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中国名言・故事 歴史編

2006-01-17 21:05:39 | 中国のことわざ
中国名言・故事 歴史編

殷から南宋が元に滅ぼされる時代の名言・故事60を解説している。

年代を追って名言・故事を取り上げているので、歴史編のタイトルが示すとおり、中国史の理解にも役立つ。著者が訪れた 土地の印象も書かれており、また李白や杜甫の漢詩も顔を出すので楽しい。

この本で紹介された四字熟語をいかに列記しておこう。

「酒池肉林」:豪遊のたとえ
「呉越同舟」:仲の悪いもの、敵対するものが同じ仕事をしたり環境をともにするたとえ
「臥薪嘗胆」:仇を討つために艱難辛苦を重ねる
「合従連衡」:外交上の駆け引き、また連合したり同盟したりして勢力を伸ばすこと
「鶏鳴狗盗」:物まねやこそ泥のようなくだらない技能の持ち主。また、くだらない技能でも役に立つことがあるというたとえ
「傍若無人」:周囲に気兼ねせず気ままに振る舞うこと
「刀爼魚肉」:まな板の上に載せられ今にも料理されようとしている魚や肉。死に瀕した絶体絶命の危険にさらされているたとえ
「国士無双」:一国中に並ぶ者がいないほど優れた男の意
「四面楚歌」:周り中敵に取り囲まれた孤立無援の様
「捲土重来」:一度敗れたものが再起する
「夜郎自大」:世間知らずで自分だけ力があるとして尊大に振る舞う事「曲学阿世」:真理を求むべき学の道を曲げて世の大勢にこびへつらい人気を取ろうとすること
「桃園結儀」:堅い義兄弟の約束を結ぶたとえ
「赤壁鏖兵」:激しい戦い、戦いの激しさをあらわす
「尽忠報国」:忠義を尽くして国恩に報いる。また、それほどの忠節を尽くすこと。
「風声鶴唳」:僅かなことにも恐れおののく、臆病者のたとえ

「明眸皓歯」:明るい瞳に白い歯、美人の形容

本のタイトル:中国名言・故事 歴史編
著者:田川純三、
発行所:日本放送出版協会、
発行日:1990年6月20日発行から

「正史はいかに書かれてきたか」中国の歴史書を読み解く

2006-01-17 20:04:47 | 中国知っ得情報
中国で正史とされているのは「春秋」から始まり「明史」に至るまでの24史である。

本著ではこれらの歴史書がどのような経過で書かれてきたかを明らかにしている。

私が読んで面白かった4テーマについて簡単にまとめておく。

1 「呂后」についての「史記」と「漢書」での扱いについて
呂后については、人ブタで紹介したとおりの女性であるが、高祖亡き後、わが息子である恵帝に代わって実権を握り、漢帝国を治めた女性である。史記において、呂后は王あるいは皇帝として天下を治めた人物についての伝記である本紀に収まっている。「呂后本紀」である。この中で人ブタ事件もきちんと記述されている。

一方の漢書はどうであろうか。漢書は「斑固」が司馬遷の「史記」を強く意識して、その続編として書こうとしたようであり、形式的にも史記をほぼ踏襲している。形式上からいうと漢書にも史記同様に本紀、遊侠列伝、貨殖列伝も存在する。

ところが人ブタ事件について、漢書では本紀で全く扱われていない。漢書では「外戚伝」に記されている。呂后の残虐行為が記されている位置が史記と異なっているのである。本紀はもちろん史記でも漢書でも最初の位置に置かれる。漢書で呂后の残虐行為を本紀に載せなかったのはあるいは漢の王朝への配慮があったかもしれない。

2 三国志に於ける曹操、劉備、孫権の位置づけ
正史「三国志」は陳寿によって記された本である。「三国志」は後漢王朝が内部崩壊し、群雄たちが覇を競い合う2世紀末から始まり、後漢が滅んで中国は魏・呉・蜀の三つの国に分かれ、これらが再び晋として統一される3世紀の終わり頃までを扱っている。曹操の子である曹丕(そうひ)が、後漢最後の皇帝の献帝から位を奪って魏王朝を開くと、呉と蜀でも孫権や劉備が相次いで即位し、この時代、中国には三人の皇帝がいたことになる。しかし、中国には「天に二日なく、地に二王なし」といういわば信念があって、同時に三人の皇帝が存在することなど本来あってはならないことである。一方、たとえ国が三つに分裂していようが、由緒正しい「天下人」たる資格は誰かに必ず受け継がれているはずという信念もまたある。

結局、「三国志」もこの三人の中で一人を正しい皇帝におく必要があった。陳寿の三国志は、魏を正しい王朝として認め、呉と魏については正当なる皇帝とは認めないという立場を取ったのである。三国志では曹操のことは「太祖武皇帝」と称し続けている。劉備は先主とずっと称される。孫権に至ってはいきなり姓名と字を記されているのみである。このように三人は三国志の中で呼び名の面で差別待遇されているのである。

3 反乱者を歴史書がどのように見るか(太平天国の乱の首謀者洪秀全)
太平天国は洪秀全によって19世紀半ばに起こった乱である。この洪秀全に対する評価が「清史稿」と「清史」とでは全く異なっている。「清史稿」は1914年に中華民国政府が北京に清史館を設け、清朝の遺臣たちを集めて編纂させたものである。この「清史稿」の巻475,列伝262が洪秀全の伝になっている。ここで彼は反逆者の烙印を押されている。

