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義和団、外国侵略者に抵抗する

2006-01-28 12:16:07 | 読書備忘録
中国の歴史:中国小学校社会教科書⑥ 義和団、外国侵略者に抵抗する

アヘン戦争以降、西方列強の侵略勢力は我が国の内地に進入した。外国の宣教師は不平等条約をかさにきて、我が国の各地でのさばり、田畑や家屋を占拠して、人民のこの上ない恨みと強烈な抵抗を引き起こした。轟々(ごうごう)たる義和団の帝国主義に反対する運動が爆発した。

義和団は主に貧困な農民と各種の職人(大工、石工など)からなる、外国侵略者に抵抗する民間の組織である。義和団の将兵の多くの人はすぐれた武術を身につけていた。義和団はまず山東で蜂起した。彼らは太刀、長い矛、棍棒などの武器を持って悪事の限りを尽くす教徒(キリスト教徒)と、教会とぐるになって悪事を働く悪玉の親分を攻撃した。義和団は広範な農民に積極的に擁護されて、勢力はたちまち北京、天津地区にまで発展した。

義和団運動の発展は、西方列強を大いに狼狽させた。1900年、イギリス、ロシア、日本、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアの八カ国は公使館保護を理由に、八カ国侵略連合軍を組織して、天津から北京に向かって侵犯し、義和団の勇敢な抵抗に遭遇した。

1900年6月11日午後、一隊の八カ国連合軍が“落はつ”駅で、義和団が破壊した線路を大急ぎで修理していた。突然、大勢の頭を赤い布で縛った義和団の兵士が、手に太刀、長い矛を持って突撃してきた。八カ国連合はたちまち蜂の巣をつついたように乱れて、廊坊駅に隠れた。義和団は廊坊駅を四方から包囲した。14日早朝、八カ国連合軍を乗せた汽車が、集中した火力に援護されて、包囲を突破しようと企てたが、義和団に勇敢に阻止されて、やむなく退却した。数日が過ぎこの八カ国連合軍は弾が尽き食料がなくなったので、再び包囲突破を強行した。しかし、駅を出たとたんに、義和団と一部の愛国的な清軍の包囲攻撃にあった。戦闘は2時間余り続き、多くの敵を殲滅した。残った八カ国連合は25日になってやっと天津に逃げ戻った。この戦役は廊坊の大勝利と称されている。

廊坊の大勝利の後、八カ国連合軍はさらに多くの兵力をかき集めて、1900年8月北京を占領した。慈禧太后は光緒皇帝を連れてあわてふためいて逃げ去った。逃げ去る途中で、侵略軍のご機嫌を取るためになんと義和団を攻めるように命令した。義和団は勇敢に戦ったが、無残にも敗北した。

八カ国連合軍は北京を占領すると、焼く、殺す、略奪と悪の限りを尽くした。彼らは清朝政府の銭の倉庫、銀の倉庫を略奪し、清の宮殿の洗いざらい略奪した。運ぶことのできる金銀財宝、文物書画はすべてすっかり持ち去られた。宮殿の門の外の大きな水瓶に張られた金箔さえも、貪欲な侵略者に剥がされて持ち去られた。八カ国連合は北京で公然と数日間略奪し、北京駐在の外国公使たちも略奪に加わった。財物を奪い取ると、侵略者たちは火を放って証拠を湮滅(いんめつ)した。一時期、北京中で火の手があちこち起き、濃い煙が逆巻いていた。

1901年イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの11カ国の列強が清朝に迫って主権を失う国辱的な辛丑(しんちゅう)条約を締結した。条約は清朝政府に4.5億両の白銀の賠償金を要求した。1900年は旧暦の庚子の年に当たるので、この賠償金は庚子賠償金と称される。

書名:中国の歴史:中国小学校社会教科書
監修・訳:小島晋治
訳:大沼正博
発行所:明石書店
発行年:2000年11月10日

上記は、ほぼ教科書そのままの文章です。中国が列強に蹂躙されつつある時に、その外国勢力に猛然と向かっていった農民中心の軍団である義和団を賞賛しています。冒頭の部分で「悪事の限りを尽くす教徒(キリスト教徒)と、教会と“ぐる”になって悪事を働く悪玉の親分を攻撃」とありますが、この部分を読んだキリスト教徒はどう思うでしょうか。中国人の愛国心を高揚させようという中国政府の意図が随所に認められるような気がします。ロシアなどを含む八カ国連合の寄せ集めの軍ですから軍の規律も緩いといった一面はあったのかもしれませんが少々誇張しすぎている感がなくもありません。昨日の毎日新聞に「中山大学の袁偉時教授が執筆した論文「現代化と歴史教科書」1900年の義和団事件についてで「義和団が現代文明を敵視し,排外主義を取っていた」と説明し、義和団メンバーが外国人計231人を殺害するなどの残虐行為を行っていた」という記事が掲載されていました。大学の先生が執筆した論文ですから、おそらく史実に基づいて指摘されたものと思います。



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