凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

桂林ツアー総集編

2006-04-25 07:24:57 | 写真で綴る中国旅行
中国フォト-広州・桂林-38 総集編

4月6日~9日にかけての広州・桂林ツアーの総集編です。

今回は3泊4日のツアーに参加しました。

自分なりにハイライト部分と思ったパートを取り上げます。

1 漓江下り:桂林を訪れて漓江下りをしない人はいないでしょう。当日は早朝雷が轟き、心配されましたが、幸い薄曇り、桂林の景色を見るならこれほどのコンディションはなかったでしょう。山水画の風景を堪能できました。

2 冠岩にある鍾乳洞:漓江下りの途中下船して見学しました。その規模にびっくり。なにしろ鍾乳洞の中にはエレベーターがあり、川が流れ、滝が落ち、小船が用意され、トロッコ電車まであるのですから。きらびやかにライトアップされた鍾乳洞内は幻想的な雰囲気を醸し出していました。

3 陽朔:漓江下りの終着点です。奇怪な形の峰峰をバックに中国の古い街並みを残した落ち着いた街です。ゆっくり一泊して散策したい場所です。30分しか時間がなかったのが残念でした。

4 象鼻山: 桂林のシンボルです。長い鼻を水に差し入れた形をしています。かつて桂林に現れた大きな象が背中を剣で刺されたため、石に変わったという伝説もあるそうです。頂上には明代に作られた普賢塔が聳え立っています。

5 七星公園:広大な公園です。早朝ホテルから散歩した公園内に2000点近い碑刻がある桂海碑林が特に印象に残りました。ツアーで訪れた公園は広大で、中には鍾乳洞まであるそうです。ゆっくり散策したい場所でした。虎の背中に乗っての記念撮影も行われていました。中国ならではの光景でした。

6 桂林の夜景:派手にライトアップされていました。4つの湖と川を船で巡りました

7 少数民族の踊り:棚田や桂林の峰をバックにした芸術的な舞踊を鑑賞しました。

8 広東料理:毎昼、毎晩が中華料理でした。どこで食べたものも日本人の口に合っていて美味しかったです。ただ炒飯は日本の方が美味しかったです。

一生の思い出となる旅行でした。次ぎに訪れる機会があるなら、個人旅行に挑戦したいと思っています。

終わり

龍門石窟

2005-10-29 12:31:47 | 写真で綴る中国旅行

龍門石窟


龍門石窟はユネスコの世界文化遺産に登録されている。

ここは河南省洛陽の南14kmにある石窟寺院である。

石窟や龕(がん:壁面に掘られた凹み)は南北約1kmにわたって、伊河(いが)の流れをはさんだ香山(東山)と竜門山(西山)両岸の崖壁に開かれ、石窟1352、仏龕785、塔39、造像9万7306、碑刻題記3600余がある。

大部分は西岸の竜門山にあり、大窟28がある。石窟と龕の総数は雲岡石窟よりも多いが、現在はひどく破壊されており、傷跡がいたましい。

石窟の造営は北魏洛陽遷都(494)前後にはじまり、東西魏、北斉、隋唐、北宋にわたっているが、その主要な部分は5世紀末から7世紀後半にいたる仏教美術の隆盛期のものである。

北魏の古陽洞(こようどう)、賓陽(ひんよう)中洞、蓮華(れんげ)洞、唐の潜渓寺(せんけいじ)洞、奉先寺(ほうせんじ)洞、看経寺(かんぎょうじ)洞などが代表的な石窟で、優秀な作例が多い。敦煌、雲岡、麦積山とならぶ中国四大石窟寺院として有名である。

竜門石窟を代表する石窟は奉先寺である。

20m以上の高さの山腹に、幅33.5m、奥行き38.7m、高さ40mもの空間を切り開き、その三方の壁に高さ17.1mの盧舎那仏像を中心に、迦葉(かしょう)、阿難(アーナンダ)の2比丘、2菩薩、2天王、2力士のあわせて九尊の大像を彫りだし、俗に九間房と呼ばれています。

