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ある老学者の死―揚雄

2006-01-28 19:12:04 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-3 ある老学者の死―揚雄

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から
即位した年、王莽は元帝の太子子嬰を廃して,定安公とした。
翌年、太皇太后の王氏が没した。
天鳳(てんほう)五年(西暦18年)王莽の大夫(宮中顧問官)揚雄(ようゆう)が死んだ。
揚雄は、成帝の代に郎中(ろうちゅう:宿衛侍従の官)に取り立てられ、殿中の奏上事務をつかさどった。成帝、哀帝、平帝と三台にわたって、同じ職務にあった。王莽の簒奪後」、その老年に至るまで、良く同じ職務にあったことが認められて、大夫に抜擢されたのである。彼は「太玄」「法言」の二書を著したが、その結論の部分で、王莽の業績は古代の名宰相伊尹(いいん)と周公のそれに匹敵すると称賛した。そち、さらに「秦を非難し新をたたえる」文章を書いて、王莽を称賛した。

“劉ふん”という男がいた。揚雄に師事して、古代の文学を学んでいた。この男が反政府運動を行って、獄に入れられた。その自供によって、揚雄も関係していたことが判った。その日、揚雄は宮中の天禄閣にあって、書物の校閲をやっていたが、役人が逮捕しに現れると、天禄閣から身を躍らせて自殺を図った。これを聞いた王莽は、詔を下して、それ以上彼の罪を追求するのを取りやめさせた。その結果、揚雄は、この日まで生命を長らえたのである。

*漢の皇帝三代に仕えた揚雄は腹の底では王莽を憎んでいたのでしょうか。王莽を安心させるために王莽を称賛する書物を書いたのでしょうか。ここの紹介エピソードだけでは揚雄の本心はよくわかりません。



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