へ攻め寄せた。蕭道成が将軍として迎え撃ち、劉休範を斬り殺して、その功により領軍将軍となった。




さて、後廃帝は手のつけようのない無軌道ぶりで、見境なく人を殺しては、それを無上の楽しみとする。宮廷の内外を問わず、人々は恐怖におののいた。
蕭道成は意を決して、重臣の袁粲(えんさん)と鎭淵(ちょえん)に、皇帝廃立の相談を持ちかけた。袁粲は反対だったが、鎭淵の賛同を得て、ついに皇帝の殺害が決行された。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




一日殺さざれば惨然として楽しまず:「資治通鑑」には後廃帝の無軌道ぶりが書かれている。帝は従者はもとより自らもかなづち、のみ、のこぎりの類の凶器を携行し、行き会うものは人間であろうと動物であろうと見境なく殺戮した。気に入らないものがあるとたちまちのうちに八つ裂きにしてしまう。殺しをやらなかった日はむっつりと不機嫌である。皇太后がくれた扇が気にくわないと言って毒を盛ろうとしたこともあったという。
そしてこんなこともあった。
夏の昼下がり、蕭道成が上半身裸で昼寝をしているところへ、踏み込んできて、「その太鼓腹を弓の的にさせろ」と言ってきかない。生母の陳夫人から。「道成を殺してしまったら、だれがお前を守ってくれるのですか!」と叱りつけられて、どうにかおさまったものの、このことが、蕭道成に弑逆(しいぎゃく)を決意させる直接のきっかけになったのである。

春燕材木に巣くう-文帝の後悔

2006-07-29 05:22:00 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー135-宋5-春燕材木に巣くう-文帝の後悔



宋朝時代の皇帝のうちで、最も名君と言われたのが第三代の文帝で、その治世は年号をとって“元嘉の治”と称された。この小康状態を一挙に覆したのが、北魏の侵攻である。
北魏は漢人宰相崔浩の意見によって、宋との全面戦争はさし控えてきたが、崔浩刑死ののち、一転して積極策に転じ、太武帝みずから大軍を率いて、揚子江の北岸に殺到した。




文帝は石頭城に登り、北の方を眺めやって、深い吐息をもらした。
「ああ、檀道済が生きていたなら、こんな憂き目は見ずにすんだものを!」
檀道済は武帝以来の功臣で、百戦錬磨の勇将だったが、久しい以前に讒言によって処刑されたのである。そのさい、道済は眼をらんらんと見開き、頭巾を地べたに叩きつけて、こう叫んだものだった。
「おんみらは、万里の長城をこわそうとするのか!」




道済死すと聞いた北魏の君臣は「これで宋にこわい者はいなくなった」と言って、喜びあったという。




かくて北魏の軍は、宋の領内深く侵入してきた。宋の側ではこれに対して手の施しようがない。敵は眼にふれる青壮年の男を片っ端から斬り殺し、赤児は赤児で矛の先に突き通し、グルグルとまわしておもしろがるなど、略奪暴行の限りを尽くして北方へ去っていった。彼らが通過した後は、まるで焼け跡のように一物も残らず、翌春にツバメが帰ってきても巣をかける家がないので、木々の梢に巣を営む有様だったという。




文帝の即位以来28年間は、まずまず平穏無事といわれていたものだが、この戦禍によって都市も農村もすっかり荒れ果て、せっかくの“元嘉の治”も台無しになってしまった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



そういえば燕が木に巣を作るというのは聞いたことがない。

国の恥をかくさず

2006-07-29 05:20:52 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー134-宋4-国の恥をかくさず



北魏では、司徒(三公の一、丞相に相当する)の崔浩(さいこう)が誅殺された。




崔浩は。先代明元帝の時代にすでに帷幄の臣となり、ことごとに大功をたてた。道士の寇謙之(こうけんし)を信じ、太武帝を道教の信仰に引き入れて、天師道場を建立させた。しかも、根っからの仏教嫌いときていたため、帝に進言して僧侶を皆殺しにし、仏像や経文をことごとく破棄させた。




やがて、太武帝の命によって国史編集の責任者となったが、王家の先祖の事績を記録するにあたって、その蛮行をありのままに叙し、石に刻んで街の辻辻に建てた。これが出身者の怒りを買い、崔浩は国の恥をことさらに宣伝しようとしている、との非難が集中した。太武帝は激怒して裁判にかけ、ついに一家皆殺しの結果となったのである。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




漢民族の名家の出身であった崔浩は、北魏王朝の中国かを推し進めた第一の功労者といわれている。彼は当代きっての儒者であり、事実を曲げるなどと言うことは許さなかったようである。その彼が仏教をなぜ弾圧して、道教という怪しげな土俗信仰を信じたのか。道教はそもそも漢民族の固有の宗教であり、仏教はあくまでも外来宗教であるという意識が働いていたのかもしれない。なお、十八史略で仏教が登場してきたのはここが初めてだと思う。

