凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

病膏肓に入る

2006-04-27 16:48:33 | 中国のことわざ
中国のことわざ-200 病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)

広辞苑によれば、“①不治の病にかかる。また、病気が重くなって治る見込みが立たないようになる②転じて、悪癖や弊害などが手のつけられないほどになる。また、物事に熱中してどうしようもないほどの状態になる”とある。

膏は心臓の下の部分の脂肪、肓は横隔膜であわせて人体の奥深い部分である。ともかくこのようなところが病気になれば不治とされた。

話は春秋時代、中原に位置した大国晋の景公にまつわる。

ある夜、景公は大きな幽霊に追いかけられた。追いかけながら「よくもおれの子孫を殺してくれたな。今こそ天帝の許しを得てお前の命を取りに来た」と叫んでいる。景公は恐ろしさの余り目をさました。考えてみると10年前に、臣下の大臣が政敵一族を大逆罪で皆殺しにしたが、あれは無実であった。景公はそのたたりに違いないと、夢占いに占ってもらった。

すると、「公は今年取れる新麦を召し上がれる時期が来るまでに命を落とすに違いありません」とのご託宣である。ために景公は重い病についてしまった。

晋の西隣の大国秦に高緩(こうかん)という名医がいた。臣下が手を尽くした結果、高緩は景公を診察することに合意した。数日高緩が診察に来ることを心待ちにしているうち、景公は再び夢を見た。

夢には二人の童士が現れた。どうやら、病気の化身らしく会話をしている。「あの高緩というのは相当な名医だというから、来ればたちまち僕たちは痛めつけられ体の外につまみ出されるであろう。どうすればいいだろうか」と一人が言うと、もう一人が答える。

膏の上、肓の下の間の隙間に潜り込んでしまえば、名医といえどもどうしようもあるまいと言うのである。

やがて高緩が着いて景公を診ると、こう診断した。

体の奥の肓と膏の間を病んでいるのだから、手の下しようがない、お手上げだというのである。

景公はお人好しであったようで、まさに夢を見たとおりに診断されたことに感じ入り、「これぞ名医よ」と言って、何もしなかった高緩に厚く礼物を贈って帰した。

高緩が帰ると不思議なことに、快方に向かい、新麦の季節がやってきて、新麦が景公に供された。景公は短気であったようで、「嘘つきめ、わしは新麦が食べられるぞ」と言い、先の夢占い師を斬罪に処した。さて、新麦を口に食べようとしたときに、にわかに腹痛を起こした。慌てて厠に駆け込んだところ、めまいがして足を踏み外し厠の穴に落ち込み、糞にまみれて命を絶ったという。

田川さんはこれを以て糞死と呼んでいる?

出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事、人生篇、日本放送出版、1990年

*病”こうもう”という人がいますがこれは間違いだそうです。”こうこう”です。


轍を踏む

2006-04-26 07:36:12 | 中国のことわざ
中国のことわざ-199 轍を踏む(てつをふむ)

「轍を踏む」を広辞苑で調べると、”失敗を繰り返す。また、前人の陥ったと同じ失敗を後人がする”という意味である。

これは、「前車の轍(わだち)」、より短くは「覆轍(ふくてつ)」という成語によっている。

前漢初期の文人政治家の賈誼(かぎ)が、時勢を憂えて、皇帝に奉った文章に「前車の覆る(くつがえる)は後車の戒め」ということわざを引いている。

前の車がひっくり返れば、後の車にとって、警告となる。

賈誼はこれを歴史事実に結びつけて、「秦の世が絶えてしまったしまったわけは、その轍の跡を見て確認できます。なのにそれを避けなければ、後の車も覆ってしまうでしょう」

以前、私が函谷関を訪れたとき、ガイドさんからこの道は西安まで続いていると教えてもらったことがある。それは馬車が充分通れる道であった。前の日に雨が降って、道は所々、ぬかるみであった。こういう状況の時、黄土の泥土に深く刻まれた轍は、後から来る車にはレールの役割を果たしたのだろう。

轍にちなむ別の成語に轍鮒の急(てっぷのきゅう)がある。広辞苑によれば”さし迫った危険・困窮”とある。

「荘子」の著者である荘周が道を歩いていると、轍の水たまりにいる鮒(ふな)に呼び止められた。

「どうか手桶一杯の水を恵んで私を救ってください」

「よし、これから長江に行くから、此所までその水を引いて、君を迎えるようにしよう」

すると、鮒は憤然として

「冗談じゃないよ。私は今すぐ手桶一杯の水が必要なのに、そんな悠長なことを言っておられますか」

「荘子」外物篇に見える寓話という。

出典:広辞苑、日本経済新聞4月23日朝刊、漢字コトバ散策


仁義ある戦い

2006-04-26 07:34:51 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-82 仁義ある戦い

