凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

河海は細流を択ばず

2006-08-26 07:15:27 | 中国のことわざ
中国のことわざ-278 河海は細流を択ばず(えらばず) 


中国でただ河といえば、黄河を指す。黄河のような大河、そして黄河が注ぐ大海はどんな小さな流れをもえらばずに併せ呑むという意味で「戦国策」ではこのあとに「故に能く(よく)其の深きを就す(なす)」と続いている。
すべての細流を呑み込むから、あれだけの深さと大きさが出来上がるということで、人間も度量と包容力を大きくすれば、大人物になれるという意である。


これは秦の始皇帝の時代に宰相になった李斯(りし)のコトバである。
始皇帝がまだ天下統一をはかる前に彼は他の戦国諸国への対策を献じて大臣に登用された。李斯はもともと楚の人であり、他国のもとで大臣に登用されたものは客卿(かくけい)と称された。
始皇帝の親族や秦出身の大臣はよそ者がのさばるのは面白くない。
そこで、客卿を追放しようという「逐客(ちくかく)の令」が献策された。


すると李斯は始皇帝に上書して意見を具申した。
そんなことをすれば敵国の利になるだけで、大国秦を損なうというのだ。
要旨はこうだ。「土地広ければ穀物多く産し、領土広ければ人多く集まる。今、賓客を逐えば(おえば)他国の諸侯に仕え、秦に立ち向かわん。それ敵に武器を送り、盗人に食を与えんとする策なり」
この説得の中核に使った言葉が「太山(泰山)土壌を譲らざるを以て故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に以て能く其の深きを就す」というのである。


詳しくは下記をご参照ください
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/10039725.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/10039652.html


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日

刮目して相看る

2006-08-26 07:14:30 | 中国のことわざ
中国のことわざ-277 刮目して相看る(かつもくしてあいみる) 


刮目はかっと目を見開くこと。相手の変わり様に、その顔をしっかりと見直すこと。
良く変わる、進歩することのたとえである。


原典は三国志で「士、別れて三日なれば即ちまさに刮目して相待つべし」から生まれている。
これの意味するところは“男たる者別れて三日経ってみると、その進歩の大きさに目を見張るものがある”である。
関連するコトバとして以前紹介した「呉下の阿蒙」があります。下記をご参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/30626081.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/30513870.html


話は呉の孫権の勇将呂蒙にまつわる。呂蒙は、十五歳にして野戦に参加、しばしば奇計をもって戦功を上げ、野戦軍の副将軍に昇進した。
だが、彼の生家は貧しく、為に勉学の機会がなかったため、文字の読み書きができず、孫権に対する報告も口頭でしかできなかった。


ある日、孫権は呂蒙に言った。「君は軍事を管掌しているからには勉強しなければいけない。そうしてこそ、見識が増え思案、作戦にも筋が通る」
だが、孫権は答えた。
「軍事多忙で、時間がありません」
すると孫権は
「なんだと!君は私より忙しいというのかね。わしは若いときにも勉強したが、今日、統率者になってもなお「史記」「漢書」などの史書や「孫子」など兵法を読んで勉強している。君はそんなに若いのに、どうして勉強しないのか」


こうして呂蒙は大いに発奮し、日中はむろん、しばしば深夜に至るまで読書に励んだ。
数年して知謀の名将とうたわれた魯粛(ろしゅく)が呂蒙の営地を過ぎるとき、一日立ち寄って互いに蜀将関羽対策について語り合った。すると呂蒙は関羽と自軍の形勢について明確に分析し、見事な対策を提案したのである。
呂蒙はもはや武勇一辺倒の武将ではなく、一人の知謀にたけた将軍になっていたのである。魯粛はかっと目を見開いて、呂蒙の顔を改めて見直し、驚嘆の声を上げた。


「吾れ謂うに(おもうに)大弟はただ武略あるのみと。今に至れば、学識英博にして、また呉下の阿蒙に非ず」阿蒙の阿は若いときの呂蒙に対する愛称で、呂蒙ちゃんというニュアンスである。魯粛のコトバに対する呂蒙の発言が
「士、別れて三日なれば即ちまさに刮目して相待つべし」であった。
やがて呂蒙は関羽を麦城で大いに破り荊州を回復するという功績をあげている。