殺された山水詩人

2006-07-29 05:19:52 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー133-宋3-殺された山水詩人



謝霊運が、反逆のかどによって死罪に処せられた。
彼は山水を跋渉することを好み、数百名に上る従者を引き連れて、各地の山林を伐採しては小道を開いてまわった。そのため事情を知らぬ民衆が、山賊と間違えて騒ぎ立てるというような事態もあった。そればかりか、たまたま謝霊運と敵対関係にあった某が、これを口実に、彼に反逆の下心ありと訴え出た。




文帝は、謝霊運の陳弁を聞いて許し、改めて臨川郡の知事に任命した。ところがその行楽癖は改まらず、郡政をなおざりにしたため、司直の取り調べを受けることになった。彼は兵を挙げて追及の手を逃れ、
魯仲連は秦の帝号に怒り
張良は韓の滅びしときに起つ
と歌って、不服従の意志をあらわに示したが、ついに生け捕りになって広州に送られ、屍を市中にさらしたのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




*この詩は自身を魯仲連・張良に擬し、晋の遺臣として宋に従うことのないことを示したものである。


帰りなんいざ-陶淵明

2006-07-29 05:18:40 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー132-宋2-帰りなんいざ-陶淵明



晋代以来の隠士、陶潜(とうせん)が亡くなった。




陶潜、字は淵明(えんめい)、潯陽(じんよう)の出身で陶侃の曾孫に当たり、若い頃から高邁な精神の持ち主であった。彭沢(ほうたく)県の県令となって八十余日。たまたま郡の監督官が視察にまわってきた。下役人の説明によると、礼装して出迎えなければならぬということである。陶潜はつくづくと嘆息した。
「わずかばかりのサラリーのために、田舎者にまでペコペコしなければならぬとは」
彼は即日、県令の印綬を返還し、「帰去来の辞」と「五柳先生伝」をつくって、二度と官途につこうとしなかった。




陶潜は、先祖が晋室の重臣であったため、宋王朝の威令が高まってのちも、けっして仕官しようとせず、そのまま世を去ったのである。世人は、その清潔な生涯を讃え、「清節先生」という呼び名を贈った。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




大蛇を撃つ-高祖の生いたち

2006-07-29 05:17:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー131-宋1-大蛇を撃つ-高祖の生いたち



宋の高祖武帝、姓は劉、名は裕。彭城の出身である。一説に、漢の高祖の弟で楚の元王となった劉交(りゅうこう)の後裔にあたるという。



劉裕が生まれた当時、一家は北方からの流れ者として京口に仮住まいしていた。
生後まもなく母を失い、始末に困った父親がすんでのところで捨てようとしたのを、おばに救われてその手で育った。
武勇に優れ、野望に燃える男として成長したが、学問はなく、ろくに字も知らなかった。幼名を寄奴(きど)と呼び、次のような話が伝えられている。



ある時、道を歩いていて大蛇に出くわし、手傷を負わせて追い払った。しばらくして、同じ場所を通りかかると、子供たちがしきりと薬草を調合している。
「どうしたんだい」とたずねると、
「王様が劉寄奴というやつに怪我をさせられたのだ」という返事である。
「だったら、その男をやっつけてしまえよ」
「駄目です。寄奴は天下になる人物ですから、とてもかないません」
そこで大声を上げて怒鳴りつけると、子供たちはたちまち消えてなくなった。



劉裕は、まず劉牢之(りゅうろうし)の軍に幕僚として入った。



孫恩の軍と戦ったときのこと、たまたま敵情偵察に出て、賊軍数千に包囲されてしまった。彼はただ一人長剣をふるって立ち向かい、しゃにむに戦っているところへ援軍が駆けつけて、さんざんに敵を蹴散らしたものだった。劉裕は、これによって一躍天下に名を上げた。
その後、将軍、宰相を歴任すること20余年、桓玄を誅し、孫恩、廬循の一党を平定し、南燕、後秦の両国を滅ぼし、ついに晋室の禅譲を受けて、宋王朝を開いたのである。



「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



南朝と北朝

2006-07-29 05:15:06 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー130-南朝と北朝



南朝は,王統を晋から宋に伝え、宋は斉に、斉は梁に伝え、梁は陳へ伝えた。
北朝は北魏が諸国を統一したときに始まった。北魏はのちに分裂して西魏、東魏の両国となり、王統は西魏から後周(こうしゅう)へ、東魏から北斉(ほくせい)に伝えられたが、やがて後周が北斉を併合し、さらに王統を隋へと伝えた。その隋が陳を滅ぼして、ついに南北統一を実現するに至るのである。いま、南北朝の歴史を概観するにあたって、南朝を正統とした記述を進め、その間に北朝の動きを挿入する




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



東晋の滅亡

2006-07-29 05:13:49 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー129-皇帝を増やしておいて――東晋の滅亡