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

武帝は、呉を攻め滅ぼす為の布石として”羊こ”を荊州の軍司令官に任命した。呉もこれに対抗して、陸抗(りくこう)に軍をお預けた。

ところが、”羊こ”と陸抗とは、国境を挟んで相対峙しながら、互いによしみを通じ合っている。”羊こ”は、陸抗から贈られてきた酒を疑いもせずに飲んだものだし、陸抗も、病気の際に見舞いとして”羊こ”から届けられた薬をためらわずに服用してこう言った。

「羊どのは、人を毒殺するようなけちな男ではない」

”羊こ”は、呉の人々の反感を買うまいとして人道主義を堅く貫き、戦闘に入る場合にもあらかじめ日時を通告して、けっして奇襲をかけるような真似はしなかった。

陸抗の側でも、麾下の各部隊に、戦闘にあたっては敵を撃退するにとどめ、積極的な手出しをせぬように、との方針を徹底させていた。

*”羊こ”は平和論者だったわけでなく、対呉戦略として呉の人の信望を掴むことが大事だと思ってこのような策に出たという。陸抗は業を煮やした呉王の詰問状に以下のような返書を送っている。
「村里一つ治めるにも信義は大切、まして大国ならなおさらのことです。もしも和賀郡が今の方針を捨ててしまったなら、いたずらに敵に名をなさしめるのみとなりましょう」

いかにも大陸的な味わいがありますね。


忍び寄る影

2006-04-26 07:33:42 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-81 忍び寄る影

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

西晋の世祖武帝、姓は司馬、名は炎。河内(かだい)の出身である。司馬昭の子で、司馬懿(しばい)には孫に当たる。

立ち上がれば、髪は地上に垂れ、手は膝まで届くという異形の人物であった。

父が晋王となって、だれを世子に建てるかが問題となった折、重臣たちは司馬炎が凡人の相でないことを理由に、一致して彼を推薦した。

やがて父の後を受けて王になり、ついで皇帝の位につくと、一族をことごとく王に封じた上、祖父の司馬懿には宣帝、叔父の司馬師には景帝、父の司馬昭には文帝の諡を追贈した。

桂林ツアー総集編

2006-04-25 07:24:57 | 写真で綴る中国旅行
中国フォト-広州・桂林-38 総集編

4月6日~9日にかけての広州・桂林ツアーの総集編です。

今回は3泊4日のツアーに参加しました。

自分なりにハイライト部分と思ったパートを取り上げます。

1 漓江下り:桂林を訪れて漓江下りをしない人はいないでしょう。当日は早朝雷が轟き、心配されましたが、幸い薄曇り、桂林の景色を見るならこれほどのコンディションはなかったでしょう。山水画の風景を堪能できました。

2 冠岩にある鍾乳洞:漓江下りの途中下船して見学しました。その規模にびっくり。なにしろ鍾乳洞の中にはエレベーターがあり、川が流れ、滝が落ち、小船が用意され、トロッコ電車まであるのですから。きらびやかにライトアップされた鍾乳洞内は幻想的な雰囲気を醸し出していました。

3 陽朔:漓江下りの終着点です。奇怪な形の峰峰をバックに中国の古い街並みを残した落ち着いた街です。ゆっくり一泊して散策したい場所です。30分しか時間がなかったのが残念でした。

4 象鼻山: 桂林のシンボルです。長い鼻を水に差し入れた形をしています。かつて桂林に現れた大きな象が背中を剣で刺されたため、石に変わったという伝説もあるそうです。頂上には明代に作られた普賢塔が聳え立っています。

5 七星公園:広大な公園です。早朝ホテルから散歩した公園内に2000点近い碑刻がある桂海碑林が特に印象に残りました。ツアーで訪れた公園は広大で、中には鍾乳洞まであるそうです。ゆっくり散策したい場所でした。虎の背中に乗っての記念撮影も行われていました。中国ならではの光景でした。

6 桂林の夜景:派手にライトアップされていました。4つの湖と川を船で巡りました

7 少数民族の踊り:棚田や桂林の峰をバックにした芸術的な舞踊を鑑賞しました。

8 広東料理:毎昼、毎晩が中華料理でした。どこで食べたものも日本人の口に合っていて美味しかったです。ただ炒飯は日本の方が美味しかったです。

一生の思い出となる旅行でした。次ぎに訪れる機会があるなら、個人旅行に挑戦したいと思っています。

終わり

蜀、滅びる

2006-04-24 05:38:22 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-80 蜀、滅びる

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

熾烈を極めた三国の興亡も、263年に蜀が滅んで、終息を告げる。呉は7年後に滅び、天下は司馬氏によって統一された。

蜀側では、まさか魏の兵がこれほどのスピードで攻め入ってくるとは夢想だにしなかったため、防備を怠っていた。もはや手だてはないと知って、帝は使者に印綬を奉じさせて、降伏を申し入れた。

