凡凡「趣味の玉手箱」

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劉備臨終の場で

2006-03-31 20:57:01 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-67 劉備臨終の場で

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

劉備臨終の際、劉備は諸葛亮を呼んで後事を託した。

「君の才能は魏の曹丕などよりは10倍優れている。きっと国を安泰にして、天下統一の悲願を達成することができよう。太子の禅が見込みがあるならば、補佐してやってくれ。だがその器量がないとわかったら、君自身が天下を取ったらよい」

諸葛亮は、はらはらと落涙して、

「何をおっしゃいますか。私は股肱の臣として尽くす所存。臣下として忠節をつくし、一命を投げ出しても、太子をお守りしますぞ」

帝の死後、諸葛亮は、行政機構を簡素化し、法制を厳しくして、群臣に訓示した。

「参署の官とは、衆知を集めて国益を増進するための制度である。上役や同僚に気兼ねして、問題を徹底的に検討しようとしないならば、事なかれ主義に陥って、国益が損なわれるであろう」

対外面では、使者を呉に派遣して、新たに修好関係を結ぶことにした。その使者に立った“とうし”は呉王にまみえてこう説いた。

「蜀には、二重の要害があり、呉には三江の険があります。もし両国が唇と歯の関係になれば、進んでは天下を併合できますし、退いては鼎の足のように三国が並び立つことができます」

呉は魏と断交して、蜀との関係を深めた。

*劉備が臨終にのぞんで諸葛亮を呼んで後事を託したこの場面は有名ですね。





うなぎは蛇に似、蚕は“いもむし”に似たり

2006-03-31 20:55:16 | 中国のことわざ
中国のことわざ-181 うなぎは蛇に似、蚕は“いもむし”に似たり

人間は無意識のうちにも、利益につられて行動しているという意味である。

北京でイモムシが食用として売られていました。何とも気持ちの悪いもので、このようなものをよく食べるなと思ったものでした。蛇やサソリまで食べてしまうそうですよ。中国人はどんなものでも食材にしてしまうのですね。

さて、中国のことわざこのイモムシに関することわざを見つけました。

人間は平気で鰻を食べ、カイコを大切に育てている。それに対して蛇を見れば逃げだし、イモムシを毛嫌いする。ウナギと蛇、カイコとイモムシ、その形状は同じようなものなのに、なぜ人間の示す反応はこうも違うのか。

ウナギは食べれば美味だし、カイコは飼えば金になる。

つまり、自分の役に立つならば、恐ろしさなど消えてしまうものだ。

このように、人間は無意識のうちにも、利益につられて行動している。

出典:和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)、韓非子



九品官入法

2006-03-29 08:07:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-65 九品官入法

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

魏王曹丕は、父のあとを継ぐと、まず最初に官吏を九等に分ける九品官入法を制定した。すなわち、各州郡に九品官を詮衡する中正という官を置き、人物の優劣に応じて官吏の等級を分けた。

また、漢から帝位を簒奪した後、父の曹操に太祖武皇という称号を追贈し、年号を黄初とあらためた。



劉備帝位につく

2006-03-29 08:06:04 | 中国のことわざ
十八史略を読む Ⅲ-64 劉備帝位につく

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

曹丕(そうひ)が帝位を簒奪し、献帝は殺されたというデマが、蜀に広がった。漢中王の劉備は天子の喪を国中に公布し、自ら喪に服して、献帝に孝愍帝(こうびんてい)という諡(おくりな)を贈った。

ついでこの年(西暦221年)夏4月,武担山の南で帝位につき、大赦令を発して年号を章武とあらためた。諸葛亮が丞相となり、許靖(きょせい)が使徒に任命された。

宗廟を立てて、高祖以下の祖宗を合祀した。

夫人の呉氏を皇后とし、子の禅を太子に立てた。


寿ければ辱多し

2006-03-29 08:04:13 | 中国のことわざ
中国のことわざ-180 寿ければ辱多し(いのちながければはじおおし)