奉先寺洞は3年9カ月をかけて675年に落成したそうです。大仏台下の銘文によると、高宗の造建で、皇后則天武后も化粧料2万貫を出して造営を援助したといいます。

本尊の大仏は唐代の作品ですが、端整な顔立ちで気品がありますよね。

これは中国で3傑女といわれる則天武后に似せて作ったといわれています。

(2004年10月13日)

写真は以下のブログでどうぞ
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/15310858.html

洛陽のホテルで

2005-10-25 22:44:45 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ16-洛陽のホテルで


ヤオトン見学後はバスで一路洛陽へ。洛陽は河南省北西部、黄河の支流ルオ(洛)河の北岸にある都市。黄河が黄土高原から華北平原に流れだす出口にあたり、西安とならぶ中国屈指の古都として知られる。

中華人民共和国成立後、国の重点投資により新興工業都市として発展し、現在はトラクター、ベアリング、半導体原料の生産で、中国一の規模をほこる重工業都市に成長している。紡績、食品などの軽工業もみられ、民芸品としては唐三彩の陶器、竜門石窟の拓本などが有名である。

至る所に名勝史跡がのこる中国有数の観光都市として名高い。今回のツアーには含まれていないが、後漢時代の68年創建といわれる中国最初の仏教寺院白馬寺や、敦煌、雲岡とならぶ中国三大石窟のひとつの竜門石窟、「三国志」で有名な関羽をまつった関林堂、唐の詩人白居易の墓がある香山寺などがある。

洛陽はまた隋代から栽培がはじまったボタンの名所として知られており、1983年から毎年4月20日から1週間かけて開かれる牡丹祭には国内外から多くの観光客が集まるとのこと。

夜の洛陽を散歩して、古都の雰囲気を味わいたいと思ったが、今では近代的なビルが建ち並びガイドさんによれば市内にはもはや唐時代の建物は見られないとのことなので外出は取りやめ。明日の竜門石窟や関林堂に期待することにした。夕食はかつて則天武后も好んで食したといわれる洛陽名物水席料理(スープづくしの料理)。まずまずの味でした。

今夜泊まるホテル(LUOYANG PEONY HOTEL)で山口県(姉妹都市?)との交流もあるという牡丹絵専門の絵描きさんに自分の名前を墨で書いていただいた。横書きで漢字をすらすらと書いたので、どのような文字を書いているのかわからなかったが、半紙を裏返し、縦にして透かして見ると漢字で書かれた自分の名前が見事に浮かび上がってきたので驚いてしまった(写真参照)世の中にはいろいろな特技を持った人がいるものです。

(2004年10月12日)

ヤオトン

2005-10-23 19:44:02 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ15-ヤオトン


三門峡を後にしてバスは洛陽に向かう。バスからは標高2600mの中国5山の一つである華山を見ることが出来た。

あの江青ら4人組の時代に農業振興の為、山の木を伐採して段々畑にしたそうで、バスの車窓からその光景が眺められる。

年間を通して雨が極めて少ないので、米は取れない。畑に植えられるのは小麦であるが6月に収穫が終わったそうで、今の時期10月は二期作に備えているそうである。

所々に木が植えられているのがバスの車窓から確認されたがこれは、ポプラの木を植樹して、木々の再生を図っているそうである。

なお、この辺り一帯の産物はナツメ、林檎、金・銀などの鉱物資源、石炭である。
バスは黄土高原を走る。やがて黄色い大地に掘った横穴が見えてくる。これが地下住居のヤオトンである。あたかも、地面の下に連続的な穴をほるアナバチの巣穴のように見える。

我々が訪問したヤオトンは大地の一部を四角くほりさげて、まず中心となる中庭をつくり、この四面の土壁の奥に、いくつかの住居を作るために掘り進み、中庭型の住宅を地下に実現したものである。