皇子の北地王“じん”が顔を真っ赤にして抗議した。

「戦い利あらずして、国の滅亡が決まった以上、父子君臣はすべて城を背にして撃って出て、社稷に殉じ、先帝にまみえてしかるべきです。降伏とは何事ですか」

しかし帝は聞き入れなかった。

皇子は昭烈帝の廟に詣でて哭泣したあと、妻子を殺して自害した。

“とうがい”の率いる魏軍が成都に到着すると、帝は城を出て降伏した。魏は帝を、安楽公に封じた。

西漢の高帝元年乙未の歳から、後帝禅の炎興葵未(えんこうきび)の歳まで、26代、469年にして、漢は滅んだ。

呉王休(きゅう)が没した。諡は景帝。兄の子、鳥程(うてい)侯皓(こう)が即位した。

魏の司馬昭は、当時すでに九錫を受けていて、まもなく晋王となった。司馬昭が死ぬと、子の司馬炎があとを嗣いだ。魏王奐は、定位を僭(せん)称六年であった。
司馬炎は、魏王に禅譲を迫って、王を陳留王に落とした。死後、王は元と諡された。魏は、曹丕の即位から曹奐まで、五世、46年にして滅んだ。

漢が滅んで以降、甲申(こうしん)の歳を経て晋が興るまで、一年間は正統の天子がいなかった。


左顧右眄

2006-04-24 05:36:33 | 中国のことわざ
中国のことわざ-198 左顧右眄(さこうべん)

日本では右顧左眄(うこさべん)というのが一般的である。広辞苑によれば、「人の思惑など周囲の様子を窺ってばかりいて決断をためらうこと」とある。

これは明の傑出した文芸評論家李贅の「孔明、後主の為に申韓管六韜(しんかんかんりくとう)を写す」という文章の中に出てくる語である。孔明は諸葛亮孔明、後主は劉備を嗣いだ凡庸な劉禅に対して知謀の臣であった諸葛亮孔明が古来の賢者の書を筆写して奉り、あわせて諫めたというのである。

前をみ、後をおもんばかり、左顧右眄して自らすでに一定の学術なし

前を見たり、後ろを気にしたり、つまりは左顧右眄して、自分が堅持すべき学問を持たないというのであり、これに続いて、そんなことでは他日の成功を望むことはできない、と述べている。

こうして、この語は否定的に使われ、それが日本にも伝わっているが、もともとはそうではなかったという。三国志は魏の詩人曹植の書に左顧右眄が登場しているのだが、そこでは人を見下し辺りを払って、君子の盛んな志のようなものと否定的には使われていない。同じように李白の詩にも左顧右眄がみられるがここでも左顧右眄すればあたるに光を放つようだと言い、悠揚迫らず辺りを払う様と使われている。

このように、時代によって同じ語でも解釈が変わってくること、日本では右顧左眄といい中国では左顧右眄というのも”左遷”と同様面白い。

いろいろな解釈が出てきたが、左顧右眄とは「あちこち左右の情勢を見やり、ぐずぐずと決断しない様」をいう。

出典:広辞苑、田川純三著、中国名言故事・人生篇、日本放送出版(1990年)


左遷

2006-04-22 07:14:30 | 中国のことわざ
中国のことわざ-197 左遷

広辞苑によれば高い官職から低い官職に落とすことを左遷という。また、官位を低くして遠地に赴任させること。左降。「閑職に左遷される」などと使う。

それではなぜ右遷でなくて左遷なのか。

この左遷ということばが見られるのは漢の時代なのだが、当時はの中国では右を尊び、左を卑しむ習慣があったところから左遷となったようだ。確かに漢の時代は右を尊んだのだが、時代によって右を尊ぶのか左を尊ぶのかは変遷したという。

戦国時代から秦・漢までは右が、漢と唐の間の六朝時代には張儀では左、宴席では右が、唐・宋では左が、元では右が、明・清では左がそれぞれ尊ばれていたという。

六朝時代であったなら右遷ということになったのだろう。

さて、秦を破って、ほぼ勝利を収めた項羽は戦に参加した諸将を各地の王に封じた。項羽と後に争い漢王朝を建てた劉邦もその一人であった。劉邦は関中(かんちゅう;陝西省南部)の王に封ぜられた。
だが、その地は項羽の本拠である楚からは遠く離れている。

そこで劉邦に付き従っていた韓王信が言った。

「項王、諸将を近地に王とし、而して王独り遠く此(ここ)に居す。此れ左遷なり」
項羽は諸将を自分の身のまわり地の王としたが、ひとり漢王(劉邦)だけはこんな遠い地に置いた。