魯粛に対する呂蒙のコトバから「刮目相看」という四字成語が生まれ、現代中国でも使われているそうだ。意味は全く日本と同じである。


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日

先憂後楽

2006-08-26 07:13:26 | 中国のことわざ
中国のことわざ-276 先憂後楽 


広辞苑によれば(天下の安危について)人より先に憂え、人よりあとに楽しむこととあります。


盛唐の大詩人杜甫による「岳陽楼に登る」という有名な詩がありますね。
この岳陽楼は洞庭湖の東北にあり、宋の時代1054年に修復されました。
その時に、宋の武将の范仲淹(はんちゅうえん)が「岳陽楼記」を石に刻みました。
范仲淹はしばしば宋を侵した西夏から恐れられた武将で、そこに刻まれた文章は彼の為政者(政治家)としての自分を良く表しています。


先憂後楽の元になったものは以下の文です
「先天下憂而憂 後天下楽而楽」


石に刻まれてている文の内容を以下に示しましょう。
「朝廷で高い位にいるときは、天下の人民のことを心配し、官を退いて遠く民間にいるときは、その主君のことを心配する。進むときにも退くときにも心配をする。それならばいつ心を楽しませるのか。きっと『天下人民の心配事があるときは必ず前もって心配し、天下泰平で人民が楽しむときは、人民におくれて楽しむ』のに違いない」


これは為政者にとって、民衆が安心して生活できるようになってはじめて楽しむことができるということで、仁者・志士というものは、国家・民衆のことを先にして、自分のことは後回しにするものだという范仲淹の心構えが良く出ている文です。


出典:広辞苑、多久弘一、故事成語で中国を読む、筑摩書房、1997年8月25日発行




岡山県にある後楽園の“後楽”の名前の由来は「先憂後楽」から取ったのかもしれません?というのはホームページによれば、ここを開いた池田光政は儒教による仁政を理想とし儒学を修めた君主という記述があったからです。
http://www.okayama-korakuen.jp/history/history_top.htm

西施の顰に効う

2006-08-26 07:12:21 | 中国のことわざ
中国のことわざ-203-2 西施の顰に効う(せいしのひそみにならう)



以前取り上げた「顰に効う」と同じ意味です。

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/34420881.html

「顰(ひそみ)」とは眉をひそめることです。

人まねをして失敗すること。むやみにまねをすることでしたね。


西施(せいし)は春秋時代の越(浙江省)の美人です。
西施が胸を病んで実家に帰ってきました。咳が出るので、そのたびに眉を顰め(ひそめ)ました。まあ、それが何とも言いようのない風情で、それを見た村の人々はなんと美しいと感嘆の声を上げたものでした。

それを見た醜女が「それでは私も」と胸を押さえて真似をして眉を顰めたそうです。それはとても見られたものではありません。
「これはたまらん」と村の金持ちは豪壮な門を固く閉ざして外に出ようとせず、家に閉じこもってしまったそうです。
また、貧しい村人は妻子ともども逃げ出してしまいました。

こうして「西施の顰みに倣う」は人のさる真似をするという意味になったそうです。


西施は中国4大美人の一人で、グラマーといわれている楊貴妃と異なり、窈窕嬋娟(ようちょうせんけん:身ごなしがたおやかでなよなよしてあでやか)の美人であったのではないでしょうか。それは浙江省から近い美人の産地といわれる蘇州にいる美人が風にも堪えぬという身ごなし、仕草、言葉づかいをすると言われていることからしての想像です。
西施の容貌を見たいものには銭一文ずつ取って見せたという話もあるようです。
因みに中国四大美人とは楊貴妃(ようきひ)、王昭君(おうしょうくん)、西施(せいし)、貂嬋(ちょうせん)の4人です。


ところでこの西施は紀元前5世紀の春秋時代、呉(蘇州近辺)と越が激しく争っていた時の女性です。
越王勾践(こうせん)が隣国の呉王夫差と戦って会稽山で敗れた際、越王が一計を案じ、西施と鄭旦の二美人を呉王に献上しました。越王はまた、呉の宮殿造営のため、良材二百本、さらに美人五十人を送りました。こうして目を見張るような宮殿の「姑蘇台」が出来上がりました。
呉王夫差は傾国の美女の色香に惑い、臥薪嘗胆して復讐を誓った越王に滅ぼされてしまいました。


後世になると西施の名声はますます高くなりました。
唐の詩人李白は、西施を頭に浮かべつつ、「懐古」の詩を作りました。

只今惟有西江月
曾照呉王宮裏人

只今惟だ西江の月のみあり
曾ては照らす呉王宮裏の人

かつては、ここに宮殿や見晴台が美しく飾られ、宮女たちが夜の宴にさんざめた。それが今や、ものみな亡び、人すべてなく、ただ月のみが昔の光をたたえて、栄華のはかなさを見下ろしている。


河豚(ふぐ)の白い部分の肉を中国でなんと呼ぶかご存じでしょうか?