土砂をほり、それを地上に排出することで成立する室内空間は、夏涼しく、冬暖かく快適であるという。

早速、階段を下りて、中にはいると、もう中国では数少なくなった纏足(てんそく)の93歳のおばあさんが出迎えてくれた。ここではお婆さん一人が住んでいるとのことである。室内は93歳のおばあさんが住んでいるとは思えない華やかな空間である。

息子たち8人は近くの地上に暮らしているそうである。地上で暮らす方がなにかと便利なのだろう。ヤオトンもやがてはなくなる運命なのだろうか。

確かに近くには既に廃墟となり草が生えっぱなしにされているヤオトン跡を認めることができた。

(2004年10月12日)



三門峡ダム

2005-10-22 19:00:44 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-14 三門峡ダム


かく国博物館見学の後、時間がありそうなので、折角三門峡まで来たのだから、ダムを見たいとツアー客からリクエストが出た。

ガイドさんと折衝の結果、往復1時間のオプショナルツアーで一人1,000円出してダムを見学する事になった。

最初は一人100元ということであったがEが値切って1000円となった。中国の常識ではそれでも高いのかもしれないがどうしても見たいので折れてしまった。

三門峡は中国中部、黄河中流部にある峡谷。河南省三門峡市と山西省平陸県の境界に位置する。中国に何回か来ていながら黄河を見たのはこれがはじめて。

黄河の名が示すとおり、なるほど河の色は黄色である。

ここは古来、黄河を船で渡る人にとって、最大の難所として知られていたそうである。古代、帝王禹(う)が目指した治水事業が近年になって完成した。

すなわち、1957年、治水工事の一環として黄河における最初の大型水利ダムが着工され、60年に完成した。ダムの高さは106m、全長1,100mで、水深40m、最大16億トンの水を貯水できる。

60~70年代に2度にわたる大改造工事が行われた結果、現在、ダムは下流域の安全をまもり、灌漑、発電、水利に活用されているという。

ダムの近くには、禹の像がたち、ダム湖とともに観光スポットとなっているそうだが、残念ながらここには行けなかった。

(2004年10月12日)

三門峡市にある博物館

2005-10-14 05:46:36 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-13 三門峡市にあるかく国博物館


函谷関から三門峡市にある「かく国博物館」に向かった。

三門峡市は西安と洛陽の間に位置し、河南省にある。写真は西安と鄭州を結ぶ鉄道の三門峡駅である。三門峡市の見所はダムとこの博物館である。

「かく国博物館」では秦の属国であった“かく国”3代王朝(周3代目にあたるようだ)の王紀の墳墓がそのままの形で展示されている。

盗掘者が10m掘り進み、後50センチ掘れば掘り当てられるところで警察に捕まってしまったという。

地表から約11m下にある墳墓からは王妃の遺体を納めた棺桶や殉死者と見られる女官の遺体の他13の戦車、64頭の馬が発見された。ここから出土された文物は5,293点にも昇る。

11m下に眠っていた王妃の遺体は、地下水の影響で跡形もないが棺桶からは頭や手や胴体に飾った多くの玉が発見され王妃の骨格が想像される。

女官・馬や馬車は王妃の墓ほど深くは埋められていなかったようで、人骨や馬の骨は綺麗に保存されていた。馬車は木製の為、化石化し残った。

展示品の中に鉄製の武器があったが、これは周の時代に既に製鉄の技術があったことを証明する大発明の一つであるという。

写真撮影は一切禁止。またパンフレットもなく我々が知り得た情報はガイドさんの説明によるものだけであった。

なお最近、この近辺で盗掘事件があったそうである。多くの文物が盗まれたが、仲間の裏切りによって密告者自身を含めて3人が逮捕されたようだ。中国の法律では盗掘者は死刑だが、密告者は極刑を免れたそうである。

チケット画像などは以下でごらん下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/MYBLOG/yblog.html?fid=783878&m=lc
(2004年10月12日)


西安から函谷関へ

2005-10-11 07:11:41 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-12 西安から函谷関へ