これは左遷だというわけである。

左遷されて、泣き寝入りしたり、やけ酒を飲み愚痴を言っているわけにはいかない。反撃すべきである。韓王信の策はこうであった。

劉邦の軍の兵はみな山東(陝西省河南省境の要害函谷関以東)の出身で、みなそちらに帰ることをのぞんでいる。その勢いを利用して東に項羽を攻めれば、勝利間違いなしというのである。

こうして、劉邦は関中から東にうって出て、ついに項羽を破り天下に覇を唱えて漢王朝の始祖となったのである。

出典:広辞苑、田川純三著、中国名言故事・人生篇、日本放送出版(1990年)


虎の威を仮る

2006-04-22 07:13:35 | 中国のことわざ
中国のことわざ-196 虎の威を仮る

仮虎威

他人の権勢や力を借り、背景にして、自分は実力がないのに威張るたとえである。こういうつまらぬ者を虎の威を仮る狐という。

この句は戦国時代の楚の大臣、江乙(こういつ)が宣王に語った寓話によっている。楚は長江流域をおさめ戦国諸国の中でも強い勢力を保っていたが、その中でも貴族が権勢を誇っていた。

特に昭奚恤(しょうけいじゅつ)という大貴族が強力で、北方諸国は宣王を恐れるのではなくて昭奚恤を恐れるが故に楚を恐れるという噂が流れていた。

そこである日宣王は大臣たちに聞いた。

「北方諸国はひたすら昭奚恤を恐れているそうだが本当か」こう聞かれた大臣たちは下手に答えようなら自分の身を危うくすると思って皆押し黙っていた。

すると江乙が寓話を以て答えた。

「ある日、虎が狐を捕らえて食べようとしました。狐は『天帝から自分は百獣の長とされています。自分を食えば、あなたは天帝の命に逆らうことになります。嘘だと思うなら、私があなたの前に立って歩いてゆきましょう。あなたは獣が逃げてゆくのを見るでしょう』虎はなるほどと思って実際にそのようにして歩いてみました。すると、獣たちは狐が言ったとおり皆逃げてゆきました。しかし、これは獣たちが逃げているのは虎の自分を見て逃げているのだと言うことをわからず、狐を恐れているものと思い違いをしただけです。さて、今、宣王の地は方五千里にも及び、兵力も百万を数えていますが、これをもっぱら昭奚恤に委ねています。それ故、北方が昭奚恤を恐れるというのは、実は王の兵力を恐れているのです。百獣がキツネでではなく虎を恐れたのと同じことです」

出典:田川純三著、中国名言・故事、人生篇,日本放送出版協会、1990年6月20日発行



蝸角の争い

2006-04-22 07:12:22 | 中国のことわざ
中国のことわざ-195 蝸角の争い(かかくのあらそい)

日本では蝸牛(かぎゅう)角上の争いが一般的である。

広辞苑によれば「大局から見ると意味のないような小さいことがらで争うこと。些細な争いや,取るに足らない細かい議論をいう。また、宇宙の悠久無限に対して人間世界が微少であることにもたとえる」とある。

この名句は紀元前7世紀、戦国時代戴晋人(たいしんじん)という賢者が梁の恵王に語った寓話から出ており出典は「荘子」の「則陽篇」。

梁の恵王は斉の威王の約束違反に怒って、出兵しようとし臣下にはかったが議論百出してなかなかまとまらない。そこで恵王は戴晋人を召しだして意見をたずねると、それには直接答えないで寓話を持ち出した。

「蝸牛の左の角に触氏という国があり、右の角に蛮氏という国があって、ある時、両国は土地をめぐって争った。そのため屍が数万にも及び、互いに北方に逃げるものを追って、15日ほどしてやっと引き返す有様だった」

“北方に追う”というのは斉の都である“臨し”(山東省)が梁の都、開封(河南省)の北にあることから出したのであろう。

それに気づいたかどうか、この話を聞いた梁の恵王は「実にばかばかしい争いだ」と一笑に付した。

そこで戴晋人は間髪を入れず、広大な天地、永遠の時の流れからすれば、地上の国と国の争いなど取るに足りない無用のことであり、梁が斉を討つことなど、まるで触と蛮が「蝸牛角上の争い」をするのと同じだ、と言ったというのである。

こうして梁王は斉を討つことをやめた。

出典:田川純三著、中国名言・故事、人生篇,日本放送出版協会、1990年6月20日発行

*古今東西つまらない争いごとは一の時代に於いてもおこるものですが、争いごとに巻き込まれる前に少しでもこの成句を思い出すゆとりがあれば争いごとは減るでしょうに。

*田川純三氏はこの寓話は、人間的な分別や作為を捨てて自然本来の姿に立ち返り、万物平等たる荘子の真骨頂を示すものと記しています。