「西施乳」というそうです。美人には美しいバラに棘があるのと同様に毒があるのです。
呉王夫差も「西施乳」にあたって、滅亡してしまいました。
皆さんも「西施乳」にご用心!


出典:多久弘一、故事成語で中国を読む、筑摩書房、1997年8月25日発行

覆水盆に返らず

2006-08-26 07:11:16 | 中国のことわざ
中国のことわざ-55-2 覆水盆に返らず 


この成句は以前、取り上げたことがあります。

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/12456538.html

いったん離別した妻は、復縁できない。取り返しのつかないことにたとえるのでしたね。
太公望で有名な呂尚にまつわる故事からこの成句はできたそうですが、今日「故事成語で中国を読む」をペラペラとめくっていましたらもう少々詳しく解説されていましたので再度取り上げました。


中国には「馬前撥水」という劇があるそうです。漢の時代、蘇州に朱買臣(しゅばいしん)という非常に真面目な男がおりました。
蘇州は美人が非常に多いところだそうです。これは司馬遼太郎も「街道を行く」の中でも述べているところです。
朱の奥さんもそれはきれいな蘇州美人でした。彼女は貧乏暮らしにほとほと嫌気がさして、“私のような美人なら、どのような栄耀栄華もできるのに”と、朱さんに離婚を何回も迫りました。


朱さんは「俺は絶対に出世するから今は我慢して、せめて50になるまで待っておくれ」ととことん説得しましたが、妻は聞き入れません。ついに涙ながらに離縁状を渡しました。
妻は「お前さんの言うとおりにしたら、お飯の食いあげだい」という捨てぜりふを残して家を出てゆきました。


朱さんはがむしゃらに勉強してついに官吏登用試験に合格し、数年後には会稽郡太守に出世いたしました。これは郡の下にある県を統括監督する大変なお役目なのです。朱は妻に言ったとおり見事に出世したわけです。


そんなある日、朱太守の行列が美々しく飾り立て、蘇州の大通りを通りましたところ、黒山のような見物人を押し分けて、なんと一人の女乞食が顔を地面に押しつけて号泣しながら何かを訴えています。朱さんはすぐにその意を悟りました。そして家臣に命じて、器一杯の水を持ってこさせて、その女乞食の前で水を地面にこぼし、冷ややかに「水を戻せ」と命令しました」水は地面にどんどんしみこんでゆきます。とても戻せません。朱太守は、厳しく「覆水盆に返らず、汝の復縁も不可じゃ」と一喝しました。女乞食はわっと泣き出しました。


覆水盆に返らずはこの劇の中のせりふです。呂尚の故事を劇にしたものでしょう。
外国のことわざにも“It is no use crying over spilt milk”(牛乳をこぼしてから泣いても何にもならない)とあります


劇では、朱さんは悠々と音楽に合わせて行列をすすめます。満場の見物人は「ハオ、ハオア」の連発、拍手喝采の中を集散は退場します。日頃女房に頭が上がらない男連中はこうして憂さを払うのだそうです。


この女乞食は水に身を投げて死んでしまいます。世間は冷たいもので、この乞食が身投げした場所を「死亭湾」と名付け観光名所になっているそうです。


ところで現代中国に「チャーミングな女房を(人のため自分のため)捨てることができなければ、好漢にはなれない」という意味の女性に猛烈に反発を食いそうなことわざがあるそうです。


出典:多久弘一、故事成語で中国を読む、筑摩書房、1997年8月25日発行


妬むは其の情なり

2006-08-26 07:10:01 | 中国のことわざ
中国のことわざ-275 妬むは其の情なり(ねたむはそのじょうなり) 


