凡凡「趣味の玉手箱」

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中国名言・故事 人生篇

2006-02-28 17:24:50 | 中国のことわざ
以前、同じ著者による歴史編を紹介したがこれは人生編である。

60の名言のタイトルが目次に示されているが、実際には(数えてはいないが)おそらく倍の100程度の名言が収められているだろう。

私もこの書から抜粋させてもらって、ブログで紹介させていただいている。

取り上げている名言を以下に挙げておきましょう。
1 兄弟牆にせめげども、外其の務りを禦ぐ
2 竹馬の友
3 季布に二諾無し
4 哀哀たる父母、我を生みて劬労す
5 邯鄲の夢
6 少年老い易く学成り難し
7 韋編三たび絶つ
8 牛に汗せしめ、棟に充たしむ
9 切磋琢磨
10 龍門に登る
11 青は藍より出でて、藍より青し
12 先ず隗より始めよ
13 三舎を避く
14 石に漱ぎ流れに枕す
15 顰に効う
16 前車の轍
17 羮に懲りて膾を吹く
18 小心翼翼
19 匹夫の勇
20 龍を描いて睛を点じる
21 蛇足
22 智者も千慮の一失あり
23 琴瑟相和す
24 偕老同穴
25 月下氷人
26 巫山の雲雨(ふざんのうんう)
27 忠言は耳に逆らえども行いに利あり
28 折檻
29 彼も人なり、予も人なり
30 山雨来らんと欲して風楼に満つ
31 蝸角の争い
32 衣食足りて栄辱を知る
33 羊頭狗肉
34 天網恢恢、疎にして漏らさず
35 瓜田に履を納れず
36 渇すれども盗泉の水は飲まず
37 天知る、地知る、我知る、子知る
38 虎の威を仮る
39 五斗米のために腰を折らず
40 左遷
41 左顧右眄
42 門前雀羅張る
43 禍福は糾える縄の如し
44 覆水盆に返らず
45 今朝酒有らば今朝酔わん
46 一片の氷心、玉壺に在り
47 隴を得て蜀を望む
48 病膏肓に入る
49 城を傾け国を傾ける
50 歓楽極まりて哀情多し
51 刮目して相看る
52 河海は細流を択ばず
53 桃李言わざれども下自ずから蹊を成す
54 泰斗
55 人生七十古来希なり
56 老いては子に従え
57 白髪三千丈
58 青山骨を埋むべし
59 愚公山を移す
60 棺を蓋いて事定まる

著者:田川純三
題名:中国名言・故事 人生篇
発行:日本放送出版協会
発行日:1990年6月20日





琴瑟相和す

2006-02-28 17:15:11 | 中国のことわざ
中国のことわざ-144 琴瑟相和す(きんしつあいわす)

琴瑟相和

琴は五弦、七弦などの普通の琴。「瑟」は大型の琴で、古代には50弦のものもあったという。

琴と瑟とを弾じてその音がよくあう。転じて、夫婦間の相和して睦まじいたとえ。

出典は詩経の「常棣」の一節である。

妻子 好合し(こうごうし)
琴瑟 鼓(こ)するが如し

「好合」はなかむつまじいの意であるが、これに続けて、

兄弟 既に翕い(あい)
和楽 且つ湛しむ(たのしむ)
とある。つまり、妻子、兄弟が和して楽しむのであり、一家の和合を歌い上げたものだが、今ではもっぱら夫婦和合の意味で使われている。

この「琴瑟相和す」の反対で夫婦が相和さないのが「琴瑟整わず」である。これは前漢王朝を大帝国に築きあげた武帝が賢良の儒者として重用された董仲舒(とうちゅうじょ)が、世の乱れ、人道の頽廃を正すべき策を下問されたことにこたえた策文(さくもん)の中に出てくる語である。

この世の中では,善く治めようとしてもどうにもならない。これをたとえてみれば「琴瑟不調」、琴瑟が整わないのと同じで、それがひどくなればこれを一度分解して張り直してこそ、弾くことができる。

董仲舒は乱世のたとえとして使ったのであるが、「琴瑟相和す」を知っての上で使ったものであり、「琴瑟 鼓(こ)するが如し」との対語として、夫婦仲の悪いこと、そりの合わぬことのたとえとなったのである。

今日、夫婦離婚の理由に「性格の不一致」があげられるが、その語のもとになった故事を互いに知り合っていれば、それがきっかけで「琴瑟相和す」ことになり、元の鞘に治まる可能性がある。

