凡凡「趣味の玉手箱」

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夢に天門にいたる

2006-05-25 05:51:14 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー108 夢に天門にいたる

陶侃は大尉に昇進したのち、やがて死去した。かれは八州にまたがる軍の司令官として威名嚇嚇たる存在であった。だが、一説によると反逆の下心があったといい、次のような話が伝えられている。

彼はある夜、夢を見た。八枚の翼が背中に生え、一路点の門目指して翔(か)け上がったのである。ところが、九重の天を八重まで突破したところで、翼が折れて墜落した。それからというもの、権勢並ぶものなき身ながら、この夢を思い出しては自らを抑制したという。

陶侃は41年の長きに渡って軍の要職をつとめた。明敏で決断力に富み、絶対にごまかしを許さなかった
。行政官としての手腕も抜群で、南陵から白帝城に至る数千里の地域の住民は、誰一人として落とし物を
私物化するものもないほどよく治まったという。


「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

蘇峻の乱

2006-05-25 05:49:49 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー107 蘇峻の乱


顕宗成帝、名は衍(えん)。生母は“ゆ”氏の出である。即位したときはまだ五歳だったため、司徒の王
導と、生母のあににあたる中書令の“ゆ亮”が協同して補佐に当たり、母対太后が政務を執った。



歴陽郡の知事蘇峻(そしゅん)がそむいた。蘇峻は臨淮郡(りんわいぐん)の知事であったとき、王敦が再び宮城に進行しようとしたのを撃退して大功を立てて以来、しだいに威勢を高めてきた。歴陽にてんじてからは、麾下の軍事力の強大さを鼻にかけて朝廷を軽視しはじめ、亡命者や罪人のたぐいを公然とかくまった


“ゆ亮”は、石頭城を修築して万一の場合に備える一方、周囲の反対を押し切って、蘇峻を財務長官に推
挙するという懐柔策をとった。だが蘇峻は招きに応ぜず、ついに兵を挙げて姑孰(こじゅく)を占拠した
。尚書令の卞壺(べんこ)は、軍を指揮して蘇峻の軍と力闘の末、戦死した。その二子も同じ軍中にあっ
たが、父の死を知ると続いて敵陣に斬り込み、討ち死にをとげた。卞壺の妻は二児の亡骸を撫でながら「
私は悲しみはしないよ。父上は忠臣として、おまえたちは孝子として、立派に死んだのだから」と語りか
けたという。



“ゆ亮”は都を捨てて遁走し、蘇峻の軍は宮城を占拠した。だが、地方で義兵を起こした陶侃と“温きょう”の軍が、蘇峻の陣を襲い、ついに彼を斬り殺したのである。


「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

勤倹力行の将軍

2006-05-25 05:48:50 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー106 勤倹力行の将軍

陶侃(とうかん)は頭の回転が速く、しかも仕事熱心だった。「禹は聖人であったにもかかわらず、寸陰を惜しんで精励した。まして凡人たるものは、分陰を惜しまねばならぬ」というのを口癖にしていた。また、下役人たちの酒器類や賭博の道具を取り上げて、全部川に投げこみ、「賭博など豚買いどものやることだ」と戒めたのも、有名な語りぐさとなっている

また、船を造ったときには次のような話が伝えられている。普通なら捨てられてしまうはずのおが屑や竹の切れ端を、その量まで記録させて保管させておいた。のち正月元旦の群臣の参賀にさいし、雪晴れで地面がぬかっているのを見て、例のおが屑を道一面に撒かせた。また、後年、桓温(かんおん)が蜀の征討におもむいたときには、やはり彼が保管しておいた竹切れで釘を作り、船の修繕に充てたという。万事こういった調子で、その采配ぶりは綿密を極めていた

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

髪を売った母親

2006-05-25 05:47:50 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー105 髪を売った母親

陶侃(とうかん)が、荊州、湘州(しょうしゅう)など四州の軍の総司令官となった。この陶侃という男は、幼時に父を失い、家はごく貧しかった。たまたま同郷の范逵(はんき)という人物が、考廉の士として推挙されて、都洛陽におもむく途中に陶侃の家に泊まったことがあるが、そのさい、母親の湛(たん)氏が自分の髪を切って金に替え、酒食をととのえたものだった。感服した范逵は各方面に陶侃を推薦してまわったので、ついに名を売り出すことができたのである。