今日からガイドさんが代わり羅さんに王道街道を案内される。また、新たに6人のメンバー(四国から来たという親子三人と60歳から中国語を習いはじめ博識な85歳のおじいさんと夫婦2人)が加わり総勢11人の旅である。このコースは昨年2003年から設けられたコース。

まずは西安を後にして函谷関に向かう。バスで高速道路を利用して約3時間である。日本の高速道路と異なりかなり凸凹している。これはトラックが積載重量以上の物資を搭載して走っているのが原因のようである。高速道路の料金場で自転車が横切っているのには驚いてしまった。

さて、この函谷関であるが、今はどうか知らないが、遠い昔、小学校唱歌で良く歌った歌に箱根の山があり、その歌詞に出てきた記憶(箱根の山は天下の険(けん)?函谷関もものならず?)がある。確か函谷関も箱根にはかなわないとかいう歌詞ではなかったかと思うが、要は大変な難所だったということだ。そのようなイメージを持っていたし、史記にも登場する要衝の地であったことから、バスの中で大いなる期待を胸に抱いていた。

もやがかかっていたがこれは自動車や火力発電所の排気ガスによるものではなく、朝と夜との温度差が大きいためいつも見られる現象だというガイドさんの説明。

函谷関は河南省の北西部にある、古くからの交通・戦略の要地。黄河の南に位置し、昔から西の長安を中心とする関中と、東の洛陽、すなわち現在の洛陽を中心とする中原をむすぶ交通の重要地点として重視されてきた。

戦国時代の斉の孟嘗君が秦をのがれるとき、夜がまだ明けないため、従者が鶏の鳴き声をまね、守衛に関門をひらかせたという有名な故事は、今も民間で広く語りつがれている(鶏鳴狗盗)

秦の時代には、関門は日没に閉じ、日の出とともに開かれていた。その後も劉邦と項羽の天下どりの戦いをはじめ、多くの東西攻防戦がこの地を舞台にくりひろげられた地なのだ。などと考えているうちにバスは函谷関に到着である。

函谷関には観光客向けに立派な入口があり、周の宮室図書館に勤めていた老子が水牛にまたがっている像がある。ガイドさんによるとこの近くに老子が逗留したそうである。確かに曽先之が記した十八史略には老子は周が衰えつつあるのを見て職を辞し、隠遁の知を求めて関所まで来たという記述がある。この関所というのがおそらく函谷関であろう。

函谷関の門をくぐり、奥に進むと狭い道に出る。今日は幸い良い天気であったので問題ないが、雨が降ると奥の道まではたどり着けないほど水であふれてしまうとのことである。道幅は秦の始皇帝の馬車1台がやっと通れる程度の幅で、この道をまっすぐ行くと西安にたどりつけるのだという。

昔は左右が黄土で高くそびえ上がっており、上を見上げれば狭い空間に空があるのみという険しい景観だったそうであるが、今は黄土が風雨により浸食を受け、昔の面影が僅かに感じ取られる程度である。「ああ、なんだこんな程度なのか」と非常に険しい場所を想像していただけにやや期待はずれ。

ここで、Mが観光用の馬に乗馬。普段はもっと背の高い馬に乗っているとのことで、難なく馬を操っていた。

なお、この函谷関の他にもう1カ所、現在洛陽に属する新安県に新関という関所があるそうだ(現在、この地をランチョウ(蘭州)~リエンユンカン(連雲港)鉄道が通っている)

(2004年10月12日)

写真はこちらからどうぞ

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/MYBLOG/yblog.html?fid=783878&m=lc

西安-大雁塔(慈恩寺)

2005-10-07 05:08:31 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-11 西安-大雁塔(慈恩寺)

まず訪れたのはシャンシー(陝西)歴史博物館。ここは西安市小寨東路に開館した国家級の歴史博物館。7万m2の敷地内に、唐代建築の伝統的様式を外観にとりいれ、館内は最新科学技術を駆使した最新設備の博物館である。1万m2をこえる展覧室には西安に都を置いた、古代11王朝を中心に、人類出現から明~清時代までの一級文物3000点を展示している。一通り館内を見た後、ツアーの目玉にされている特別陳列室に向かう。ここでは、宮殿の地下から発見された1300~1400年前の狩りの様子を描いた壁画等を鑑賞した。