こうしてこのメイクは世の荒波を経験して愛を貫いた夫婦にふさわしく、祝辞としてならば銀婚式の席上でということになる。

もちろん、結婚式の祝辞のスピーチとしても使うことができ、「これからの長い人生を「琴瑟相和し」て進まれてゆくことでしょう」といった用法になる。

最近では長い同棲生活を経た後にゴールインするカップルや中には子ずれの新郎新婦と言うことがあるので、結婚式の祝辞でもそのまま使っても違和感がないかもしれないと田川純三氏は結んでいる。

*田川純三著の中国名言・故事 人生篇 日本放送出版協会 1990年6月20日を要約したものです。


偕老同穴

2006-02-28 12:21:59 | 中国のことわざ
中国のことわざ-143 偕老同穴(かいろうどうけつ)

広辞苑によれば、生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる意で、夫婦が仲睦まじく連れ添うことである。

日本には、同じような意味で「おまえ百まで、わしゃ99まで、ともに白髪の生えるまで」という諺がある。

偕老同穴は詩経の詩句の中に見られる。

まず「偕老」は出征した兵士が戦場での苦労と悲しみを歌い、その中から故郷の妻を思う歌。
死ぬも生きるも共に苦労すること、そしてともに死ぬまで老いることも、互いに手をとって誓い合ったものだ。それなのに、今は遠く引き離されて会うこともできない。偕老の誓いも空しくなってしまった。なんと悲しいことかというのである。

「洞穴」の方も同じく詩経、王風の「大車」に見られる。生きては添いとげらず、一緒に暮らすことはできないけれども、死んだら同じ穴に葬られましょう。そして、輝く太陽のような無垢な心で、その誓いを立てましょう。

こうして結婚した男女は「偕老同穴の契り」を結んだということで、祝福されるのである。

なお、広辞苑によれば、別の意味で、偕老同穴はカイロウドウケツ科の六放海綿類の一群でもある。単体にして円筒状、広い胃腔を持つ海綿は胃腔の中にドウケツエビがすんでいて、多くは雌雄一対がいることからこの名が付いたようである。

出典:出典:広辞苑十八史略(東漢)、田川純三著 中国名言・故事 人生編 日本放送出版協会 1990年6月20日

*最近、夫と同じ墓には入りたくないという女性が増えているとか。主な理由は、舅とは一緒にいたくないということです。「あなたが先に往っても私はあなたと一緒じゃ嫌よ。私、別のお墓に入るわよ」なんて言われないように日頃から心しておきましょう。


小心翼翼

2006-02-28 07:15:42 | 中国のことわざ
中国のことわざ-142 小心翼翼(しょうしんよくよく)

気が小さくびくびくしている様を言う。

なまじ、故事に詳しい人が、上司に向かって「あなたはじつに小心翼翼としたお方です」と言ったら、今ではとばされること必定ですよ。

「詩経」を読んでいる人が、このような取り返しのつかないコトバを口にしてしまう可能性が大いにあるということです。

というのも、「詩経 大明」の一節の文王(周王朝)を讃える歌で、賞賛の言葉として使われていたからです。

維此文王 
小心翼翼
昭事上帝
聿懐多福

維(こ)れ此(こ)の文王
小心翼翼
昭(あき)らかに上帝に事(つか)え
聿(ここ)に多福を懐(おも)う

「上帝」は天帝の意で、それに仕えるというのは天道に従って徳を積み身を修めることであり、それによって人民の幸福に思いを致している。そのことに常に「小心翼翼」としているというのです。

「小心」とは隅々まで気配りすることで、現代中国語で「小心」といえば「注意する」「留意する」ことだそうです。例えば「小心健康」といえば、健康に留意すると言うことになります。

「翼翼」は万事に慎み深く事にあたることを言います。

こうして、「小心翼翼」は「すみずみまで心配りをして、万事に慎み深い」と有徳の帝王を称揚する後でした。

それが、転じて、「大事な仕事を任せてみたものの、あんなに小心翼翼の臆病者とは知らなかった」というような使われ方になってしまいました。

ご注意を!