嫉妬は自然の感情である。嫉妬が生んだ智恵、または執念を表す言葉です。


魏王が楚の懐王(かいおう)に美人を送りました。懐王はもう大喜びです。懐王には鄭袖(ていしゅう)という愛妾がおりました。普通なら意地悪するはずですが、彼女はこの新人を何かとあれこれ面倒を見てあげました。好みの服や装飾品をあれこれ揃えてあげました、懐王の嗜好なども教えてあげるなど姉様気取りです。こうして、何日か経ったある時、鄭袖はそっと新人を招いて密室でひそひそ話をしました。


「あなた王はぞっこんよ。いつも私といるときあなたの話ばっかりですもの。美人って良いわね。でもひとつだけ気に入らないと王はおっしゃるの」


「なんですの、教えてくださいまし」


「教えてあげるから気になさらないでね」
「是非お願いします」


「それはね、ちょっと鼻の向きが気に入らないのですって。王とお会いされるときに鼻を手で少し隠すと良いのではないかしら」


何日かたったあるとき、王が鄭袖の所にやってきました。
「魏から来た娘はわしのところで鼻を隠すがどうしたわけかな」


「どうもそれは・・・・」
「何を隠しているのだ、早く言え」
「それがどうも・・・では申し上げます。彼女はここに来たときから王様の体が臭くてたまらないと申しておりました」


かっとなった王は「それでは臭わないようにしてやるは、無礼者め、鼻切りの刑に処せ」
こうして彼女は可哀想に鼻を切られ奴隷に身を落としました。


この話は聞いたような気がします。それにしても女性の嫉妬はこわいものです。気をつけてくださいね。


出典:多久弘一、故事成語で中国を読む、筑摩書房、1997年8月25日発行

塗炭(とたん)の苦しみ

2006-08-26 07:08:59 | 中国のことわざ
中国のことわざ-274 塗炭(とたん)の苦しみ 


8月15日は終戦の日。日本経済新聞、日曜日の漢字コトバ散策を執筆されている中国古典学者である興膳宏さんは、15日を迎えると空襲警報のけたたましいサイレン、必死で逃げ込んだ防空壕、B29の爆音、爆撃で赤く焼けた夜空、着の身着のまま逃げてくる被災者達のシーンがよみがえって来ると冒頭で書かれています。そして、“まことに民は塗炭の苦しみをなめた戦時下の日々であった”と振り返っていらっしゃいます


“塗炭”を広辞苑で引いてみましょう。“泥にまみれ火に焼かれるような極めて苦痛な境遇”とあります。


このコトバ「塗炭」は「書経」に見えるコトバだそうです。夏王朝が王者としての徳を失って民を不幸に陥れたことを「有夏は昏徳にして、民は塗炭に墜(お)つ」と言っています。
「孟子」には、古の賢人伯夷(はくい)の潔癖な人柄を評して、悪人の朝廷に仕え、悪人達と話すことは、彼にとって「朝衣朝冠を以て、塗炭に座する」ようなものであったと記述されています。つまり正装して泥や炭の中に座るような耐え難いことであったと言うことです。再度、広辞苑に戻ると、この塗炭というコトバのもう一つの意味として極めてき汚ないもののたとえとあります。これは「孟子」が出典です。


やや後の時代になると、道教の信者の間で「塗炭斎」という儀式が行われるようになったそうです。これは神に罪の許しを請うて無病長寿を祈る儀式です。いわば疑似塗炭体験で、信者は泥や炭を顔中に塗りつけて、髪を振り乱しながら大地に叩頭するそうです。


杜甫が晩年戦乱を避けて長江中流域を流浪していた時期に「難を逃(のが)る」という詩を作りました。当時59才であった白頭の詩人にとって、終わりの見えない旅は過酷そのものでした。
已に衰えて病方(まさ)に入り
四海は一に塗炭なり
衰老の身に病さえ加わったが、どこを見渡しても世の中すべて戦乱に喘いでいる。


興膳さんは「戦後60年以上が過ぎて、戦争体験のない世代が多数を占める社会になった。だが、未来のためにも、「塗炭」の経験を風化させてはならない」と結ばれている。


出典:田川純三・中国名言・人生篇・日本放送出版協会・1990年6月20日発行
日本経済新聞8月13日朝刊「漢字コトバ散策」から

季布に二諾無し

2006-08-26 07:07:34 | 中国のことわざ
中国のことわざ-273 季布に二諾無し 季布無二諾


初唐の詩人の有名な詩句「中原に還た鹿を逐う」で始まる五言古詩「述懐」の一節です。


季布という人物は、ひとたび承諾したら、それを変えて異なった承諾を与えることはないと言う意で、信義を重んじること、そして、そのような人物のたとえとして使われます。。