劉裕は相国、宋公となり、さらに九錫の栄誉をも手に入れた。あと残すは帝位のみである。予言の書を調べたところ、「孝武帝(安帝の父)の子孫が、あとふたり帝位を継ぐ」とあった。そこで手を回して安帝を扼殺させ、その弟瑯や王を帝位につけた。これが恭帝である。



恭帝、名は徳文。即位の翌年、劉裕は宋王となり、彭城から寿陽へと根拠地を移した。その翌年、劉裕が入京すると、恭帝は帝位を譲って臣籍に降ったが、やがて劉裕の手によって殺された。



東晋は、元帝から恭帝に至るまで11代104年。西晋から通算して156年で滅びた(西暦420年)わけである。



恭帝は兄の安帝と違って賢明な天子だったという。禅譲の詔書は、帝自ら筆をとって「晋室の天下は、すでに桓公に奪われてしまっていたのを劉公の尽力で20年延長させてもらった。これを思えば譲位は当然の措置である」



帝の最後の場面は次のように伝えられている。
退位ののちも、皇后は帝のみに危険が及ぶのを警戒して、常に帝のそばを離れず、飲食物の一切は自分がすべて整えて供した。劉裕は一策を案じ、皇后の兄たちに命じて皇后を別室に呼び出させて、そのすきに刑吏が侵入して帝に毒薬を飲むように強要した。帝は「仏教では、自殺者は畜生に身を落とすことになっている」といって、どうしても飲もうとしない。こうしてついに刑吏の手によって殺された。(資治通鑑)



劉裕は禅譲を受けておきながら、前帝を無慈悲にも殺してしまった。これはそれまでに前例のない暴挙であったという。劉裕にしてみれば、子孫のために敵を一人でも多く取り除いておきたいという親心であったかもしれない。だが、このあさはかな親心が、やがて子孫の上にはね返り、禅譲とそれに続く前亭殺害という定式が、南北朝の歴史を一層陰惨に彩ることになるわけである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



北方にはとどまれぬ

2006-07-29 05:12:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー128-北方にはとどまれぬ



夏(か)の王赫連勃勃は、劉裕の後秦出兵の知らせを耳にしたとき、「劉裕が関中を占領するのは間違いない。だがいつまでも北方にとどまってはいられまい。さればといって自分の代わりに子供や部下に守らせようとすれば、関中はゴミでも拾うようにたやすくわしのものになるだろう」と言った。



劉裕がいよいよ本国に引き揚げようとすると、土地の長老たちは軍門を訪れて涙ながらにかき口説くのであった。
「私どもは、もう百年もの間、夷狄の支配下にありました。いま、やっとのことで昔懐かしい衣冠に接し、お互い心の底から喜びあっておりますのに、殿様は、その私どもを見捨てようとなさるのですか」



劉裕は彭城に帰還した。赫連勃勃はさっそく長安を陥れて皇帝と自称したが、長安を都とはせず、従来からの国都統万城(とうまんじょう)へ引き上げた。統万城を離れることは北方種族の隣国の強敵である北魏にすきを見せることになるからであった。彼が危惧したとおり、子の赫連昌の代になって、夏は北魏に滅ぼされることになる。



「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から



中原回復成る

2006-07-29 05:10:47 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー127-中原回復成る



皇帝が復位したとはいうものの、白痴とあっては、いないも同然である。
劉裕はいまや東晋の最高権力者であった。しかし彼は、性急に帝位を要求しようとはしない。桓玄の二の舞を演じぬ為には、事前に揺るぎのない人気を獲得しておかねばならぬ。そのためには、今まで誰も果たすことのできなかった中原の回復を実現することである。さいわい、前秦の符堅が倒れたあと、中原は四分五裂の状態にあった。



晋が南燕に出兵した。南燕では、王の慕容徳が死んで、その兄の子慕容超(ぼようちょう)があとを継ぎ、晋の国境地帯を荒らした。劉裕は、これを口実に南燕征討を上奏し、反対を押し切って出兵したのである。劉裕の軍は南燕の国都広固(こうこ)を陥落させ、慕容超を捕虜とし、建康に送って斬った。かくて南燕は滅亡した。



さて、いったん鳴りをひそめていた廬循の一党は、劉裕が北伐に出たすきを狙って番錵(ばんぐう)から北上し、いっきょに揚子江を下って国都建康へと押し寄せた。劉裕は召還されて急ぎ兵を返し、力戦奮闘の末、反乱軍を撃退した。さらにそのまま手をゆるめずに追撃戦を展開し、その根拠地を壊滅させた。廬循は交州(こうしゅう:今のベトナム)にまで落ちのびたが、その地に駐屯する政府軍と戦って敗死した。廬循の首は建康へ送られた。



やがて後秦の王姚興(ようこう)が死去し、子の姚泓(ようおう)があとを継ぐと、劉裕は直ちに征討の兵を起こした。晋軍は彭城(ほうじょう)を出発してまず洛陽を占領し、武関、潼(どう)関を突破して、ついに長安に入城した。後秦王姚泓は降伏し、建康に送られてそこで斬られた。かくて後秦は滅亡したのである。



「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から