広辞苑によれば“長生きすれば何かと恥をさらすことが多い”とある。

聖王堯のコトバとして「荘子」に記されている。

「多男子則多憚、冨則多事、寿則多辱」

尭が民間事情を刺殺するために、おしのびで華(か)の国を訪れたときのこと。

華の役人は尭の姿を見ると祝福の声をかけた。

「あなたはまさしく聖人。どうかあなたが長寿でありますように。あなたにたくさんの男の子が授かりますように。あなたが富まれますように」

だが、堯はこの祝福を受けようとはしなかった。いぶかしげに理由をたずねると、堯は「男の子が多いと心配事が絶えない。金持ちになると煩わしいことばかりだ。長生きをすればそれだけ恥も忍ばなければならない。だからせっかくだがお断りしたのだ」

尭の説明を聞いて役人はがらりと態度を変えてこう言った。

「あなたを聖人とみたのはどうやら間違いであったようだ。天は人それぞれに役割を与えたはずだ。男の子が何人いようと、天分にかなった道を進ませれば、心配事など生まれるわけがない。また、どんなに富を得ようと、人々に分け与えれば煩わしいことなどありはしない。どこでどんなにして暮らそうと、自然のままに、作為せず生きるものだ。人の世に住み飽きたら、雲に乗って天界に遊ぶ。このようにとらわれなき世界に遊ぶものは、いくら長生きしたところで、恥辱を受けることなどないのだ」

こう言うと役人は、驚いている尭を尻目に立ち去ろうとした。

「お待ち下さい。おたずねしたいことがあります」

尭はあわててあとを追ったが、役人は振り向こうともせず、「もう用はない」と言った。

出典:出典:広辞苑、和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)

*この続きを知りたいですね。これはいろいろと考えさせられます。私は役人の言うことの方に共感を覚えましたが、皆さんはどのように感じられましたか?



一挙両得

2006-03-29 08:03:03 | 中国のことわざ
中国のことわざ-179 一挙両得

広辞苑によれば、「一挙両得」は「一つのことをして二つの利益を収めること」です。一石二鳥ともいいますね。

「晋書」束皙伝(そくせきでん)に「一挙両得、外実内寛」とありますが、もともとの出典は「戦国策」だそうです。

そのエピソードかいつまんでご紹介しましょう。

それは,秦の恵文王の時代のこと。王の御前で、宰相の張儀と司馬錯とが激しい戦略論争を展開しました。

張儀が韓を討つべしと主張したのに対して、司馬錯は蜀攻略作戦を主張して互いに譲りませんでした。

張儀は、韓の位置する中原こそが天下争覇の地であるから、何を置いても韓に駒を進めるべきであり、蜀などと言う西方の僻地などに兵を向けるのは愚策だと主張したのです。

これに対し、司馬錯は「国を富ますには土地を広めることが必要、兵を強くしようとするなら民を富ましめ、王者になりたいと思うものは、徳を備える必要があると聞いております。今、わが国は、国土は狭く民も貧しいのです。それ故、私はまず容易に出来ることから手をつけることが得策かと存じます。蜀は西方辺地の国で、戎狄(じゅうてき)旗頭、しかもその内政たるや乱れに乱れております。いまこれを討つのはたやすいものと思います。その地をとってその財を得れば、土地を広くすることが出来てまた民を富ませることになります。武器も兵も損なわずに相手を屈服させることが出来るでしょう。広大な地を得、その利をことごとく手中に収めながら、諸侯からは横暴のそしりを受けないでしょう。これこそ、一挙にして名実ふたつながらつき(一挙而名実両附)、しかも暴政を禁じ、乱を正したと言う名声も博すことができましょう」

ちなみに。恵文王は司馬錯の意見を聞き入れて、中原制覇のために後顧の憂いを絶ったと言います。

出典:出典:出典:広辞苑、和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)





鷸蚌の争い

2006-03-29 08:02:03 | 中国のことわざ
中国のことわざ-178 鷸蚌の争い(いつぼうのあらそい)