出典:広辞苑十八史略(東漢)、田川純三著 中国名言・故事 人生編 日本放送出版協会 1990年6月20日、詩経(大雅、大明)


車輪を埋めた男

2006-02-28 06:28:42 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-36 車輪を埋めた男

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

順帝の皇后の父梁商が大将軍に任じられた。死後、子の梁冀(りょうき)が大将軍となり、梁冀の弟の不疑が河南の長官に任じられた。

中央政府から使者8人を派遣して、各州郡を巡視させることになった。その使者の一人に張綱という臣下が任命されたが、彼は使者の乗る馬車のわだちを外して、洛陽の宿場茶屋の土中に埋めてしまった。

「山犬やオオカミが中央の要路にのさばっているのに、地方のキツネやタヌキを調べたところでどうなるというのか」

そして、梁氏兄弟の、主君を主君とも思わぬ野望十五ヵ条を列挙した弾劾文を上奏した。順帝は、張綱の意見が事実を言い当てていると思いながらも、採択することができなかった。

梁冀は張綱の失脚を謀った。その頃、広陵の張嬰(ちょうえい)という賊が、10年以上にわたって揚州、徐州一帯を荒らし回っていた。これに目を付けた彼は、張綱を広陵の知事に任命した。

広陵に赴任した張綱は、すぐさま単身車を駆って、張嬰の本拠地に乗り込んだ。そして彼と膝をつき合わせて、その不明を諄々と説いた。その結果、張嬰を初め賊徒一万名以上が、その場で降伏を申し出た。その日張綱は、賊の陣中に入って酒宴を張ったあと、全員を釈放してそれぞれ故郷へ引き取らせた。

これで南方の諸州は、治安を取り戻した。張綱が任地の広陵で死ぬと、張嬰らは喪服をまとってその死を悼んだという。


天知る、地知る、子知る、我知る

2006-02-27 14:56:26 | 中国のことわざ
中国のことわざ-141 天知る、地知る、子知る、我知る


天知、地知、子知、我知、何謂無知

広辞苑によれば、隠し事は必ず露顕するものであるということ。

これは後漢書楊震伝に基づく故事からで「楊震の四知」として知られる。

後漢の安帝の臣に楊震という人物がいた。

西暦110年東莱郡(山東省東部)の長官に任じられた。赴任の途中、昌邑という町を通ったところ、県令の王密というものが、夜、楊震の宿舎をたずねてきて、懐から金十斤を取りだして楊震にさしだした。昌邑は東莱郡の一県であったから、王密にとって、楊震は新任の上司と言うことになる。今までの慣例に従って王密は、賄賂を送って、「何事もどうぞ宜しく」ということであった。

ところが楊震は「関西の孔子」と呼ばれたくらいの清廉高潔な人物であった。

楊震は言った。「友人があなたのことを知っていて、あなたが友人のことを知らないーこれはそれと同じようなことで、何たることをするのですか」

王密は答えた。「今はもう夜ですし、このことは誰も見ていないし、知るところではありません」

それに対する楊震の答えが「天知る、地知る、子知る、我知る。なんぞ知るもの無しと謂わんや」

「天は気づいておるし、地がきづいておる。君も気づいておるし、わしも気づいておる。どうして誰も気づいていないなどと言えるのだ」と言ったのである。

県令の王密はは、顔を赤らめてコソコソと引き下がった。

楊震はやがて大尉にのぼる。皇帝直近の三公のうちの主席官である。時に安帝の乳母“王聖”の奢侈横暴が目に余った。ために、楊震はたびたび安帝に上書して諫めたが、かえって樊豊(はんほう)の讒言にあい、蜀を免ぜられる。そしてなお、諫めるべく、自らの命を絶ったという。

*現在ではこれに隠しカメラそしてメールが加わり、カメラ知る、メール知るとなりますかね。

*冗談はともかく、政治家も企業人も皆、この「楊震の四知」を熟知した上で、行動してもらいたいものです。

出典:広辞苑十八史略(東漢)、田川純三著 中国名言・故事 人生編 日本放送出版協会 1990年6月20日


人衆ければ天に勝ち、天定まりてまたよく人を破る

2006-02-27 07:29:16 | 中国のことわざ
中国のことわざ-140 人衆ければ(おおければ)天に勝ち、天定まりてまたよく人を破る

人間が大勢で凶暴な振る舞いに及べば一時は天に勝つこともできるが、やがて天道が定まれば、結局は滅ぼされてしまうものだ

この語源となった話は「死屍に鞭うつ」と同じく、史記の「伍子胥伝」にある。

伍子胥の楚の時代、ともに平王に仕えて親交のあった人物に申包胥(しんほうしょ)というものがいた。

彼はずっと楚にあって、に仕えていたが、伍子胥が平王の屍に鞭うった事を聞いて、使いを送り、あなたの復讐のしかたはあんまりだと批判した。

「人衆ければ天に勝ち、天定まりて亦た能く人を破る」

人の数が多く勢いの盛んなときには、天道にそむく非道も勝つことができる。しかし、ひとたび天道が回復すれば、多勢の非道は天道によって必ず罰せられ破られるものだ、というものである。