「諾」は「よし」とうなずく動作も表している。“よっしゃよっしゃ”とやたらに相づちを打つのは「二諾無し」に反するわけです。


季布という人物は項羽と同じ越の出身で信義を重んじる士として、人望を集めていて、項羽に従って、秦末の世直しと覇権争いに加わっていました。項羽は紀元前203年の垓下の戦いで劉邦軍に敗れました。
彼は漢の世に出ることを潔しとしないで、河南省の周氏の元に、続いて魯(山東省)の朱家に身を寄せました。劉邦は項羽の残党の中でも特に季布の実力を恐れて、彼の首には莫大な賞金をかけました。


朱家は漢王朝の実力者騰(とう)公に、「季布が最後まで項羽につき士atがったの刃、士としての職分を全うしたものであり、今また世を避けていることはまさに信節を尽くすことのあらわでです賞金をかけて首を狙うほどの実力を認めるならば、宜しく登用すべきです」と説きました。
騰公はその旨を高祖(劉邦)に奏上し、高祖はそれを受け入れました。季布は郎中(禁中警衛官)に登用されました。そして高祖の次の文帝の代には、中郎将(近衛軍の将)に昇進しました。


「史記」季布伝に、「黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず」ということわざが越人の間で広く伝えられていました。漢のはじめからおよそ800年の後の唐の魏徴の「述懐」は、季布をめぐる誇示が越のみならず全国に語り継がれていたことを示していたようです。世の中には、彼らが残したコトバによって、永遠に人々の胸の中に生き続ける人がいるのです。


出典:田川純三・中国名言・人生篇・日本放送出版協会・1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/26624143.html

創業守成

2006-08-26 07:06:28 | 中国のことわざ
中国のことわざ-272 創業守成


王朝を開始することと、それを守り発展させること。


これだけでは何の変哲もないのですが、創業と守成とでどちらが難しいかと問われると大問題です。


これは盛唐の有名な歴史家である呉兢(ごきょう)が撰した「貞観政要」の中にのっている話で、626年に高祖李淵から帝位を譲られた李世民(太宗)及び廷臣たちの政道に関する論を集めたものです。
即位してから、10年目のある日太宗は側近達にたずねました。
「帝王の業は草創(創業)と守成と孰(いずれ)が難(かた)きか」と


すると、房玄齢は創業の法が難しい、魏徴は守成の方が難しいと答えがわかれました。
二人の議論について、太宗はいわば大岡裁きを行いました。


もともと太宗は父の高祖を動かして挙兵させ、自ら各地に転戦して辛酸をなめており、房玄齢は太宗に従軍した武将の一人でした。房玄齢が「草創難し」と言ったのに対して、「もっともだ」と認めました。


いっぽう魏徴に対しては、自分と共に天下を安んずることに心を砕き、特に驕逸(きょういつ:おごり淫する)になることを戒めているとして、やはり、「もっともだ」としたのです。


さて、こうして二人をたてておいて、太宗自身の結論はこうでした。
「今、草創の難きは既に往けり。守成の難きは、当(まさ)に公等(こうら)とともに之を慎まんことを思う」
草創期の困難、むずかしさはもう過去のことだ。これからはそれを思い返してこだわるのではなく、きみたちと守成の困難な事業に心してあたっていこうではないか、というのです。
これもまた説得力のあるコトバです。
創業は易く、守成は難しというコトバが生まれ、伝わっています。


出典:田川純三・中国名言・故事歴史篇・日本放送出版協会・1990年6月20日発行、広辞苑

人生意気に感ず

2006-08-26 07:05:22 | 中国のことわざ
中国のことわざ-271 人生意気に感ず 「人生感意気 功名誰復論」


人間は人の意気に感じて行動する。金銭や名誉は問題外であるということ。


この成句の出典は初唐の詩人で太宗の宰相をつとめた魏徴(580-643年)の五言古詩「述懐」です。


出典:田川純三・中国名言・故事歴史篇・日本放送出版協会・1990年6月20日発行、広辞苑


http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/40118842.html