陶侃は、最初荊州の軍司令官劉弘(りゅうこう)の武将となって、義陽の異民族張昌(ちょうしょう)の乱を平定し、ついで江東の反将陳敏(ちんびん)を破った。劉弘の死後、湘州を中心に猛威をふるった“杜とう”の反乱軍を覆滅し、江夏郡の知事から荊州の長官へと昇進したが、王敦ににらまれて広州の長官に左遷された。

陶侃は広州に在任中、毎朝百枚の大瓦を屋外に運び出し、夕方には屋内に運び入れるという作業を日課としていた。その理由を他人に問われて「いつかはまた、中原を回復せねばならん。その時に備えて、労苦に耐える訓練をしているのだ」と答えたという。

この陶侃が、再び荊州の軍司令官として着任したため、荊州の民衆は皆喜んだ。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から


大義のためには

2006-05-25 05:46:35 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー104 大義のためには

明帝は、身をやつして自ら王敦の陣へと偵察におもむいた。王敦はたまたま床に臥せっていたが、太陽が自分の陣営の周囲をめぐる夢を見て、目が覚めた。
「赤ひげの鮮卑めがやってきたぞ」
明帝の生母は鮮卑族の出身だったのである。ただちに部下に命じてそのあとを追わせたが、ついに間に合わなかった。

明帝は全軍を率いて南皇堂に布陣し、決死隊を組織して夜陰に乗じて川を渡り、王敦の兄王含(おうがん)の軍を包囲して、壊滅的な打撃を与えた。王敦は兄の敗報を聞いて嘆息した。「おいぼれ婆あにも劣る奴だ。一門の運命ももはやこれまでか!」

彼は重体の身に鞭打って立ち上がり、出陣しようとしたが、力尽きてまた倒れ、ついに不帰の客となった。反乱軍は徹底的に平定され、王敦の死骸は掘り出された上で、みせしめのため断罪に処せられた。

役人たちは、王氏の同族すべてを処罰すべきであると奏上したが、明帝は勅書を下してその非を諭した。

「王導は大義のために肉親の情を捨てた。従って、爾今十代ののちまでも罪を許そう」
かくて、王導にはなんの咎めもなかったのである。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から


その方の命はいつまでじゃ

2006-05-25 05:45:16 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー103 その方の命はいつまでじゃ

司馬紹は、人徳の人として成長した。文武の才を兼ね、人材を尊重し、他人の意見に良く耳を傾け、“ゆ亮”、“温きょう”ら一流人物と目された人々と、身分を離れた対等の友人関係を結んだ。

王敦は、石頭城にあって紹の剛胆英明なことを聞き、太子たる地位を失脚させようとして、彼が父元帝に対して逆心を抱いているとのデマを流した。幸いにして“温きょう”をはじめとする百官が、一致してそのデマであることを証言したため、ついに事なきを得て、元帝崩御ののち、帝位を継ぐに至ったのである。

王敦は虎視眈々と帝位を狙い、司令部を建康(けんこう)に近い姑孰(こじゅく)に移して、自ら揚州の長官となった。

明帝は、王導を司徒(三公の一)に任命して総司令官を兼務させ、全軍を指揮して王敦征伐に向かわせた。王敦もこれに対抗して出陣したが、まだ戦わぬうちに重病に倒れ、易の名人として知られた郭璞(かくはく)を呼んで、卦(け)を立てさせた。郭璞は言う。
「もし事を起こされたなら、殿様のお命は遠からず尽きることになりましょう」

王敦は激怒した。
「ならば、その方の命はいつまでじゃ、いえ!」
「本日の夕暮れまで持ちますまい」
王敦は、そのひのうちに郭璞を斬り殺した。
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「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

長安と太陽とどちらが近い?

2006-05-25 05:43:09 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー102 長安と太陽とどちらが近い?

王敦は勝利をおさめたものの、反対派を殺戮しただけで、根拠地の武昌へ引き上げた。帝位を奪うには時期尚早と見たわけである。王敦の暴挙は、元帝にとって耐え難い屈辱だった。帝はそのために病床に臥し、ついに世を去った。

粛宗明帝、名は紹(しょう)幼い頃から利発で、こんな逸話が残されている。

長安から使者がやってきたときのことである。父の元帝から、「長安と太陽とはどちらが近いと思うか」と聞かれて、こう答えた。
「長安の方が近いよ。だって、長安から人が来たって言うけれど、お日様から人が来たって言う話は聞いたことがないもの」

元帝は、その答えが面白くてならず、他日、臣下が集まった席でこの話を持ち出し、あらためて紹に同じことを聞いた。すると紹は、
「お日様の方が近いよ」と答えて、すました顔をしている。