漁夫の利ともいいます。

双方が争っているすきにつけこんで第三者が利益を横取りすることです。

鷸(いつ)は水鳥のしぎのことで、蚌(ぼう)はカラス貝のことです。

これのもとになった故事は遊説家の蘇代(蘇秦の弟)が趙の恵王を説いて燕との戦いを思いとどまらせたときに使われました。

有名な故事なので聞かれた方もあると思います。

易水というところでカラス貝が砂の上に出ていたときに、シギが飛んできてその肉をつつきました。カラス貝も負けずに殻を閉じて、シギのくちばしを挟みました。

シギは言いました。「こいつめ、二三日雨が降らなければ、くたばるぞ」

すると、カラス貝も負けずに「何を言う。このままでいれば、おまえこそおだぶつだ」と言い返しました。

そうこうしているうちに、漁夫が来て、両方とも捕らえてしまいました。

蘇代はこの話と同様、もし趙が燕を攻めれば、その隙に乗じて秦が“漁夫の利”を占めるおそれがあると、趙の恵王に説き、燕攻撃を思いとどまらせました。

出典:出典:広辞苑、和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)



鷸蚌の争い

2006-03-27 08:18:34 | 中国のことわざ
中国のことわざ-178 鷸蚌の争い(いつぼうのあらそい)

漁夫の利ともいいます。

双方が争っているすきにつけこんで第三者が利益を横取りすることです。

鷸(いつ)は水鳥のしぎのことで、蚌(ぼう)はカラス貝のことです。

これのもとになった故事は遊説家の蘇代(蘇秦の弟)が趙の恵王を説いて燕との戦いを思いとどまらせたときに使われました。

有名な故事なので聞かれた方もあると思います。

易水というところでカラス貝が砂の上に出ていたときに、シギが飛んできてその肉をつつきました。カラス貝も負けずに殻を閉じて、シギのくちばしを挟みました。

シギは言いました。「こいつめ、二三日雨が降らなければ、くたばるぞ」

すると、カラス貝も負けずに「何を言う。このままでいれば、おまえこそおだぶつだ」と言い返しました。

そうこうしているうちに、漁夫が来て、両方とも捕らえてしまいました。

蘇代はこの話と同様、もし趙が燕を攻めれば、その隙に乗じて秦が“漁夫の利”を占めるおそれがあると、趙の恵王に説き、燕攻撃を思いとどまらせました。

出典:出典:広辞苑、和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)



魏は漢に代わるべし

2006-03-27 08:17:15 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲ-63 魏は漢に代わるべし

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

曹操はえん州の長官に任じた後、長安に入城して丞相となり、“き州”の長官を兼任した。のち、魏公に封ぜられ、“ぎょう”の都城に銅雀台を建てた。爵位も上がって、ついには王に封ぜられた。天子と同じ車馬衣服を用い、外出の際にも、天子と同様に儀仗兵を先頭に立て、また子の曹丕(そうひ)を王太子と呼ばせた。

その曹操が死に、曹丕があとを継いだ。彼も丞相と“き州”の長官とを兼任した。かくて、魏の軍臣たちは、魏が漢にとって代わるべきだとすすめた。曹丕は献帝に禅譲を強要して魏の皇帝となり、献帝を山陽公に移した。

献帝の在位中、建安元年から25年まで曹操が政治の実権を握った。在位期間は計31年、譲位後14年目に没した。

漢帝国は、高祖が元年に王となり、5年に帝となってから献帝にいたるまで、24世、426年間続いたことになる。



一陽来復

2006-03-27 08:15:41 | 中国のことわざ
中国のことわざ-177 一陽来復

今年もまた桜の季節がやってきました。時の過ぎるのは早いものですね。

今日の四字熟語は一陽来復(いちようらいふく)です。

広辞苑によれば
① 陰がきわまって陽がかえってくること。陰暦11月または冬至の称
② 冬が去り春が来ること
③ 悪いことばかりあったのがようやく回復して善い方に向いてくること
とあります。

出典は「易経」で、陰の気によって排斥されてしまった陽の気が再び萌し始めたことを表しているそうです。

出典:広辞苑、和田武司・市川宏訳、中国の故事名言、徳間書店(1993年5月)