一方の清史は清朝に対する革命(辛亥革命)によって成立した中華民国、それを正当に受けている合法的政権を自認する台湾の中華民国政府が、中華民国開国50年記念事業として企画し、1961年台北の国防研究院によって出版されたものである。清史では「清史稿」とは全く対照的な記述となっている。すなわち、洪秀全を民族革命の英雄として持ち上げているのだ。清史は洪秀全を「清史稿」の記述をほぼひっくり返している。

4 北魏と国史事件
トルコ系遊牧民の非漢民族である鮮卑族によって439年河北を統一して北魏王朝が設立された。北魏王(大武帝)は鮮卑族であったが、中国的国家体制を採用し、政治の中枢にも漢民族出身者を置いた。なかでも崔宏(さいこう)が特に信任されていた。大武帝は自らの即位以来の征服の実録並びに北魏建国の歴史を編纂させることにし、その責任者に崔宏を任じた。彼は早速国史をまとめ、石に刻み都の街頭に並べておいた。するとこれが大問題となる。国史の記述の中に、鮮卑族を侮辱した記述があるという。特に北魏王朝成立以前の鮮卑族の生活・文化状況に関する記事がひどかったらしく、国史を読んだ鮮卑族がみな憤慨し大武帝に訴え出る。大武帝も激怒して、せっかく完成した国史をただちに廃棄させるとともに崔宏を処刑した。さらに編纂に関わった128人とその家族なども皆誅殺してしまったという。今となっては国史も失われ、なぜ鮮卑族が問題にしたかはっきりとは判らないが、鮮卑族には以下のような習俗があったようである。
・ 若者を尊敬し、老人を軽蔑する
・ 性質は乱暴で、起これば父や兄を殺すが、母は決して殺さない。(母には里方があるので復讐されるおそれがある)
・ 文書はない(つまり文字はない)
・ 結婚は、まず恋仲になって,男は女をさらって連れ去り、半年か百日経ってから仲人を立てて、馬・牛・羊を贈って結納の品とする。
・ 皆、頭を剃っている
・ 父や兄が死ぬと、継母や兄嫁と結婚する
・ 人が死ぬと、死んですぐは泣くが、葬式では歌ったり踊ったりして送り出す。
編纂に携わった人の中には気のきく鮮卑族がいなかったのだろうか。いればこのような悲劇は起きなかっただろうに。貴重な人材が意半ばで誅殺されたり貴重な正史がなくなったことは大変残念なことである。

タイトル:「正史はいかに書かれてきたか」中国の歴史書を読み解く
著者:竹内康浩
出版社:大修館書店
発行日:2002年6月10日

なぜ人ブタなのか

2006-01-17 20:01:01 | 中国知っ得情報
以前から威(せき)夫人のことを呂后が“人ブタ”と呼んだのか不思議に思っていた。まずは“人ブタ”事件をおさらいしてみよう。

漢の高祖劉邦が亡くなった後、政治の実権は呂后(皇太后となって呂太后)に握られた。

呂太后はわが手をまず威夫人とその子如意の血で染める。威夫人は高祖が漢王になった頃に山東省から来た姫である。高祖に寵愛されて、趙の如意を生んだ。高祖は自分と呂太后の間にできた子の恵帝よりも如意が自分に似ていると思い、常に太子である恵帝を廃して如意を太子に変えようと思っていた。

高祖が亡くなって、恵帝が即位した年、呂太后は威夫人の子、趙王如意に鴆毒(ちんどく:鴆は鳥の名で、この鳥の羽を酒にひたせば猛毒になるという。古来お家騒動に付き物の毒薬)を盛って殺害した。

さらに威夫人の手足を切り落とし、眼をえぐり、耳を焼き切り、薬で喉をつぶした。そして便所の中に捨てて、「人ブタ」と名付けた。

呂太后は恵帝を呼んで「人ブタ」を見せた。恵帝はそれが威夫人であると知るや、愕然とし激しく慟哭した。ついにそのまま寝付き、一年余りも回復しなかった。

これが、有名な人ブタ事件である。さてここで、「戚夫人を便所において、なぜ人ブタなのか」という疑問が起こる。また、用を足そうとする人以外の存在(人であれ、動物であれ)が便所の中にいることはあり得ないから(トイレは完全個室だろうから)わざわざ呂太后に案内される前に何か動いたら、恵帝もすぐ気づいたはずであろう。

この解が病院で読んだ本の中で見いだされたのである。解決の糸口はトイレの構造にあった。

図を見ていただきたい。上に小屋があって、人はその中で用を足す。人が排泄したものはスロープをコロコロと落ちて、四角く囲まれた柵内にブタが飼われていて、人の排泄物を食べて太ってゆくという非常に簡単な構図になっている。そして太ったブタを人間が食べてまたそのブタを人間が食べてという循環型社会がここに実現していたそうだ。

そう、戚夫人がいたのはトイレの中ではなくてブタの柵の中だったのだ。それで戚夫人のことを人ブタと呼んだわけである。これで合点。

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/15011569.html

参考:竹内康浩著、「正史はいかに書かれてきたか」、大修館書店、2002年6月10日発行

秦の始皇帝祖母の墓か

2006-01-17 19:57:52 | 中国関連ニュース
中国陝西省考古学研究所が11日長安市の長安区で南北550m、東西310mに渡る秦代の陵墓としては最大規模の陵墓を発見と報じた。

陵墓は溝で囲まれ、四方を挟んだ壁にはそれぞれ門が設けられている。墓室は南北28m、東西29mの大きさで、中から玉を使った装飾品などが発見されたという。

陝西省考古学研究所は始皇帝(BC259-BC210年)の祖母の墓である可能性が高いとしている。

日本経済新聞1月12日朝刊から