「この間の返事とは違うではないか」不機嫌な面もちの元帝に、
「だって、お日様は目の前に見えているのに、長安はみえやしないもの」
このことがあってから、元帝はいよいよ紹に目をかけるようになった。
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「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

王導の後悔

2006-05-25 05:41:06 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー101 王導の後悔

元帝はほどなく王導を召し寄せて接見した。王導は額をゆかにすりつけて言上した。「乱臣賊子はいつの世にもあるものではございますが、いまわが一族からこれを出そうとは!わたくしめの不明の至りでございます」

元帝は、急いで席を下りると、履物もつけずに王導の側に寄りその手を握った。「王導よ、国のことはあらためてそなたに任せるぞ」かくて王導は、前衛軍司令官に任命された。

いっぽう、王敦は石頭城に軍を進め、「いまさらあとへは引けぬ、わしにはもう忠臣となる道は絶たれたのだ」と言って戦闘の態勢を整えた。ちょう協と劉隗は、二手に別れて反乱軍と戦い、大敗して逃げ帰った。

元帝は、群臣を石頭城におもむかせて、王敦との交渉に当たらせた。周は、そののち王敦に捕らえられて殺されたが、王導はそれを助けるチャンスがあったにもかかわらず見殺しにした。後日になって、王導が中書省の記録を調べている際、周の上書が見つかった。王導はそれをしっかりと握りしめ、熱い涙を流した。

「ああ、直接手を下しはしなかったが、周は私が殺したも同然だ。わたしは、償うことの出来ぬ借りを作ってしまった」

王導が周を見殺しにした下りは以下の通り晋書に記載されている。

王敦は周がけむたくてならず、殺す口実を求めて王導にたずねた。
「周は三公になる人物だと思うが」
王導は黙して答えない。
「それでは、宰相にはどうであろう」
それでも王導が答えようとせぬ為、「それでは殺せというのか!」
このだめ押しにも王導は黙して答えなかったため、ついに周は殺害されたのである。
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「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

周の侠気

2006-05-25 05:40:00 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー100 周の侠気

東晋の大将軍王敦が反乱を起こした。王敦は、元帝が安東将軍として江東の経営に着手した頃から、従弟の王導と一体となって帝を奉戴し、帝もまた衷心からの信頼を持ってこれに応えるという間柄であった。王敦は軍事を、王導は政務を掌握し、一族のものことごとく要職を占めたため、巷間、「東晋は王氏と司馬氏の合作だ」と評判されたものである。

王敦は、功に誇って専横な振る舞いが多くなった。元帝は彼を警戒し、劉隗(りゅうかい)、ちょう協の両名を側近として、王氏一族の勢力を抑えにかかった。その結果、なんら異心のない王導までもが、次第に疎んじられるようになったのである。

やがて、時機到来と見た王敦は、劉隗、ちょう協誅伐を名目として、武昌に挙兵した。

劉隗、ちょう協らは、王敦の反乱に際し、王氏の血に繋がるものをことごとく処刑するよう元帝に進言した。だが元帝は、その意見を取り上げずにいた。

いっぽう、王導は、恭順の意を表すため、自分の一族を従えて毎朝法務府に出頭し、裁きを待った。ある朝のことである。王導は、参内しようとする周を呼び止めて、声をかけた。
「周どの、わが一族のことはおんみに頼む」

周は素知らぬ顔で通り過ぎたが、宮中に入って元帝に拝謁すると、王導の忠誠を讃え、言葉を尽くして弁護し、ついに元帝の諒承を取り付けることに成功した。

周が酒を頂戴して酔って退出してくると、またしても王導に呼び止められた。だが、周は相手になろうとせず、従者に向かって聞こえよがしにこう言った。「今年はやりがいがあるぞ。賊どもを皆殺しにして、諸侯の位についてやるわい」

そのまま家に戻ると、彼は再び上書して、王導の無罪を証言したのである。だが王導は、こうした事実に気づかず、周を怨むばかりであった。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

発憤・発奮というコトバ

2006-05-25 05:34:51 | 中国のことわざ
中国のことわざ-220 発憤・発奮というコトバ




①いきどおりを発すること②精神を奮い起こすこと。負けて発奮するなどと使う(広辞苑)




発憤して食を忘る(論語・述而篇)




出典:広辞苑、加地伸行・すらすら読める論語・講談社・2005年11月発行