次の観光スポットは小説「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルとしても知られる唐代の僧侶(そうりょ)玄奘(げんじょう602~664年)が仏典の保存のために建てた大雁塔(慈恩寺)である。玄奘は629年密かに長安より西域を経てインドに至り、多くの仏典を645年にもちかえった。帰国後は太宗の大歓迎をうけ、以後は、もちかえった仏典の翻訳に専念した。弟子に編述させた旅行記「大唐西域記」12巻は、当時の西域、インドの様子を伝える貴重な資料となっている。

慈恩寺は648年唐の3代皇帝高宗が母である文徳皇后を供養するために建立した仏教寺院である。慈恩寺の名は慈愛深い母の恩徳を追慕するところから名付けられた。唐代には大殿、大仏殿、塔北殿、翻経院、元果院等から形成され、敷地面積も現在の7倍以上もあったそうである。唐末の戦乱で大雁塔だけになったが、のちにたびたび修復拡張され現在に至っている。山門、鐘楼、鼓楼、大殿、二殿、大雁塔から成る。4角7層、高さ64mの塔に痛い足を引きずりながら上がり、塔の最上階から西安市内を一望する。

ホテル帰着後1時間休んだ後に夕食。自分とは別室で休んでいたEとMは二人とも寝過ごしてしまい夕食会場に遅刻して現れた。西太后が作らせたという真珠の形をした餃子をはじめとする餃子づくしの餃子宴。花やクルミの形をした様々な種類が出たが味は美味しいのか美味しくないのか判らず今一つ。美味しかったのはニガウリのビール。昨日床についたのが遅かったせいか今日は疲れてしまい、西安の街の中に繰り出す元気もなく、部屋に戻ったらすぐに風呂に入り寝てしまった。

宿泊場所:HOTEL ROYAL XI‘ANに連泊(2004年10月11日)

下記のブログもどうぞ

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/13201840.html



秦始皇兵馬俑博物館

2005-09-19 20:47:01 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-10 秦始皇兵馬俑博物館

1974年に外土塀の東方約1kmの地点で農夫によって発見された兵馬俑坑(へいばようこう)は、もっとも大規模な陪葬坑である。

我々は青銅館でまず2分の1の縮尺で製造された秦の始皇帝が乗っている銅製の馬車2台を見学。これは、秦始皇帝陵から出土したもの。

続いて第1号抗を見学。第1号坑は東西230m、南北62mで約6300体の兵士や馬の陶俑が発掘された。発掘されたときは、すべて倒れた状態で発見されたそうだが、今は当時のままに展示されている。

これは実物大に近く、秦の軍団の主力部隊すなわち軽装歩兵・戦車・重装歩兵である。歩兵の一つ一つが写実的に作られており、隊列をくんだ形で配置されていた。

当時の軍備などを知る学術的資料としてだけでなく、美術的資料としても貴重なものという。

全体が見渡せ、写真を撮るのに絶好のポジションで一般客は立ち入りが認められていない場所(撮影禁止)に案内されプロが記念写真を3枚(一人一枚づつ、自分一人の写真は要らないので1枚は家族3人の写真)撮ってくれた。

第2号抗には2000体を越える歩兵・騎兵・戦車からなる先方部隊が展示されている。

3号坑は三つの抗の中では一番小さく馬4頭、戦車1台と武士俑68点だけしか出土していない。ここは軍を統帥する大軍団の中枢と考えられるという。

ガイドさんの説明に因れば兵馬俑坑は項羽によって探し出され、片っ端から破壊されたようであるが、なにぶんにも数が多く全部を破壊尽くせなかったようである。俑は粘土で作られたものであり、それが2000年もの間、黄土に覆われ眠っていたのである。