これに対して伍子胥は使者に向かって、

「申包胥に伝えてほしい。“日暮れて途遠し、手段を選んでいる暇はない”とな」
と語ったという。

出典:田川純三著、中国名言・故事、歴史篇、日本放送出版協会、1990年6月20日発行、司馬遷、史記[別巻]史記小辞典、徳間書店、1988年11月30日第二版第一刷


所得:水、年齢など意味は幅広い

2006-02-27 07:26:54 | 中国のことわざ
中国のことわざ-139 所得というコトバ

興膳宏さんの漢字コトバ散策は所得である。

所得は広辞苑によれば、①得るところのもの。得て自分の所有となるもの(左伝襄公十九年)②収入・利益③経済用語で“何らかの形で生産活動に参加した生産要素に対して支払われる報酬。俸給・賃金・地代・家賃・利子・利潤など”とある。

一般的には、英語の“income”に相当する収入のことと思っている。

漢語としての元の意味は①の得るところのものであって、その対象は時と場合によって変貌自在であるそうだ。

四方上下をさまよう魂への呼びかけからなる古代詩歌「楚辞」の「招魂」の中で西方の場面には次の一節がある。

其の土は人を爛れさせ
水を求むるも得る所無し

西方の土地は人の身体を焼き尽くしてしまうほど熱く、水がほしくてもどこにも手に入らない。

この場合の「得る所」は水である。

一方、白居易が47歳の時作った「浩歌行」という詩には、こんな句が見える。

顔回は短命にして伯夷は餓う
我の今得し所は亦た已に多し

孔子の優れた門弟だった顔回は若死にし、賢人伯夷は飢え死にした。彼らに比べると自分の47歳という年齢は十分に多い。この「得し所」は年である。

漢訳仏典にも「所得」が良く用いられるがその多くは心の中に得た知識や認識を意味する。「法華経」方便品に、「諸仏は得し所の法を、無量の方便力もて、衆生の為に説く」とあるのは悟り得た真理の意である。

長い時代を通じて用いられている内に、「所得」の「得た所」はいつの間にか金銭に落ち着いてしまったと興膳氏は結ぶ。

出典:日本経済新聞2月26日朝刊の漢字コトバ散策、広辞苑


一を聞いていくつを悟るか

2006-02-27 07:24:40 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-35 一を聞いていくつを悟るか

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

尚書令(秘書官長、実質上の宰相)の左雄が、郡国に命令して孝廉の士を推挙させる制度を奏上して、採用された。その規定はこうである。

年齢は40歳以上とし、経書の章句に通じている書生及び上奏文の書ける役人ならすべて応募資格があった。ただし、特に抜きんでた秀才で、顔回や子奇のような人物は年齢の如何を問わなかった。

この制度を推進した左雄はすべてに公正で、また政務に通じていた。人物の真偽を見抜く眼識を備え、他からの圧力によって妥協するようなマネはしなかった。

あるとき、まだ青二才に過ぎない者を考廉として推挙した郡知事があった。彼はその少年を呼びつけて、こう決めつけた。
「顔回は一を聞いて十を悟ったと言うが、おまえなら一を聞いていくつを悟るか」

このように厳正であったから、考廉の推挙をいいかげんにやったために免官となった役人が十数名に上った。こうして厳しい選定を受けて汝南の陳蕃ら30名が郎中(宿英衛侍従の官で幹部候補生)に取り立てられた。


壟断というコトバ

2006-02-26 21:09:57 | 中国のことわざ
中国のことわざ-138 壟断というコトバ

拙ブログ「十八史略-Ⅲ-133 外戚と宦官」に"後漢王朝を滅亡に導いた一因が外戚の壟断(ろうだん)"という記事があって、壟断という私にとっては耳慣れないコトバが出てきましたので、広辞苑で調べてみました。

① 断ち切ったように高くそびえたところ
② ある男が市が立つたびに高いところを探して昇り、市場を見渡して安いものを買い占め高い値で売りつけて、市場の利益を独占した故事から、うまく利益を独占すること。ひとりじめ。

出典:広辞苑、孟子