食事後、買い物時間がもうけられたが、もう一度よく見たくてEとともに一号館に戻り鑑賞した。兵踊は、その階級によって兜や刀、弓など身につけたものが違うばかりか、一体一体の容姿・顔の表情がすべて異なっている。2100年以上前の中国文化の高度な水準を感じないわけにはいかなかった。

中国兵馬俑坑博物館入口の上空ではエンジン付きのハングライダー3台が空を飛び交っていた。ところがそのうちの1台がエンストを起こしたのか急降下墜落してしまった。地上に煙が昇ったが後でガイドさんが現地の警察の人に聞いたところ、乗っていた人は怪我をしたようであるが命には別状ないとのことであった。


西安フォトログ-9 秦の始皇帝陵

2005-09-19 18:51:50 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-9 秦の始皇帝陵

中国の秦の始皇帝の陵墓である始皇陵は中国人がこぞって参る場所であるが、外国人ツアー客対象のコースでは通常寄ることはなく、せいぜい写真タイムをもうける程度であるという。我々のツアーも始皇陵の全景を見渡せる場所でバスから降りて写真を撮るだけであった。

始皇陵は独立した山丘の北麓(ほくろく)に作られた世界一の規模をもつ墳墓である。

始皇帝は皇帝位についた前221年に建設を開始、亡くなった前210年に埋葬された。墳墓は始皇帝が天下統一以後も、引き続き徒刑者70余万人を動員して工事が進められていた。平面形はほぼ正方形のピラミッド型墳丘で、かなり浸食されているが1辺約350m、高さ約53m(76m説も)ある。

主墳の地下に皇帝棺が埋葬されていると思われ、1980年には墓道とおぼしき地点の一部から2輌の銅製馬車(馬4匹、御者1人)が発見されている。墳墓の周囲は二重の土塀でかこまれ、外側の土塀は南北2165m、東西940mもの広大な規模であった。

以下は墳墓に関する史記の記述の一部を抜粋したものである。

地中深く、三層の水脈を掘り抜いた下に墓室が設けられ、銅板を敷き詰めた上に棺が安置された。墓の内部には墳墓の下には宮殿を作り諸官の席を設けた。さらに宮中の宝物庫から珍器奇宝を運び込み、これを狙う者が近づけないように、工匠に命じて自動発射装置付きの石弓を作らせ侵入者があればたちどころに矢が飛び出すようにした。また、水銀で百川・江河・大海を作り機械仕掛けでその水銀を環流させた。天井には天文を描き、床には地理を象らせた。灯火には長く消えないようにと人魚の油が用いられた。二世皇帝は“先帝の後宮には子を産まなかった女が多数いる。これをこのまま後宮から出すわけにはいかぬ”として、残らず殉死することを命じた。このため殉死者はおびただしい数に上った。・・・中略。埋葬が終わって墓道の中間に門をおろすと同時に外の門をおろして工匠を一人残らずその中に閉じこめ、二度と生きて出られぬようにした。墓所には草や木を植えて、見たところ普通の山と変わりなくした。以上司馬遷著史記第3巻より。

2003年11月陝西省文物考古研究所が電気探査など地質調査を行った結果、東西170m、南北145mくらいの規模の建築物があると確認できたという。また“史記”の記述を裏付けるように、土中の水銀の値も非常に高いという。

皇帝が埋葬された主墳丘の周辺には、これまでに陪葬(ばいそう)墓とよばれる皇帝の側近や近親者の墓群がみつかっている。なかには切断された死体や頭骨に鏃(やじり)がささったものもあり、始皇帝の死後に2代目胡亥(こがい)が兄弟ら皇族を殺害したという説もある。

副葬品をうめた陪葬坑も土塀内や周辺各所で500カ所以上発見され、歴代皇帝の陪葬坑が多くても数十程度であることをみても始皇陵の規模の壮大さがわかる。珍鳥や獣、馬などが生き埋めにされた例もあり、400頭ほどの馬の遺体をうめた陪葬坑が内外二重の土塀にはさまれた西側の地点でみつかっているという。

(2004年10月11日)